その日、中山の直線を、流星が駆け抜ける。   作:兜士郎

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グラスちゃん、登場。


第一章 メイクデビュー その5

 厳冬の東京レース場。

 ウマ娘はもともと、ヒトと比べて寒さには強いが、そのかわり、非常によく食が進む。

 摂取した食物が、胃腸で分解される際に生じた熱で、身体を温めるようになっているからだ。

 そのため、冬場は基礎体重よりも、身体が重くなってしまうウマ娘も多い。

 今日のレース出場者にも、身体に締まりがなく、見るからに「仕上がっていない」子が散見された。

 パドックでの「お披露目」。

 出場ウマ娘が、順にステージの中央で、羽織っているウインドブレーカーを脱ぎ捨てる、それが習わしだった。

 トウショウボーイと同じレースに出場する子たちも、次々とパフォーマンスをする。中には、おなか周りのタプタプ感を気にしてか、控えめに演じて、すぐに後方に引っ込んでしまう子もいた。

 一方、トウショウボーイは、というと、

「おおっ」

 感嘆の声が、ファンの間からあがる。

 ウインドブレーカー越しでもわかる、引き締まった、バランスのよい肉体。

 完成されている。

 前々日に行われた公開トレーニングで、トウショウボーイは、シニア級でもなかなか出せない好時計をマークし、周囲を驚かせた。

 かつてトウショウボーイを見限ったトレーナーの中には、地団駄踏んで悔しがる者もいたが、無理もない。

 安田のほうを向いて、彼に聞こえるように「ちっ」と舌打ちする。

 見るからに満足げな安田は、聞こえないふりをした。

 若手のエース格である彼に嫉妬するベテラントレーナーは多い。

 医師としての経歴も優秀で、頭がよく、顔もいいし、性格は温厚。生徒からはもちろん、女性職員からの人気も高い。

 これで嫉妬しないほうがおかしい、ともいえる。

 ただ、色恋は眼中にない安田にとって、今最も見るべき相手は、トウショウボーイだった。

 非凡な才能に目をつけ、持てる知識と経験をフルに動員し、彼女のサポートに集中した。

 彼はまだ若いが、自分のキャリアのピークは、このトウショウボーイとともにある、と予感していた。

 それほど彼女の才能に惚れ込んでいたのである。

 ウマ娘の多くは、ジュニア級のうちにデビューを果たす。

 しかし中には、トウショウボーイのように、バ体の仕上がりが遅れ、クラシック級になってようやくレースに出場する者もいる。

 (はな)からクラシックレースはあきらめ、ゆっくりレースに慣れていこう、という目論見の者もいる。

 だがトウショウボーイと安田には、クラシックに勝利するという明確な目標があった。

 だから、時間がない。

 安田はレースの「いろは」をトウショウボーイに叩き込んだ。それを必死に吸収しようとするトウショウボーイ。

 師弟の間には、この二か月で、かけがえのない絆が生まれていた。

 ただし、安田が彼女に教えていないことが、ひとつだけあった。

 パドックでのふるまい方である。

 

(ええと、みんなと同じように、ウインドブレーカーを脱ぎ捨てればいいんだよね…)

 えいっ、と力強くウインドブレーカーを脱ぎ、

 叩きつけた。

 バシーン! という乾いた音が、寒空の中響き渡る。

 パドック周辺が一瞬にして静まり返る。

(あ…)

 デビューを果たすという高揚感から、不慣れなトウショウボーイは、ウインドブレーカーを脱ぎ捨てるのではなく、腕を上から下に思い切り振り下ろし、地面に叩きつけてしまったのである。

 一瞬の静寂ののち、

「ぷっ」

 と、一人のファンが我慢の限界を迎えたのち、今度はパドックが、盛大な笑い声に包まれた。

 同じレースに出場する子たちの中からも、くすくす笑いが漏れ聞こえる。

「あんまり緊張するなよー」

「リラックスしてねー」

 生暖かい声援がトウショウボーイに届けられる。

 彼女はしばらく、その場で硬直してしまった。

(や、やっちゃった…)

 頬を真っ赤に染める。

 彼女は大外枠の出走だったので、出走ウマ娘によるパフォーマンスはこれで最後だった。

 なんとも締まりのない場は、

「そ、それでは出場ウマ娘の皆さんは、本バ場に移動してくださいっ」

 という職員の一言で締めくくられた。

 

 地下通路を通り、本バ場に移るウマ娘たち。

 トウショウボーイは、先ほどの大チョンボをまだ引きずっていた。

 とぼとぼという擬態語を伴って歩いている。

 すると彼女の後ろから、一人のウマ娘が近づき、トウショウボーイに声をかけた。

「さっきはお疲れー。なんかー、失敗しちゃってたねー」

 ビクッと身体を縮こまらせ、歩みを止め、ゆっくり振り返るトウショウボーイ。

 そこには、黒髪の美しい、見たことのない長身のウマ娘が立っていた。

(誰、だろ? ってうわ、めっちゃ背が高い!)

 身長は、彼女より10センチくらい高いだろうか。それに、

(足細っ! しかも長っ!)

 腰の位置が非常に高い。それこそトウショウボーイの10センチくらいは上だった。

 つまり、身長差がそのまま、足の長さの差にもなっていた。

 すかさず自分の足に目をやる、コンプレックスの塊、トウショウボーイ。

 うん、知ってた。

 惨敗。

 羨望の眼差し。

 ぐぬぬ、という声が聞こえてきそうだった。

 そんな表情は気にも留めず、目の前のウマ娘はトウショウボーイに告げる。

「でもさー、おかげで雰囲気が緩くなって、こっちの緊張も解けたよー。なんかー、ありがとねー」

 褒められた気はしなかった。

「いや、まあ、お役に立てたのならよかったです。あはは…」

 そう返すのが精いっぱい。

 別に、嫌味で言っているようには思えないけど。

 語尾をやたら伸ばすし、垂れ目がいかにも「穏やか」って感じの子だな。おっとり系女子。両サイドでお団子に結んだ髪がかわいい。

 そうだ、名前。

「私、トウショウボーイです。あなたは?」

 そこで初めて、うっかりしていたと気づく、目の前のウマ娘。

「あ、ごめんねー。私はグリーングラスって言うんだー。今日はよろしくねー」

 聞いたことは、なかった。

 この時期にデビュー、ということは、トウショウボーイと同じように、仕上がりが遅れていたクチだろう。

 であれば、話題になることは、そうそうない。知らないのも当然だ。

 トレーニングで一番時計を出したトウショウボーイは、別だが。

 再び歩き始めたグリーングラスにあわせ、トウショウボーイも本バ場に向けて進む。

「先生がさー、まだ整ってるとは言えないけど、試しに走ってこい、ってさー、言うもんだからさー」

 なるほど、それほど警戒する必要もなさそう。

 安田先生は結局、誰それには注意しろ、みたいなことを言ってこなかった。

 それって多分、みな遅るるに足らず、ってことだよね?

「私もさー、マイルは短いからさー、力出し切れるか不安なんだよねー。まあ、出るからには、全力をつくすけどー」

 ふむふむ、適性距離は中距離以上、と…。

 ん?

 今、マイルって言った?

 

 マイルとは、1600メートルのレースのことを指す。

 正確には、一国際マイル=1760ヤード=約1609メートルなのだが、トゥインクルシリーズでは、マイルと言ったら、丁度1600メートルというのがならわしだ。

 マイルは競馬の最も基本的な距離であり、最も重要な根幹距離である、という者も多い。

 400で割り切れる距離のことを、根幹距離という。

 G1競争をはじめとする重賞レースには、圧倒的にこの根幹距離にあたるものが多い。

 ウマ娘のトレーニングは、400メートル、800メートル、1200メートル…というふうに、根幹距離に合わせて行われることが多い。

 そのため、ウマ娘たちがレースに挑む際の呼吸法は、自然と根幹距離にアジャストされる。

 400メートルを基準に、徐々に距離を伸ばしてトレーニングするわけである。

 2000メートルのレースを主戦場にするウマ娘でも、スタミナをつければ、2400メートル、いわゆるクラシックディスタンスのレースで走ることも、不可能ではない。

 では、一方で、宝塚記念やエリザベス女王杯のような、2200メートルのレースは、どうか。

 これが、まったく走らないことも少なくないのだ。

 200メートル長くなるだけで、息切れをおこしやすくなる。あるいは、トップスピードに乗れずレースを終えてしまう。

 根幹距離と、非根幹距離では、呼吸法が異なるからだ。

 だから、2400メートルと100メートルしか違わない、2500メートルは、長距離に分類される。

 特に、暮れの中山で行われる有馬記念は過酷だ。その距離は、ずばり2500メートル。

 直線に入るタイミングが、約2200メートル地点。非根幹距離だ。

 なかなかエンジンがかからず、失速しやすい。

 それに直線自体が短い。さらに、前方には、坂が待ち受ける。

 すでに呼吸が乱れているウマ娘にとっては、まさに心臓破りの休坂だ。

 東京の直線にも坂はあるが、それとはまったく意味が違う。

 トウショウボーイのように、腰が甘いウマ娘にとって過酷な坂だが、距離によってはどのウマ娘にとっても、大きな壁になる。

 それが根幹距離と非根幹距離の違いだった。

 だから、非根幹距離のレースは、「荒れる」と言われる。

 三冠のかかる菊花賞、トリプルティアラがかかるエリザベス女王杯、どちらも非根幹距離だ。本当に強いウマ娘でなければ、最大の一冠の戴冠は果たせない。

 今まで何人ものウマ娘たちが、最後の最後で涙を呑んできた。

 菊花賞が「最も強いウマ娘が勝つレース」と称されるのも、この距離の性質が原因のひとつなのである。

 今、グリーングラスが口にした「マイル」という言葉に、トウショウボーイは違和感をおぼえた。

 なぜなら、今日のデビュー戦の距離は、

 

 1400メートルだったからだ。

 

 グリーングラスは、トウショウボーイの困惑など知らず、鼻歌交じりの上機嫌で、歩き続けていた。

(えっと、この子、勘違いしてるのかな? いやもしかして、1400メートルのことも「マイル」って、ひとくくりにしているだけなのかも。…いや、先生に教えてもらったけど、確か1400メートルって、短距離に分類されるんじゃなかったっけ?)

 これについては、ちょっと微妙である。

 もともとイギリスで始まったウマ娘のレースは、距離を「ヤード・ポンド法」で規定してきた。日本もかつてはそうだったが、現在は「メートル法」である。

 トゥインクルシリーズが盛んな国の中では、イギリスやアメリカが、現在もヤード・ポンド法。日本やフランス、ドイツが、メートル法を採用している。

 どこまでが短距離で、どこからがマイルか。解釈はそれぞれである。

 例えば「1400メートル未満が短距離、それ以上がマイル」とすると、日本の1400メートルは、マイル戦ということになる。

 一方で、1600メートル未満を短距離、それ以上をマイル、とする見方もある。

 この場合、1400メートルは短距離戦、ということになる。

 だがこれは、明確な規定がURAにあるわけではない。

 URAは、レースの距離をおおまかに「短距離・中距離・長距離」と分けてプログラムを組んでいるだけで、マイルという距離区分は規定に存在しない。

 国際的なウマ娘のレーティングの基準に、「ワールド・ベスト・ホースガール・ランキング」(通称WBHR)の規定するレーティングがある。

 その中で、レースの距離は五つに区分される。

 短い順にスプリント、マイル、インターメディエイト、ロング、エクステンデッド。

 そのスペルの頭文字をとって「SMILE区分」と呼ばれている。

 この中の「スプリント」とは、短距離のことを指すが、欧州ではそれが「1300メートル以下」となっており、一方でアメリカでは「1599メートル以下」となっているのである。

 とすると、欧州では1400メートルはマイル戦であり、アメリカではスプリント戦、ということになる。

 このように、世界的に見ても、距離の解釈はバラバラなのが現状だ。

 1400メートルが短距離だ、マイルだというのは、結局、「どっちかはっきりせん、わからん」では話が進まないので、便宜上どちらかの区分に組み込んでいるだけなのである。

 

 話を二人に戻そう。

 グリーングラスはすたすたと本バ場に向かっていく。一方でトウショウボーイは、距離のことを彼女に話そうかどうか、逡巡していた。

(私の聞き違いかもしれないし、1400メートルをマイルって解釈しているだけかもしれない。でも、実は1600メートルって勘違いしてる可能性もあるよね? それに…)

 何度も言うが、トウショウボーイは非常に賢いウマ娘だった。今もこうして、瞬時に頭の中で様々な可能性をピックアップする。

 だが、迅速果断な決断力が備わるのは、もう少し先のことだった。

「じゃあー、私、先に行ってるねー」

 グリーングラスは、トウショウボーイに向けて手を軽く振り、くるっと本バ場のほうを向くと、スタコラサッサと駆けて行ってしまった。

「あ、ちょっと…」

 慌てて呼び止めようとするも、時すでに遅し。

「…ま、いっか」

 この切り替えの早さも、トウショウボーイの美点である。




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