崖から落ちたら千年前   作:優鶴

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ハリー・ポッターと賢者の石


ダーズリー家には、ふたりの子どもがいる。

ダドリー・ダーズリーとハリー・ポッター。子どものうちひとりはファミリーネームが違うが、そんなことが気にならないほど、家族は親密だった。より正確に言えば、ダーズリーの名を持つ三人は、ひとりだけポッターの名を持つ子どもをこの上なく大事にしていた。

事の発端は、子どもたちが1歳の時のハロウィーン。ハリー・ポッターはもともとこの家の住人ではなかった、という話だ。ハリー・ポッターは玄関に置き去りにされていた。アルバス・ダンブルドアからの手紙と共に。ペチュニア・ダーズリーは最初、ハリーを憎んだ。憎みながら愛し、愛しながら憎んだ。しかし、すぐにそうも言っていられないことになった。

幼子は、生きようとしなかったのだ。幼子がするとは思えぬほど澱んだ瞳で、生きる気力というものを持っていなかった。食べ物を口にしようとしなかったし、外で遊ぼうともしなかった。あまり、寝ようともしなかった。大人しい子、で片づけるにはあまりにも異様すぎたのだ。喋らなかった。口を開かない子だった。でも、寝れば夢にうなされて、寝言は呟く。声を失っていない寝言を確認するたび、安堵と共に不安におそわれるしかないのだ。

ハリーを死なせるわけにはいかなかった。そうなれば、三人がかりでハリーが死なないようにしなければならなかった。ダーズリーの三人は、それに気づいてからというもの、一度たりともハリーに厳しい言葉をかけていない。愛している、大好き、かわいい坊や、そんな優しい言葉ばかり投げかけてハリーを慈しんできた。それでもハリーは生きる気力というものを得ることはなかったし、ダドリーはハリーが心配でいつも一緒にいた。プライマリースクールに行ってダドリーがハリーから離れないことをからかわれることはあったが、そのうちの大半は、ハリーの異様なほどの生きる意志のなさにダドリーが付きっきりになっていることに納得した。その中のいくらかは、ダドリーに協力して、学校にいる間はハリーの世話を焼いてくれた。

そんなわけで、ハリー・ポッターという存在は、保護者の間でもそれなりに有名だった。何度もカウンセリングに連れていったのに一向に生きようとしないのだと。そのくせ、テストはいつも満点を取っている。プライマリースクールの先生たちも困惑した。何度も保護者面談を行っても、保護者に問題は見られなかった。むしろ、保護者だって困っていて、どうしたら生きようとしてくれるのかあらゆる手を尽くしているのだから、先生たちだって協力せざるを得なかった。ダドリーとハリーが違うクラスになることも、隣の席でなくなることもなかった。それは、ダドリーがいないとハリーが今にも死んでしまいそうだったからだった。

それでもなお、生きる気力を得ない少年。それが、プリペット通り四番地に住むハリー・ポッターという少年だった。

そんな彼のもとに、一通の手紙が届いた。ホグワーツからの入学許可証。ハリーを育てた十年間で、彼を周りに過剰なほどに気にする人間がいなければ死にそうなことをわかっていたペチュニアはその手紙を無視した。手紙はあらゆる手段を使って届けられた。ただでさえ生きる気力のなかったハリーは手紙が届くたびにさらに生きる気力をなくしていったので、三人は手紙を絶対にハリーの目に触れないところで処分しなければならなかった。

ダドリーは今まで通り四六時中ハリーに張り付いているし、ペチュニアとバーノンは手紙が来たら大急ぎで処分する。プリペット通り四番地は大忙しだった。

「日曜は郵便が休みだ。ハリー、何も心配することはないぞ。」

バーノンがハリーの頭を撫でた。ダドリーが横からぎゅうっと抱きしめた。ペチュニアも優しく微笑んでハリーの頬にキスをする。

ハリーはそれをぼんやりと見つめた。中身は既に成人している子どもが生きる気力をなくしているのは、千年前の世界ではないからだ。こんなに大切にしてくれるダーズリー家に対してさえ応えられないのは、感情を胸の奥に閉じ込めて心が死んでしまっているから。バーノンの言葉に、ハリーは頭に置かれた彼の手の下でゆっくりと首を振った。魔力発現がなかったからといって、ホグワーツからは逃れられない。英雄業をやる気なんてない。いっそ、四階の廊下に入って死んでやろうか―――そんな思考がハリーの頭をよぎった。

「ハリー、どこが具合が悪いのか? 今日はいまいましい手紙なんぞ―――。」

そう言い終わらないうちに手紙が降ってくる。ダドリーがハリーを抱えて部屋から飛び出した。

そこからは、ハリーの忌々しい記憶と変わらなかった。町はずれのホテルに泊まってもハリー・ポッター様の手紙は来る。やがて、あのオンボロ小屋についた。違うのは、ダーズリーの三人がやたらとハリーの様子を気にして、頭を撫でたり抱きしめたりキスをしたり食べ物を食べさせたり飲み物を飲ませたりしてくるくらい。ああ、ハグリッドが来るのだろうな、とハリーは思って、そうして、いつもの憂鬱な気分はさらに憂鬱になった。ああ、最悪だ。

予想通り、ハグリッドは来た。ハリーが一言も発さなかったから、ダーズリー家へのハグリッドの態度は以前よりもずっと酷いものになった。虚ろな瞳をしたハリーはダーズリーが虐待したせいだと決めつけた。思い込みが強くて、話を聞かない。感情を心の奥に封じ込めていたハリーは動くこともせず眠れないのに毛布にくるまって始終過ごしていた。何も反応を返さないハリーの手をひいてハグリッドがダイアゴン横丁に来るまでは。

「はいはい、もう自慢話は良いわよ。」

マダム・マルキンの洋装店に入った時、一瞬、幻聴かと思った。顔をあげて奥を見やればふわふわの金茶の髪が踊っていた。

柔らかい金茶の髪はハリーが焦がれてやまなかったもので、でも、その瞳は本当に青色? それを確かめるのが怖くてハリーは立ちすくんだ。怖いという感情を覚えることすら久しぶりで、金茶という髪色がハリーにどれほど影響を与えているのか如実にうかがい知ることができる。

ふと、少女が振り向いた。それに従ってふわりと金茶の髪もなびく。青色の瞳がハリーの方を向いた。グリーンアイズとブルーアイズが交わった。

―――ハリー、と。その唇がわなないて声なくそう紡がれたのを、ハリーは確かに見た。

人は、声から先に忘れるのだという。だというのに、ハリー、と。己の名を呼ぶ声がしたのだ。

「……リア。」

いつぶりに、自分の意志で出した声だったのだろう。焦がれた青い瞳が細められ、その表情がくしゃりと歪んだ。

「覚えているの? ……ハリー。」

その言葉ですべてが確定した。色彩のなかった世界が色を取り戻した。封じ込めていた感情が爆発するのがわかる。少し震えた声も、潤んだその美しい空色も、何もかもが愛おしくてたまらない。

「アリアドネ? どうしたんだ? 」

しかし、運命に引き寄せられ、再会を果たしたふたりに水を差す空気の読めないお坊ちゃんがいた。ハリーはマダム・マルキンがマルフォイを残念なものを見る目で見たのをしっかり目撃してしまった。それにぎこちなく笑う。長らく使っていなかった表情筋は強張っていたが、笑ったのはきちんとわかっただろうか。

アリアドネが傍に寄ったマダム・マルキンに何か話してから踏み台から降りてきて、一目散にハリーの場所へと駆けてきた。そんなに離れていなかったのに、彼女が来るまでが酷く長く感じられた。

「っ、ハリー! 」

勢いよく抱きつかれ、体力のないハリーはよろめいた。それが悔しいと感じるのは、確かに感情を取り戻しているからで。

「リア、……アリアドネ、どうして。」

そこから先は言葉にならなかった。生きる気力をなくしていたハリーと違って気丈に生きてきたらしい彼女はハリーよりもずっと背が高いのに、あの時と同じように5歳も離れた女の子を見ているようにさえ思える。それほど、ブルーアイズは幼く見えた。

「ねえ、ハリー、ハリーなのよね? あの後、どうなったの。」

「……戻ったんだ。」

二重の意味が込められた言葉だったが、アリアドネは深く追求しなかった。ただ、会いたかった、と吐息と共に言葉が紡がれるのが聞こえた。

「……リア。」

小さな身体で精一杯アリアドネを抱きしめる。ちゃんと栄養をとって、彼女をこの腕に抱けるようにしなければならない。

どれほどそうしていたのだろうか。一分にも、一時間にも感じられた。もう一度彼女に会えた。アリアドネがいる。それだけですべてが色を取り戻しているのだ。リアは、もう、手の届くところにいる。

「ねえ、ハリー。」

「うん、リア。」

「漏れ鍋の部屋に予約をとっておくことにするわ。アリアドネ・グリーングラスの名前で。ハリーはハリー・ポッターの名前で良い? 」

「じゃあハリー・ダーズリーの名前にしておいてよ。ポッターだと面倒だし。額の傷があるとわかっちゃうじゃん? 」

アリアドネに会って感情を取り戻して、不思議なほどにすらすらと言葉が出てきた。嬉しそうに青い瞳を細めてアリアドネが頷く。

「ええ、もちろん。……漏れ鍋の部屋で、会う、で良い? 」

「もちろん。」

ほっとしたように微笑み、アリアドネは身体を離した。

「またあとでね、ハリー。」

「うん。またあとで、リア。」

ふと見ると、マルフォイはもう採寸台の上にはいなかった。

軽やかに手を振り、マダム・マルキンの洋装店から出ていったアリアドネを見送る。ハリーの心は彼女のことでいっぱいだった。

絶望しかないと思っていたこの世界に、彼女がいる。そう思うだけで余裕が出てきた。

「坊ちゃん、ご機嫌ですね。さっきの子は彼女? 」

にこにこと聞いてくる魔女の視線は微笑ましい。先ほどの場面を目撃され、英雄ハリー・ポッターを見るようなものではなくてただのひとりの新入生を見る目に変わったのはハリーにとっては喜ばしい変化だった。

「秘密です。」

そう言って小さく笑うハリーに、幼子の小さな秘密だと受け取ったらしい魔女はくすりと笑んだ。

「秘密なら仕方ないですね。」

約13年ぶりに、ハリーは心からの微笑みを浮かべたのだった。

 

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