崖から落ちたら千年前 作:優鶴
次にハリーが目覚めたのは、ホグワーツの医務室でだった。
「目覚めましたか、ポッター。」
「……マクゴナガル先生。」
その言葉を口に乗せた瞬間、ハリーは絶望した。穏やかで優しい世界はない。英雄のレッテルが貼られるこの世界に、戻ってきてしまったのだ。ああ、憂鬱だ。別にこの世界に戻りたくなかったわけではない。でも、千年前の寮の確執がなくて英雄のレッテルを貼られることもない、未来のことだって無理に聞かれることのないホグワーツだって大好きなのだ。何の心の準備もできずに戻されるなんて考えられなかった。
しかしあの崖には何か特殊な仕掛けがあるのだろうか―――そう思った瞬間、ハリーは立ち上がっていた。ハリーにはわりと思い立ったら即行動なところがある。脊髄反射的な行動にマダム・ポンフリーが声をかけてきた。
「ポッター、まだ安静にしていなさ……。」
「大丈夫ですマダム・ポンフリー。」
「何をしに行くのです、ポッター。」
マクゴナガル先生が険しい目を向けてきた。
「……そんな格好で。」
確かに入院着だった。間抜けかな、と思ってハリーは幻術で適当に服がそれっぽく見えるようにした。いつの間にそんな術を、と目を瞠ったマクゴナガル先生に簡潔に答える。
「ちょっと崖から落ちてきます。」
マダム・ポンフリーとマクゴナガル先生が目をむいたのがわかった。
「「……は? 」」
綺麗に揃った女性陣の声を無視して、ハリーは医務室を出ていった。
******
結論。崖から落ちても何も起こらなかった。
「……マクゴナガル先生、校長室に行っても良いですか。」
「……ええ、良いですけど。崖から落ちるという奇行は一体どうしたのですか。」
まったくもってマクゴナガル先生はまともな感性をしている。
「崖から落ちた先に望む世界があるかもしれないと思っただけですよ。」
嘘は言っていない。ぼやかしまくった答えにマクゴナガル先生は眉を寄せたが、瞳から光が消えているハリーに何も言えなかったようだ。素直に校長室まで案内してくれたのは感謝しかない。
ハリーは校長室に置かれている組み分け帽子を手に取った。グリフィンドールの剣以外にも、何か出てくるだろうか。中に手を突っ込んだら、四つ出てきた。ハリーは創設者四人全員に認められたらしい。剣と鞭と弓と槍に後ろのマクゴナガル先生が呆然としていたし、歴代校長の肖像画たちも喋り出した。みんないるのに、一番最後の肖像画だけが空っぽなままだ。寂しい気分になりつつも、ハリーは組み分け帽子から出てきた四つの武器を眺めた。
「ポッター、それは。」
「……グリフィンドールの剣、スリザリンの鞭、レイブンクローの弓、ハッフルパフの槍です。」
ハリーは端的に答えた。必要な時に現れる。クリステアは結局、剣を取り出せたのだろうか。リアは、アリアドネはどうしているのだろう。必死に手を伸ばす彼女の青色の瞳が思い浮かんだ。目は口ほどにものを語る、なんて言葉があるらしい。あの瞳は、脳裏に焼き付いている。
「マクゴナガル先生、“ホグワーツでは助けを求める者にはいつでもそれが与えられる”って言葉を知っていますか。」
マクゴナガル先生が眉を上げて、ダンブルドアの肖像画を見た。
「アルバス、あなたがポッターにそう言ったのですか? 」
「おお、ミネルバ。そうじゃよ、あれはいつだったかな……。」
ハリーは四つの武器を見て、触った。
「……ホグワーツは、生徒のどんな小さな悲鳴でも拾える学校になってほしいです。」
「……今は違うというのですか? 」
マクゴナガル先生の眉間にしわができる。ハリーは肯定することも否定することもなく、ぼんやりと武器を見た。千年前に繋がるものを見つけたけれど、ここは千年前ではない。どんな小さな悲鳴だって拾ってみせると笑ったヘルガも、不器用なスリザリンとレイブンクローの親子も、澄んだ青色の瞳にハリーを映してくれたアリアドネもいない。グリフィンドールの剣を取り出したいと言うクリステアも、気を遣ってくれたトルニアンも、ウィーズリーと同じ髪色を持っていたセプティマも。過去を笑い飛ばせる強さを持っていたリーベラも、顔を赤くしてロリコンじゃない叫ぶアルドールも、しごき倒してくれたセレナも、いつだって柔らかく笑っていたクレマチスも。
「……失礼しました。そろそろ、帰ることにします。」
それだけ言って、ハリーは困惑するマクゴナガル先生を残して家に帰った。
どうしろと言うのだろう。グリモールド・プレイス十二番地に帰ったハリーは自室のソファに座ってぼんやりとした。クリーチャーが出迎えてくれたが、それにもおざなりに返してしまったような気がする。この状況を信じたくなかった。
ハリーがもといた世界はこちらのはずなのに、あちらにいたのが異常だったはずなのに、こちらにいれば正常なはずなのに、胸に空いた穴はあまりに大きすぎる。温かい千年前の世界がハリーにとってどれだけ大きい影響を与えたのか思い知らされるようだった。
「クリーチャー。」
「はい、ハリー坊ちゃま。」
坊ちゃまじゃない、と言ってもきっとクリーチャーは坊ちゃまと言うのだろう。ハリーが結婚したりしない限り。そして、ハリーの心はもうアリアドネにとらわれてしまった。きっと、この世界で、ハリーはパートナーを見つけることがない。ごめん、ジニー――心の中で呟いた。会う約束をしていたが、それはハリーが別れを告げる時だ。身勝手に他の女性に心惹かれてしまったから。
それは単純に相性の問題と言いきれるわけではない。ハリーがジニーから別れを切り出されることを恐れてゴシップ誌の取材を受けないでと強く言えなかったこともあるし、つまり、ハリーとジニーの間には話し合いが足りなかった。戦時中は確かに彼女との恋に助けられたこともあったし、本気で恋焦がれたこともあったし。ただ、それが、過去のものになったのだ。ジニーが悪いとかハリーが悪いとか言い切れる問題ではない。それは、自分に対する都合の良い言い訳でしかないのだろうが。
「……クリーチャーは、恋って何だと思う? 」
「恋、でござますか? 」
「……うん。」
「申し訳ございません、ハリー坊ちゃま。クリーチャーめに、恋というものはよくわからないのでございます。」
ハウスエルフに聞いたのはやはりおかしかったか。ハリーは緩く首を振った。
「いいんだよ、クリーチャー。ありがとう。もう下がって大丈夫。」
恋だの愛だの、人それぞれの形があるとヘルガに言われた。ハリーにとってのそれは、何だろうか。
******
ジニーと会う約束をしていたのは、隠れ穴でだった。どうしてそこで会うことにしたのだっけ、と考えてからハリーは理由を思い出して頭が痛くなった。ジニーの両親に―――ウィーズリーおじさんとウィーズリーおばさんに結婚の話をしに行こう、とかいう話ではなかったか。何と言って断ればいいのだ。僕では彼女を幸せにできません、と。そういえばいいのか。だって、ハリーはジニーを愛せない。アリアドネの方に心の天秤が傾いたハリーと結婚しても、ジニーが幸せになれるはずがない。だって、ハリーはアリアドネを選んでしまった。
隠れ穴に向かうのは憂鬱だったが、ここで別れを告げないでだらだら引き延ばしにする方がジニーに悪い。彼女は美人だし、学生時代は彼氏をとっかえひっかえしていたこともあったし、ハリーと別れてもすぐに新しい人を見つけられるだろうから。
「ハアイ、ハリー! 久しぶり! 」
隠れ穴に向かって、久々に会うハリーに抱きついてきたジニーを受け止める。
「……ジニー。ごめん、ちょっと話があるんだけど、良いかな? 」
「話? 」
ごめん、という言葉で彼女は察してしまったようだった。表情が険しくなる。
「……別れよう。僕じゃ君を幸せにできない。」
久々に会って早々切り出すのはいただけないかもしれないと思ったが、変に希望を持たせてしまうのも悪い。ハリーが告げた言葉にジニーは眉を下げた。
「……どうして? 」
「僕じゃ君を幸せにすることができないんだ。」
「誰か他に好きな人でもできたの? 」
これにはどう答えるべきか。誰、と言われても答えられないけれど、嘘は吐きたくない。
「……うん。」
そこからは、阿鼻叫喚だった。ジニーが浮気よと叫んでモリーが出張ってきて、誰なのと聞かれてももう会えない人だと言えばこのままその人と駆け落ちする気だと騒がれ。会えないし駆け落ちもしないしそもそも付き合ってすらいないし、他に好きな人がいる状態でジニーと付き合うのはあまりに不誠実が過ぎるからという理由で別れを切り出したのだと言っても、聞く耳を持たれず。ハリーは閉口した。ハリーだって悪いが、ここまで聞く耳を持たれないとジニーという恋人がいながらアリアドネに惹かれた自分の罪悪感が薄れていくではないか。勘弁してくれ。自分に都合のいい男にはなりたくない。
「元気にしてるか、……ってどうしたんだよ。」
ジョージがロンを連れて隠れ穴に来たのは、ちょうどジニーとモリーにハリーが責めたてられているところだった。
「ハリーが浮気していたのよ! 」
ヒステリックな声で叫んだジニーにジョージが眉を寄せた。
「は? ハリーが浮気……。」
「最低だぞ、ハリー! 」
ジョージの言葉を遮るようにロンが叫ぶ。ハリーは反論できなかった。最低なのはわかっている。
責める人数が三人になった。確かに最低なのだが。付き合っている女性がいながら他の女性に惹かれるなんて確かに最低だとわかっているのだが。
「断じて、彼女と付き合っているわけじゃない。ふたりの女性と同時に付き合うなんて不誠実なことできるはずない! 僕はジニーに対して誠実でいたいと……。」
「だったらジニーを選べばいいじゃないか! 」
埒が明かなかった。もう会えない人なのだといえば、さっさと諦めてジニーとこのまま付き合えばいいと。それが不誠実だから別れたいと言えば、ジニーがそんなに気に入らないかと詰め寄られる始末。確かにジニーの側からすれば恋人が会わないうちに勝手に知らない人を好きになって別れを切り出されるなんて、もうこれは完全に被害者といっていい。最悪な男である。
「……慰謝料を払います! 」
「金で解決しようっていうのか?! 」
もうどうすればいいんだ。詰んだ。ハリーは頭を抱えた。これ以上何を言えばいいと言うのだ。わかっている、自分が悪いのはわかっている。わかってはいるが、何もここまで責められなくとも……。
しかし結局ウィーズリー家族会議ということでここにはいない兄たち三人を呼び寄せるということになり、ハリーはいよいよ遠い目をしたのだった。謝るし欲しいなら慰謝料払うしゴシップ誌に心ない記事が出たら全部潰すから別れてくれませんか。
そんなことがありつつも、疲れきっているハリーに同情したウィーズリーの兄たちの説得によってジニーと円満に別れることができたのは数日後だった。