崖から落ちたら千年前 作:優鶴
マダム・マルキンの洋装店から出てきた時、目に見えて機嫌の良いハリーにハグリッドは彼曰く“腐れマグル”のダーズリーのところから逃げ出せて嬉しいのだろうと都合のよい勘違いをしていたがそれを正す気にもなれず、ハリーはイーロップふくろう百貨店で再会したヘドウィグを撫でた。ふくろうを撫でる時は頭から背中へと撫でてやらねばならない。背中から頭へと撫でると威嚇されることだってあるのだ。
最後にオリバンダー老人のところで杖を吟味すれば終わりだ。
オリバンダー老人が両親の杖のことを話している中、ハリーは心の中で唱えた。
―――アクシオ、僕の杖。
杖なし無言呪文はセレナの特訓のおかげでお手の物である。箱から飛び出してハリーの手におさまった杖にオリバンダー老人は銀色の光る目をこれ以上ないのではないかというくらい、驚きに見開いた。
「おお、これは、これは……! 杖がひとりでに飛び出して持ち主の元に行くなど、初めて見た……! 」
いや、これアリアドネに早く会いたいあまり時間を省こうと思った末のやらせだけど。そんな言葉をハリーは喉の奥に飲みこんだ。手の中におさまった杖は、何だかんだでずっと一緒にいたのですぐに手に馴染む。杖は持ち主を憶えているようだった。
今生ではニワトコの杖でこれを修復するような羽目にならなければ良い。
良いものを見せてもらったからお代はいらない、というオリバンダー老人にそれでも七ガリオンを押しつけ、ハリーは店を出る。
漏れ鍋まで戻り、電車へと行こうとするハグリッドにハリーは首を振った。
「ここまででいいよ、ハグリッド。キングス・クロス駅から行くための切符をくれれば。」
「おお、そうか! 」
キングス・クロス駅への切符をもらいながら、ハリーはハグリッドが単純で良かった、と思った。なぜキングス・クロスから行くことを知っているのか、漏れ鍋から一人で帰れるのか、普通の大人なら当然心配するであろうことまで彼は頭が回らない。決して蔑んでいるわけではないのだが、前世、確かにハグリッドとは友達であったがドラゴンを始めアクロマンチュラまで散々な迷惑をかけられたハリーとしては、最後の決戦の時、ヴォルデモートの元に向かった時やめろと言ってくれたのだとしても、すべて合算すると印象的にはマイナスだった。いや、悪い人ではないのだ。ただ―――ちょっと、いささか、それなりに、割と、結構、他者への配慮に欠けるという致命的な欠点を覗いては……。(これでもハリーは貶していないつもりである)
まあいい、とハグリッドを見送ってちょちょいと指を振って紙をストレートのブロンドにしたハリーはバーテンのトムに声をかけた。
「ハリー・ダーズリーで予約とってると思うんだけど。」
「ああ、先客の嬢ちゃんは来ているよ。」
ストレートのブロンドはペチュニアとお揃いである。これ一回やってみたかったのだ。癖っ毛じゃないって何て快適。そんなことを思いながらハリーはバーテンのトムにからかわれながら部屋に入った。11歳とはいえ男女ふたりだとからかいたくなるものなのだろう。精神年齢的には心が死んでいた時期を無視しても20歳くらいのハリーには痛くもかゆくもないからかいではあるが。
部屋に入り、ストレートのブロンドの髪にしていたのを指を振って黒髪に戻す。少し残念だ。
「ハリー。」
弾んだ声がして、青い瞳がハリーをとらえた。ああ、これだ。
「……リア。」
ぎゅ、と抱きつけばアリアドネは驚いたように目をぱちぱちと瞬かせたが、すぐ背中に手を回してくれた。やはり早急に背を伸ばして抱きつくのではなく抱きしめるようにしなければならない。
「……ねえ、ハリー。崖から落ちた後……何があったの? 」
崖から落ちた後、というところでハリーははっとした。そういえば、あの時口の形だけで、吐息だけで愛しているとは言ったが、きちんと口にはしていなかった気がする。そう思えば、恋焦がれたブルーアイズは少し不安げに揺れているようにも見えた。
「……リア。その前に一つ言わせて? 」
アリアドネは首を傾げた。
―――可愛い。初めて会った15歳よりもさらに幼い11歳の彼女は、精神年齢20歳くらいのハリーからすればどこか犯罪じみた気分になった。いや、相手の中身も20歳は超えているだろうから問題はないはずなのだが。額を抑えるハリーにアリアドネは眉を寄せた。
「どうしたの? 具合でも悪い? 」
「……ううん、そうじゃなくて。ちゃんと言えなかったと思って。リア、愛してる。」
「……っ! 」
アリアドネが耳まで真っ赤に染め上げた。え、やばい、可愛い。ハリーはまたもや額を抑えた。13年間会えなかった分頭の中で美化しまくっていたが、11歳の彼女は想像以上に可愛らしかった。
「は、ハリー。」
「うん。何、リア。」
「わ、わた、私も……あいしてる……。」
どうしよう。リアが可愛い。いやリアが可愛いのは当然で、だって彼女は11歳で、15歳の時の記憶だって思い返したらやっぱり可愛かったし、いや可愛いのはこの世の常識ではないだろうか。
そんなハリーの思考回路はだいぶおかしい。ひとえに今まで感情を押しこんでいた分のしわ寄せが来てアリアドネに対するそれが爆発しているからなのだが。
「え、で、でもハリー、千年後に残して彼女がいるって、その人のことは……。」
「僕、あの後元の世界に戻って3年くらい過ごしてから所謂逆行っていうものをしたんだよね。だから大丈夫、ちゃんと別れてるし、僕が愛してるのはリアだけだよ。」
「……私だって、あの後、一生独身貫いたんだから。」
「……ほんとに? 」
「縁談だって全部断ったのよ。だって、自惚れじゃなきゃ……最後、崖から落ちる時、ハリー、愛してるって。」
「うん。伝わってたんだね。」
空の色をした瞳からつうと涙がこぼれ落ちた。え、待って、僕何かしたっけ。泣かせるようなことしたっけ。どうしよう。ハリーが慌てるのをよそにアリアドネは涙を拭って笑顔を浮かべた。
「……嬉しい。」
花が綻んだかのような無防備で無邪気な笑みにハリーは思わずぎゅっとアリアドネの手を握った。ああ、やばい、だめだ、めちゃくちゃ可愛い。
ここまでのハリーの思考回路を見てきてもらえばわかるだろうが、彼は完全にアリアドネにべた惚れだった。というより、13年間会えなかった分だけ盛大に拗らせていた。加えて彼はポッターの家系である。すなわち好意を持った相手の言動をすべて好意的にとらえるという特殊技能を少しばかり受け継いでいるわけだ。先ほどから脳内で可愛い可愛い連呼しているのはそういうことだと思って納得していただきたい。
さて、初々しい恋人よろしくさっそく―――ありていにいえばいちゃつきたいのだが、そういうわけにもいくまい。まずはお互いの状況説明である。
「リアはあの後どうしたの? 」
「ええ、40手前くらいまで生きて……龍痘に感染して命を落としたのだけど。」
「うん、龍痘をこの世から撲滅しよう絶対に。」
ハリーの発言は無視してアリアドネは話を進めることにした。龍痘についてはまたあとで話しても良いはずである。まずは状況説明だ。
「また新しくアリアドネ・グリーングラスとして、生を受けたの。ハリーのは逆行というものらしいけれど私は転生ね。双子の姉妹にダフネが、妹にアストリアがいるのだけど。」
「アストリアが? 」
「知ってるの? 」
知ってるも何も、前世―――逆行なので別の言い方をすべきなのかもしれないが、便宜上こういう言い方をする―――でアリアドネによく似た青い瞳をしていると思った女性である。そしてハリーが気を緩めて死ぬ原因にもなった女性だ。忘れられるはずもない。
「未来のドラコ・マルフォイの奥さんだよ。」
「ドラコの? 」
「ファーストネームで呼んでるんだ。」
「幼なじみよ。」
「……ねえ、リア、僕がリアを好きなのって、ダイアゴン横丁で一目惚れってことにしておかないと不自然だよね? 」
「え? ええ、そうね。」
「それでマルフォイとリアは幼なじみなんだ……。」
これ完全に父さんと母さんとスネイプ先生の図じゃない? ハリーは撃沈した。願わくばマルフォイがアリアドネを恋愛的な意味で好きになりませんように。あと僕絶対にドラコには絡まない、父さんと母さんとスネイプ先生の図を再現するようなことはしない。誓って。
「ええ、あ……あ、そう、あとね。」
アリアドネはポケットに手を入れ、巾着から黒い日記帳を取り出した。
「それ、トムの日記帳?! 」
「あ、そうなの……。この巾着、強力な封印魔法がかかっているから心配しなくてもいいわ。」
「まさかマルフォイ邸から盗んだりしたの? 」
アリアドネはそろそろと目を逸らした。
「だ、だって……。」
「だって? 」
「ハリーは千年後から来たって言っていたし、教科書にも本にも英雄ハリー・ポッターのことは載っているし、私たちの時代にトリップしてきたハリーはこのハリーなんだって確信したわ。覚えてる? 私たちにハリーの学生時代の記憶を見せてくれたでしょう。それで……その、秘密の部屋に連れ去られた女の子が、ハリーの恋人だったのよね? 」
「……今はリア一筋だからね。」
ええ、とアリアドネが嬉しそうに頷いた。うん、やっぱり可愛い。
「それで? 」
ハリーが先を促せば、アリアドネは気まずげに言葉を続けた。
「……そのね、呆れると思うんだけど。嫉妬、してしまったの……。どうせ秘密の部屋に連れ去られてハリーに助けてもらうのなら、その役、いいなあとか……。気持ち悪いわよね、ごめんなさい。」
日記帳で顔を隠してそろそろと顔をそらすアリアドネにハリーはテーブルに突っ伏した。アリアドネが嫉妬してくれていた、それだけ想われているということだ。間違ってはいないが、どこまでも都合のよい思考回路である。
「……でも、僕は、リアがリドルに操られるところなんか見たくない。」
本音はハリーも立ち入れないだろうプライベート空間でリドルと一緒にいてほしくない、なのだがそれは辛うじて飲みこんだ。ふわふわの金茶の髪を撫でれば、やっぱりそうよねと返される。
「これはどうすれば良いかしら? 」
だってハリーは記憶を持っていてくれたんだし、もうこの日記帳はいらないわ。微笑むアリアドネが愛おしくてたまらなかった。じわりと心が内側から温められていく感じがする。
身を焦がす恋とは違う、優しいそれ。柔らかに穏やかに優しく微笑むアリアドネを表しているようで、そう思えばいっそう愛おしく感じる。恋や愛というのは人それぞれだというけれど、こんなに穏やかで幸せな気持ちになれる恋ならいくらでもしていたかった。
くるりとアリアドネの髪を指に絡める。
「ハリー? 」
無防備な表情、きょとんとした空色の瞳。ううん、とハリーは軽く首を振った。
「ほんとに、リアがいるな、と思って。」
それは誤魔化しでも何でもなく、紛れもない本音だった。触れて確かめていないと不安で仕方なくなってしまいそうだ。だって、一回は、ハリーはアリアドネがいた場所からはじき出されてしまったのだから。
「ええ、私はここにいるわよ、ハリー。」
アリアドネにもふわふわと癖のある黒髪を撫でられた。心地よくてそれに身を任せているとふんわりと目を細められる。
「リア、日記は僕が持っているよ。」
「本当? 危険じゃない? 」
心配するような色が青色の瞳に宿り、眉が下げられて不安げな表情が作られた。
「大丈夫だよ。ホグワーツに行くまでの一カ月だけ持ってることにする。ホグワーツにいたら、何かおかしかったら気づけると思うし。」
というより、アリアドネに持たせておきたくないだけである。日記ではあるが中身は成人したくらいの男子生徒であり、間違っても愛する恋人に持たせておきたいようなものではない。
「……気をつけてね。」
うん、とハリーは頷いた。
「もっとリアと一緒にいたいんだけど……さすがにそろそろ帰らないと伯父さんと伯母さんと従兄が心配するかな。」
「伯母さん一家とはいい関係を築けているの? 」
「うん、リアに会えないからって荒れまくってたからね。」
「……私に? 」
驚いたようにブルーアイズが瞠られる。ハリーは躊躇いなく頷いた。
「会いたくて、会いたくてたまらなかった。13年間待ったんだよ。」
「私は45年待ったのよ? 」
「うわあ、倍以上だ。」
「……ちょっと様子を見に行こうかな、とか思ってもダンブルドアがプリペット通りに張った結界に阻まれるし。ハリーが同じ世界にいることはわかっていても、記憶を持っているのかすらも確認できなかったし。」
「ダンブルドアがプリペット通りに張った結界? 」
「先生方が校長室に遺していった魔法具が使われていてね。解き方は知っていたけど、解除したら確実に魔法具を仕掛けた人間に誰が解除したかわかるようになっているし、ダンブルドアに警戒されるようなことは避けたくて……。」
「じゃあ仕方ないね。」
会いたいと思っていてくれただけで十分。妙なところで謙虚なハリーは目元を緩めた。相変わらず手はくるくるとアリアドネの髪を遊んでいる。
「次に会うのはホグワーツ特急で、かな。」
「ハリーは何時くらいに駅に来るの? 」
「十一時発だよね。じゃあ十時には駅に着きたいな。」
「了解。じゃあ十時待ち合わせにしましょう。」
「うん―――あ、リアは双子のお姉さんと一緒のコンパートメントの約束してたりする? 」
「色々話したいし……その。そうね、ハリーが嫌じゃないなら、ふたりが良いわ……。」
最後は消え入りそうな声でうつむきがちに呟かれたが、ハリーはしっかりと聞いていた。
「嫌なわけないよ。じゃあ、キングス・クロスに十時に待ち合わせよう。待ち合わせ場所は……9と3/4番線じゃなくてマグルの方のホームだと助かるんだけど。」
そう言いつつ、マグルの方のホーム、と言っている時点で自分もかなり魔法界に染められたものだ、とハリーは心の中でひとりごちた。11歳の誕生日を迎えるまでは、マグルという言葉なんて知らなかったし、マグルの生活がハリーにとっての当たり前だったのに。
「私もちょうどそう言おうと思っていたところ。見送りに来てくれるご家族、マグルなんでしょう? 私も前世では母がマグルで弟がスクイブだったものだから、一般の純血魔法族よりはマグルに配慮できるように色々勉強はしておいたの。」
「……話電とか言わないよね? 」
「電話の言い間違いかしら? あれ便利そうよね。魔法で同じようなもの作れるか試して見ない? 」
「電話見たいな魔法道具を作るの? 楽しそうだね。」
このままずっと話していたい。話していたいが、今生ではよくしてくれているダーズリー家に心配をかけるのも良くない。アリアドネをこの腕の中に閉じ込めてこのままどこかに攫ってしまいたい衝動にかられるのは確かではあるが。彼は確実にアリアドネに対する想いを拗らせていた。
「じゃあ、そろそろ漏れ鍋を出ようか、リア。」
名残惜しいけど。付け加えると、頬を染めて私もよと返される。お手をどうぞ、なんて紳士と淑女のようにふざけあったりしてみる。アリアドネに会ってから、ハリーの心の状態の回復は顕著だ。
「また新学期にね、ハリー。」
「うん、リア。またキングス・クロスで。」
手を振り合ってロンドンで別れる。アリアドネの姿がかき消えるのが見えた。ハリーもそれにならって軽く地面を蹴り、姿くらましをする。ダーズリー家の三人には、この快復をどのように話そうか、と考えながら。