崖から落ちたら千年前   作:優鶴

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拾壱

サラザール先生使いものにならないなあと思いつつハリーも隅っこでじめじめしはじめた頃、コンコンとノックの音がした。

 

「いるかしら、サラ。」

 

少し顔をあげたサラザールが溜息を吐いて口を開いた。

 

「いない。」

 

「……いるじゃない。」

 

「コロポータス……。」

 

扉の方に目も向けず、杖を向けたり手を動かしたりもせず呪文だけで施錠される。こういった創設者や学生たちの1000年後では考えられないほどの能力の高さにハリーは当初いちいち驚いていたものだが、今では当然のものと受け入れていた。セレナのスパルタ指導でハリーもそれに近づいてきたというのもある。

 

「アロホモラ。なあに、また閉じこもってたの。薬草の差し入れよ。」

 

顔を出したのはヘルガだった。

 

「ヘル、ハリーの恋愛相談を受けてやってくれ。」

 

「は? 」

 

「私はイレーネに癒されてくる。」

 

「はいはい、仕方ないわね。わかったわよ。イレーネを思う存分甘やかしてきなさいな。」

 

溜息を吐いたヘルガがしっしというように手を振ってサラザールを追い払い、ハリーの方に視線を向けた。

 

「彼に恋愛相談をするのは間違っているわよ。」

 

「……その通りですね。」

 

さすがに反論はできなかった。苦笑を浮かべたヘルガはサラザールが出ていった扉を指の一振りで閉め、机を出してその上にティーポットと紅茶をのせてくれた。

 

「スコーンはいるかしら。」

 

「あまりお腹は空いていません……。」

 

「そう、何か食べたくなったら言ってね。それで? 恋愛相談ね、話してみなさい。」

 

「……アリアドネに告白されたんです。」

 

「ええ。それで? 」

 

「僕、未来に置いてきた彼女がいるから……。」

 

「そう。でもハリー、あなたは迷っているみたいだわ。……話したくないのなら別に離さなくていいけれど、未来に置いてきたその子、何か拗らせたまま別れちゃったんじゃない? 」

 

ハリーは言葉に詰まった。

 

「……仕事が忙しくて、全然会えていなくて。」

 

「ええ。」

 

「……大事にしたいんですけど、大事にできなくて。」

 

「それをちゃんと言葉にした? 」

 

「……どうやったら伝わるのかわからなくて。」

 

「ええ、ハリー。」

 

「……恋って、どうやってするものなのか、わからなくて。」

 

「そうね。」

 

ジニーと付き合い始めた時は、ハリーはだいぶ追い詰められていたような気がする。あの時は、何の不安もないのよと先生たちが守ってくれるような環境ではなかった。闇の帝王の脅威に怯えずに、額の傷に怯えずに、頼もしく笑う先生たちはいなかった。寮の垣根を越えた仲の良さなんて見られなかった。

 

思えばあれは恋だったのか、恋だったのだろう。そもそもハリーは両親の記憶がなくて、愛というものが何なのか知らない。どうやって恋をすればいいのかなんてわからない。追い詰められて選択肢がどんどんつぶされていく中での恋だった。それゆえに駆り立てられるような気分にもなったのかもしれない。でも、恋だったのは間違いではなかったと、思う。

 

……アリアドネとの間には、そんな激情はなかった。彼女と過ごしたのはわずかな期間だけれど穏やかで優しくて、ハリーは、そんな彼女も創設者たちが生徒を守って平和な時間を過ごさせてくれるこのホグワーツも大好きで。戦いの傷が、穏やかで優しくててらいのない笑顔が溢れていて大戦後のホグワーツのような大きな爪痕を残していない空気と違う場所で、癒えていくような気がして。

 

「……ジニーは。置いてきた恋人の名前は、ジニーと言うんですけど……。ジニーに向けているものとアリアドネに向けているものって、根本的に何かが違うんです。駆り立てられるようなものと、穏やかなものと……。」

 

「……ハリー。リアは……アリアドネは私の寮生なの。可愛い生徒よ。」

 

「はい……。」

 

「その子が、あなたからの返事を待ちわびているのは知っている。少し不安定に思えるの。そんな自寮の生徒を見ていたくないとも思うわ。」

 

「すみませ……。」

 

「謝るんじゃないわよ。謝ってほしいんじゃないの。返事を急かすのは酷だってわかっているわ、有耶無耶にしなければいくらでも悩めばいい。時空を超えてきたからっていって、別にあなたに特別なところがあるわけじゃないし、皆と同じ私たちの可愛い生徒なんだから思う存分悩んでほしいと思う。リアと話し合ってはほしいけど。ここは、私たち教員が守っているから。何も気負わなくていい空間よ。」

 

皆と同じ―――その言葉は、不思議とハリーの心の中にストンと落ちた。

 

一番、欲しかった言葉だった。皆と同じ。特別ではない。ハリーを普通の男の子だと言ってくれる人が、欲しかった。ただのハリーを見てくれる人が欲しかった。英雄なんかじゃなくて。

 

英雄というネームバリューを失ったらもう何も残らないんじゃないかと危惧して英雄の名を手放せなくって、ダンブルドアの気持ちがわかったような気がした。それが千年前に来たらどこも特別ではなくて。“皆と同じ”で。

 

「ハリー、いいのよ。泣きたいなら泣きなさい。思う存分泣いて、悩んで、苦しんで、……最後に笑ってくれていれば、それでいいのよ。笑えるように手助けするから。」

 

「……ヘルガ先生。」

 

「子どもを甘やかすのは大人の役目よ。生徒である以上、あなたは、まだまだ子どもよ。黙って甘やかされなさい。そうした方がきっと楽よ。」

 

「……でも。」

 

「千年後ではもうとっくに就職してたのにとでもいうの? この場所に来て生徒になった瞬間から決まっていたのよ、教員に守られるってことは。観念しなさい。誰もハリーを責めないわよ。知ってる? 少なくともね、教員は、いくら怒ってもいつだって生徒を許すのよ。犯した罪に苦しむ生徒がいたら、ちゃんと話を聞いて頭を撫でて許してあげるものよ。まして、罪のない生徒が苦しんでいるのだとしたら甘やかさないなんてあり得ない。」

 

文句はある? そう言ってヘルガに頭を撫でられた瞬間、ハリーの中の何かが決壊した。翡翠の瞳から零れ落ちた涙を止めることなんてもうできそうにもなかった。誰も責めない、その言葉がどれほど安心できるものか。いつだって生徒を許す―――いつだって、何か成果をあげないと許されなかった。誹謗中傷を受けても無条件で守ってくれる人がどれだけいただろうか、何かを成し遂げなければ認められないと、そうやって焦燥に駆り立てられて大事なものが手のひらの上から砂のようにこぼれ落ちていって。

 

「……っ、ヘルガ先生。」

 

「覚えておきなさい。千年後がどうだか知らないけどね、今は断言できるわ。ホグワーツではね、教員は、何があったって、いつだって生徒の絶対的な守護者で味方なのよ。」

 

「……何が、あっても、ですか。」

 

「何があっても。ホグワーツでは、助けを求める者には必ずそれが与えられるのよ。どんな小さな悲鳴だって拾ってみせるわ。それが、この学校を作った私たちの矜持。」

 

ああ、この、千年前の世界は何と素晴らしいのだろうか。ダンブルドアが言ったそれよりも、さらに透き通って澄みきった言葉だった。少しでも苦しいという生徒がいたら、この時代の教員たちはすぐに手を差し伸べて寄り添って矢面に立ってくれる。生徒というだけで、無条件の庇護が与えられる。嘘も偽りも誇張もない。それが真実で、温かい手はすぐそこにある。

 

それこそが本来ホグワーツがあるべき姿なのだ。

 

本当は守ってほしかった。命を犠牲にした守り方ではなくて、寄り添いながら守ってほしかった。身を挺して庇うのではなくて、一緒にいてほしかった。そんな我儘を言うことは許されないと思っていたけれど、ここでは、子どものような駄々が当たり前のように許される。口にするくらい何の罪もないのだから、許す許さない以前の問題だから。

 

彼女のような先生が―――いや、この時代を生きるような先生が、ひとりでも千年後のホグワーツにいたのなら。どんなに小さな悲鳴でも拾える先生が、ひとりでもいたのなら、千年後の世界はきっともっと優しかった。

 

無条件の庇護を与えてくれて無条件に信頼できる先生がひとりでもいたら、シリウスを失うことなんてなかっただろう。あの時自分たちだけで行こうと無茶することもなかっただろう。バジリスクを倒した時だってそうだ、本当に信頼できる先生がいたら報告しに行っただろう。ホグワーツでは助けを求める者には常にそれが与えられる、その言葉は千年の時を経てどれほど廃れてしまったものか。

 

最後に声をあげて泣いたのがいつだったか、もう思い出せそうにもなかった。

 

******

 

「……見苦しいところをお見せしました。」

 

ハリーは顔を赤らめてふいっとヘルガから顔を背けた。いい年して教員の前で泣いて、恥ずかしいことこの上ない。

 

「恥ずかしがることはないわよ。泣いてくれて嬉しかったもの。」

 

「……嬉しかったんですか。」

 

「もう私の息子たちは甘えてくれないし。サラだって昔は甘えてくれたのに最近可愛げなくなってきたし。」

 

どこか拗ねたように言うヘルガにハリーはくすりと笑った。彼女はこの学校の母親なのだ。ハッフルパフの包み込むような優しさが身にしみて、そして自分に巻き込まれたせいで未来を奪われた優しすぎる青年を思い出して泣きそうになる。

 

「僕は母親を知らないんです。……蘇りの石で会いましたけど、それだけです。」

 

「……蘇りの石。」

 

「ご存知ですか? 」

 

「ええ、今ペベレルの子が在学しているの。ニワトコの杖、蘇りの石、透明マント。『死』というのは次の大いなる冒険へ踏み出すことで、恐れるべきことではないという授業をする時に少し題材に使わせてもらっていてね。三年生の魔法史の授業の時にする話だからハリーは受けていないかしら。」

 

「『死』を恐れるべきではない、という授業ですか? 」

 

「ええ。間違っても分霊箱を作ったりすることがないようにね。あれ、失敗すると本当に悲惨だから。割と分霊箱作り流行っていたしねえ……。」

 

そういえばそんな話、同級生たちに聞いた気がする。ハリーは遠い目をした。分霊箱作りが流行る時代ってそれどうなんだろうか。

 

「我がホグワーツが輩出する生徒の中に闇の魔法使いが誕生しないことを願ってね、色々考えているのよ。生徒の卒業後も何かあればここに駆け込めるようにするとか。だからホグワーツは要塞に近いつくりになっているしね。」

 

「千年後にヘルガ先生たちみたいな先生がひとりでもいてくれれば何か違ったかもしれないのに。」

 

「ホグワーツが潰れていないならまだたてなおし様があるわ。正直、1000年も続くなんて思っていなかった。100年続けば御の字くらいかなって。……それで? 話がずれたわね。恋愛相談、だったわよね。恋というのは人それぞれのものだし、必ずしも一つとは限らないわ。サラザールの恋は一回きりで愛はすべて妻に捧げているし、ロウェナだって一途に夫だけを愛している。」

 

「ヘルガ先生は……どうだったんですか? 」

 

「私の恋は二回あったわ。ひとりはね、幼い頃からの婚約者だったけれど結婚する前に他の女性と駆け落ちしてね。ショックだったわ……私が結婚したのはね、その後、傷ついた心を癒して一緒に歩こうと手を差し伸べてくれた人。色んな恋の形も愛の形もあるし、ゴドリックなんて一目惚れですべてを決めたの。」

 

「ヘルガ先生を捨てて駆け落ちする人なんているんですか。」

 

こんなに穏やかで優しくて強い女性を誰が捨てるというのか。誰が見てもいい女だろう。ハリーはその婚約者とやらが信じられなかった。

 

「あらありがとう。ハリーは優しいのね。……まあ、駆け落ち先で相手の女性にも愛想尽かされたみたいだけど。」

 

「……。」

 

ハリーは沈黙した。ジニーを捨ててアリアドネと付き合ったりしたら彼女にも捨てられるんじゃないだろうか。

 

「脅しているわけじゃないわよ? 」

 

「……悩んで悩んで悩みとおします。」

 

「ええ、それがいいわ。」

 

ふわふわと頭を撫でられながらハリーは遠い目をする。今日のことは黒歴史になりそうだった。

 

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