厳冬の東京レース場。
ウマ娘はもともと、ヒトと比べて寒さには強いが、そのかわり、非常によく食が進む。
摂取した食物が、胃腸で分解される際に生じた熱で、身体を温めるようになっているからだ。
そのため、冬場は基礎体重よりも、身体が重くなってしまうウマ娘も多い。
今日のレース出場者にも、身体に締まりがなく、見るからに「仕上がっていない」子が散見された。
パドックでの「お披露目」。
出場ウマ娘が、順にステージの中央で、羽織っているウインドブレーカーを脱ぎ捨てる、それが習わしだった。
トウショウボーイと同じレースに出場する子たちも、次々とパフォーマンスをする。中には、おなか周りのタプタプ感を気にしてか、控えめに演じて、すぐに後方に引っ込んでしまう子もいた。
一方、トウショウボーイは、というと、
「おおっ」
感嘆の声が、ファンの間からあがる。
ウインドブレーカー越しでもわかる、引き締まった、バランスのよい肉体。
完成されている。
前々日に行われた公開トレーニングで、トウショウボーイは、シニア級でもなかなか出せない好時計をマークし、周囲を驚かせた。
かつてトウショウボーイを見限ったトレーナーの中には、地団駄踏んで悔しがる者もいたが、無理もない。
安田のほうを向いて、彼に聞こえるように「ちっ」と舌打ちする。
見るからに満足げな安田は、聞こえないふりをした。
若手のエース格である彼に嫉妬するベテラントレーナーは多い。
医師としての経歴も優秀で、頭がよく、顔もいいし、性格は温厚。生徒からはもちろん、女性職員からの人気も高い。
これで嫉妬しないほうがおかしい、ともいえる。
ただ、色恋は眼中にない安田にとって、今最も見るべき相手は、トウショウボーイだった。
非凡な才能に目をつけ、持てる知識と経験をフルに動員し、彼女のサポートに集中した。
彼はまだ若いが、自分のキャリアのピークは、このトウショウボーイとともにある、と予感していた。
それほど彼女の才能に惚れ込んでいたのである。
ウマ娘の多くは、ジュニア級のうちにデビューを果たす。
しかし中には、トウショウボーイのように、バ体の仕上がりが遅れ、クラシック級になってようやくレースに出場する者もいる。
だがトウショウボーイと安田には、クラシックに勝利するという明確な目標があった。
だから、時間がない。
安田はレースの「いろは」をトウショウボーイに叩き込んだ。それを必死に吸収しようとするトウショウボーイ。
師弟の間には、この二か月で、かけがえのない絆が生まれていた。
ただし、安田が彼女に教えていないことが、ひとつだけあった。
パドックでのふるまい方である。
(ええと、みんなと同じように、ウインドブレーカーを脱ぎ捨てればいいんだよね…)
えいっ、と力強くウインドブレーカーを脱ぎ、
叩きつけた。
バシーン! という乾いた音が、寒空の中響き渡る。
パドック周辺が一瞬にして静まり返る。
(あ…)
デビューを果たすという高揚感から、不慣れなトウショウボーイは、ウインドブレーカーを脱ぎ捨てるのではなく、腕を上から下に思い切り振り下ろし、地面に叩きつけてしまったのである。
一瞬の静寂ののち、
「ぷっ」
と、一人のファンが我慢の限界を迎えたのち、今度はパドックが、盛大な笑い声に包まれた。
同じレースに出場する子たちの中からも、くすくす笑いが漏れ聞こえる。
「あんまり緊張するなよー」
「リラックスしてねー」
生暖かい声援がトウショウボーイに届けられる。
彼女はしばらく、その場で硬直してしまった。
(や、やっちゃった…)
頬を真っ赤に染める。
彼女は大外枠の出走だったので、出走ウマ娘によるパフォーマンスはこれで最後だった。
なんとも締まりのない場は、
「そ、それでは出場ウマ娘の皆さんは、本バ場に移動してくださいっ」
という職員の一言で締めくくられた。
地下通路を通り、本バ場に移るウマ娘たち。
トウショウボーイは、先ほどの大チョンボをまだ引きずっていた。
とぼとぼという擬態語を伴って歩いている。
すると彼女の後ろから、一人のウマ娘が近づき、トウショウボーイに声をかけた。
「さっきはお疲れー。なんかー、失敗しちゃってたねー」
ビクッと身体を縮こまらせ、歩みを止め、ゆっくり振り返るトウショウボーイ。
そこには、黒髪の美しい、見たことのない長身のウマ娘が立っていた。
(誰、だろ? ってうわ、めっちゃ背が高い!)
身長は、彼女より10センチくらい高いだろうか。それに、
(足細っ! しかも長っ!)
腰の位置が非常に高い。それこそトウショウボーイの10センチくらいは上だった。
つまり、身長差がそのまま、足の長さの差にもなっていた。
すかさず自分の足に目をやる、コンプレックスの塊、トウショウボーイ。
うん、知ってた。
惨敗。
羨望の眼差し。
ぐぬぬ、という声が聞こえてきそうだった。
そんな表情は気にも留めず、目の前のウマ娘はトウショウボーイに告げる。
「でもさー、おかげで雰囲気が緩くなって、こっちの緊張も解けたよー。なんかー、ありがとねー」
褒められた気はしなかった。
「いや、まあ、お役に立てたのならよかったです。あはは…」
そう返すのが精いっぱい。
別に、嫌味で言っているようには思えないけど。
語尾をやたら伸ばすし、垂れ目がいかにも「穏やか」って感じの子だな。おっとり系女子。両サイドでお団子に結んだ髪がかわいい。
そうだ、名前。
「私、トウショウボーイです。あなたは?」
そこで初めて、うっかりしていたと気づく、目の前のウマ娘。
「あ、ごめんねー。私はグリーングラスって言うんだー。今日はよろしくねー」
聞いたことは、なかった。
この時期にデビュー、ということは、トウショウボーイと同じように、仕上がりが遅れていたクチだろう。
であれば、話題になることは、そうそうない。知らないのも当然だ。
トレーニングで一番時計を出したトウショウボーイは、別だが。
再び歩き始めたグリーングラスにあわせ、トウショウボーイも本バ場に向けて進む。
「先生がさー、まだ整ってるとは言えないけど、試しに走ってこい、ってさー、言うもんだからさー」
なるほど、それほど警戒する必要もなさそう。
安田先生は結局、誰それには注意しろ、みたいなことを言ってこなかった。
それって多分、みな遅るるに足らず、ってことだよね?
「私もさー、マイルは短いからさー、力出し切れるか不安なんだよねー。まあ、出るからには、全力をつくすけどー」
ふむふむ、適性距離は中距離以上、と…。
ん?
今、マイルって言った?
マイルとは、1600メートルのレースのことを指す。
正確には、一国際マイル=1760ヤード=約1609メートルなのだが、トゥインクルシリーズでは、マイルと言ったら、丁度1600メートルというのがならわしだ。
マイルは競馬の最も基本的な距離であり、最も重要な根幹距離である、という者も多い。
400で割り切れる距離のことを、根幹距離という。
G1競争をはじめとする重賞レースには、圧倒的にこの根幹距離にあたるものが多い。
ウマ娘のトレーニングは、400メートル、800メートル、1200メートル…というふうに、根幹距離に合わせて行われることが多い。
そのため、ウマ娘たちがレースに挑む際の呼吸法は、自然と根幹距離にアジャストされる。
400メートルを基準に、徐々に距離を伸ばしてトレーニングするわけである。
2000メートルのレースを主戦場にするウマ娘でも、スタミナをつければ、2400メートル、いわゆるクラシックディスタンスのレースで走ることも、不可能ではない。
では、一方で、宝塚記念やエリザベス女王杯のような、2200メートルのレースは、どうか。
これが、まったく走らないことも少なくないのだ。
200メートル長くなるだけで、息切れをおこしやすくなる。あるいは、トップスピードに乗れずレースを終えてしまう。
根幹距離と、非根幹距離では、呼吸法が異なるからだ。
だから、2400メートルと100メートルしか違わない、2500メートルは、長距離に分類される。
特に、暮れの中山で行われる有馬記念は過酷だ。その距離は、ずばり2500メートル。
直線に入るタイミングが、約2200メートル地点。非根幹距離だ。
なかなかエンジンがかからず、失速しやすい。
それに直線自体が短い。さらに、前方には、坂が待ち受ける。
すでに呼吸が乱れているウマ娘にとっては、まさに心臓破りの休坂だ。
東京の直線にも坂はあるが、それとはまったく意味が違う。
トウショウボーイのように、腰が甘いウマ娘にとって過酷な坂だが、距離によってはどのウマ娘にとっても、大きな壁になる。
それが根幹距離と非根幹距離の違いだった。
だから、非根幹距離のレースは、「荒れる」と言われる。
三冠のかかる菊花賞、トリプルティアラがかかるエリザベス女王杯、どちらも非根幹距離だ。本当に強いウマ娘でなければ、最大の一冠の戴冠は果たせない。
今まで何人ものウマ娘たちが、最後の最後で涙を呑んできた。
菊花賞が「最も強いウマ娘が勝つレース」と称されるのも、この距離の性質が原因のひとつなのである。
今、グリーングラスが口にした「マイル」という言葉に、トウショウボーイは違和感をおぼえた。
なぜなら、今日のデビュー戦の距離は、
1400メートルだったからだ。
グリーングラスは、トウショウボーイの困惑など知らず、鼻歌交じりの上機嫌で、歩き続けていた。
(えっと、この子、勘違いしてるのかな? いやもしかして、1400メートルのことも「マイル」って、ひとくくりにしているだけなのかも。…いや、先生に教えてもらったけど、確か1400メートルって、短距離に分類されるんじゃなかったっけ?)
これについては、ちょっと微妙である。
もともとイギリスで始まったウマ娘のレースは、距離を「ヤード・ポンド法」で規定してきた。日本もかつてはそうだったが、現在は「メートル法」である。
トゥインクルシリーズが盛んな国の中では、イギリスやアメリカが、現在もヤード・ポンド法。日本やフランス、ドイツが、メートル法を採用している。
どこまでが短距離で、どこからがマイルか。解釈はそれぞれである。
例えば「1400メートル未満が短距離、それ以上がマイル」とすると、日本の1400メートルは、マイル戦ということになる。
一方で、1600メートル未満を短距離、それ以上をマイル、とする見方もある。
この場合、1400メートルは短距離戦、ということになる。
だがこれは、明確な規定がURAにあるわけではない。
URAは、レースの距離をおおまかに「短距離・中距離・長距離」と分けてプログラムを組んでいるだけで、マイルという距離区分は規定に存在しない。
国際的なウマ娘のレーティングの基準に、「ワールド・ベスト・ホースガール・ランキング」(通称WBHR)の規定するレーティングがある。
その中で、レースの距離は五つに区分される。
短い順にスプリント、マイル、インターメディエイト、ロング、エクステンデッド。
そのスペルの頭文字をとって「SMILE区分」と呼ばれている。
この中の「スプリント」とは、短距離のことを指すが、欧州ではそれが「1300メートル以下」となっており、一方でアメリカでは「1599メートル以下」となっているのである。
とすると、欧州では1400メートルはマイル戦であり、アメリカではスプリント戦、ということになる。
このように、世界的に見ても、距離の解釈はバラバラなのが現状だ。
1400メートルが短距離だ、マイルだというのは、結局、「どっちかはっきりせん、わからん」では話が進まないので、便宜上どちらかの区分に組み込んでいるだけなのである。
話を二人に戻そう。
グリーングラスはすたすたと本バ場に向かっていく。一方でトウショウボーイは、距離のことを彼女に話そうかどうか、逡巡していた。
(私の聞き違いかもしれないし、1400メートルをマイルって解釈しているだけかもしれない。でも、実は1600メートルって勘違いしてる可能性もあるよね? それに…)
何度も言うが、トウショウボーイは非常に賢いウマ娘だった。今もこうして、瞬時に頭の中で様々な可能性をピックアップする。
だが、迅速果断な決断力が備わるのは、もう少し先のことだった。
「じゃあー、私、先に行ってるねー」
グリーングラスは、トウショウボーイに向けて手を軽く振り、くるっと本バ場のほうを向くと、スタコラサッサと駆けて行ってしまった。
「あ、ちょっと…」
慌てて呼び止めようとするも、時すでに遅し。
「…ま、いっか」
この切り替えの早さも、トウショウボーイの美点である。
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