自室に戻ったアルウェスは長椅子に沈み込み、両手を組んで額を覆った。目を瞑り、ハァ──と重い息を吐きだす。
……あのままナナリーと二人でいたら危なかった。
いつ理性の
昨夜は帰宅したらナナリーが客室の長椅子で眠っていた。全く起きる気配のない彼女を寝台に運び、魔法で寝間着に着替えさせたりはしたが、それだけで一度は自分の部屋に戻ったのだ。寝る前に気になって、つい様子を見に行ってしまった。彼女は相変わらずぐっすり眠っていたけれど、どうしても立ち去ることができなくて、布団に潜り込んで彼女に触れたら瞬く間に睡魔に襲われた。僕も熟睡していたはずだが、朝方寝ぼけた頭で隣の彼女を抱き締めていた。
……子ども姿のナナリーは可愛かった。僕と彼女の間に子どもが生まれたらこんな感じだろうかと思ったのは内緒だ。
ナナリーが騒いでくれて助かった。ララもいたから自分を抑えていられた。ずっと二人きりだったら何をしていたかわからない。
さっき彼女が初めて僕の名前を呼んだ。僕の顔はきっと緩みっぱなしだろう。彼女はこれからもこの屋敷にやってくる。彼女のことだから泊まるなんてそうそうないだろうけれど、僕が早く帰ってくれば話をする時間くらいはとれるはずだ。
ナナリーの細くて柔らかい身体の感触がまとわりついて離れない。前に僕が彼女の部屋で目覚めたときは、最初は夢だと思っていて、実際夢みたいなものだった。彼女の部屋に居た小さな僕が眠っている間に大きな僕に入れ替わってしまった、ただの魔法の悪戯。そんなことはわかっていた。それでも忘れられなくて苦しかったのに。でも今は、もう忘れようと自分の気持ちを押し殺す必要はない。手を伸ばせば届くところに彼女はいる。
ずっと焦がれていた水色の髪に、華奢で柔らかい身体に、少しずつではあるけれど、愛おしいと感じる心のままに触れることができる。
でも、僕の想いを不用意にナナリーにぶつけないよう気をつけなければ。きっと彼女にはまだ受け止められないだろう。
キュピレットの花に想いを込めて渡すように、何かに託すくらいが今の僕たちにはちょうどいい。
アルウェスは長椅子から立ち上がって騎士服に着替える。黒くなった髪を一つにまとめて編んで結び、変身魔法で髪と瞳の色を金と赤に変える。すると、急に体の奥から自分以外のどす黒い魔力がじわっと体内に広がり始めた。反射的に自分の魔力で抗った刹那、スッと胸元の首飾りが冷たくなり、一度広がった魔力が首飾りに吸い取られるように集まって消えていく。
服の上から胸元の首飾りを握りしめる。僕にとって変身魔法は難しい魔法ではない。髪と瞳の色を変えるくらいでそれほど魔力は消費しないのだが、こんな小さな隙さえも逃すまいと魔物の魔力は襲ってくる。
短剣を胸に刺したことに後悔はない。ナナリーを守るためなら手段は厭わない。そして彼女は無事に僕の元へ帰ってきた。時の番人の事件の後、僕と彼女の距離が縮んだのだから皮肉なものだ。
カーロラの結婚式に僕のパートナーとしてナナリーが出席する。彼女はその準備で公爵家へ通って来る。貴族ならその意味するところを理解するはずだけれど(ナナリー本人は案の定わかってないようだが)、トレイズのように捨て身の策に出る女性がまた出てこないとも限らない。
そこまで思考を巡らせたところで、アルウェスは首を振った。ナナリーが待っている。今はそんなことに煩わされたくない。後で考えればいいことだ。
さあ、ナナリーを迎えにいこう。
*
召使いが出ていってからしばらくした後、アルウェスがナナリーの部屋に迎えに来た。フードを被って気持ちを落ち着かせていたナナリーは慌てて上着を脱いだ。
アルウェスは銀縁の眼鏡をかけて、髪は金で瞳は赤だった。目を丸くしたナナリーに、変身魔法だと説明する。
「キースを驚かせたくないから」
「そっか……そうだよね、キース君も驚いちゃうよね」
居間に案内され、朝食をご馳走になる。陽射しが降り注ぐ明るい部屋で、ここでお茶会なども開かれるらしい。居間にはロックマン公爵夫妻がおり、途中からキースくんもやってきた。キースくんは兄のアルウェスがいるのがとても嬉しいらしく、きゃっきゃとはしゃいでいる。
アルウェスも時間が許す限りキースくんの相手をしていた。兄馬鹿なのは相変わらずだ。キースくんもノルウェラ様似で、この兄弟はよく似ている。二十歳以上
朝食後、ナナリーはロックマン公爵夫妻にお礼を伝えて、アルウェスと一緒に公爵邸の玄関を出た。玄関の前には広い噴水広場があり、周囲には綺麗な花壇や植木がある。この屋敷は玄関から門までが嫌になるほど遠いのだ。
花の季節がもうすぐ終わろうとしている。公爵家の手入れが行き届いた木々や花壇も最後の花を散らしていた。サァ……と風が吹いて花びらが舞う。風はもう涼しくて、噴水広場の周りは水飛沫が少し肌寒かった。
ナナリーとアルウェスはここで別れてそれぞれの職場に向かう。ナナリーは転移魔法で一度寮に帰ってからハーレに出勤する。アルウェスは騎士団のある王の島に行くのだが、王の島は防犯上の理由で転移魔法が使えないため、使い魔のユーリを召喚している。
「アルウェス様、ナナリー様。おはようございます」
「おはよう、ユーリ」
「ユーリ! 久しぶりね」
「ナナリー様もお乗りに?」
「ナナリーは転移魔法でハーレに帰るよ」
「またの機会にね」
ユーリが屋敷を見やり、次にアルウェスとナナリーをしげしげと眺めた。
「もしかしてナナリー様は朝帰りですか?」
「そうだよ」
「違う! いや、違わないけど……やっぱり違うから! ユーリはなんでそんな言葉知ってるの!?」
「ユーリのほうが君より大人なんだよ」
アルウェスとユーリが同じ顔をして(ユーリはリュンクスだけど!)笑った。ユーリにこんなこと言われるなんて凄く恥ずかしい。
「じゃあ私は転移するから。またね!」
縮小して腰のベルトに下げていた
「うん、また今夜ね。なるべく早く帰るから」
ピキッ。
魔法陣が止まり、シュルシュルと女神の棍棒に戻っていく。
「今夜もご一緒ですか?」
「その予定だよ」
「いったいどんな魔法をお使いに?」
「人の心を魔法でどうにかしようなんてしないよ。ユーリは意外と失礼だなぁ」
「冗談です。僕も嬉しいんですよ」
なんでこの二人(※一人と一匹)はやたらと楽しそうなのか!?
軽口をたたいてる主従に背を向けて、ナナリーは再び空間転移の魔法陣を地面に描いた。
「どうしたの? 早くしないと仕事に遅れるよ。一度寮に帰るんでしょ」
「う、うるさいわね! ちゃんとやるわよ!」
集中だ、集中しろナナリー!
ハーレの寮の部屋だけを頭に思い浮かべ、転移の呪文を唱え始めると魔法陣が金色に輝き始める。
「公爵邸に転移するときは、僕じゃなくて屋敷を思い浮かべるんだよ。僕のことを考えると僕のところに来てしまうからね。君に押し倒されるのは嫌じゃないけど、仕事中に突然現れるのは困るかな」
ぐぬぬぬぬ。
女神の棍棒を握りしめる拳に力が入る。学生時代の試験前のごとく、ナナリーは雑念を払い、すべての音を遮断するように集中して転移先のことだけを考える。
足元の魔法陣から放たれたまばゆい光がナナリーを包んで消えた。