「ヘル様! お待ちください!!」
「ごめんなさい!! これから仕事なので!」
ハーレの制服の白いスカートを
しかし、追いかけてくる召使たちから逃れるには全力で走るしかない。なにしろ公爵家の召使ときたら、ボリュームのあるドレスを小脇に抱えて猛スピードで疾走してくるのである。公爵家独自の脚力強化の魔法でも開発したのだろうか。
「お戻りを! お仕度がまだ終わっておりません!」
召使たちは皆一着ずつドレスを持っている。なぜそこまでしてドレスを着せたいのか。
「もう十分です! これ以上は必要ありません!」
ハーフアップにした水色の髪がふわふわと揺れて、大きな髪飾りからシャラシャラと涼やかな音がする。
マッサージの途中でうたた寝をしてしまったナナリーは召使に揺り起こされ、寝ぼけ
ドレッサーの鏡越しにいくつものドレスが用意されているのが目に飛び込んできてナナリーは
「こちらのドレスをお召しになってください!」
「結構です!! 制服がありますから!」
「もったいないです! 是非ドレスを!」
「──どうしたの?」
馴染みのある美しい低音がナナリーの耳に飛び込んできた。ちょうど横切ったばかりの階段からアルウェスが下りてくる。
「げぇっ……!」
その場でとんとんっと足踏みをしながらナナリーは頬を引きつらせた。銀縁眼鏡の奥の赤い瞳とばっちり目が合う。ゆるく編んだ蜂蜜色の長い髪が、黒い騎士服の胸元で飾りのように揺れている。
「アルウェス様!?」
「申し訳ありません!」
召使たちはさっと廊下の端に整列する。咄嗟にナナリーも召使の隣に並んだ。指先を伸ばし、手を体の前で重ねて姿勢を正すと、アルウェスと召使の視線が集まってくる。
軽く目を見開いたアルウェスが口元を手で押さえてプッと噴き出し、召使たちも口元に手を当てて小さく笑った。
「君は並ばなくていいでしょ?」
「──ッン!? あ、ああ、そうね」
思わず上擦った声が出てしまった。ナナリーが召使の列から離れると、アルウェスが一歩近づいて、正面で向き合う形になる。
彼は小首を傾げて目を弓なりに細め、綺麗に口角を持ち上げる。
「で? 君たちはどうして廊下を走り回ってたのかな?」
「走り回ってなんかいないわよ。ちょっと急いでいただけよ」
「ふうん。急いでいてもそれを周囲に悟らせないのが淑女の
「うぅ……」
お屋敷の廊下を走ったのはまずかった。そのお説教は甘んじて受けるとしよう。だが、他には何も後ろめたいことなどない。
「それはナナリーのドレスかな? 見せてもらってもいい?」
「はい!」
アルウェスは召使が持っていたドレスを受け取り、上身頃をナナリーの身体に当てると少し後ろに下がって眺め始めた。
このドレスは肩が出るデザインで、胸元のレースはボリュームがあり、スカート部分にもたっぷりとしたレースのドレープがついている。
レースから透けて見える布地は艶のある瑠璃紺で、赤い花柄の模様が織り込まれている。光の加減によって銀にも金にも見えるレースによって花の模様が色を変える。
上品ではあるし、品質はもちろん素晴らしいのだが、少々派手だと思う。とにかくキラキラとまぶしくて目が痛い。夜会では映えるかもしれないが、自分に似合うとはとうてい思えない。
真剣な眼差しでドレスを見詰めているアルウェスならさぞや似合うことだろう。召使もアルウェスを着飾らせればいいのに。
「これは母上が?」
「はい。奥様が用意されました」
ナナリーは胸の前でドレスを抱き締めて目を丸くした。さっきの話では今度採寸してドレスを作るのではなかったか。
令嬢教育で毎日のように違うドレスを借りているけれど、もしやノルウェラ様が新しく作ってくださっているのだろうか。
「ヘル様にとてもお似合いですわ」
「そうだね、僕もナナリーに似合うと思う。さすが母上だね」
「他にも何着もございます」
「今日は早くいらっしゃったので是非お召しになってほしいのです」
「アルウェス様からも説得してくださいませ」
ちらりとアルウェスがナナリーを窺う。ナナリーは激しく首を横に振った。ブンブンブンと手も振って、絶対に着たくないと主張する。
アルウェスは騎士服を着ている。ならばナナリーも制服を着ていいではないか。
「ごめんね。僕たちはこれから仕事の話をするから、制服のほうが
アルウェスが眉を下げて残念そうに断ると、期待に満ちた顔でアルウェスを見つめていた召使たちが目に見えてがっかりした。ナナリーはガッツポーズである。
何しろドレスは大変なのだ。お腹は苦しいし、背筋は常に綺麗に伸ばして、歩くときも絶対に足元を見てはいけない。踵の高い靴を履いて床まで届くような長いドレープを崩さないように歩くのは非常に神経を使う。
マリスならドレスを着たままとんでもない速足で歩くこともできるけれど、ドレスの足さばきは一朝一夕では身につかないのだ。
気落ちした召使にドレスを返す。ここまでしょんぼりしていると可哀想だったかな、と思いつつ、手を胸に当てて喜びに浸っていると、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「仕事が終われば晩餐だから、そのときにナナリーに着せて欲しい。それまでに準備をしておいて」
「へっ?」
「僕も君のドレスに合わせた服装にするから。それなら文句はないよね?」
「はぁ!?」
「「「かしこまりました!!」」」
唖然とするナナリーに、アルウェスは満面の笑みを浮かべている。
「ナナリーのドレスが決まったら、僕の服も用意しておくようにキャロナに伝えておいて」
召使たちはドレスを丁寧に抱え直すと嬉々としてナナリーたちを送り出した。
*
「行こうか。晩餐までに打合せを済ませないと」
「……わかってる」
……騎士団との打合せがあるというからハーレを早退したというのに、どうしてこんなことになっているのか。
階段を重い足取りで上りながらナナリーは深いため息を吐く。頭上でクスッと小さな笑い声が聞こえる。
「女性の身支度は大変だよね。母上もお茶会や夜会のときは朝から準備しているよ」
「うヘぇ……」
「そんな声出さないで。シーラでは夜会もお茶会も出ることになるよ?」
「……夜会……お茶会……」
ナナリーは貴族の夜会など招待されたことがない。マリスの友人枠で花神祭の王宮晩餐会へ出席したくらいだ。お茶会も、ノルウェラ様やマリス、ニケといった親しい
貴族なら子どもの頃に学ぶことをいま学び始めている。社交経験では子ども以下のナナリーが、シーラではアルウェスの隣に並び、ゼノン殿下やミスリナ王女と一緒に初対面の貴族や王族と和やかに談笑しなければならないのだ。
礼装に身を包み優雅に微笑むアルウェス。王族や貴族に囲まれる彼の隣にナナリーが立つのは場違いではないだろうか。
どんなに外見を取り繕っても、アルウェスに相応しい令嬢には見えないに決まってる。
心臓がひやりとした。
不意に体の中を不安が駆け巡る。
階段の踊り場でナナリーは立ち止まった。俯いて、仕事用の鞄の紐をぎゅっと握りしめる。
「ナナリー?」
アルウェスが足を止め、訝し気にナナリーの名を呼んだ。
足が、重い。
一歩を踏み出すことが酷く難しい。
顔をあげることができない。
この気持ちをどう伝えればいいのか。そもそも、口に出していいのだろうか。ノルウェラ様や公爵家の人たちにはこんなに良くしてもらっているのに。アルウェスやニケにだって――。
「…………嫌なら、断っていいよ」
アルウェスがそっとナナリーの肩に手を置く。勘のいい彼はナナリーの不安を的確に察したのだろう。肩に触れる大きな手が温かくて、冷えた心に沁みていく。ナナリーは俯いたまま左右に首を振った。
「好き嫌いの問題じゃなくて……。ドレスもお茶会も夜会も……やっぱり、わたしには似合わないと思う」
好きか嫌いかといえば、貴族の社交が好きなわけがない。アルウェスに同行すれば
ドレスに合わせた化粧や髪型は華やかすぎて落ち着かない。ハーレの制服には似合わない。つまり、ナナリーの身の丈には合わないということだ。
「このお化粧とか……髪型も」
水色の髪に差し込んである豪奢な髪飾りに触れる。全速力で走り回ったせいで綺麗に編み込まれた髪が少しほつれている。ナナリーが頼んだわけではないけれど、せっかく召使が丁寧に整えてくれたのに申し訳なく思う。
でも、これではっきりわかる。走りまわっても平気な、乱雑にしてもいい格好がわたしには相応なのだ。
休日にアルウェスと会うときに彼は平民の服を着てくるけれども、あれはどう見ても変装だ。街中でも彼は目立つ。綺麗な容貌だけが理由ではない。立ち居振る舞いが違うのだ。貴族のお忍びとすぐにわかる。
付け焼刃の行儀作法しか身についていないナナリーが貴族令嬢のような格好をしても、中身が伴っていないとすぐにバレてしまうだろう。
ハーレの受付嬢ナナリーと騎士団のロックマン隊長ならまだしも、国王陛下の甥で公爵子息のフォデューリ侯爵アルウェス・ロックマンに平民のナナリー・ヘルが釣り合うとは思えない。
普段は気にしていないことも、改めて考え直してみれば、ナナリーがこのお屋敷に来ていることすら何かの間違いのような気がしてくる。
足元が
肩に置かれていた手が離れていった。黒い影がスッと下に移動し、甘く匂い立つような蜂蜜色の頭が俯いたナナリーの視界に入ってくる。
アルウェスが片膝をついてナナリーの前で跪いた。背筋を美しく伸ばして片手を腰に回し、もう片手を胸に当てる。目を瞑り、恭しく
「アルウェス?」
アルウェスがその白皙の
「──ナナリー・ヘル」
銀縁の眼鏡の奥から赤い瞳が煌めく。炎のように真っ赤な瞳はナナリーを燃やそうとしているのか、頬が、肌がちりちりと熱い。
ナナリーの瞳を捉えたまま、アルウェスが胸に当てていた手を差し伸べてくる。
「美しき氷の魔女よ。私とともに王女の結婚式に出席していただけますか」
その眼差しは切なく、懇願するようで。きゅっ……と胸が締め付けられる。アルウェスから目を離すことができない。
「アル、ウェス」
「この手を取るかどうか、決めるのは君だよ」
「……わたし?」
「選ぶのは僕じゃない。君なんだ」
「…………わたしが断ったら?」
「そうしたら僕は一人でシーラに行く。僕の隣にいて欲しいのは、君だけだから」
アルウェスの赤い瞳をじっと見つめる。内側から輝く柘榴石のような瞳は真摯な光を放ち、その声はどこか
「……はい」
ナナリーは彼の手に自分の手を重ねた。
こんな顔を見られるのは恥ずかしいのに。アルウェスが顔を覗き込んでいるから隠すこともできない。
アルウェスが優しく微笑んでナナリーの手をそっと握る。その手を口元に引き寄せ、長い睫毛を伏せて指先に口づけた。