――ある者が言った。幻想郷とは、忘れ去られた存在の楽園だと。行き場を失った者達の最後の希望なのだと。
ある者が言った。幻想郷は魔境だと。数多の神霊や妖怪が渦巻く蟲毒の坩堝だと。
またある者が言った。幻想郷は楽園でも魔境でもない、ただの墓場なのだと。そこに行きつくほどまでに困窮した者に、もう未来は無い。停滞の中で緩やかに腐って死んでいくのだと。
どれほど資料を漁っても、その存在を印す書物は全く無い。それは余りにも行き過ぎていて、誰かが故意に情報を抹消しているのではないか、そう疑ってしまうくらいだ。
荒唐無稽な都市伝説だって、ネットや場末のオカルト雑誌くらいには載っている。
確かにその存在は人口に膾炙しているはずなのに、手掛かりはまるでないのだ。
いや、この言い方には少々語弊がある。
正確に言えば、幻想郷の存在は人口に膾炙しているわけではない。
その話題を口々にのぼらせるのは、決して人などではないからだ。
怪異、妖怪、あるいは怪物と呼べばいいのか、はたまた神か、兎にも角にも、この世界には人ではないものが確かに息づいている。
俺を育ててくれたあの人だってその類だ。
俺はいつも優しかったあの人を女神くらいに思っているけれど、それは結局俺の主観でものを言っているにすぎないので、もしかすれば悪鬼羅刹の類だった可能性すらある。
鬼子母神は自分の子に優しかったし、山姥が捨て子を拾って育てるという伝承はそれなりにあるのだ。
だが、妖怪、悪鬼、悪魔と呼ばれる存在が元は神であったのが宗教的迫害を受けて、その身を貶められたという話もあるので、彼彼女たちを明確に分類する必要があるのかは定かではない。
とりあえずは、人外、そう称しておけば十分だろう。
そして、俺が探して止まない『幻想郷』はその人外たちの生活圏だ。
だから、人に聞くより、人外たちに話を聞くのが手っ取り早い。
実際、どれほど人に聞き込みしても幻想郷の名前すら出てこなかったというのに、その辺を彷徨ってる人外に聞けばすぐに『幻想郷』の名は挙がる。
最も、今のところは俺が知っている以上の情報をもった人外には出くわしていないのだが。
そも人外には人間に攻撃的な者も多く、また人語を介さないタイプも存在する。
だからこそ、この微妙極まりない成果は仕方がない話ではあった。
一応、『幻想郷』へ辿り着くための方法の一つは判明している。
仮説の域を脱し切れてはいないが、勝率は高い。
ただし、失敗して失うものも大きい。
――命だ。
この仮説を実証するには命を懸ける必要がある。
そんな覚悟をしなければならない程、危険な行いをしなければならないという意味ではない。
自殺行為と称させる程度の危険ならとっくに冒している。今更躊躇は無い。
問題なのは、『幻想郷』へ辿り着くための行為が
忘れ去られた者の楽園に辿り着くために、この世界から忘れられる、つまり命を絶つ行為が幻想入りするためのトリガーとなる。
この仮説の信憑性は極めて高い。
しかし、自殺行為とされる危険を冒すことと、自殺することは似ているようでまるで違う。
前者は己の能力次第では回避する可能性はあるが、後者は違う。なにせ本当に自分で自分を殺すのだから。
命を懸けてどうこうするとかじゃなくて、ダイレクトに自分を殺しているのだから。
それは流石に躊躇しても仕方ないだろう。
大体、あの人が俺にそんな方法で幻想郷に辿り着くことを望んでいるとは思えなかった。
もしそうなら、あの人の訓練は何だったんだという話になる。
あの人が俺に教えてくれた不思議な術理の数々は、おそらく、俺が幻想郷に辿り着くためのものだ。
教えた知識と術理を駆使して、幻想郷に辿り着く。それがあの人が俺に出した最終課題であるはずなのだ。
そして、それを成し得たとき、俺があの人の助けになるほどの力を得たという証になる。
あの人の期待に応えるためには、別の方法で幻想郷に辿り着かなければならない。
けれど、その方法がまるで思いつかない。幻想郷の位置を正確に知る者を見つけ出せれば話は別だが……
そう言えば、出される課題に頭を悩ませる俺をいつもあの人は優し気な瞳で見つめてくれていた。
急かすわけでもなく、呆れるわけでもなく、目を逸らさずに、俺が答えを出すのをじっと傍で待っていてくれたのだ。
正解したときに、あの人に頭を撫でられるのが好きだった。
思い起こせば、本当に不思議な人、いや人外だった。
人外に関われば関わるほど、あの人が極めてその中でも異質な存在だったことが浮き彫りになる。
俺は多分、知らず知らずのうちに、途方もない程強力な存在に教えを受けていたのだろう。
しかし、そうだとするなら疑問が残る。
――何故、あの人は俺の力を必要としたのか?
俺の生まれ持った異能なんて、本当にとるに足らないものだというのに……
それこそ、あの人の
分からないことばかりだ。
軽い足取りで舞い、右手の木刀を振り、左手にもった鈴を鳴らす。
本当は真剣の方が適しているのだろうが、生憎用意は無い。
それに、人が寄り付かない場所といえど、刃物を振り回すのは気が引けた。
ダンッと地を踏みしめ、木刀を左から右へ振るい、鈴を二回。
体を半回転させ、木刀を逆袈裟に、次は鈴を三回。
凛とした音色を寂れた社の境内で響かせる。
社を囲う木々が風に揺れる。
さっきまで鳴いていた虫の声はとうに止んでいた。
上を見上げれば、曇り一つない夜空に満月が浮かんでいる。
輝く星々にも陰りは無い。
とうの昔に主を無くし、朽ちていくだけだった社は今日、この時間帯だけは、嘗ての威光を取り戻したかのように、荘厳で、神秘的な輝きを帯びていた。
神楽は続く。
主は居なくとも、この場に集うものは居る。
大気が震えるとともに、目では捉えられない者達の息遣いが聞こえてくる。
――神霊、あの人はこの手のものをそう呼んでいた。
神という名がつくと大層だが、実際はそれほど強力な存在ではない。
八百万の神などと言うように、神自体が十把一絡げであり、玉石混合。そしてここに集う神霊は正式な神としての位階すら持たぬ、名無しの霊。
いつ消えるとも知れない、希薄な存在である彼らの声を聞き、彼らに触れ、彼らを降ろす。あの人に教わった技を俺はひたすらに実践していく。
彼らは非常に気まぐれな存在ではあるが、悪意は薄い。
だからこそ、比較的に安心して情報収集を行うことができるのだ。
娯楽に飢える彼らは、本職には程遠いであろう俺の拙い神楽でも十分満足してくれる。
神霊たちが代わる代わる俺の体に宿っていく。
様々な声が頭の中で響いていった。
今日は一層饒舌な日らしい。
月が満ちているのが関係しているのだろう。
滴る汗も、切れる息も気にも止めず、舞い続ける。
――ふと、荘厳な場を打ち消すようなアラームがけたたましく鳴り響いた。
神楽が止まり、集った神霊が蜘蛛の子を散らすように俺の体から離れていく。
目を向ければ、社の階段に置いてあったスマートフォンが振動ともに音をたてていた。
「――あぁ、もう三十分経ったのか……」
あらかじめタイマーを設定していたのだ。
神楽にのめり込み過ぎてはいけない、あの人に教わった事だった。
神霊自体はそう危険な存在ではないが、神霊を降ろすという行為は危険が伴うのだ。
「ッ‼」
ぐらりと、体が芯から揺れる。
木刀を地面に杖のように突き立て、何とか体を支える。
神憑りの消耗は激しい。
肉体の疲弊はもとより、精神のすり減りが一番きつい。
「やっぱり満月の日は堪えるな……帰るのに時間がかかりそうだ……」
息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐く。
いっそこの場で横になって眠りたいくらいだった。
けれど、今日の神楽には労する価値はあった。
思わず口角が吊り上がる。
――やっとまともな手がかりをつかむことができた。
「もう少し、もう少しだけ待っていて下さい。必ず俺があなたを――」
あの日の約束を回顧し、俺は軋む体に鞭を打って、スマートフォンを回収すると、その場から足早に立ち去る。
最後にふと社を振り返ってみれば、そこにはもう、何の輝きも示さない朽ちた廃墟があるだけだった。