ナナリーの背後に夜空が現れる。
空間を超越し、ナナリーを包み込んで広がっていき、果てしない静謐な闇に星々が煌めく。
深い青と濃紺が織り成すどこまでも凍てついた世界。
瞬く星が頭上の一点で回転を始め、蒼く冷たい光が掲げた手の平の上で凝縮している。冷気が吹きすさび、冴え冴えとした輝きを増していく。
水色の髪がなびいてスカートの裾がはためく。
ナナリーは頭上から正面へ向けて手を振り下ろし、蒼い光を結界に叩きつけた。
蒼い光が結界を覆い尽くしてピキ、パキと音をたてながら凍らせていく。
分厚く、強固な結界を完全に凍らせなければならない。
この結界が繋がる先はアルウェスの身に潜む魔物の魔力。忌々しい呪いを凍らせて破壊する。
指先から魔力を放出し続けていたナナリーは、軽く目を閉じてフ──ッと細く長く息を吐き出した。額に汗がにじんでいる。シュテーダルを破壊したときとは違って苦しくもなく、魔力を奪われる感覚もないのが救いである。
結界全体に充分に魔力を廻らせたのを確認し、ナナリーは指を鳴らした。
パキン、という音とともに結界が砕ける気配がする。
ナナリーが寝室に飛び込むと、破壊された結界は寝台の上に黒い渦となって集まり、天蓋を通り抜けてアルウェスの胸に吸い込まれていった。
黒い闇がすべて吸い込まれてしまうと、彼の胸元からまばゆい光が輝いて彼を包み込む。
あまりの眩しさにナナリーは咄嗟に目を閉じた。目蓋の裏で白い光がおさまるのを感じて、恐る恐る目を開ける。
室内はどこも壊れてはおらず、たったひとつを除いて何も変わってはいなかった。
黒い闇もまばゆい白い光も残っていない。
寝台に横たわるアルウェスの髪が、真っ黒に塗りつぶされた闇の色から、蜂蜜色のつやつやとした黄金の輝きを取り戻している。
彼は穏やかな寝息をたて、先程までの苦しんでいた様子は影も形もない。顔色もすっかり良くなっている。
「アルウェス……!」
ノルウェラ様が滂沱の涙を流しながらアルウェスに抱きついた。ロックマン公爵も涙を堪えているようだ。
……よかった。
鼻がツンとして、目の奥から熱いものがせりあがってくる。視界がかすみ、潤んだ瞳は瞬く間に決壊して涙がポロポロと零れ落ちる。
頬を伝い落ちていく涙をナナリーは手で
ノルウェラ様の泣き声が聞こえたのだろうか、アルウェスが薄っすらと目を開けた。
「…………母上……? ……父上?」
寝ぼけているような声でアルウェスは父母を呼び、ノルウェラ様を見て、公爵を見上げる。顔だけを動かして寝台の反対側に立つナナリーに気がつくと、驚いたように目を見開いた。
「ナナリー……君……」
肘で体を支えてアルウェスが横向きに上体を起こした。胸元で長い三つ編みが揺れている。
曇りのない赤い瞳を優しく細めて口許を綻ばせる。
「君って……泣き虫だよね」
「……アンタのために泣いて、何が悪いのよ」
愛する人のために泣くものだと言ったのはアルウェスだ。それに、嬉しくて泣いているのだからいいではないか。
手で拭っても瞳からはとめどなく涙があふれ、ナナリーの喉から嗚咽が漏れる。
アルウェスは眩しそうに微笑み、ボスンと頭を枕に戻した。
「……ごめん、眠くて」
「だったら眠りなさいよ」
「泣いてる君を見ながら眠るのは嫌だな」
アルウェスの言葉には切実な響きがあった。ナナリーは手の甲でぐいっと目元を拭い、頑張って口の端を持ち上げる。泣き笑いになったのはしょうがない。
フッとアルウェスは笑って、安心したように目を閉じた。
*
「ありがとう……ありがとう……ナナリーさん」
ノルウェラ様は泣きながら感謝の言葉を繰り返した。柔らかくて白い指がナナリーの手を握りしめる。
アルウェスの体内にあった魔物の魔力は全てクリスタルの魔具に吸収された。透明だったクリスタルは澱んだ闇を閉じ込めたように漆黒に変わり、ノルウェラ様もアルウェスから邪悪な気配は感じられないという。
公爵夫妻に食事に誘われたけれど、ベンジャミンを一人で家に置いてきているのでお断りした。ベンジャミンもアルウェスを心配しているだろう。
ナナリーは転移の魔法陣でサタナースと南西の森の小さな泉の畔まで跳び、そこでサタナースと別れ、再び魔法陣で寮に帰った。
家にあるもので適当に夕飯を済ませて、お風呂に入ると寝台に倒れ込むようにして寝てしまった。
夢も見ないでぐっすりと眠り、日が昇る頃に目が覚めた。窓から射し込む朝の光を浴びてもなかなか頭が起きなくて、朝ご飯を食べながらベンジャミンの家に行ってからのことを一つひとつ思い出していった。
公爵家でたくさん泣いてしまったので目の周りが少しだけ腫れていて、氷水に浸けた布で冷やしてから苦手な治癒魔法をかける。
目元の腫れも治り、出勤しようと寮の部屋を出ようとしたところで、ノルウェラ様から魔法陣で手紙が届いた。
アルウェスは今朝早くに目覚めて元気だという。今日は家で休ませるから、ハーレの仕事の後にでも公爵家に来てほしいと書いてある。
ナナリーは明星の鐘の頃に伺います、と返事を送った。
*
ハーレ終業後、魔法陣で公爵家に転移したナナリーは執事に案内されてアルウェスの私室に来た。
扉をノックしても声をかけても返事がなく、困惑する執事に一言断ってからナナリーは薄く扉を開ける。
アルウェスの部屋は昨日動かした調度がちゃんと戻されており、窓際の机の上に蜂蜜色の頭が乗っているのが見えた。窓を背にして、こちら向きに置かれた机に突っ伏してアルウェスが寝ている。
「起きなさいよ!」
ナナリーだけが部屋に入り、扉を閉めてカツカツと机に歩み寄る。
「……ん……」
「こんなところで寝ていたら風邪引くわよ」
「……うん。君を待つ間……仕事してたら、寝てた」
アルウェスは結わずに垂らした蜂蜜色の髪をかきあげる。
腰まで届きそうなほど長かった金髪は肩の上で切り揃えられていた。指の隙間からさらさらと零れて滑り落ちる。
「こんなときまで仕事する必要ないでしょう。私はすぐに帰るから、ちゃんと寝台で寝なさいよ」
「大丈夫だよ」
机の上に置かれていた銀縁の眼鏡をかけ、アルウェスはごく自然な動作でナナリーの肩を抱いて長椅子へと
至極当然のような振る舞いに驚いたナナリーは、しげしげとその白皙の容貌を見上げる。彼は不思議そうな顔で小首を傾げ、眠そうに欠伸をした。
アルウェスが召使を呼び、すぐにお茶とお菓子が運ばれてくる。ハーレから直行したナナリーは実はとてもお腹が空いていた。お菓子をひとくち食べると手が止まらなくなって、パクパク食べてしまう。
「お腹空いてるの?」
隣に並んでお茶を飲むアルウェスが軽やかに笑う。ナナリーはお菓子に伸ばしかけた手を一旦引っ込め、紅茶を手に取る。芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
「仕事終わってすぐに来たから」
「もうすぐ夕食だから、一緒に食べよう」
ナナリーは紅茶を飲みながらこくこくと頷いた。
「髪の毛、切ったのね」
「うん。いいかげん長かったからね」
「気分はどう?」
「スッキリしたよ。文字通り憑き物が落ちた感じがする」
「よかった」
アルウェスはサッパリした明るい顔をしている。
「やっぱり君には敵わないな」
「何よそれ? アンタこそ、ずっと一人で苦痛に耐えてたんでしょう? 並みの精神力でできることじゃないわよ」
屈託がない表情で笑うアルウェスにナナリーは唇を尖らせた。
あの結界はすべて彼が考えて作ったものだ。ナナリーは彼の手の平の上で踊っていただけ。これで勝ったなど思えるわけがない。
「他にも罠を張ってあったの?」
「罠?」
「あんな罠がなくても、頼まれればアンタの中の魔物を破壊したのに」
「罠じゃなくて策って言ってくれない? 君がやらなくても、クリスタルの魔具が魔物の魔力をすべて吸収する目算は立っていたよ」
「それは……そうだろうけど」
「クリスタルの魔具も君のお蔭だからね」
「クリスタルはララのお蔭よ」
「片意地張らないで。僕は君にとても感謝してるよ。ありがとう、ナナリー」
アルウェスがにこにこと笑う。
「わ、わかったから!」
落ち着かないのは妙に上機嫌なアルウェスのせいだ。慌ててお菓子を口に運ぶ。
「あの結界、どんな仕組みだったの? どうしてあんな結界を自分の部屋に?」
魔法の話をしよう。ややこしい魔法理論や魔法陣の作り方の話になれば他のことは気にならなくなるだろう。
「────君を寝室に入れたくなかった」
麗しい顔が急に憂いを帯びる。真摯な赤い眼差しの奥に鋭利な光が見える。
「……わたしは信用されてないの?」
「そうじゃない。君を寝室に入れたら、自分を抑えられるか自信がなかった」
「魔物に乗っ取られる危険があったってこと?」
「乗っ取られるようなことはしないよ。でも、君に関しては僕は冷静でいられないから。何が起きるかわからない」
よく理解できなくて、ナナリーはこてんと小首を傾げる。
「僕は魔物に呪われていた。そんな体で君を汚すわけにはいかなかった」
アルウェスが指の背でナナリーの頬を撫でた。
「でも、魔物の魔力は君が破壊してクリスタルに閉じ込めてくれたからね。心置きなく君に触れられるよ」
甘いお菓子の匂いと日向のような暖かな香りが混ざる。逞しい腕がナナリーを抱き寄せ、温かな肌のぬくもりに包まれる。
淡い吐息がナナリーの前髪を揺らし、柔らかな感触が額に触れた。目蓋に、鼻の頭に、頬に、しっとりとした口付けが落とされていく。
ナナリーの手からポロッとお菓子が落ちた。お菓子はスカートの上を転がり、足元の毛足の長い絨毯に落ちて跳ねる。
「落ちちゃったね」
半開きになった口に新しいお菓子が差し込まれる。押し込まれるお菓子をサクサクと食べ、お菓子を食べ切ったらアルウェスの人差し指が唇の間に捩じ込まれた。
アルウェスは指でナナリーの前歯に触れ、赤い瞳を揺らして笑みを深める。
ナナリーが目を瞬くと、引き抜かれた指はそのまま顎を捉え、髪の色と同じ蜂蜜色の長い睫毛が伏せられて、鮮やかな赤が隠された。
美しく整った綺麗な顔が鼻と鼻が触れそうなくらいに近づいて、唇が重なり、ちゅう、と吸って離れていった。
ナナリーは目を閉じることも忘れて、びっしりと生えた睫毛が微かに震えるのを見ていた。
え……なに? アルウェスの破廉恥度が増している?
顔色も変えずに女性を褒めそやす女タラシではなく、
明るく、邪気がなくて真っ直ぐに破廉恥だ。
そして
どろどろに煮詰めた甘い蜜がナナリーの髪の毛から足の先まで絡まって、捕らわれた。
砂糖の塊なんて可愛いものだった。手で払えば簡単に落ちるのだから。
──このまま二人でいても大丈夫だろうか?
ナナリーは初めて本気で身の危険を感じた。