今日の食事は楽しみましょう、とノルウェラ様がおっしゃったので、ナナリーがテーブルマナーについて厳しく注意されることはなかった。晩餐としては略式のものだと教えてもらったが、ロックマン公爵家ではそれが普段の夕食なのだそうだ。
頭の中で作法を復習していたらノルウェラ様とマリスの会話が耳を素通りしていた。鋭い視線を感じ、慌てて顔を上げる。マリスの目がギラリと光った。
マリスが色々と話題をふってくれるものの、ナナリーはすぐに会話が終わってしまう。このままではまずい。これでは学生時代に貴族女子の会話を横目にニケたちとご飯を食べていたときと変わらない。もうあのときとは違う。貴族女子に交じって食事をしなければならないのだ。
ナナリーは姿勢を正し、どうしたらマリスのように会話が続くのか耳を澄ませる。
「ナナリーは踵の高い靴に慣れていませんでしょう。これからは毎日履いたほうがいいですわ」
「え? 毎日?」
「『え?』じゃございませんわよ。ヒールに慣れていないとダンスのターンのときに踵に重心がかかって見苦しいのです。男性にもとても負担がかかりますの。貴女、アルウェス様やゼノン殿下と踊るのでしょう?」
──ゼノン殿下とも踊るの!? まさか!!
ナナリーはぎょっとして目を剥いたが、かろうじて心の中で叫ぶのにとどめた。
「ナナリーさんはほとんどダンスをしたことがないそうだけれど、前に踊ったのはいつかしら?」
どきん。ナナリーの心臓が大きく跳ねた。
「ええと……」
前にまともにダンスを踊ったのは王宮の仮面舞踏会で、しかも相手は豚の紳士……もとい、ロックマンである。
仮面舞踏会はロックマン公爵に頼まれて潜入した訳だし、国王陛下も承知していたのだからノルウェラ様もご存知だろう。でも、仮面舞踏会にはマリスも来ていた。彼女の前で話題にするのはやっぱり
それに、平民のナナリーが王宮の舞踏会にいたことはなるべく秘密にした方がいいと思う。マリスは規律には厳しいタイプだ。
仮面舞踏会以外でダンスを踊ったのは卒業パーティーしかない。
「ロック……ァ……アルウェス様と……卒業パーティーで……」
ロックマン、と呼びそうになって慌てて飲み込む。ナナリーはもごもごと呼び慣れない名前を口にした。
「ノルウェラ様、卒業パーティーでアルウェス様はナナリーとラストダンスを踊りましたのよ」
「あらまあ、あの子がラストダンスを? ナナリーさんと?」
ノルウェラ様が嬉しそうに笑っている。
思い返せば仮面舞踏会もラストダンスだった。あれは仮面舞踏会だし、豚の紳士の正体が誰かなんてナナリーは知らなかった。でも、ロックマンは私のことに気づいていたのではないだろうか。魔法が解けたときに全く驚いた様子がなかった。
どうしてロックマンは私をダンスに誘ったんだろう?
ふと疑問が沸いたが、私は首を小さく横に振った。
きっと意味なんてないに決まってる。仮面舞踏会だし、カーロラ王女に振られるためにロックマンは豚頭の仮装までしていたのだ。ラストダンスをカーロラ王女以外の女性と踊ったという事実が必要だったのだろう。
晩餐が終わるとノルウェラ様と侍女さんが今後のレッスンのスケジュールの話を始めた。マリスがニケも一緒にやればいいと提案してくれた。ノルウェラ様はニケをご存知で、ロックマンに相談してくれるという。
ナナリーはドレスからハーレの制服に着替えて、マリスと一緒に帰るために広い玄関ホールへ出た。そこは吹き抜けになっていて、パーティーができそうなくらい広い。天井には大きなシャンデリアがあり、玄関の扉と反対側の最奥には上階へ通じる大きな階段がある。
ナナリーは屋敷の中がまったくわからないため、侍女さんに案内してもらう。屋敷内にかけてある魔法のおかげで数メートル歩いたら玄関ホールに着いていた。
階段の下で待っていると、上階から赤いドレスを着た赤茶色の髪の美女が女王様のようにゆっくり階段を降りてくる。マリスだった。
「マリス、女王様か王女様みたい」
「貴女は相変わらず子どもみたいに素直ですのね」
玄関扉の前でノルウェラ様を待つよう執事さんに告げられる。マリスは使い魔ではなく実家の馬車で帰るという。魔法学校時代と違い、使い魔で飛び回ることはできないらしい。ナナリーとマリスは執事さんや使用人から少し離れた場所でお喋りをした。
「マリス、今日は本当にありがとう。凄く心強かった」
「明日からはわたくしは付き合えませんからね。ノルウェラ様に教えていただけるのですから、しっかり精進なさいませ。ミスリナ王女のお茶会の前にはわたくしが貴女を試験してあげますわ」
「お茶会の試験!?」
「何ですの? ミスリナ王女に失礼のないように、事前にわたくしが指導して差し上げるのにご不満でも?」
「いいえっ!! お願いします!」
「いいお返事ですけれど、淑やかさがまったく足りませんわ。令嬢教育で女性らしい所作と言葉遣いも身に付けてくださいませ」
マリスは頬に手を添えて溜息を吐いた。
ノルウェラ様が玄関ホールの奥の階段の上に現れた。ナナリーとマリスがお喋りをやめてノルウェラ様に視線を向けると、ノルウェラ様が優しく微笑んでいた。ロックマンの姉のような外見のノルウェラ様は美しく華やかで、天から舞い降りてきた女神様のような雰囲気を持っている。
マリスが階段を降りてきたときのように、ナナリーはノルウェラ様が優雅に玄関ホールへ降りてくる姿に心を奪われていた。
「ナナリー」
自分を呼ぶ声にハッとしてマリスを見る。マリスはぱらり、と慣れた手つきで扇子を広げて口元を隠し、おもむろにじっとナナリーの瞳を見つめた。
「わたくしはアルウェス様が心に秘していることを暴いたことはありませんし、これからも絶対にいたしません」
マリスがフッと目元を緩ませる。
「ですが、これだけは言わせていただきますわ。アルウェス様がラストダンスを踊ったのは、貴女だけですのよ」
「マリス……」
お人形さんのような美少女から艶やかな美女となった親友の笑みに、ナナリーは言葉を失った。何か喋ると言葉以外のものが目から溢れてきそうで、ナナリーは頷くことしかできなかった。
「わたくしは先に帰らせていただくわ。貴女はもっとノルウェラ様やアルウェス様とお話をなさいな」
ぱちんと扇子を閉じてマリスは
立ち尽くすナナリーの返事を待つことなく、マリスは一人でノルウェラ様のおそばへ歩いて行く。ノルウェラ様と少しお話をすると、惚れ惚れとするような淑女の礼をして帰っていった。