トレーニングは予想以上に過酷を極めた。
治療をしつつ、トラック練習もおこなうが、ぎこちない走り方はなかなか矯正されず、踏み込みがどうにも甘い。
併せウマをしても必ず競り負け、それどころか十バ身ぐらい、並走相手に遅れてしまう。
中には、そんな彼女のことを気の毒に思ったか、わずかに力を抜いて走る並走相手もいた。
それが一層、彼女の心に暗い影を落とす。
治療開始の二か月後には、十バ身の遅れが、やっと五、六バ身ほどに短縮されたが、それでも離されていることに変わりはなかった。
とてもではないが、デビューできる状態ではない。
我慢強さを自認するトウショウボーイではあったが、さすがに精神的にキツくなってきた。
(なんで……なんで思うように動いてくれないの、私の脚!)
それにトレーナーが言ったように、同期の子たちはどんどんデビューし、中には重賞レースに勝利する者もいる。
そのとき感じたのは、焦りではなく、自分自身のふがいなさだった。
「トレーナーさんがせっかく治療してくれているのに、情けないな…」
それに先輩は、走りたいはずなのに、ケガのせいで今もリハビリ中。自分は治療をしながらだけど、まだ走れる分、先輩より恵まれている。それなのに、せっかく先輩を目標にしたっていうのに、まだデビュー戦に出られるような、満足な走りができていない。
情けない、情けない、情けない。
気持ちが沈んだままでは、治るものも治らない。安田に何度もそう言われた。
気を紛らわすため、トレーニング後に、この喫茶店でコーヒーをすする。
…のだが、いつもこうして、次第に自己嫌悪に陥り、半分も飲まないうちに、テーブルに突っ伏しては愚痴をもらす。
そんな日々が何日も続いていた。
「ねえ、あそこにいるの、テンポイントさんじゃない?」
「え、ほんと? 見に行こ!」
全面ガラス張りの窓の外から、かすかにそんな話声が聞こえてきた。
この喫茶店は、建物の一階部分に入っているが、トウショウボーイが座っている窓側の席は、ちょうど通りの突き当りに面したところだ。
その通りの先に目をやると、何やら黒山の人だかりができている。どうやらそこに、
(テンポイント? ああ、あの…)
テンポイント。栗東寮所属のジュニア級。デビュー戦をレコード勝ちで飾ると、そのまま無敗で、先日おこなわれた、G1の阪神ジュニアステークスを制する。
早くも来年のクラシック候補として、その名を知られていた。
トウショウボーイは彼女を見たことがなかったが、とても美しいウマ娘だという噂で、栗東寮はもちろん、美穂寮にもファンクラブが存在するらしい。
当然、どちらも非公認である。
(ま、デビューもしてない私にとっては、全然違う世界の子だけど)
と、内心では無関心を装ってみたが、やはり興味がある。
(どんな顔をしてるんだろう? 噂では顔もスタイルもモデル並みって聞くけど……)
先ほどの人だかりが徐々に大きくなっている。こちらの方に近づいてきていたのだ。周りの女子生徒たちの黄色い声も、耳に入ってきた。
(ちょっと、見えないじゃん。取り囲んでる人、いい加減どいてよ)
すると、彼女の願いが通じたかのように、突如、その人だかりが、映画「十戒」で、モーセが割った海のように、すすすーっと、左右にきれいに分かれた。
その中から、黄金の輝きを身にまとうウマ娘が、神々しさをまといながら、姿を現す。
遠目からもスラっとした高身長のウマ娘だとわかる、金色のロングヘアー。
額にかかる前髪には、白い流星が流れていた。
切れ長の目、おとがい細く、忘れ鼻。すっきりとした細い顔立ちには、女性とも男性ともとれる、中性的な魅力があった。
トウショウボーイは思わず息をのんだ。
(すご…お人形さんみたいに白い顔! それにスレンダーな体…)
彼女は、テンポイントの見目形に、一瞬にして心を奪われてしまった。
トウショウボーイは、腰回りの肉付きもよかったが、肩幅もがっちりとしているほうで、年頃の娘として相応に、自分の体形を気にしていた。
(え、でもジュニア級三戦無敗なんだよね? しかもそのうちひとつはG1レースでしょ? この華奢な感じの身体のどこに、そんな力が…?)
と、考えているうちに、窓越しに、トウショウボーイのすぐ近くのところまで、テンポイントがやってきていた。
自然な流れではなく明らかに、何かに気づいて、目的をもって近づいてきたように見える。
彼女はトウショウボーイの顔を見ると、おやという顔をした。
不意に二人の目が合う。
テンポイントはトウショウボーイに優しく笑いかけた。
突然、笑みを向けられたトウショウボーイは、一瞬にして顔を真っ赤に染めた。胸が高鳴る。慌てて目をそらし、うつむく。
(やばっ! 目が合っちゃった! しかもなんか笑ってるし! …って私、なんでこんなにドキドキしてるんだろ?)
コーヒーをすする。冷たい。熱い胸のドキドキは収まらない。うつむいて鼓動をおさえようとする。またコーヒーをすする。冷たい。ドキドキ。またうつむく…
と、一連の動作を繰り返す。
ただの挙動不審の女子高生だった。
やがて、トウショウボーイは、隣の席に人の気配を感じた。
おもむろにそちらを向くと、先ほどまで窓越しに見ていた、あの貴人が、自分の隣の席に座り、しかも自分のほうを向いて、にこにこしている。
まるで瞬間移動をしてきたように感じた。
そして、金髪の貴人は、
「やあ」
いきなり声をかけてきた。
「へあっ!」
素っ頓狂な声を上げ、のけぞる。
(あ、やばい)
椅子の上にあるはずの、腰の位置が、宙に向かってずれる。
席から転げ落ちそうになるトウショウボーイ。
すると、
「おっとっと!」
テンポイントは
彼女の背中が、きれいにテンポイントの右腕に収まる。
(え、何? 何何?)
トウショウボーイの右手は、テンポイントの左手に取られていた。
まるで「お姫様抱っこ」のように、彼女に体を預ける格好になったトウショウボーイは、自分が今、どういう状況にあるのか全く分からず、激しく混乱した。
(いやいやいや、何この王子様みたいな人?)
「大丈夫かい?」
王子様がトウショウボーイを椅子に座り直させる。
胸のドキドキが止まらない彼女は、あいさつともお礼ともつかない「ど、どうも」という、間の抜けた言葉をひねり出すのが、精いっぱいだった。
テンポイントは目を細めた。
「よかった。君はトウショウボーイ、だよね?」
「へ?」
(な、なんで私の名前を知っているの、この人?)
絶世の美人の登場からお姫様抱っこという、謎の超展開に、いまだ理解が追い付いていないが、彼女が自分ことを知っているはずがない、というのは理解していた。
どこかで会ったっけ?
もしそうなら、彼女に失礼なことを言っていることになるけど…。
でも、記憶にないよ! 人違いじゃないのかな?
「…はい。私がトウショウボーイですけど、何か?」
一瞬、ほっとしたような表情を浮かべるテンポイント。
「以前、走っている君を、トレーニングコースで見ていてね。そのときの走りが気になったものだから。知り合いに聞くと、美浦寮のトウショウボーイ、つまり君だって分かったのだけれど、あいにく私は栗東寮。なかなかお目にかかる機会がなくてね。今日は、たまたま君を見かけたのさ」
「はあ、私の走りを見て…」
ああ、そういうことね…。
渋い顔をするトウショウボーイ。
そりゃ、印象に残るでしょうよ。なんてったって、併せウマで十馬身近く、毎回離されちゃうんだから。
…私の黒歴史、見なかったことにしてくれないかな?
お願いします、何でもしますから。
トウショウボーイが口をとがらせているのも意に介さず、テンポイントは話をつづけた。
「君の走りを見たとき、どうにもぎこちなさを感じてね。君、もしかしてどこか、例えば関節が悪かったりしないかい?」
関節、という単語が飛び出し、驚きを隠せない。
「え?」
何、この人?
安田先生と同じこと言ってる。
走りを見ただけで、そんなの他人が分かるものなの?
思い切り、不審げな顔をして見せるトウショウボーイ。
「…どうしてそれを?」
テンポイントはまだ、自分のペースで話し続けていた。
「君の走りを見たときは、ふと思いついただけなんだけどね。それから何度か君の姿を見かけて、その都度君の足の運びを見て、違和感を持ち続けていたんだ。でも、今椅子から落ちそうになった君を見て、それが核心に近づいたかな。君、重心が安定していないよね。体幹が弱いというより、股関節のほうではないかなと思うんだけど」
………。
トウショウボーイは、ようやく気付いた。
(この人…ヘンな人だ!)
だって、他人の身体をしげしげと観察して、しかもその「診断結果」を本人に、何のてらいもなく披露するなんて、普通の人じゃない。
「股関節の調子が悪いんじゃない?」なんて、女の子が女の子に言うセリフじゃないよね?
やっぱり、ジュニアチャンピオンにもなる人だと、頭のネジの一本も二本も、どっかに飛んでっちゃってるのかな?
明らかに不審者を
「実は、私も体が弱くてね…」
と告白した。
「へえ、そうなんですか?」
トウショウボーイはまだ警戒態勢を解いていない。
テンポイントは肩をすくめた。
「私、見ての通り、一般的なウマ娘に比べて、華奢だろう? あんまり食べても太らないし、そもそも基本的に食が細くてね。なかなか筋肉がつかないんだよ」
今度はいきなり自分語り(自慢)が始まった。
…こちとらガチムチですが何か?
「一時期は膝に爆弾を抱えていたしね。トレーニングも先生の指示通り、無理せず慎重に、慎重にやっていたんだ」
「はあ、それは大変ですね(棒読み)」
不幸話なら、よそでやってもらえませんかね?
トウショウボーイはすっかり冷めてしまったコーヒーを再び口にする。味はほとんど感じない。
テンポイントは続ける。
「このままだと私は、ウマ娘として大した成績も残せず、引退することになってしまうだろう。でも、それは嫌だから、ウマ娘の身体についていろいろ勉強したんだ」
「え?」
勉強?
トウショウボーイは、はっとした。
彼女の反応を意に介さず、テンポイントはなおも続けた。
「自分の身体について、よく知っておきたかったからさ。トゥインクルシリーズで活躍するには、必要だと思ったんだ」
必要。自分で知る。
トウショウボーイの頭に、そんな発想は一切なかった。
ただ、安田の言われるままに、「私は関節がよくないんだ」と理解したつもりになり、自分ではよく知ろうともせず、安田の言われるままにトレーニングをしていた。
自分の身体のことなのに、人任せにしていた。
今もこうして、情けない、情けないと、愚痴っているだけだった。
本当に情けないのは、自分で何とかしようと考えなかったこと、知ろうとしなかったことじゃないか?
何か大切なことに気が付きかけているトウショウボーイに、テンポイントは優しく笑いかけながら、告げた。
「君が走る姿は、なんだか半年くらい前の自分に重なるところがあってね。もし会う機会があれば、身体のことで苦しんでいるのは、何も君だけではないと、伝えたかったんだよ」
そういうと彼女は、頼んだコーヒーの残りを口にした。いれたてのコーヒーの良い香りが、トウショウボーイの鼻先にも漂ってきた。
そのコーヒーを飲み干す所作も、貴人の出で立ちにふさわしく、とても麗しい。
カップをソーサーに戻し、「ふう」と息を吐くと、
「今日、こうして君と話ができてよかった」
と言って、席を立とうとした。
「え、と、あ…」
言いかけたトウショウボーイだが、そのあとの「ありがとうございます」が出てこなかった。その原因は、恥ずかしさが半分、自分の情けなさの本当の意味に、今まで気づけなかった、そのふがいなさが、半分。
「君のトレーナーは安田さんだろ? 実はうちの先生に紹介されて、私がスポーツ医学について師事したのが、安田さんなんだよ」
安田先生が?
「そ、そうだったんですか?」
「うん、インナーマッスルの鍛え方とか、いろいろ教えてもらったんだよ」
「いんなーまっする?」
初めて聞く言葉だった。
テンポイントは口を開きかけて、いったん止めた。
どうやら、インナーマッスルについて説明しようと思ったようだが、今、自分から説明しても意味がない、と考えたようだ。
仕切り直して、言った。
「こうして今、トゥインクルシリーズで走ることができているのは、安田さんの教えによるところが大きい。だから、君も安田さんの下で、いろいろ学ばせてもらって、自分の身体とうまく付き合えるようになるといい。それが言いたかったんだ。…おっと、話しすぎてしまったかな? 私もトレーニングがあるので、これで失礼するよ。それでは」
と言い、レジのほうへと向かっていく。
遠ざかる彼女の背中に向かって、
「あ、あの、ありがとうございました」
消え入るような声で、ようやく絞り出すことが出来た謝辞。
テンポイントは振り返ることなく、すたすたと行ってしまい、それが彼女の耳に届いたかどうかは、定かではない。
再び一人になったトウショウボーイは、天を仰ぎながら、今の会話を
自分に足りなかったこと。
走るために必要なこと。
身体にハンデがあっても、それは乗り越えられる、ということ。
「…よし!」
バチーン! と両の手のひらで、思い切り頬を叩く。
「頑張らないと!」
冷めたコーヒーの残りを一気に飲み干し、「ごちそうさま!」と、店員に元気よく告げる。
彼女は入店したときの重い足取りではなく、力強い一歩を踏み出し、自室へと戻っていった。
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