第一章 メイクデビュー その1
東京都府中市。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。通称「トレセン学園」。
URAが主催するウマ娘たちのレース、「トゥインクルシリーズ」での活躍を目指し、日本全国からウマ娘たちが集まる、全寮制の中高一貫校。
生徒数は約2000人。ヒトの集まる学校でも、そうそう無い規模のマンモス校である。
広大な敷地内には、レーストラックや坂路コース、大型のプール、スポーツジム、ライブの練習に使用する屋外ステージなど、トゥインクルシリーズに関わるありとあらゆる設備が存在する。
無料の学食は、どれだけ食べても滅多に怒られることはない。
(たまに食べすぎて、一時的に出禁になることもあるらしいが)
まさにウマ娘にとって、最良の環境だ。
この学校の学習過程では、トゥインクルシリーズについてのありとあらゆる知識を学ぶことができる。
また、一般中学・高校修了に相当する座学も用意されている。
そのため、生徒の中には、レースに出ることなく卒業し、例えばURAや学園に就職し、舞台裏の仕事に携わる者もいるし、一般社会に出ていく者も少なからず存在する。
2000人もの生徒の中で、トゥインクルシリーズの第一線で活躍できる者は、ほんの一握りだけだ。
「はあ…」
ここは学園内の喫茶店。
晴れた日にはオープンカフェを満喫できる、学園の生徒たちに人気のスポットだった。
今日は絶好のオープンカフェ日和。屋外の席はすべて埋まっており、中等部に高等部、様々な学年の生徒たちがそれぞれ、おしゃべりに興じている。
一方で屋内の座席スペースは、こんな晴れた日に屋内でお茶なんてもったいない、とばかりに、閑古鳥が鳴いていた。
いや、一人だけ客が存在した。
先ほど大きなため息をついたウマ娘だ。
テーブルの上に突っ伏して、何やらぶつぶつと独り言をもらしている。
デビュー戦を目指して調整中の、トウショウボーイだった。
「はあ…、今日もいいところなかったなあ…」
カップに注がれたコーヒーは、半分も口にされないまま放置され、すでに冷めきっていた。香りもほとんど飛んでしまっている。
ひとしきり愚痴を言ったあと、身体をもぞもぞとさせ、おもむろに顔をあげる。その両目は、ひどく落ち窪んでいた。疲労とストレスを感じさせる。
彼女の悩みの原因は、いつになってもデビュー戦が決まらないことだった。
「私、いつになったら先生にOKもらえるんだろ…」
トウショウボーイという少女は、ウマ娘としては比較的、大柄の部類に入る。
特に腰から太ももにかけての筋肉は、他に類を見ないくらい発達しており、選抜レース前にそれを目にした多くのトレーナーたちが絶賛した。
「見たか、彼女のトモ!」
「ああ、すごいスケールだな。あれならクラシックの一つや二つ、余裕で戴冠できるぞ!」
トモとは、ウマ娘の驚異的なスピードの原動力となる、腰部、臀部、後肢の筋肉のことだ。
早い話が、この部分が他の生徒に比べ、驚異的に発達しているトウショウボーイという少女は、見るからに「強そうなウマ娘」だった。
それはトゥインクルレースに大なり小なり関わっている人々にとっては、火を見るよりも明らかだった。
しかし、そこに彼女の弱点があった。
重心が安定しなかったのである。
筋肉は発達していたものの、関節とうまく連動していないのか、踏み込むときにパワーが発揮されない。
特に上り坂があるコースでは致命的だった。
「腰元が甘い」
「緩い」
そんな風に評される。
選抜レースは、ちょうど最後の直線に、上り坂のあるコースを使用していた。
彼女の筋肉を絶賛した多くのトレーナーが、選抜レースで凡走する彼女の姿を見て、すぐに見限っていった。
「あの筋肉でも、腰が甘ければ、ただの宝の持ち腐れだな」
「もったいないな」
そう、陰でささやく者もいた。
選抜レース前には、多くのトレーナーから声を掛けられていたにも関わらず、終わってからの見事な手のひら返しに、トウショウボーイの心は少なからず傷ついた。
しかし、そんな傷心の彼女に声をかけたのが、現在の彼女のトレーナーである。
安田という、そのトレーナーは、スポーツ医学を専攻し、ウマ娘の診断や治療のできる医師免許に加え、鍼灸師の資格も持つ、新進気鋭の指導者だった。
トレセン学園赴任初年度から、メジロアサマというウマ娘のトレーナーとして活動し、そのメジロアサマは、安田記念や天皇賞など、多くの重賞レースを制した。
顔立ちは端正だが、細身で、見た目頼りないところはあるのだが、トレセン学園きっての相マ眼の持ち主であり、そのトレーニング理論には、他のトレーナーも一目置いていた。
安田は、レース後にしょげ返っているトウショウボーイに近づくと、遠慮がちに告げた。
「もしよかったら、僕に担当させてもらえないかな?」
しばらくして、自分に声をかけているのだと気づいた。
その声の主が、学園内でも名高い、優秀なトレーナーであることは知っていた。
驚きを隠せないトウショウボーイ。
「え、でも…」
気まずそうに返事をする。
(確か、安田先生、だっけ。G1ウマ娘も指導しとことがある人だよね。そんなトレーナーがどうして私に?)
もしかして、引き受け手がいないウマ娘に、お情けで声をかけているんじゃないかしら、と、暗い疑念も生じた。
それを察したか、慌てて手を振り、弁解する安田。
「いや、君の腰の甘さは、確かにウマ娘としては致命的だ」
安田にとっては弁解のつもりだったが、この物言いを世間一般では弁解、と呼ばない。
致命的、という言葉が、彼女の心臓に容赦なくナイフを突き立てる。
「な、なんですか…。見ず知らずのウマをいきなりディスるなんて…。とどめでも刺しに来たんですか?」
上目遣いでぎろりとにらみつける。
再び慌てて手を振る安田。
「ああ、いやいや、違うんだ。ごめん。確かに走るには不利だけど、君の場合、筋肉はしっかりしているから、踏ん張りが利かないのは、関節の問題じゃないかと思うんだ」
関節?
と言われても、自分の与り知らぬところでウマ娘として生を受け、ヒトと違って何やら早く走れる、ということを当然としてきた彼女にとっては、よく分からない。
言わんとしていることが伝わっていない、と思った安田は、それから順を追って丁寧に説明した。
彼女の筋肉は股関節とうまく連動しておらず、筋肉から生じるパワーが伝わりきっていない。ウマ娘の体というものは、非常に複雑な構造をしているから、筋肉があっても力が出ないウマ娘は、残念ながら一定数存在する。
自分はウマ娘医師と、鍼灸師の資格を持っている。トレーナーになる前は、そういったウマ娘たちの治療やリハビリに携わっていた。
君の場合も、針治療で腰の状態を改善しながらトレーニングをすれば、デビューは遅めになってしまうかもしれないけど、きっと走れるようになる。
「うまくいけば、クラシック三冠レースだって勝てるようになるさ」
彼女を励ますように、にっこりと笑うトレーナー。
クラシックに勝てる?
トレーナーさんたちにそっぽを向かれた、私が?
驚きの表情を隠せなかった。
「…本当ですか?」
皐月賞、日本ダービー、そして菊花賞。トゥインクルシリーズを走るウマ娘たちにとって、これらのレースに勝利することは、大きな栄誉のひとつだ。
しかし、つい先ほど、多くのトレーナーに「受け入れ拒否」という引導を渡されたトウショウボーイにとって、にわかには信じがたい話だった。
「ホントですか? できるできる詐欺、とかじゃないですよね?」
この子、結構めんどくさいな、と感じる安田。
「本当だよ。ただし、針治療はたいへんだし、同期の子たちは君を置いてどんどん先に行ってしまうだろうから、精神的にも肉体的にも結構キツいと思うけど。それを我慢して治療と練習を続ければ、可能性は十分にある」
「…なんとか、なるってことですか?」
安田は力強く請け負う。
「ああ、ぼくがそうしてみせる」
突然、目の前に光が差し込んできた。
救われたような気持になった。
なんとか、なる、のかな?
我慢強さには自信がある。
(このトレーナーさんについていけば、私もいつか先輩みたいに、G1ウマ娘になれるのかもしれない…)
先輩、というのは、彼女と同室のウマ娘のことだった。
現在はケガでリハビリ中だが、今年G1レースを二つ制し、美浦寮のエースの一人として、その名を学園内にとどろかせている。
彼女に尊敬の念を抱いていたトウショウボーイは、彼女のレースでの雄姿を見るうちに、いつしか、彼女を目標にし、彼女のようにレースで活躍したい、と強く思うようになっていた。
しばらく考えた末、彼女は安田に「お願いします」と言って、頭を下げた。
安田が応じる。
「ああ、頑張ろう」
右手をすっと差し出す。トウショウボーイはその手を、ありったけの思いを込め、ぎゅっと握った。
「はい!」
こうして、トウショウボーイにとっての、長い戦いが始まった。
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