「……そうだね、あのとき
苦い思いを噛み締めながら、僕は言葉を吐き出した。
本を棚に戻し、ナナリーを長椅子に座らせて僕も隣に座る。膝の上で指を組んで彼女を見つめる。
「アルウェス?」
「晩餐会には何十人も騎士がいた。でも魔物を片付けたのは君だ」
「それは違うわよ。サタナースやマリスも一緒に戦ったし、わたし一人で退治した訳じゃないでしょう?」
「君が
僕も入団して一年目、騎士団は非効率なところが目立ち、実力を発揮できていない騎士も多かった。はっきり言って騎士団全体が今より弱かった。
オルキニス対策は後手に回り、王宮には間者の侵入を許した。
「わたしがやらなくても最後にはアンタがやってたでしょうよ。あのときは王族を守ってたから手が離せなかっただけで」
「王族の警護は最も優先すべき任務だ。僕は王族を守り、魔物には他の団員が対処する予定だった。血の盟約もする必要があったしね」
「あ……」
「魔物の襲来は予想されていたんだ。事前に備えもしておきながら冷静に対応できたとは言い難い。正直、不甲斐ないよ」
当時の情勢から
優秀な氷の乙女、ナナリーが城にやって来たら当然彼女を狙う者は動き出すだろう。僕は王族を守りながらオルキニスの手の者を探していた。
「珍しいわね、アンタがそんな風に言うなんて」
「……ナナリー、君は自分の力を……価値を理解していない」
胸に押し込めていた焦燥が溜め息とともに零れ出る。
近くにいるほうが守りやすいなどと考えていた僕は
「私の価値?」
誰よりも魔力が高くて優秀な──若く美しい氷の魔女。
「君はシュテーダルを破壊した救国の魔女だ。膨大な魔力を持ち、ウォールヘルヌスでも始祖級と評された。手っ取り早く騎士団の戦力を上げるには君を騎士にするのが一番なんだよ」
「は?」
シュテーダルの依り代がドーラン貴族のアリスト博士であったために、ウォールヘルヌス後は薄氷の上を歩くように外交を続けているドーランである。
オルキニスの女王を倒す先陣を切ったこと、僕がシュテーダルと戦いながら観客を守り続けたこと、そしてシュテーダルを破壊したのがナナリーを始めとするドーランの魔法使いであったことでその立場をかろうじて守っている。
ナナリーの扱いは実は難しい。オルキニスの件で元々少ない氷型がさらに減ってしまった上、ドーランに僕と彼女の二人も始祖級がいては他国の
魔石の情報をうまく使えばドーランの名誉を挽回することも可能だ。陛下はナナリーの存在を隠して僕や殿下が矢面に立つことを許してくれたが、彼女を利用したいと考える者は出てくるだろう。最悪の事態も予想外の状況も考慮して僕は動く。
「団長や殿下が騎士団を掌握している間は君の意思に反してハーレから引き抜くようなことはないだろうけど、断言はできない」
「わたしを引き抜くなんてあり得ないでしょ? ハーレには私より優秀な魔法使いがいるもの。所長やアルケスさんとか」
「君は彼らより若くて、しかも氷の始祖をその身に宿している。君の方が将来性が高いのは理解できるよね?」
──君が守った世界。僕にはシュテーダルを破壊することも、長い眠りについた君を助けることもできなかった。
不甲斐ないのは僕の方だ。君を守れない自分が悔しくて堪らない。僕自身への憤りが消えることはなく。
「もし……もし君が、魔女としての資質を見込まれて、騎士や宮廷魔術師になるように国王陛下に命令されたらどうする?」
「そりゃあ、国や世界の危機なら当然従うわよ?」
「戦争もない、シュテーダルも復活していない……国の威信のためだけに氷の始祖級を求められたら?」
「…………わからない。そんなこと、考えたことないから」
碧い瞳が揺れている。
困惑した顔で僕を見つめ返す無垢な君。
僕は彼女の
透き通った玻璃のような瞳。この瞳からこぼれ落ちる涙は清らかで美しくて──。
「アルウェス?」
小首を傾げるナナリーの指先が僕の手に触れる。彼女の手は僕の体温より低いのに、触れたところから熱くなっているような気がする。
────腹の中で熱い火が
……これ以上彼女を引き留めてはいけない。
「ごめん、君を困らせるつもりはなかったんだ」
小さく首を左右に振って、指を彼女の手から引き抜く。
────体の奥で
……落ち着かなければ。
心を波立たせててはいけない。ささくれ立った感情に闇が忍び寄る。体の中は熱いのに、寒気が背筋を這いあがってくる。肌が粟立つ。鼓動が早くなっていく。
「ねぇ、どうしたの?」
笑みを作ろうとしたが表情を消すことで精一杯だ。片手で顔を覆って深く息を吐いた刹那、ぞくぞくと強烈な悪寒が全身を襲う。
────足元に落ちる僕の影が濃くなって淀み始める。どす黒い不気味な何かが影の中で
こんなときに……!
違う、こんなときだから魔物は襲ってくる。心の隙を狙ってくるのだ。ぐっと腹に力を込めて身構えた。僕の体内で魔物の魔力が暴れ始めている。
「アルウェス? 具合悪いの?」
ナナリーが僕の顔を覗き込んで、彼女の体温を間近に感じる。
なぜ僕は彼女を早く帰さなかったのか。
白くて細い腕が伸びてきて、ハンカチでこめかみを伝う汗を拭いてくれる。
不安げにひそめられた眉が、僕を案じて揺れる瞳が、柔らかな頬が、僕の名前を紡ぐ瑞々しい唇が。
僕の吐息を震わせる。
……この部屋には彼女と二人きり。僕が鍵を開けなければ誰も入ってこれない。
────獲物を見つけた魔物が漆黒の闇から顔を出す。僕の卑しい劣情を、深淵に潜むおぞましい魔物が喰らう。それらは混じり合い数倍に膨らんでいく。
「ぐっ……!」
「アルウェス!?」
血管を黒い魔力が駆け巡る。僕のものではない魔力に体内を蹂躙されて破裂してしまいそうだ。
激痛に顔が歪み、堪らず自分の身体を抱き締めた。
僕の劣情の発露なのか。僕の情欲につけ込んだ魔物が僕の身体を支配しようとしているのか。判別がつかなくともこれだけは断言する。
僕自身の欲望であっても彼女を傷つけたら許さない。
彼女を魔物の魔力に曝すわけにはいかない。
「魔物のせい? 魔物の魔力が暴走してるの!?」
魔法が弾ける振動が僕たちを襲う。音もなく室内の防御膜が壊れる。部屋にかけた防御魔法がすべて崩れ落ちた。
「防御魔法が破られた!?」
天井を振り仰いでナナリーが叫んだ。
「……魔法が解けた、だけ……。問題はないから……」
僕がかけた魔法は解けたが、父上が屋敷全体にかけた魔法に変化はない。
クリスタルの首飾りが急速に冷えてくる。氷の魔力が僕の肌に触れて広がっていく。服の上から胸元の首飾りをぎゅっと握りしめれば忌まわしい魔力を吸い上げてくれる。
熱い体に投げ込まれた一欠片の氷によって苦痛が和らぐ。僕は深く息を吐いた。
…………どれぐらい時間がたったのか、いつしかクリスタルの首飾りは魔力を放つのをやめ、僕の意識も明瞭になっていた。
目を瞑って静かに深呼吸を繰り返す僕をナナリーが固唾を飲んで見守っている。
「……もう大丈夫だよ。君のクリスタルが吸い取ったから」
僕は彼女に微笑んだ。魔物の魔力に喰われる本能的な恐怖と苦痛は過ぎ去った。痛みの残滓は時間とともに消えていくはずだ。
「吸い取る? 魔物の魔力を?」
「……瞳の色は戻ったし、髪もだいぶ明るくなった。その代わり、クリスタルの首飾りは濁ってきている」
「こんな暴走がしょっちゅう起きてるってことじゃない!」
「ときどきしか起こらないよ。確実に良くなっているから」
「そういう問題じゃないわよ!」
碧い瞳に力が宿る。涙を流すよりはずっといい。
君はクリスタルで僕を助けてくれた。僕はこれ以上何を望めばいいというのか。
「僕のことは心配しないで。それより、もう部屋に戻った方がいい」
「アルウェスを放っておくなんてできないわよ!」
「大丈夫。魔法は使える」
指を振って魔法で髪の色を金に変えた。髪色を変えるだけなら簡単だ。
「この後は母上と食事だよ。君の身支度のために召使が待ってる」
ナナリーが嫌がりそうな話題を振ってみたけれど、むっと押し黙るだけであまり効果がなかった。
「申し訳ないけど、僕は送っていけないから。召使に君の部屋まで案内してもらって」
これ以上君と二人きりは勘弁してほしい。
「まだ苦しいんでしょ? わたしのことより、アルウェスが休まなきゃ駄目よ」
「その必要はない」
「ちょっと!?」
魔具を鳴らすとすぐに召使がやってくる。
「ナナリーを部屋まで連れて行ってくれる? 晩餐用に準備もしてあげて」
「かしこまりました」
平素と変わらぬ態度で召使に接するが、なぜ僕がナナリーを部屋に送らないのか疑問に思っているだろう。だが
ナナリーを廊下に送り出して扉を閉める。納得してない様子の彼女はまだ何か言いたげだったが、これ以上僕に関わらせる訳にはいかなかった。
「くっ……!」
魔物の魔力に蹂躙された痛みはすぐには消えない。僕は扉に寄りかかり、ずるずると崩れるように座り込んでいった。
次からはナナリー視点に戻ります。