その日、中山の直線を、流星が駆け抜ける。   作:兜士郎

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それ行けトウショウボーイ、鞭などいらぬ。


第一章 メイクデビュー その4

「先生!」

 勢いよくドアを開ける。

 どこかで見た光景だ。

 発せられた大きな音に、一瞬身体をびくっとさせる安田。

 ここは、安田の事務所だった。

 彼は医師の資格を持っているため、ウマ娘たちにとっての第二の保健室でもあった。

 トウショウボーイが入室するまで、安田はノートパソコンに向かっていた。モニターには、トウショウボーイのものと思しき、腰から下のレントゲン写真、CTスキャンの画像がうつっている。

 彼はいったんパソコンを閉じ、トウショウボーイに応じる。

「やあ、どうしたんだい?」

 よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの得意な表情で、

「私、分かったんです。自分の身体のことをもっとよく知らないといけないって」

 えっへん、という声が聞こえてきそうだ。

「ほう。何かあったのかい?」

 トウショウボーイは、テスコガビーにそうしたように、テンポイントと会ったときの話を、安田にも聞かせた。

「…今まで私は、先生に言われるがままにしてきました。でも、それだけじゃダメだって分かったんです。自分で自分の身体のことをよく知って、自分の意志で改善しようとしなきゃだめだってこと」

 安田はトウショウボーイの目を見て、うんうんと、しきりに相槌を打つ。

 ここまでは予定通りだ。

 トウショウボーイが受け身の姿勢で、治療とトレーニングに臨んでいるのは、安田にもよくわかっていた。

 だが、治療とトレーニングが、真の意味での効果を発揮するには、言われたからそうするのではなく、自分で自覚し、自分の意志で取り組まなければならない、と安田は感じていた。

 テンポイントとの出会いによって、トウショウボーイの中に変化がおこったようだ。

 それを、嬉しく思った。

「なるほど、ではまず、どうすればいいと思う?」

 トウショウボーイは、自信満々に答えた。

「はい。まずは、いんなーまっするを鍛えたいと思います!」

 ……。

 そこはかとなく漂う、「聞きかじりました」感。

 思わず苦笑いしそうになるのをこらえ、

「そ、そうだね。じゃあ、これを読むといい」

 そう言って安田は、机の引き出しを開け、中から一冊の分厚い本を取り出した。表紙には「インナーマッスル基礎講座」と書かれている。

「この本には、インナーマッスルとは何か、それのその鍛え方が、細かく書かれている。これを読んで、実際にトレーニングに取り込んでいけばいいんじゃないかな」

「はい! わかりました!」

 威勢よく返事をし、本を受け取る。

 それから、

「先生! 今までお任せっきりで、ごめんなさい!」

 と言って、深々と頭を下げた。

「いいよ。君が自覚できたのは僕もうれしい。明日からまた頑張ろう」

「はいっ!」

 さっと頭を上げ、くるりとドアのほうをに向かう。

 ドアの前でまた一礼し、「失礼しました!」と言って去っていった。

 その姿を、温かい目で見送った安田。そして、ほっと胸をなでおろす。

「とりあえず、第一段階はクリアしたかな」

 

「ただいま戻りました!」

 バンッと勢いよく自室のドアを開ける。

 テスコガビーが「お帰り」と応じる。

 それから早くも、トウショウボーイは先ほど借りた本を読み始めた。

 専門用語ばかりでなんとも取っ付きにくそうだった。しかし、目的が生まれた今、読むことは苦痛ではなかった。

 大事そうなことが書いてあれば、忘れないようにノートにメモをする。

 その作業は夜遅くまで続いた。

 心配したテスコガビーが、「もう寝れば?」と言うが、応じない。見かねた彼女は、せめてコーヒーでもいれてやるか、と、トウショウボーイにカップを差し出す。「休憩しな」とうながすためだ。

 テスコガビーを心配させるのは、本意ではなかった。トウショウボーイは時折コーヒーをすすり、読み疲れたらいったん本を閉じ、テスコガビーといろいろな話をして、気を紛らわす。

 ゴキブリが出て驚いたカブラヤオーが、学園内を殺人的ハイペースで疾走し、見かねた生徒会長のハイセイコーが追いかけるも、全然追い付けなかったこと。

 そのハイセイコーに生徒会選挙で敗れ、副会長になったタケホープが、「どうせ私は不人気ですよ!」と周りに愚痴っていたこと。

 不良バ場で開催された天皇賞に勝利し、全身泥まみれで寮に帰ってきたフジノパーシアが、寮長に激怒されたこと。

 楽しかった。同時に、充実していた。

 今までこんなに身を入れて勉強してはこなかった。受け身で授業を受けることが、いかに苦痛かがよく分かった。

 自分からこうして「学びたい」と思ってする勉強は、こんなにも楽しいのか、と初めて理解した。

 吸収したものは、すぐにトレーニングに生かされた。

 まず、走るときのフォームが劇的に改善された。

 これは、インナーマッスルの知識を習得し、正しい関節の使い方が徐々に身についている証だ。

 それに、併せウマのときに、競り負けなくなった。

 正しくは、競ってなどいない。まっすぐ前を見据え、自分の走りに徹するようになったからだ。

 他者を意識するから、力む。であれば、他者なんているとは思わず、自分が気持ちよく走ることだけを考えればいい。

 これは、テスコガビーから受けたアドバイスの影響が大きい。

 トウショウボーイの優れた資質に、人の意見に耳を傾ける、というのがある。

 ただし、それは同時に、人の話を鵜呑みにし、指示されたことはひたすら墨守する、という欠点にもつながる。

 だが、今までと違うのは、彼女自身が考え、納得したうえで、他者の意見を受け入れている、ということだ。

 

 年が明けてからも、トウショウボーイはトレーニングに励んだ。

 いまだにデビューできていないが、焦りはなかった。

 スタンドからトウショウボーイのトレーニングの様子を見守る安田。

 その背後から、彼に近づく男がいる。

「よお、お前んとこの嬢ちゃん、うまくいっているみたいだな」

 安田が声の主のほうを振り返る。

「大川さん。先日はどうもありがとうございました」

 大川、と呼ばれた男は、前を向いたまま、安田の隣に並び立つ。

 視線の先には、トウショウボーイの姿があった。

「別に嬢ちゃんのためじゃない。むしろうちのお嬢にとって必要だと思ったからしたまでだ」

 そう言うと、大川は胸ポケットから煙草を取り出し、一本、口元にくわえる。ただし、火はつけない。

 スタンド内は禁煙だが、ヘビースモーカーの大川は、たまにこうして口寂しさを紛らわす。

 職員がいれば(とが)められる行為だが、安田はそこまで細かい性格ではなかった。

「知っての通り、うちのお嬢は体が弱い。バネは柔らかいんだが、華奢(きゃしゃ)すぎる。ジュニア級での戦いはなんとかなったが、今後、多人数でのレースになったときには、必ず負ける」

 そこまで言わなくても、と安田は思う。だが、そのおそれは十分にあった。

「確かに、たとえば三十頭近くが参戦するダービーなんかは、難しいでしょうね」

 ふん、と言い、それから煙を吐く真似をする大川。ため息だったのかもしれない。

「はっきり言うんだな。まあ、事実だけどな。それにお嬢の本格化はまだ先の話だ。もしかしたら、クラシックには間に合わないかもしれない」

 大川の言う「お嬢」とは、テンポイントのことである。

 大川はテンポイントの担当トレーナーだった。

 確かに大川の言う通り、テンポイントはひ弱だった。トレーニングでは疲労、ストレスがたまりやすく、しばしば熱発する。熱によって、出走するレースを、後ろの日程にずらしたこともある。

 ダービーのように、多くのウマ娘が出走するレースであれば、当然ボディコンタクトの機会も多くなる。下手をすると、弾き飛ばされてしまう危険さえあった。

「お嬢は今まで柔らかいバネを駆使することで勝ってきたが、クラシックはそう甘くない。それに大切なのは、本格化したあとだ。だが、敗北を知らないお嬢は、勝つことに貪欲になれない。そうであれば俺は」

 いったん、大きく息を吸う大川。

「クラシックは全敗でもいいと思っている」

 静かだが、激しい言葉だった。両目の奥には、強い炎が潜んでいる。

 気おされそうになる安田。生唾を飲むのを、ぐっとこらえる。

「ジュニア級チャンピオンには酷な物言いですね。でも、私のところのトウショウボーイも、クラシックまでに本格化しているとは限りませんよ?」

 へっと吐き捨てるようにこぼす大川。

「よく言うぜ。そんなタマじゃないだろ、お前んとこの嬢ちゃんは」

 水を向けられている、ともちろん気づいている安田だが、敢えて乗ることにした。

「そうですね。じゃあ、はっきり言いましょう。トウショウボーイは、おそらく無敗で皐月賞に臨むことになります」

 ふん、と大川は鼻を鳴らす。

「本音が出たな。まあ、悔しいがその通りなんだろう。嬢ちゃんの素質は本物だ。あのトレーニングの様子を見りゃわかる。恐ろしいほど改善されているな、特に踏み込み、引き抜きの一連の動作が」

 テンポイントが、たびたびトウショウボーイのトレーニングの様子を見ている、と言っていたが、それは大川に連れられてのことだった。大川は、実は安田が声をかけるよりも、もっと以前からトウショウボーイに注目していた。

 その大川が、なぜトウショウボーイの担当に名乗りを上げなかったか。それは、大川が栗東寮担当のトレーナーだったからだ。

 トウショウボーイが栗東寮所属だったら、是が非でも担当したいと名乗り出ていたことだろう。

「自覚のたまものですね。もちろん、それは先生のところのテンポイントにも言えることですが」

「ああ、その点については感謝している。お前のアドバイスのおかげで、テンポイントは自分の弱さに向き合い、そして勝つ方法を模索することができた」

 だが、と続ける大川。

「それでも、足りない。あいつは頭の中がスマートすぎるんだ。きれいに勝とうとしすぎる。勝利への執念ってものがない。それを身に着けるには、どこかで壁にぶち当たってもらわないとな」

 これも、水を向けられている。

「トウショウボーイに、その壁になれ、ということですね」

 大川はくわえていた煙草を、箱の中にひっこめた。

「ああ、そうだ。トウショウボーイという壁を乗り越えるために、あいつが必死になれば、そのときあいつの身体は真の本格化を迎える。そしてトウショウボーイに勝ち、そのあとは」

 安田のほうを向く。

「ヨーロッパのレースに挑戦する」

 それが目的だったか、と安田は納得した。

 大川はかつて、安田に、テンポイントに走り方のレクチャーをしてくれと頼まれたことがある。

 そのとき安田は、ひどく(いぶか)しんだ。

 大川は、安田がトレーナーになるはるか昔から、トレーナーを生業としていた大ベテランだ。ウマ娘の走り方については、安田の何倍もの経験を有している。

 そんな大川が、安田を頼るなど、どう考えてもおかしい。

 安田のもつスポーツ医学の知識を借りたい、ということかもしれない。安田は、疑念がのこるものの、そう納得しておくことにした。

 大川が、「テンポイントをトウショウボーイに引き合わせたい」という申し出をしてきたときも、おかしいなと思った。トウショウボーイを助けたい、という。

 確かに、大川は安田に、テンポイントのことで貸しがある。だが、トウショウボーイが本格化すれば、テンポイントもレースに簡単に勝つことはできなくなる。わざわざ敵に塩を送るような真似をする意味はない。

 しかし、ようやく本当の目的が分かった。

 必要とされているのは、自分の知識ではなく、トウショウボーイという存在だったのだ。

 悔しくない、と言えばウソになるが、同時に嬉しくもあった。

 トウショウボーイの素質が、自分以外のトレーナーにも認められていた、と分かったからだ。

「なんだ、おかしいことを言ったか?」

 いかんいかん、と安田は思った。無意識に頬を緩めていたらしい。

「いえ、トウショウボーイを評価していただけるのは光栄ですよ」

「俺が美穂所属なら、ぜひお前んとこの嬢ちゃんを、俺の手で育てたいと思うんだけどな。あ、そうすると今度はお嬢を担当できなくなるか」

「悩ましいですね」

 お互い、高らかに笑い合った。

「うまくいかねえもんだな」

「本当に」

 

 その後、ひとしきり話し合ったあと、大川は「じゃあな」と言ってスタンドを後にした。

 一方の安田は、書類を携え、トレーニングトラックのほうに降りていく。

 トラック脇のベンチには、クールダウンを終えたトウショウボーイが腰を掛け、スポーツドリンクをのどに流し込んでいるところだった。

 安田が彼女に声をかける。

「トウショウボーイ、デビュー戦の日程が決まったよ」

 と言い、出走登録証明の書類を彼女に向かってひらひらとさせる。

 トウショウボーイの顔がぱあっと明るくなった。

「わあ! やっとですね!」

「そう、やっとだね。君の力をみんなに見せつけてやろう」

「はい、私を振ったこと、後悔させてやりますよ!」

 こんなことを言う子だったか、と安田は少し戸惑った。

 だが、いい傾向だ。

 自分の力に自信が持てるようになっている。

「はは、そうしてやろう」

 両手でガッツポーズをつくり、首を強く縦に振って応えるトウショウボーイ。

「ところで、出走するウマ娘の中に、警戒したほうがいい子って、いますか?」

 うん、と言いかけたが、やめた。

 ピンとこないだろう、と思ったのが最大の理由。

 もう一つ、今の彼女にはその心配はないと思うが、変にその子を意識してしまい、また走りがぎこちなく、硬いものになってしまうのも困る、というのも理由だ。

 だが、今の彼女に、その心配はないだろう。

「君の走りに徹するのが第一かな。まあ、君が今のトレーニングのような走りをすれば、そうそう負けることはないよ。テンポイントぐらいじゃないかな、怖いのは」

 と言っても、テンポイントはこのデビュー戦には出走できない。

 要するに、楽勝、ということだ。

「わかりました。じゃあ、明日のトレーニングもまたよろしくお願いします」

 トウショウボーイは元気よく挨拶をし、ロッカールームのほうに駆けだしていった。

 つま先を立て、ぴょこぴょこと跳ねるように、軽快なステップ。

 普段の生活から、理にかなった歩き方、走り方を意識している。医師の安田にとっては、一目瞭然だった。

 ここまで意識が変わるとは、ちょっと予想外だったかな。

 さて、僕がやるべきことは、既に終わった。

 あとは彼女に任せよう。

 きっと、勝利をつかんで、次のステップに進めるはずだ。

 安田はそう自分に言い聞かせ、トラックを後にした。

 

 そして、一月三十一日がやってきた。




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