「……ン…………いいにおい……」
ナナリーの肩に顔を
耳の隣に心臓があるのかと思うくらい動悸がうるさい。ナナリーは頬を染めてカチコチと体を強張らせている。
細身だけれども筋肉質で逞しいアルウェスから逃れられる気がしない。こんなに顔が熱くなっているにもかかわらず、彼の胸の方が温かかった。
お日様の匂いは嫌いじゃない。まあ、かなり好ましい。匂いはそのままで、これがニケやベンジャミンの柔らかい
うん、現実逃避だとわかっているけど、爆発寸前だった心臓が少しだけ楽になった。
身動きできずにアルウェスの腕の中で固まっていると、彼が大きな欠伸をした。
こんなときに欠伸だなんて人の気も知らずによくも、と張り倒したくなったが、ちょっとホッとした。
やはり眠いのだろう。さっさと眠らせたほうがいい。
「どうしてそんなに眠そうなの?」
「時の番人事件からずっと眠りが浅かったんだ」
「やっぱり私は帰るわ。早く寝なさいよ」
「
ナナリーを抱き締めたままアルウェスが首を横に振る。
なんだこの駄々っ子は。これが成人したいい大人か。
ナナリーは呆れて眉をひそめたが、呪いが解けた反動かもしれないと思い直した。
半分寝ぼけているし、この男にしては珍しく甘えているのだ。それはそれで少し気持ち悪いけれど、これまでの精神負荷が酷すぎたと思えば、誰かに頼って甘えるのは悪いことではない。
そうそう、大きな子どもだ。子どもなら素直に人に甘えたり抱きついたり口づけしたり……。
「しないわぁ!!」
こんな破廉恥な子どもがいてたまるか!
「ナナリー?」
「な、なんでもない!!」
「変なの」
くすりと笑って、アルウェスは腕を緩めてナナリーを解放した。ホッとしたのも束の間、彼は長椅子にごろんと横になる。ナナリーの膝を枕にして。
「アルウェス!?」
「ちょっとだけ寝させて」
「ちょっ……! や、やだ!」
「……駄目?」
邪気のない赤い瞳が膝上からナナリーを見上げる。
上目遣い……!
いつも見上げている好敵手をたまには見下ろしてやりたいと思ったことは数知れず。しかしこんな状況を誰が想定しただろうか。
耳まで赤くしてただ口をハクハクさせるしかできない。
「もうっ! 少しだけよ!」
「わかった。少し寝たら起きるから」
くすっと笑い、アルウェスはすぐに目を瞑る。
「眼鏡、外すわよ」
「ん……ありがとう」
髪の毛に引っ掛けないように眼鏡を外して魔法でテーブルの上に静かに置いた。
いくらもたたないうちに、膝の上にずしりと重みがかかり、くうくうと健やかな寝息が聞こえてくる。
……寝ちゃった。
意外や意外、狸寝入りではないようだ。
ナナリーは毒気を抜かれてしまい、かっかと
高い鼻梁に凛々しい眉。長い睫毛に縁どられた目は顔の面積に比べて大きくて、薄く開いた唇は小ぶりで品が良い。
陶器のように滑らかな肌は騎士という職業には似合わないほど白く、そばかすなんてまったく見当たらない。
アルウェスの長い
お行儀が悪いが、外用のブーツではなくて室内履きを履いてるからひじ掛けが汚れる心配はなさそうだ。
上半身は白いシャツに紺色のベストだけ。寒くないだろうか、と心配になって部屋の中を見回した。残念ながら毛布の類は見当たらず、ナナリーは自分の外套を指で呼び寄せてアルウェスに掛ける。脚はほとんどはみ出してしまうが、ないよりはましだろう。
ナナリーは背もたれに寄りかかってハァ、と吐息をもらした。ようやく人心地ついた。
膝枕とは存外に不自由なものだとわかる。下手に動けないし、お茶を飲むのも難しい。
話し相手もいない。することがなくて暇である。せめて何か読むものが欲しい。
この部屋には本が山ほどあるけれど、万が一滑って落としたらと思うと怖い。アルウェスの顔に直撃だ。
胸元で腕を組んでうーんと唸り、鞄に魔術書の写しが入っているのを思い出した。ハーレの資料室で貴重な本を写させてもらったのだ。
鞄を魔法で呼び寄せて、写しを数枚取り出した。内容は防御魔法、認識阻害の魔法、防具や魔具の形状を変える魔法についてである。
学びたいことは山程あり、ドルセイムの知恵もほとんど活用できてない。とても勿体ないと思う。
休みの日にベンジャミンたちと訓練がてら試してみようか?
ハーレではドルセイムの知恵を秘密にしているけれど、事情を知ってるアルケスさんと二人のときなら事前調査で使っても大丈夫ではないか?
「……ン」
アルウェスが身じろぎし、体を横向きにする。それもナナリーのお腹に額をあてて。「ひゃっ……」と声を上げてお腹に力を込めた。
近頃ご馳走を食べる機会が増えている。マリスが体型を気にするのがわかる。貴族のお家の食事は美味しくて量も多い。
ノルウェラ様はどうやって体型を維持しているのだろう。いくら食べても太らないのも血か。
いまにも甘い香りが立ち上ってきそうな明るい蜂蜜色の髪に触れる。柔らかくてとても手触りがいい。
やや骨ばった頬を指で撫でれば、
アルウェスがよくナナリーの髪や頬を撫でるけど、なるほど、これは触り心地がいい。
髪は絹糸のようで、指通り滑らかだ。手櫛で梳かして光に透かせば深い輝きがある。
この髪をバッサリ切ってしまったのだから思いきったものだ。惜しむ声もあっただろう。切った髪を欲しがる女性も多いだろうに。
取り留めもないことを考えながら柔らかな髪を撫でる。──その手に何かが触れた。
大きな手がナナリーの手をそっと掴み。
赤い瞳がこちらを見ている。
はらりと魔術書の写しが毛足の長い絨毯に落ちた。
「これはっ! 特に意味はなくて!!」
「……残念。気持ちよかったのに」
掴まれた手をぐいぐい引き抜こうとすれば、名残惜しそうに離される。
羞恥心で真っ赤になったナナリーは、慌てて落ちた紙を魔法で手元に集め、頭を必死に回転させた。
「そ、そうよ! 『お願い』は決まった!?」
「おねがい?」
アルウェスがきょとんとする。
「魔石の勝負でアンタが勝ったでしょ!? 何がいいの?」
高速で頭を回転させた結果捻り出した話題がこれだった。完全に失敗した。余計に自分の首を絞めそうな予感がする。
「ん──……」
アルウェスが向きを変えて仰向けになる。外套が落ちそうになるのをアルウェスが手で押さえ、喉元まで隠すように引き上げた。
上目遣いの赤い瞳がちろりと光る。
あざとい。
魔法学校で貴族女子がやっているのをよく目にしたが、わざとらしくて白けたものだ。しかしアルウェスはその真価を遺憾なく発揮している。
こんな目付きでお願いされたら断れる女性はそうそうおるまい。恐るべし、アルウェス・ロックマン。
「……君の作ったご飯が食べたいな」
「わたしのご飯?」
言われてみれば、親しい間柄になってからアルウェスに手料理を作ったことはなかった。ちびアルウェスがナナリーの部屋に泊まったときだけだ。
まあ、でも、普通のお願いでよかった。これ以上恥ずかしい思いはしないで済む。
「わたしのご飯で良ければ作るけど、大したもの作れないわよ?」
「君が普段食べているものでいいよ」
「普通の……」
改めてそう言われると困る。顎に手を当ててナナリーは真剣に思案した。
「アルウェスの好きなものって何?」
「僕の好きなもの?」
「好きな食べ物があるなら頑張ってそれ作るわよ。あ、でも公爵家で出されるような貴族の料理はできないからね?」
不意に、アルウェスが真摯な赤い眼差しでナナリーを見つめる。赤と碧が数秒交錯して、形のよい唇がぽつりと言葉を紡いだ。
「──ポルカ」