第二章 皐月賞 その1
日が昇って間もない頃、一人のウマ娘がトラックを疾走していた。
併せる相手もおらず、孤独に、ただ一心に。
まるで、見えない何かを、必死に追いかけているように見える。
彼女の黒髪、それに日焼けした肌には、玉のような汗がいくつも浮かんでいる。それが朝日に照らされ、宝石のような輝きを放っていた。
すでに意気は上がっているが、走ることをやめようとはしない。
見かねた彼女のトレーナーが、ストップの合図を送った。
「…ちっ」
小さく舌打ちをすると、彼女はゆっくりとペースを落とし、やがて完全に足を止めた。
(ハァ……ハァ……)
両ひざに手を当て、今にも倒れ込みそうになるくらいの前傾姿勢で、苦しそうに肩で息をする。
トレーナーが、ゆっくりと彼女に近づいて行った。
半ば怒りを露わにし、半ばあきれた様子で、
「悔しいのはわかるが、また3週間後にはレースがあるんだ。今負荷をかけ過ぎたら、うまく調整ができんだろうが。ちょっとは自重しろ」
と吐き捨てるように言った。
「んなこた分かってんだよ!」
腕に装着していたリストバンドを乱暴に外すと、トレーナー目掛けて投げつける。
慣れているためか、トレーナーは、ひょいと上半身を右に倒すと、リストバンドはきれいな弧を描きながら滑空し、ポテっという情けない音を立てて、トラックに胴体着陸した。
荒っぽい口調も、いつものことだった。
大きく肩をすくめたトレーナーは続ける。
「お前はよく走った。だが、相手が悪すぎた。それでも、直線の競り合いは見事だったぞ。半バ身というところまで迫ったんだからな。いつか必ず、チャンスは巡ってくるさ」
前日に行われた、共同通信杯のことを言っている。
彼女は、一月に行われたG3京成杯で、重賞レース初勝利を飾った。ジュニア級は善戦止まりが多く、悔しい思いをしていただけに、ウマ娘、トレーナーともに、大いに歓喜した。
だが、その喜びを一瞬にして打ち砕いたのが、テンポイントだった。
テンポイントに先着を許し、2着。
西のジュニアチャンピオンに次ぐ着順だ。褒められていい。だが、タイミングが最悪だった。
(重賞を勝って、オレの名を学園に轟かせてやろうと思った矢先、あいつに上書きされちまったじゃねえか…いつかこの落とし前はつけさせるからな…)
ようやく息が整ったところで、トレーナーのほうを向き、彼に尋ねる。
「おいトレーナー。次のレースにあいつは出てくんのか?」
トレーナーは首を横に振る。
「いや、テンポイントの次走は、スプリングステークスだと聞いている。お前が出走する予定の弥生賞には、出てこないだろう」
ちっ、と舌打ちをする。
舌打ちは彼女の日課のようなものだった。
「…つまんねえな。まあ、それじゃあ皐月賞までお楽しみはとっておくか」
「だが、弥生賞だって簡単には勝てないぞ」
勝てない、という言葉に、ひどくいら立ちを感じる。
「…どういうことだよ? あんた、オレの実力は知ってるだろ? 考えて物言えよ」
発言が、トレーナーに対する生徒のそれではない。
菩薩の心を持ち合わせているのか、あるいは、もう慣れてしまって何も感じないのか、気に留めるそぶりもなく、トレーナーは答える。
「西のジュニアチャンピオンは出てこないけどな、東のジュニアチャンピオンは出てくるぞ。ボールドシンボリだ。覚えてるだろ? 朝日杯で対戦した」
朝日杯。
また忌々しい記憶を思い出させやがる。
朝日杯とは、「朝日杯ジュニアステークス」のことであり、十二月に行われた、ジュニア級のG1競争である。
阪神ジュニアステークスと並ぶ、三歳チャンピオン戦だ。
通常、朝日杯には美浦寮の生徒が出走し、阪神
明確な規定があるわけではないが、暗黙の了解としてそうなっていた。
ボールドシンボリは、ウマ娘の名門、シンボリ一族の一員で、無敗で昨年の朝日杯を制し、同じく無敗で阪神JSを制したテンポイントともに、今年のクラシックレースの主役候補に数えられていた。
この黒髪のウマ娘は、朝日杯では五着と、不本意な成績だった。
「…あの垢ぬけた感じのお嬢様か」
「お前とは真逆だな」
「ああん?」
一見すると、いかにも
彼女は右足を後ろに振り上げ、すぐに振り下ろし、つま先で芝を引っ掻いた。
飛んできた芝の破片を、今度は左に上半身を傾けて避けるトレーナー。
「学園の施設を粗末に扱うな」
「うるせぇ!」
おほん!
と、大きく咳ばらいをするトレーナー。
「これ以上時間を浪費しても仕方ない。お前はまずしっかりクールダウンして、それから1週間は強めのトレーニング禁止だ。わかったか?」
「はいはい、分かりましたよ」
「はい、は一回だ」
「はい、はい」
トレーナーが去っていく。
残された彼女は、その場で立ったまま、くくっと笑う。
「金髪ウマ野郎の前に、まずは世間知らずのお嬢様から、血祭りにあげてやるか…」
その笑みにも、言葉にも、悪意が込められていたのは、言うまでもない。
この黒髪のウマ娘の名は、クライムカイザー。
後に「犯罪皇帝」と呼ばれる、トウショウボーイの前に最初に立ちはだかる、最初の「壁」だった。
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