ここから第四章になります。
4-1. 初心な恋人
空離れの季節二月目の初旬。
ドーラン王国シュゼルク城。宮廷魔術師長に与えられた豪奢な広い部屋で、ナナリーは赤い長椅子に座って苛立ちを
聞き取り調査はすでに四回目である。氷の始祖と会話した内容は全部、洗いざらい話している。いつになったら聞き取り調査が終わるのか。
不機嫌な顔を隠しもせず、さっさと終わらせてほしいと向かいに座る人物を睨みつける。
「魔物みたいな顔だね」
金髪の美しい男がさも可笑しそうにくすくすと笑った。この部屋の
「うるさいなっ」
悪態をつきつつ、ナナリーも茶杯を手に持ってその香りを吸い込んだ。
紅茶は香りは心を穏やかにしてくれる。心が落ち着けば冷静に物事を考えられる。
穏やかならぬ雰囲気のときこそ、殊更にゆっくりと香りを味わってお茶を飲むものよ──とノルウェラ様に教わった。
柑橘系の芳しい香りが鼻腔をくすぐる。透明感のある赤橙色のお茶を口に含めば、爽やかな渋みの後に口の中いっぱいに香りが広がる。砂糖を入れなくてもほんのりと甘く、さっぱりとして飲みやすい。
宮廷魔術師長に出す紅茶は高級な茶葉を使っているらしい。ナナリーが寮で飲んでいる紅茶よりもずっと香り高くて美味しい。
茶杯を左手に持った皿に戻し、目を閉じてほー……っと深く息を吐き出す。
紅茶の余韻に浸っていたナナリーは、何か閃いたようにハッと目を開けた。
急に頭が冴えて、忘れていた記憶が蘇ったのである。まだアルウェスに話していない、氷の始祖と交わした言葉があったのを思い出した。
ノルウェラ様のおっしゃる通りだった。紅茶の香りとは素晴らしい。ナナリーも少し頭に血が上っていたようだ。ちょっと態度が悪かったと反省し、背筋を伸ばす。
「思い出したわ」
「うん?」
「氷の始祖の話では、シュテーダルが呪いをかけて氷と火の間には子どもができないようにしたんですって」
「……ンッ……」
ブフッとアルウェスが紅茶を吹き出した。
「ンンン……ンッ」と咽せながら、長い指を振って飛び散った紅茶を綺麗にしている。
紅茶の
不意にサンサシーの虹を思い出した。サンサシーの虹とは、太陽にかかる虹のことである。空気中の湿度と太陽の熱と自然界の魔力がぶつかり合って虹のように見えるのだ。
水滴とは一切関係ない虹なのだが。
「でも、千年を過ぎたころから呪いも薄れてきているから、仲良くなさいって」
「グフッ……!」
これまたアルウェスが盛大に紅茶を吹いた。おまけに気管に入ってしまったようで、胸を叩きながらゲホゲホと苦しそうにむせている。
「……大丈夫?」
この男に一体何が起きたのだろうか。
胸元を拳で叩くアルウェスは、返事をする代わりに、片手を前に上げて問題ないと応えた。
「仕事で疲れてる? 本当は体調良くないの? もしかして夢見の魔物が……」
あれこれと思いつく限りのことを言い募るナナリーに、アルウェスはふるふると首を横に振る。
どうやら魔物の影響ではないらしい。
ならば、さっきわたしが話した氷の始祖の言葉に何か変な事柄でもあったのだろうか?
ナナリーは氷の始祖の言葉を口の中で反芻する。
シュテーダルの呪い……氷と火の間には子供ができない……でも呪いは薄れている……。千年を過ぎたころから呪いは薄れて……仲良くなさい…………氷型と火型は子どもが生せない……千年……仲良く…………仲……良く……。
──仲良く?
最近どこかで聞いた気がする。
誰が言ってたんだっけ?
顎に手を添えて記憶を辿った。何とはなしに人差し指で自分の唇をなぞっていると、その感触がある記憶と繋がり──ナナリーは大きく目を見開いた。
『……恋人たちが仲良くするときの口づけ、かな?』
(アッ────!!)
ナナリーは心の中で絶叫した。目も口もこれでもかと大きく開けて、アルウェスを凝視する。
眉間に皺を寄せ拳を口許に当てて咳をしていたアルウェスは、眼鏡の奥から伏し目がちに横目でナナリーを見て、スッと視線を逸した。
耳まで真っ赤になったナナリーは両手で頭を抱えてバッと勢いよく頭を伏せる。顔が膝につくくらい深く腰を折って、小さく小さく体を縮める。
このまま長椅子に埋まってしまえればどんなにいいだろう。
この手の話に疎いナナリーも流石に理解した。恋人、すなわち想い合う男女が『仲良く』するとは、つ、つまり、その先に赤ちゃんができるようなことをする訳で……。
な……なな……なななな……何て口付けをしてくれたんだ!! この男は!
(わたしの馬鹿馬鹿馬鹿────!)
声にならない声で呻きながらナナリーは身悶える。アルウェスの密やかな咳の音だけが部屋に響いていた。
*
「ハァー……」
茶杯の水面がナナリーの溜め息で揺れる。
無事(?)聞き取り調査が終了した数日後、ナナリーはニケと早めのお昼ご飯を食べていた。
「ナナリー? どうかした?」
ニケが心配そうに尋ねてくる。ナナリーは目を瞬いて「何でもない」と紅茶をひと口すすった。せっかく美味しくいただいた食事が後味の悪いものになってしまう。
「無理しないでいいわよ。わたしもちょっと憂鬱だもの」
八の字に眉を下げてニケが苦笑する。実はこれからニケと連れ立ってロックマン公爵家でドレスの仮縫いをしに行くのだ。
ぜひ昼食も一緒に、とノルウェラ様からお誘いがあったのだが、ニケがナナリーの休みに合わせるために少々無理をして仕事を片付けなければならなかった……ということを理由に丁重にお断りした。
決して嘘ではない。ゼノン殿下の秘書官に就いて間もないニケは忙しいし、まだニケの都合で休みを願い出るのは心苦しい状態だという。
ゼノン殿下はロックマン公爵家に行くならゆっくり休めないだろう、と明日の午前中も休みにしていいとおっしゃったらしいが、それはニケが固辞したそうだ。ナナリーにはニケの気持ちがよく理解できる。
ロックマン公爵家に足を踏み入れたら最後、仮縫いだけで終わらないだろう。お茶に夕食に、と長丁場になることは目に見えている。
明日も仕事で早いから、と言えば穏便な形でお
ナナリーたちはしっかり睡眠をとって、行きつけの食事処で美味しいご飯を食べてお喋りをして大いに笑い、英気を養って戦場に赴かんとしている。
……はずなのだが。
「ふぅー……」
またもや重い溜め息がナナリーの口からこぼれた。
*
──ひと月ほど前、ニケも一緒にロックマン公爵家で採寸をした。
ノルウェラ様はもちろんのこと、仕立て屋を紹介したマリスが同席しており、デザイン画を前に様々な布の見本を広げてあれがいい、これがいいと意見を交わす。
ナナリーとニケは同じテーブルに座ってはいたが口を挟むことはせず、大人しくマリスたちの激論を見ているだけである。デザイン画を見せてもらったり、布やレースを見せてもらったが、とんでもなく上等なものだと理解しただけで、マリスたちが何を熱く語り合っているのかさっぱりわからない。
仕立ててもらうドレスは公爵家の夜会用のナナリーとニケのドレスなのだが、その割にはデザイン画がたくさんあって、紳士用の服の絵もあったようだ。金髪の男性が描かれていたから、ノルウェラ様がアルウェスのために何か頼んだのかもしれない。
最後にはマリスと仕立て屋の女主人がキラリと瞳を輝かせて笑っていた。好敵手がお互いを認め合う瞬間とはああいう感じだろうか、と思ったくらいだ。ナナリーが積年の好敵手とあんな風に笑い合うことは絶対にないだろうけれど。
仕立て屋が帰った後のお茶会ではマリスとノルウェラ様がとても満足そうな顔でお茶を飲んでいた。
「ドレスが仕上がるのが楽しみだわ。マリスさんも夜会には来て下さるでしょう?」
「もちろんですわ、リーナ様。わたくしも楽しみにしておりますわ。アルウェス様がナナリーと初めて出席される夜会ですもの。ね、ナナリー?」
「は、はい?」
「ようやくキャロマインズ家の夜会にアルウェス様と貴女を招待することができますわ」
「マリスのお
「そうですわよ。もっと早く招待したかったのですけれど、アルウェス様ってばもう少し待ってほしいと言うばかりで……」
マリスが扇子を広げて口元を隠してふぅ、と溜め息を吐く。
「本当にねぇ。ミハエルとわたくしはもっと早くナナリーさんのお披露目をしたかったのだけれど、ずいぶん待たされてしまったわ」
「それだけアルウェス様はナナリーを大切に想っているのですわ」
「ええ、あの子の気持ちを尊重しなければ……とわかっているのだけれど」
「見ているわたくしたちの方が気をもんでしまいますわよね」
ノルウェラ様がおっとりと小首を傾げ、マリスがちろりと意味ありげにナナリーを見る。
「──で? ナナリーはそろそろアルウェス様に申し込まれまして?」
しばらく不定期更新となりそうです。