崖から落ちたら千年前   作:優鶴

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拾肆

ジニーと別れてからというもの、ハリーは闇祓いの仕事に打ち込んだ。千年前で鍛え上げた実力を隠すことなく、杖なし無言呪文を自由自在に操り物理攻撃も容赦なく行う戦闘スタイルはすぐに死喰い人の残党に恐れられることになった。飛び抜けた実力に局長は本来は三年必要なはずの訓練期間を二年に縮め、ハリーを正式な闇祓いとして採用した。

死喰い人の残党狩りはずば抜けた戦闘能力を持つハリーによって捗り、“英雄”の奮闘を日刊予言者新聞もそこらのゴシップ誌も書きたてる。そうして、彼は、感情を失っていった。表情からは生の感情が削ぎ落とされ、すべてが飾りの表情になった。表情という仮面の下に、ハリーは失った感情を隠した。

ハリーはほとんど有給休暇を消費していなかった。いくらホグワーツで崖から落ちてみようともあの時代には戻れず、すべてを諦め生きる気力をなくしたハリーには打ちこむものが必要だったのだ。ハリーが闇祓い局長に就任する頃にはジニーも別の男性と結婚していた。

ハリーの学生時代からの親友であるハーマイオニー・グレンジャーは仕事だけに打ち込むハリーを心配して何度もその元をたずねていたが、はぐらかされるばかりで苛々していた。彼女はハリー達より一年遅れてホグワーツを卒業したが、魔法省で順調に出世街道を歩んでいる。魔法大臣も目前だろうというところだ。

そんな彼女が結婚の届け出をするために魔法省を訪れたドラコ・マルフォイと遭遇したのは、作為でも何でもなく、まったくの偶然であった。

「あら、マルフォイじゃない。」

「……グレンジャー。」

先に声をかけたのはハーマイオニーだったが、ドラコの方も眉は上げたものの特段嫌そうな顔をすることもなく応じた。そこでハーマイオニーは思い出した。彼が癒者であることを。魔法省の役人として何度か聖マンゴを訪れ、同期だからとドラコが対応することもそれなりにあったため、ふたりの仲は学生時代ほど悪くない。会えば軽く挨拶くらいは交わす仲、といえば学生時代のふたりを知る者は劇的な進歩に眼を瞠ることだろう。ハーマイオニーがドラコを頼ることを思いついたのは、そんな変化した関係性も理由にあった。

「……マルフォイ、癒者だったわよね。」

「そうだが? 今さらそれがどうしたと言う。」

「ハリーを診てくれないかしら。」

「ポッターを? 」

「……3年前、ジニーと別れてから、仕事にのめり込んで。心配しているっていっても聞いてくれないの。ロンはジニーと別れる時にハリーに対して色々言ったから会いづらいみたいだし……。感情が、ないの。全部作られた感じがするの。」

「それでどうして僕が診るという話に……。」

「私やロンじゃ近すぎるわ。かといって、他の癒者じゃあハリーは話せないと思うの。」

「僕である必要はないだろう。」

「マルフォイはスネイプ先生でさえ拒める閉心術を身につけているでしょ。何かハリーに打ち明けられても秘密は守れるって信じているの。それに今、マルフォイは独立して開業医だし外に秘密が漏れる危険性も聖マンゴより少ないでしょう。それだけよ。カウンセラーをして。」

「……成果が出るかは約束しないぞ? 」

「十分よ。」

こうして、本人の知らぬところで診療予定が組まれていったのである。

 

******

 

「ハリー。明日の昼、カウンセラーに行くわよ。」

「え? どうして……。」

「もうはぐらかされるのも我慢の限界なの! 3年前からほとんど休んでないでしょう! 一回カウンセラーくらい受けてきなさい! 」

闇祓い局に朝一番に乗り込んできて叫んだハーマイオニーに副局長が力強く頷いた。

「グレンジャーさん、ぜひ局長を連れていってください。」

部下にも逃げ道を断たれたハリーは書類処理の手を止め、溜息を吐いた。

「……わかったよ。」

溜息だって演技だ。本当は何とも思っていない。誰かから与えられたものをこなすのは、それだけに集中していられるから良い。心から吐く溜息なんてものは、とうの昔に失っていた。

 

******

 

「……マルフォイ? 」

「グレンジャーから依頼されたんだ。」

連れて行かれた病院で出迎えた癒者の名をハリーは無感動に呟き、問うように友人の名を呼んだ。

「……ハーマイオニー。」

「“秘密厳守”なら適していると思ったのよ。マルフォイの閉心術は鉄壁でしょう? 」

反論する気力もなく、ハリーは軽く頷いた。

「じゃあ、マルフォイ、頼む。」

「あ、ああ……? 」

あっさりと受け入れたハリーにもっと何か反応を見せるかと思っていたドラコは驚いたが、ハリーを迎え入れた。

 

******

 

「……3年間で有給休暇消費ゼロ?! 」

ドラコはまず、序盤の質問で盛大に驚いた。ここ3年間で有給休暇は消費ゼロらしい。あり得ないだろうそれ。

「……休みたくないんだ。何かに夢中になっていたくて。」

休めば、ハリーは何もしなくなる。何もしなくなって、そして、朽ちるだろう。それくらい気力がないから、誰かに必要とされて毎日出勤するくらいがちょうどよかった。

マルフォイに対して本音を言ったことに、実のところハリー自身だってだいぶ驚いていた。

「何か理由はあるのか? 」

「僕が愛している人は、もう手が届かない場所にいる。ただそれだけだよ。」

闇祓いとしての固い口調ではない。ハリーは頬杖をついてそっぽを向いた。その瞳はいっそ見事なまでに無感動で、感情の揺れ動きなど診られなかった。

「……ジネブラ・ウィーズリーと別れたことに何か関係があるのか? 」

眉を寄せて問うたドラコにハリーは淡々と答える。ただ、事象を述べるだけ。そこに感情は必要なかった。愛しているなんて感情を、今持っているのかさえハリーにはわからないけれど。

「今、僕が愛しているのはジニーじゃない。だいたい彼女は手の届く場所にいた。」

過去形だ。ますますドラコの眉間に皺が増えたところで、こんこんと部屋がノックされた。

「リア? 」

何とドアのノックの仕方だけでわかったらしい。愛妻家だなあとハリーはぼんやり思った。リアというのはアストリアの愛称だろう。その愛称にアリアドネのことを思い出して溜息を吐く。つきりと胸が痛んだ。彼女を想う時だけは、感情がほんの少しだけ戻ってくるように思える。でも、そこまで感情の揺れは大きくない。ハリーの心に吹く風はすぐにやんでしまった。

そんな風に心が凪いでいられたのも、扉が開くまでだった。

「……っ! 」

青い瞳。空の色の瞳。優しくて穏やかな瞳。手の届くことのないブルーアイズが目の前に現れたような気がして、ハリーは息を呑んだ。

リア―――彼女と、アリアドネと同じ愛称を持つ女性。ふんわりとした金茶の髪ではなくさらりと流れる黒髪であるものの、その青い瞳はアリアドネに瓜二つで。そして、完全に同じではなかった。その瞳が映していたのは、ドラコだったのだから。

強烈な、恋とも愛とも、哀しみとも歓びともわからぬ感情が戻ってきた。心にこんなに大きな風が吹くのは、一体いつぶりだろう。

「ポッター? 」

ドラコの怪訝そうな問いかけもハリーには届いていなかった。

「……リア……。」

消え入りそうな声で紡がれた言葉にドラコは首を傾げた。

「リア―――アストリア、ポッターと会ったことがあったか? 」

「いいえ、今が初対面のはずですが……。」

ドラコの表情がますます怪訝そうなものになった。

「……どうしたんだ、ポッター。」

「……彼女の旧姓って、グリーングラスだったよね。」

意味のわからない問いかけにドラコは頷く。

ハリーにはそれだけで十分だった。アリアドネのファミリーネームはグリーングラスだ。髪の色は違う。顔立ちもそこまで似ているわけじゃないけれど、その青色の瞳が何よりも彼女と似ていた。似ているだけで、同じではない。でも、そのブルーアイズはあまりにも酷似していて。

―――私を見てくれ。

死に際に恩師が言った言葉が頭をよぎり、そしてそれがストンと胸に落ちた。彼の想いが少しでもわかったような気がした。想い人がいない世界で死ぬのだとして、彼女とよく似た瞳に看取ってもらえれば―――。

「ポッター? ……おい、ポッター? 」

ドラコの呼び声も耳に入ってこない。ああ、とハリーは青色の瞳を見詰めた。その瞳に映るのは、その瞳が求めているのは、ドラコだから、酷似していて、それでいて違うのだけど。

このブルーアイズは、あまりにも心をかき乱す。頬をしずくが伝ったような気がした。

 

******

 

そんな、優しくて穏やかで、自分以外の人を見つめる彼女とよく似たブルーアイズを見た翌日のことだった。

「アバダ・ケダブラ! 」

油断していたのだ。空の色をした瞳がずっと頭にあって、惑わされていて、そんな状態で現場に出るべきではなかった。

緑の閃光に貫かれるのは、三回目。記憶にあるのでは、二回目。特段恐怖を感じることもなかった。

「局長! 」

「プロテゴ! 」

「プロテゴ・マキシマ! 」

緑の閃光を放った本人すらも戸惑ったような顔をしていた。

「嘘だろ、当たるなんて……。」

そんな呟きが聞こえた。きっと、ハリーならば―――最強の闇祓い局長なら、これくらい避けると思っていたのだろう。死の呪文はそんな軽い気持ちで扱っていいものではないよ、とハリーはぼんやりと思った。

ただ、部下たちがプロテゴを張ったり名前を呼んだりして心配してくれているのがわかった。それに嬉しいとも思えぬほど、心が死んでいた。アリアドネのいない世界で、どんな悲鳴でも拾ってみせてくれる先生たちのいない世界で、名前は、と聞いてくれた同級生たちのいない世界で生きるには、ハリーの心はあまりにも弱すぎた。過ごした時間はロンとハーマイオニーの方が多いのに、彼らですら心に空いた大きな空白を埋めることができなくて。

死ぬ前に走馬灯が走るというのは本当らしい。思い浮かぶのは千年前のホグワーツの出来事ばかりだ。サラザール先生、ヘルガ先生、ロウェナ先生、ゴドリック先生。アリアドネ、アルドール、リーベラ、セレナ、トルニアン、クレマチス、クリステア、セプティマ。アルドールとヘレナは結局どうなったのだろう。歴史は修正できなくて、アルがヘレナちゃんを殺してしまうなんて嫌で嫌でたまらない。そんなことが頭をよぎる。

アリアドネの空の色の瞳が、ブルーアイズが鮮明に浮かぶ。口だけで言ったI love youは彼女に届いたのか。胸の奥で燻る想いを向ける相手は、アリアドネは、もう手が届かなくて。

「局長、何してるんですか! 避けてくださいよ! 」

死は、眠りに落ちるより素早く、簡単だ――一度死の呪文を受けたから知っている、死の呪文は苦しみを伴わない。すべてがスローモーションだった。

入り乱れる声をぼんやりと聞く。無責任に死ぬ局長を部下たちは恨むだろうか、恨まれてもいい。だって、アリアドネと想いが通じ合った瞬間に戻されてから、千年前は自分の居場所ではないという宣告を受けてから、ハリーは仕事に忙殺されることですべての感情を封印していたのだから。

マルフォイと会う場所をもうけて、結果的にアストリアと会う機会を作ってくれたハーマイオニーには感謝するべきなのだろうか。あのブルーアイズは、感情という感情をすべて、耐え切れないほどの想いをハリーに思い出させた。

緑の閃光が胸を貫いた。苦しくはなかった。あの時と同じようにすべてが消える瞬間、ハリーは一つだけ祈った。

アリアドネと、会いたい―――ただ、それだけの、切なる願いを。

 

*******

 

―――寒い。ハリーはそう思って目を開けた。死というものは寒いものだっただろうか。いや断じて違う、寒いものなどではなかった。緑の閃光を受けたらすぐに死ぬのだから寒くなりようがない。

次に、ハリーは自分が寝転がっていることに気づいて身じろぎした。そして気づいた。手が、小さい。どうやらバスケットに入れられて寒空の下に放置されているようだった。この状況、身に覚えがある。ありすぎる。ハリーの心は折れた。

ダーズリー家の前だろう。ということは、つまり、アリアドネには会えない所謂逆行であるということをすぐに察して受け止めたハリーは絶望した。アリアドネに会いたいと願って死んだのに、この仕打ちはない。まさかあの英雄業をもう一度やれというのか?

英雄業なんてまっぴらごめんだ。千年前の世界で身につけた技術があれば分霊箱を回収して復活したヴォルデモートに殺されることくらいお茶の子さいさいだろうが、いくら実力があろうとも気力がないのではそんなことができるはずもない。

ハリーは深い絶望のふちに立たされていた。千年前の世界で、ハリーは満たされていた。この世界に、きっと本来ハリーがいるべき世界にいれば胸に空いた穴はふさがることなく、千年前の世界に焦がれ続けることになる。絶望以外の何物でもなかった。

戦争で疲れたハリーを受け入れてたくさんの愛情と友情と色んな感情を与えて教えて慈しんでくれた、創設者たちの、一期生たちの、彼らのホグワーツが大好きだ。

英雄ハリー・ポッターとして逆行するなんて、千年前の世界にハリーの居場所はないと言われているようだ。名前を聞いてくれたのに、レッテルを貼らないでいてくれたのに、あそこはハリーの居場所ではないとつきつけられているようだった。

ハリーはその日から最大の閉心術を用いてすべての感情を胸の奥にしまって、生きることを放棄した。

 

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