ララは使い魔の空間に帰っていった。部屋にはナナリーとアルウェスの二人きりだ。
ちびアルウェスがナナリーの部屋に来たときも似たような状況だったけど、あのときとは全然違っている。雰囲気が違う。アルウェスの
チラチラと視線を
自分の心臓が早鐘を打つのが聴こえ、頬が一気に熱くなる。だめだ、目を開けていられない。顔をあげるのなんて絶対に無理。以前なら「ああ、鍛えてやがる」としか思わなかったのに。
ナナリーの細い肢体がアルウェスの体温にくるまれる。布越しの体温はぬくぬくと温かく、お日様の香りが鼻腔をくすぐり、天気がいい日に日向ぼっこしているような心地になる。強張っていた体から少しづつ力が抜けて、アルウェスにもたれかかった。
頭の上から息を呑む音がした。ナナリーを抱き締めるアルウェスの腕に力がこもり、押し当てられた胸からアルウェスの鼓動が聴こえる。彼の鼓動は、外を駆けているのかと思うくらい速かった。
「…………煽ってるの?」
「え?」
「……何でもない」
顎をナナリーの頭に載せて、アルウェスが深い溜め息を吐いた。
「勝手に帰ったりしないよね?」
「そんなことしない。ちゃんとご挨拶してから帰る。泊めて頂いたお礼も言ってないし」
「うん。朝ごはん食べて行って」
「いつかの朝と逆ね」
「うちは窓から帰らなくていいからね」
「わかってる。礼儀正しく玄関から帰る」
昨夜、帰りの挨拶をするマリスの姿は美しかった。ナナリーにはまだ令嬢の挨拶の真似はできそうにない。今日はハーレの受付で鍛えた挨拶をしたほうがいいだろう。
アルウェスの髪が頬に触れ、頭から覆いかぶさってくるような気配がして、ナナリーは俯いてぎゅっと目をつぶる。アルウェスが大きく息を吐き出した。
「……僕は自分の部屋に戻るよ。後で迎えにくるから、支度して待ってて」
「わかった」
「またね、ナナリー」
耳の縁に柔らかいものが触れて、アルウェスの熱い吐息が耳を掠める。吐息に包まれるように、湿ったものが耳を挟んだ。はむ、と食べられるような感触にゾワゾワしたものが腰から背筋を走り抜けていく。「ヒァッ」と声にならない変な音が喉から出てしまった。
寝台に座ったまま硬直して動けないナナリーからそっと腕を離し、アルウェスは立ち上がると部屋を出ていった。
*
扉を閉める前にアルウェスは一度後ろを振り返り、ナナリーに微笑んだ。部屋に一人残されたナナリーは、頬を赤く染めて、彼の唇が触れた耳を両手で押さえて寝台に倒れ込む。
耳をはむはむされた……! あんなこと……あれは耳に口づけされたのだろうか? ……背筋がぞわっとしたのは悪寒とか嫌悪感とは少し違っていて。
「ん────っっ!」
両腕で体を抱きしめて、寝台の上を転げ回る。朝からアルウェスに翻弄されて、心臓は爆発寸前。でも、決してそれが嫌なわけではなかったのだ。
「ああ、もう!」
どんな顔をして彼に会えばいいのかわからない。後で迎えに来ると言っていたから、早く支度をしないといけない。人を待たせるのは好きじゃない。
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜながら頭を抱えていると、扉をノックする音がしてナナリーは飛び起きた。
「失礼します。ヘル様、起きていらっしゃいますか?」
「は、はい。おはようございます!」
扉の向こうから聞こえたのは女性の声だった。ホッと胸を撫で下ろすと、寝台から降りて服の乱れを整える。髪もササッと手櫛で梳いた。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「はい」
召使いは皆同じお仕着せを着ている。昨日の今日では誰が誰だか見分けがつかない。
「お茶をお持ちしますが、よろしいですか?」
「はい。お願いします」
「ではすぐにお持ちします」
召使いが扉の外に消えると、ナナリーは急いで身支度を整えた。この部屋はなんでも揃っていて、付属のバスルームまである。
ハーレの制服に着替えて待っていると、さっきの召使いが温かいお茶を持ってきてくれた。お茶は少し濃いめに
「とても美味しいです。ありがとうございます」
お礼を言うと、召使いがにこにこしながらナナリーを見ていた。
「私たちにお礼なんて必要ございません。お嬢様はアルウェス様の大事な方なんですから」
だ、大事な方って……。ナナリーの顔がまた熱くなってくる。
「私は仮面舞踏会のときお嬢様のお支度を手伝わせて頂いたんですよ」
あのときの公爵様の手下(※召使い)の一人だったらしい。失礼にならない程度に顔を観察してみたが、記憶には残ってなかった。仮面舞踏会のことはなるべく思い出さないようにしていたので無理もない。
今朝の夢も仮面舞踏会だった気がする。起きてから色々あったのでもう
……色々あったことは考えないようにしよう。美味しいお茶なんだから、雑念を払ってお茶を味わうほうがいいに決まってる。
「あのときの水色髪の美しいお嬢様をアルウェス様がお連れになって、本当に嬉しく思っております」
召使いは頬に手を当てて本当に嬉しそうに笑っている。ナナリーはカップを持ったまま、不思議そうに召使いをじっと見つめた。すると、召使いはハッとしたように口元を手で押さえ、「お喋りが過ぎました」と謝って部屋を出て行った。
長い間ナナリーの中で黒歴史になっていた王宮の仮面舞踏会。ナナリーはアルウェスが仮装した豚の紳士とラストダンスを踊った。彼にダンスに誘われて。
豚の紳士がアルウェスだとわかった後、ナナリーは彼にカーロラ王女が好きなのかと正面から質問してしまった。彼の父親に頼まれたからとはいえ、早く面倒くさい任務を終えたかったとはいえ、直球過ぎて不躾だったのは自覚してる。
思えば、情緒もへったくれもないことばかり喋っていた気がする。あの頃の自分を思い返すと頭を抱えたくなる。学校を卒業したら大人だと思っていたが、あれでは乙女どころか(『乙女』の一般的な使い方も知らなかったのだが)ただの子供だ。
でも、アルウェスもナナリーに対してはいつもの『宿敵ロックマン』だったのだ。いつもの調子でナナリーと喧嘩をして…………。いや、ちょっと待って。
『ドーラン王国魔術労働法第三条と第十七条、貴族法第三十条に続く第三十一条』
カーロラ王女が好きかと聞いたときのアルウェスの答え。ナナリーをマントの中に抱き込んで、内緒話をするように耳元で囁いたあの謎かけの意味は。
───僕が好きなのは君だよ。
ナナリーは目を
赤くなった耳を髪の上から手で覆った。耳を掠める熱い吐息に、背中に回された腕と押し当てられた胸、アルウェスの体温が肌に蘇ってくる。
いつまでたっても頬の熱が覚めないような気がした。