「アルウェス様が帰ってくるまで待ちます」と伝えると、ノルウェラ様はナナリーをお茶に誘った。最初に通されたキラキラした応接間とは違う、比較的こじんまりとした部屋でお茶を頂くことになった。家族用の談話室だという。
壁際には暖炉があり、シンプルではあるが重厚なマントルピースの上には小振りな肖像画がいくつか飾ってあった。木製の艶のある家具で統一され、渋い革張りのソファにローテーブルが設えられた部屋は温かみがあって、ナナリーの気持ちを落ち着かせた。
「ナナリーさん、今日は疲れたでしょう? ダンスは覚えてしまえば難しくはないと思うのだけれど。アルウェスも十二、三歳のころに覚えてからは、そんなに練習はしてないのよ」
「はい……」
目の前に置かれた紅茶から芳しい香りが立ち上ってくる。ノルウェラ様が美しい所作で紅茶を飲んでいる。ナナリーはぎこちない仕草でカップを口に運んだ。ノルウェラ様と二人きりになるのは初めてだ。
「アルウェスとナナリーさんは魔法学校では席が隣同士だったと聞いたわ」
「はい」
「アルウェスとゼノン殿下からときどき話を聞いてたのよ。アルウェスが、隣の席の女の子と勉強も魔法も競い合っているって」
「いえ、競い合うというか、私が常に張り合っていただけというか……」
「毎日のように喧嘩していたと聞いて驚いたわ。アルウェスが喧嘩する女の子はどんな子だろうとずっと思っていたの」
ノルウェラ様が優雅に微笑んでいらっしゃる。
ナナリーは頬がひきつるのを感じた。どうしよう、ノルウェラ様とこの話をするのがこんなに恥ずかしいなんて。
あいつを好きになる前なら、殴られたとか、髪を燃やされたとか、悪態をつきながら話をしていただろうに。セーメイオンの呪文を唱えた後の腕力と魔力を使った喧嘩は、私の魔力の暴走を防ぐためにわざとけしかけていたのだと今では知っている。
「あの、喧嘩といっても、子供同士の本当にちっぽけな、他愛もない喧嘩です。ああ言えばこう言うというのをしょっちゅう繰り返してて」
「まあ……そうなの?」
はい、そうなんです。
この間、過去に戻って実際にこの目で見てきました……とは言えない。
「私は負けず嫌いなので、つい言い返してしまって」
「でも、アルウェスが子供らしい喧嘩をしていたなんて嬉しいわ」
ノルウェラ様が母親の顔をしている。とても若々しくて息子が四人もいるなんて思えない美しい方だけれど、やっぱりあいつの母親なんだ。
しまった。ロックマンのお母様の前で心の中だけでもあいつなんて言ってはいけない。『ロックマン』と呼ぶ訳にもいかない。ア、ア、ア、アルウェス、アルウェスだ。声に出さずに口の中で何度か『アルウェス』と練習する。ノルウェラ様と話すときには『様』も付けたほうがいいだろう。公爵子息だし、彼のお母様と話をしているのだから。
私は大事なことをロック……アルウェスのお母様に伝えておかなくてはならない。
「魔法型がわかったとき、私の髪と瞳の色が変わったんです。魔力が溢れた兆候で、それに気づいたアルウェス……様が、喧嘩で魔力を放出できるように誘導してくれていたんです。当時の私はそんなことは全くわかってなかったんですけど。私は毎日彼に魔法をぶつけて、魔力を暴走させずに済みました」
もし彼がわざと喧嘩をふっかけてこなかったら、私は魔力の暴走に苦しんでいたのだろうか? 小さかった頃のアルウェスみたいに?
──ただ健やかに、制限もなく、僕のようにならなければいいと思った──
あんなに無邪気に真っすぐに魔法や勉強に打ち込んで、毎日友達と一緒に笑って。私は憧れのハーレに就職できていただろうか?
もし彼と出会っていなかったら。魔法学校を二位で卒業してハーレに就職したナナリー・ヘルは存在しなかったかもしれない。
「アルウェス様には感謝しています」
彼が帰ってきたら、ちゃんと伝えよう。
私はノルウェラ様の目を見てにっこり笑った。ノルウェラ様はちょっと涙目で、そう、そうだったのね、と呟いた。
お茶会はそこでお開きとなり、私は客室で少し休むことにした。客室には書棚があり、礼儀作法やダンスの本の他に他国の文化や歴史、政治、経済に関する本、様々な魔導書が並んでいた。海の国に関する本まである。しかし、本を手にとってソファに座ったものの、まったく文字に集中できない。
『アルウェス』
私はロックマン公爵様とノルウェラ様の前でしか『アルウェス』と呼んだことがない。
ロック……アルウェスも長いこと私を『ヘル』と呼んでいたけれど、彼の誕生祝いに二人で食事をしたときから『ナナリー』と呼ぶようになった。初めてナナリーと呼ばれたときは、顔を真っ赤にして何も言えなくなってしまったけれど。
私も『アルウェス』と名前で呼んだ方がいいのだろうとわかっていたが、どうしてもできなかった。喧嘩ばかりしていた関係の時間が長すぎて、彼と普通に素直に話をする方法がまだわからない。
過去に戻ったときには、十六歳のアルウェス少年に対してほぼ初対面でもずけずけと色々聞いてしまったのに。
自分がひどく子どもに思えてくる。
*
コンコン、と控え目にナナリーの客間の扉をノックする音がした。
「ナナリー?」
部屋の中から返事はない。
「ナナリー、僕だよ。入るよ?」
騎士服姿のアルウェスが静かにドアを開けて入ると、ソファでナナリーが眠っていた。床に本が落ちている。
「こんなところで寝ると風邪を引くよ」
本をテーブルの上に置いて、ナナリーの頬にかかった長い水色の髪をそっとかき上げる。ナナリーは熟睡していてまったく起きる気配がない。
アルウェスの脳裡に、ウォールヘルヌス後に長期間昏睡していたナナリーの寝顔がよぎった。昏睡中のナナリーを何度も見舞いに行ったときのように、手首に触れて体温と脈を確かめてしまう。
……ナナリーはただ眠っているだけ。当たり前だ。
髪が水色ならまだいい。焦げ茶色の髪で眠る君は見たくない。足元がぐらつくような焦燥感と、僕の不甲斐なさを思い出すから。
「……ん」
身じろぎした彼女からこぼれ出た声に、アルウェスは目を細めて口元を綻ばせた。水色の髪を撫でて、ふっくらとした柔らかい頬に触れる。
「ねえ、いいかげん起きたらどう?」
彼女は目を覚ますことはなく、すやすやと寝息を立てている。アルウェスは長い溜息を吐いた。
「まったく君は……」
抱き上げようと彼女の体に触れればくらりと理性が揺れる。背中に流れる水色の髪と細い体をぎゅっと抱きしめる。
……碧い瞳を見せてくれたらいいのに。
これぐらいは許してね、と呟いてアルウェスはこめかみに口付けをする。無邪気に眠る愛しい人を抱き上げると奥にある寝台へ向かった。