あと今回いつもより長いです。
いつの間にかそこに立っていた青年――八雲零の存在に、私たちの目は釘付けになった。
こんな異様な場所に居て尚、場違いな場所に居て尚、なぜだか青年は周りの空気に溶け込むように、自然とそこに存在している。
「……馬鹿な」
呆然としたように鬼が呟いた。目の前に居る青年の存在が、鬼にはどうやら余程受け入れがたいようだった。最も、それは私たちも同じだ。
「……有り得ん、今宵の獲物は二匹だったはずだ! 貴様、一体どうやって此処へ!?」
瞠目する鬼に、八雲は落ち着き払った様子で答える。
「別に、普通に彼女らと同じ列車に乗って来ただけだ。無賃乗車については謝ろう」
さして悪びれた様子もなく、私たちの方を指して、八雲は言った。
どうやら、私が列車に乗り込むときにちらりと見た人影は、彼で間違いないようだった。だからこそ、疑問が残る。
私と蓮子は既に何度も車両を往復し、列車を調べつくしていた。もし、眠り続ける乗客の中に彼の姿があれば、気づかないはずは無いのだ。
「列車に乗っておっただと……? ならば、なおさら貴様の存在が感知されないわけがない……」
「どうかな? 意外とお前らの目が節穴なだけなんじゃないか? そうでなくとも、誰もが自分の見たいように世界を見るものだ……俺一人を偶然
偶然、本当にそうなのだろうか。思い返せば、初めて彼と会ったときもそうだ。誰もが彼の存在を直前まで認識していなかった。
影が薄いというような話ではないかもしれない。
気配なんてものは実に抽象的で、判然としないものだ。しかし、あえてその言葉を借りるなら、八雲零という青年には気配がまるで存在していない。
単純に所作がもの静かだとか、そういう次元の話ではないように思えた。
直感的に感じたことであって、言葉で理論的に解説するのは難しいが、どうにも青年には自分の存在を周囲に溶け込ませるような不可思議な力があるように思えてならなかった。
「妙なことを……まぁ、いい。獲物が増えたのだ、今宵の宴は豪勢にいくとしよう……」
落ち着きを取り戻した様子の鬼が、八雲の姿をつま先から頭までじっくりと眺める。正に品定めをしているようだった。
「肌艶良し、肉も引き締まってるようだ……中々の上物。娘の柔い肉も良いが……これはこれで……」
満足に頷きながら鬼が舌なめずりをする。その無遠慮な視線に一瞬だけ八雲は眉を顰めるが、直ぐに表情を真顔に戻して、一歩前へと踏み出した。
「む……」
異形の存在を前に何一つ怯えた様子を見せずに、二歩、三歩と八雲は鬼の元へと歩みを進める。行動を伺っていた鬼も流石に虚を突かれたようで、当惑した様子で青年へと視線を注いだ。
八雲は肩に担いでいた木刀をゆらりと下ろすが、まさかあれで鬼をどうにかするつもりなのだろうか。だとすればそれは無謀どころの話ではない。
私だったら例え拳銃を持っていようが御免だった。
近づけば危険だ、なんて言うまでも無いようなことを私が思わず口走りそうになったとき、既に青年は鬼が手を飛ばせば届く領域へと侵入していた。
そこまでされれば、流石の鬼も黙ってはいない。対した警戒も見せずに青年が接近したことを、自身へ対する侮りだと捉えたのか、鬼が血のように赤い両目を吊り上げた。
「馬鹿が! 自ら食われに来よって!」
そう言うとともに、鬼がその筋骨隆々とした右腕を八雲へと伸ばす。
まずい、このままでは彼が殺されてしまう。
思わず私の口から悲鳴が零れそうになったとき――空気を切り裂く鋭い音と共に、巨大な何かが宙を舞った。
同時に私の頬を僅かな雫が濡らす。
通り雨だろうか。そんな私の想像は直ぐに打ち消されこととなった。
どさりと、かなりの質量が落下した音が響く。蓮子が音のした方向へとすぐさま懐中電灯を向ければ、そこに照らし出されるのは――巨大な腕だ。
「きゃッ!?」
私の口から叫びが漏れた。
地面に転がる腕、見る限りは右腕のようだ。断面から肉と骨が覗き、どくどくと血液が多量に流れ出ている。
腕、出血、雫、それらが頭の中で線となって繋がって、私は慌てて濡れた感覚の頬を袖で拭った。袖に目を向ければ、案の定赤く汚れている。返り血を浴びたという事実が、余計に私の顔から血の気を引かせた。
蓮子も流石に応えたようで、青い顔で転がる腕を見つめている。
「――がっ!? あ、あああああああ!?」
響く絶叫に視線を向ければ、鬼が地に膝をつき、その大きな背中を丸めて悶絶していた。鬼が抑える右腕――肘から先を消失させたその断面からも夥しい血が零れ落ちていた。
「馬鹿な!? 有り得ん、有り得んぞ!! 人間ごときが何故かような力を!?」
目の前の出来事が心底受け入れられないと、鬼が唾を飛ばしながら叫ぶ。
額に脂汗を浮かべながら、鬼が自分の腕を斬り落とした青年を下から睨みつける。
「お前! お前一体何も……の……!?」
鬼の首に八雲の木刀がぴたりと当てられる。
そう、八雲の持っている武器は木刀だ。刃物では無い。
あまりにも一瞬の出来事で、私としても何が起こったのかを正確には理解できていない。
しかし、状況から推測するなら、とても信じられないことではあるが、鬼の剛腕を八雲は手に持ったその木刀で斬り飛ばしたということなのだろう。
そして、そんな木刀が鬼の首元へ突き付けられている目の前の状況は、鬼の生殺与奪の権を八雲がすっかり握りこんでしまったことを意味していた、
秘封倶楽部の一員として、今まで何度も不可解なものを目にして来た私だが、流石にここまで異常な事態を目撃したことは無い。
「……凄い! 凄いわよ八雲君! 今の貴方、まるで伝説の鬼切り、渡辺綱みたいよ!!」
目を輝かせた様子で黄色い声援を飛ばすのは蓮子だ。
さっきまで顔を青くしていたとは思えない切り替えの早さ。蓮子の図太さには敬意を持っていたが、流石にここまでくると恐怖の方が先に来る。
「俺が渡辺公みたいだって? 有難い言葉だけど……流石に買いかぶりが過ぎる。こいつは所詮三下だ」
鬼から視線をそらさないままに八雲が言った。その言葉に私はおずおずと口を開く。
「三下って……体も大きいし、強そうに見えるけど……」
「見た目だけはな。こう言う分かりやすく厳つい見た目に変貌する奴ほど、案外実力は大したことないものなんだ。本当にやばい人外ってのは……一蹴回って愛らしい姿をしていたりするものだよ……」
「へぇーそう言うものなのね。ま、実力がないからこそ見た目だけ飾って威嚇するってのは、動物にも人間にも当てはまるものか……」
感心したように蓮子が頷いた。
三下と評された鬼は顔に青筋を立てるが、八雲の指摘は図星でもあったようで視線を逸らした。
「さて、それじゃあ話を戻そう。幻想郷について知っていることを全て教えろ。勿論、拒否権は無い」
鬼を鋭く睨み、冷たい響きを伴った声音で八雲が言った。
「お前は旧都からの流れ者なのだろう? 情報を持っていないはずが無いよな?」
「――ッッ!? 何故それを!?」
八雲の口から紡がれた聞きなれない単語に鬼が目を見開く。
「なに、ちょっと事情通の神霊が色々教えてくれてな……」
「神霊の声を!? この時代に、よもやそこまで力の強い者が居たとは……そうだ、儂は元々旧都に住んでおった」
観念するようにうなだれて、鬼がそう口にした。
蓮子がこらえ切れなくなって、手を上げて口を挟む。
「お話中に悪いけど……旧都って何なの?」
特段嫌な顔もせず、八雲が疑問へと答えた。
「旧都というのは、幻想郷の地下に広がる地獄の都のことだよ」
「へぇ、地獄ね……地獄!?」
予想外の答えに、蓮子が素っ頓狂な声を上げる。
私も同じ気持ちだった。
地に牢獄の獄と書いて地獄。日本だけではなく、地獄や冥界と言った不浄で残酷な世界と言うものは様々な宗教観において地面のはるか下に位置するとされることが多い。
それは科学技術が発展するまでは、地層の深層というものが全く未知の領域にあったからに他ならない。
雲の上の景色を知らぬ人々がそこに天界や浄土を見出したように、全く及びもつかない暗い世界に人々は地獄を見出したのだ。
だが、地下をどれだけ掘り進めても実際は地獄を掘り当てることなんて出来やしない。
固い地殻の下に存在しているのは分厚いマントルだ。
人類はロケットで月面へとたどり着いたが、そこに広がっていたのはただの荒涼とした世界。兎が餅をついていることなんて無かった。
けれど、
「……幻想郷では本当に地下に地獄が広がっているということよね?」
「あぁ、そうだよ。最も既にうち棄てられていて、旧地獄なんて呼ばれてるらしいけど。そこに鬼たちが築いた都が旧都だ」
その言葉に私は胸の奥から湧き上がってくる感動に打ち震えた。
なんて魅力的な話なのだろうが。
神や妖怪と言った忘れ去られた者達の楽園。伝承の通り、幻想の通りに地下に地獄が広がっていると言う。
もしかすれば、雲の上には天界も広がっているのかも知れない。
ますます幻想郷に足を踏み入れたくなった。
ちらりと見れば、蓮子も同じだったようでその顔に歓喜の色が浮かんでいた。
「それで、どうすれば幻想郷に侵入できる?」
「……ふ、ふははっ!」
「何を笑ってやがる? 首を落とされたいのか?」
八雲の顔に険が浮かぶ。だが、鬼は笑うことを止めなかった。いや、本当に笑っているのだろうか、大口を開けて声を発する鬼の姿は、何処か嘆いているようにも見えた。
「何故笑うかだと? これが笑わずにいられるか!? 貴様はどういうわけか、幻想郷を探しているようだがな! 此処が! 此処こそが――――幻想郷だ!!」
鬼は叫んだ。それは怒号のようで、悲鳴にも似て、響き渡った。
八雲の表情に焦燥が浮かぶ。
「お前! 出鱈目も大概に――」
「嘘など吐くか‼」
鬼は再び叫ぶ。
「格下といえど、わしは鬼だ。こんな辺境で、都市伝説につられた奴らを餌に食い繋ごうとも……こんなさもしい生活を送ろうとも……鬼であることに変わりない!」
感情を露わにする鬼の姿は、確かに騙っているようには見えない。八雲もそう感じたのか、その顔には強い当惑が滲んでいた。
「どういうことだ? こんな……こんな場所が幻想郷だと? 俺が探し求めた地……紫さんは一体何を……?」
その時だった。私は、地に膝を突いて屈していた筈の鬼の形相が――燃え上がるような激情に染まったのを見た。何か、とても嫌な予感がした。
「紫だと? 貴様、その名前は……先ほど八雲とも呼ばれていたな。まさかっ――
鬼の目が見開く。大きな口から覗く鋭い牙が光る。そこにはもう惨めな鬼の姿など無かった。
「ははっ、ハハハハハ‼︎ まさか、こんな日が来るなんてな! わしらを裏切ったあの女に復讐できる日が!!」
鬼は立ち上がる。
八雲はすかさず鬼目掛けて木刀を振り抜こうとしたが、何かに迷った様子で、刃を止めた。
「……お前は、紫さんのことを知っているのか?」
八雲は問いかける。その問いが余程重要だったのだろうか。だからこそ、鬼に止めを刺さなかったのかもしれない。しかし、私にはそれが悪手に思えた。
「あぁ、知っているとも! あの女は、秩序のためにわしらを地底へと押しやった! あくまで同意の上だったが、しかし、それは幻想郷を存続するために必要だというからだ! 代わりに、この地を守って見せると宣うから!」
鬼は残った片腕で拳を握る。あまりに力が入り過ぎていて、爪が食い込んだ皮膚が出血していた。
「けれど実際どうだ! あの女は約束を違えた! 何が賢者だ! 幻想の崩壊を止められず……あろうことか、自分たちだけは内部に閉じこもり――わしらのような外縁のものは知らぬふりだ‼︎」
「お前、それ以上あの人を侮辱するようなら――!」
八雲の顔にもまた怒りが浮かぶ。だが、鬼がそれに怯むことは無い。
「殺せばいいだろう! だが、あの女を恨むのはわしだけではない! なぁ、そうだろう! お前たちよ!!」
空を見上げて、鬼は怒号を上げた。空気が震える。
言いようのない不安感に、私の額を冷や汗が伝った。
「八雲紫の縁者がここにいるぞ!! 決して生きて――」
鬼の言葉はそこで途切れた。見限った八雲が、その木刀で鬼の首を落としたのだ。ごろりと、大きな頭が地面を転がり、地面に赤い道を描く。
あっさりと鬼は退治された。けれど、私の胸中に募る不安は拭えない。そして、その訳はすぐに判明した。
「ちょ、ちょっとメリー! あ、アレ見て!!」
「えっ……ッ! 何なのあれ……?」
蓮子が指指す先、そこで人影のようなものが揺らめいた。それも、一つではない。たくさんの人のような影。
最初は暗さのせいだと思ったが、強力な懐中電灯で照らして尚、その実態がよくわからない。真っ黒な人影がただ動いているとしか表現できなかった。
「なんかヤバい感じがビンビンするわ! 今すぐ逃げましょう!」
「そ、そうね! ほら、八雲君も…………八雲君?」
私は彼の名前を呼ぶが、返事はない。
鬼の死骸を見下ろす彼は呆然とした表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「……ここが、俺の探していた場所? だったら、紫さんは……約束は……」
「や、八雲君?」
ぶつぶつと、彼はこちらの声などまるで聞こえていないような様子で独り言ちる。その背中は、何だかとても小さく見えた。
「ちょっと! あんた何をしてんのよ!?」
叫び、どすどすと力強い足取りで蓮子が八雲へと詰め寄る。
「事情はよく分かんないけど、今は他にやるべきことがあるでしょう!? ほら、シャキッっとする!!」
八雲の肩を掴み、蓮子は顔を近づけて言った。目を真っすぐに見つめる彼女に、彼はようやく我を取り戻したように目を瞬かせた。
「……あぁ、君の言う通りだ。あいつ等に対処しなければ」
そう言って、八雲は自分の頬を強かに叩く。強い光を取り戻した瞳が、無数の影達を睥睨した。
「鬼か、その犠牲者達か、はたまた別の妖怪だったものか……どちらにせよ、既に
八雲が落ち着き払った様子で言う。彼の不思議な言い回しに、私は思わず首を傾げた。
「形を失う?」
「簡潔に言えば妖怪の成れの果てだ。たぶん、俺が殺したあの鬼が唯一の生き残りだったんだろう」
「なんか言い方的にあまり強い化け物じゃなさそうだけど……やっぱりヤバいのかしら? なんかよく見たらあっちの方からもたくさん来てるけど……」
「うん、普通に滅茶苦茶やばいぞ宇佐見さん。いくら雑魚といえど、数の暴力に勝るものは結局ないから」
「じゃあやっぱり逃げなきゃいけないじゃない!」
「だね、二人とも走れる? 腰抜かしたり、足挫いたりしてない?」
先ほど鬼に対して見せた態度と打って変わり、八雲は実に優し気に私たちを気遣った。特に取り繕っている様子は無く、あくまで自然体だ。ただ、あの冷たい顔も堂に入っていたので、どちらが素なのかはイマイチ判らない。
「大丈夫だけど……逃げるって何処へ?」
「あら、メリーらしくもない質問ね。そんなの判り切っているでしょう」
「おっ、宇佐見さん分かるの?」
「勿論、だって定石だもの。列車で通ったあのトンネルが境界なんでしょう?」
「おぉ、流石オカルトサークル。そうだね、あれは世界の繋ぎ目だ。今俺たちがいる場所は既に彼岸、川の代わりにトンネルを潜って、一刻も早く現世に戻る必要がある」
三途の川が生者と死者の境界を隔てているのは有名な話だ。確かに私はトンネルで境界線を目撃した筈なのに、衝撃の光景を連続で見たせいですっかり忘れていた。我ながら、馬鹿な質問をしたと、羞恥心が湧き上がる。
だが、反省は後、今はそんな場合ではないだろう。
「俺が時間を稼ぐから、二人は走ってくれ! それと、トンネル内部では絶対に振り返えるな!」
「えっ、でも八雲君は――」
「俺は大丈夫だ、早く行けッ!!」
「メリー、ここは彼に任せましょう! 私たちがいても足でまといになるだけよ!」
私は逡巡する。だが、蓮子の言う通りだろう。私の異能に、あのよく分からない化け物を相手にする力はない。
「ちゃんと戻ってきてね! まだ話したいことが色々あるから!!」
それだけ言って、私は蓮子とともにトンネルのあった方角へと走りだした。
周囲で気味の悪い声が響く。あの黒い影たちが発しているのだろうか。聞くだけで心が陰鬱になり、泥沼に足を引っ張られるような感覚になる。
「――心を強く持て! 亡者が生者に勝てる道理なんて無い!」
背後で八雲が叫んだ。なんとも頼もしい声援だった。覇気の籠ったよく通る声は、闇を祓うように影達の声を打ち消す。
(言われてみればその通りね。死んだ過去の者に、なんで今を生きている私たちが負けなきゃいけないのか)
老人の姿をとって脅かしてきた鬼を、蓮子が蹴飛ばした気持ちがちょっとだけ分かる。いっそ私も石ころをぶつけるくらいはすればよかった。
(蓮子も八雲君も、たぶんやられたら絶対にやり返すってタイプのマインドなんでしょうね。意外と似た者同士なのかしら?)
そんな他愛もないことを考えると、その分だけ地面を蹴る足に力が入った。集中を欠くことは褒められたことではないだろうが、彼岸の世界ではこういう心持ちの方が都合がいいのかもしれない。少なくとも、恐怖に足を竦ませるよりはずっと――。
息が切れても尚、気合で走る。走り続ける。しかし辛いものは辛い。こんなことならもっと普段から運動をすればよかった。私よりずっとアクティブで、運動神経のよい蓮子は私より幾分か前方にいる。それでも蓮子の背中が追える範囲にあるのは、彼女が私を気遣って加減してくれているからだろう。なんとも情に熱い親友である。
「メリー! そろそろトンネルが見えてくる頃だけど、まだいける? 大丈夫そうかしら!?」
こちらを振り返らないまま、蓮子が大きな声で安否を確認してくれる。正直、声を張る余裕なんて残っていないのだが、彼女に心配をかけるわけにもいかない。私はなんとか荒れる息の間で声を出した。
「だい、丈夫! はぁ、はっ、は……………」
(あぁ、もう! 本当にキツイ!)
蓮子の予想の通り、トンネルの姿が見えてくるのにそう時間は掛からなかった。まったく舗装されてなかった荒れた道から、列車の線路が続く道へと出る。そして、その左手の先には長いトンネルが続いていた。伊佐貫と書かれた表記が目に入る。
「もうちょっとよメリー! 踏ん張りなさい!」
蓮子の励ましの声に、私は懸命に足を動かした。先頭の蓮子が丁度トンネルの入り口へと差しかかる。その瞬間――私の足が自由に動かなくなった。
「――――ッッ!」
バランスを崩して、私は地面に勢いよく倒れ込む。
「メリー!? ちょっと、大丈――」
異変に察知した蓮子が、思わずこちらを振り返ろうとして……
「振り向いては駄目よ!!」
私は声の限り叫んだ。蓮子が体をびくりと硬直させる。
「っ……でもっ!!」
「いいから! オカルトの常識でしょうがッ!!」
死者の世界に関する伝承において、よく語られる禁忌が存在する。
曰はく――
ギリシャ神話においては、エウリュディケは最後の最後で振り返ったせいで、オルフェウスの奮戦も虚しく、冥界へと連れ戻されることになった。
既に蓮子は伊佐貫トンネルの中へ足を踏み入れてる。あそこは今私がいる彼岸とは異なる境界の中だ。彼岸と此岸の狭間とでもいうべき地点。何が起こるか分からない。
「八雲君も言っていたでしょ! だから、私のことはいいから早く走って!」
「そんな! そんなこと言われたって……!」
蓮子は足と止めたままだ。私のことを心配してくれているのだろう。それは理解できる。理解できるが――それ以上に私は腹が立った。
「いい加減にして! 宇佐見連子!!」
「!?」
私の怒声に、蓮子は思わず肩を震わせる。だが、構うものか。私は続ける。
「秘封倶楽部の理念は何!?」
「え、それは世界の秘密を解き明かすことで……」
「そうでしょ!? いつから私たちは仲良し倶楽部になったの!? 私をスカウトしたときのこと、まさか忘れたんじゃないでしょうね!?」
新興宗教の勧誘以上に怪しい謳い文句で、私を口説きに来たことを今でも覚えてる。彼女の目は爛々と輝いていて、狂気的な好奇心を宿していた。
「例え好奇心が猫を殺そうとも――私の覚悟はそんなに甘くない! あなたもそうでしょう!?」
「っ……その通りよ」
「なら、行きなさい! 早く!!」
「ッッ~~~~~!!!」
帽子を深く被って、蓮子は真っすぐ駆けだした。
(そうよ! それでいいの!)
もし立場が逆なら私もそうした。
蓮子が罪悪感を感じる必要なんてない。
(まぁでも、もしこれがトラウマにでもなって秘封倶楽部の活動を辞めたりしたら、それこそ化けて出て祟ってやるけどね)
そんなことを考えながら、私はソレに目を向けた。先ほどから私の片足を掴んで離さない――真っ黒な影に。
「邪魔するだけして中々襲ってこなかったのは、空気を読んでくれたのかしら?」
挑発するように笑って、私は言う。だけど、影の反応は芳しくなかった。無言で、ただ私の足を強く握り絞めている。正直かなり痛い。そして、身が凍るほどに冷たかった。
「いい加減に――離して!」
もう片方の足で、力一杯影を蹴りつける。が、びくともしない。不思議な感触だった。固いわけではなく、柔いわけでもない、実体があるのに触れないような……兎に角、人間界の物質で構成されているとは思えない。正に人智を超えた存在だった。
「だからといって、諦めるわけには行かないの!」
再び影を蹴る。効果なし。
次は両手で影を引きはがしにかかった。だが、私の力では焼け石に水。おまけに、影に握られている箇所から、どんどん体温が奪われていく。
芯から凍てつくような寒さ。それが触れられている足を起点に、体全体へと伝播する。歯の根が徐々に合わなくなってきた。このままでは凍死するのも時間の問題かもしれない。そうなれば、私もこの影のような存在の仲間入りするのだろうか。
(――冗談じゃない!)
足掻かなければ。必死だった。生まれてこの方、これ以上ない程に――無我夢中だった。だから、その瞬間、何が起こったかはよく分からなかった。
「えっ?」
私の視界が突然歪む。
(立ち眩み? こんな時に――)
どうにかしなければ、そう思うが体は上手く動かなくて、倒れ込む自分を想像して身構えれば――どさりと、真っ黒な影が倒れ伏した。
「…………はっ? え……えっ!?」
私の足から影が手を離した。というより、手が離れた。
(影が死んだ……何故? 今一体何が……いや、それよりも!)
優先することは自身の生存、及びここからの逃走だ。早くトンネルを通過しなければ。思考を打ち切って私は立ち上がろうとして、足に走る痛みに眉を顰めた。
「いッ、つゥ~~! これは、ちょっと困ったわね」
走るのは当分無理だ。片足の自由が効かない。最も、まったく移動ができないわけではない。ただ、問題なのは……。
「なんだか、たくさん集まちゃったわね……」
周囲の茂みや木々の後ろから、たくさんの人影が姿を現す。いつの間にか、完全に取り囲まれていた。しかも、影には意外と知能があるようで、伊佐貫トンネルの前を遮る層がもっとも厚い。
何を言っているか分からない不気味な声の合奏が、一人になった私の心を大いに蝕んでくる。
じりじりと影が近づき、私を追い込んでくる。その上、トンネルの前を守護する人員だけは動かさない徹底ぶりだ。万が一にも私を逃がさない気らしい。
私はため息を吐いた。
「あぁ、こんなことなら、ダイエットなんてせずに好きなだけスイーツ食べれば良かったな……」
そんな他愛もない後悔を私は呟いて、こちらに伸ばされる真っ黒な腕を前に、ゆっくりと目を瞑った。
「――――好きなだけ食べればいいだろう。そんなもの」
凛とした声が私の耳朶を打つ。次に聞こえたのは風切り音。何かが打ち砕かれる音が後に続いた。
「……わぁお、白馬の王子様って感じかしら? もうそんな年でもないけれど」
「意外と余裕あるんだなマエリベリーさん、うん、でもいいと思う。度胸のある女性は素敵だよ」
振り抜いた木刀を肩に担ぎ、八雲零は笑った。彼の足元で、倒れた影達が次々に霧となって消えてゆく。
「あら、八雲君って案外口が上手いのね。もしかして、私は自分の身の心配をした方がいいのかしら? 男は狼とも言うしね」
「ははっ、それは間違いない。少し辛抱して欲しい。こいつら全部片づけるから」
「頼もしいことこの上ないけど……すごい数よ」
影は今も着々と集まっている。唯一の逃げ道であるトンネルは最早黒の壁で塞がれていた。影による肉壁だ。
「まぁ、確かにキツイね。というか、俺一人の力じゃ無理だ」
「じゃあ、やっぱり……」
「でも絶望する必要はない。こういうときは先人の知恵に倣うべきだ」
「知恵ですって?」
私は首を傾げた。温故知新で状況が打開するというなら幾らでも過去を省みるが、しかし、彼は一体何をする気なのか。自信に満ち溢れているようだが、全く想像つかない。
そんな私の胸中を見透かすように、彼は私をちらりと見て、悪戯っぽく微笑んだ。
「ほら、よく言うだろう? 困ったときの――神頼みって」
「えっ…………」
予想外の答えに私が目を瞬かせる中、彼は大勢の影に向き直る。
「彼岸と此岸の境界前――これ以上にない程お誂え向きの場所だ。呼ぶのが楽で助かるよ」
八雲は拝むような形をとり、口を開く。
「――――■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■――」
紡がれるのは、異様な呪文。言語は聞き取れない。けれど、不思議と耳に心地よい流麗な響きだ。
そのまま彼は続ける。今度はちゃんと私でも理解できる内容だった。
「――――穢れし亡者の群れを 大神は果実を以て打ち払いなさった 『
八雲の言葉とともに、彼の体が淡く輝き出した。とても暖かい光だ。すっかり冷え込んだ私の体が、芯から温まるような、癒されるような優しい光だった。
大神実命、確か
彼が纏う光は次第に強くなり、それに応じて周囲の黒い影が苦しみだした。
「さぁ、とっととずらかろう!」
「あっ、ちょっと!」
光を宿したまま、八雲が私の体を抱えた。所謂お姫様だっこの形だ。一般的な少女の憧れなのかもしれないが、成人女性には少々、いやかなり面映ゆい。
「あの、これ恥ず……」
「え、何? ごめん、連中が煩くて聞こえない!」
私の重量なんてものともせず、地を蹴って八雲は加速する。その前に立ち塞がる黒い影達。だが――
「――邪魔だ! 亡者が生者の足を引っ張るな!!」
一喝とともに彼は影達を薙ぎ払った。
まるで相手にならない。影達が彼の足を引っ張ることなど不可能だった。
景色は変わり、トンネル内部へと。後ろで影の叫びが響く。何処か哀し気な声だった。
「同情は厳禁だ。あいつらはもう、救える段階じゃない」
「えぇ、分かってるわ」
神妙な顔で語る彼に、私も同意を示す。
脳裏に浮かんだのは、あの時私の足を掴んだ影のことだった。最初は何故掴むだけで一向に襲ってこないのかと、疑問に思っていたが……
(……あれはたぶん、私に助けを求めていたんでしょうね)
あれがどういう存在かまだ正確に理解できたわけではないが、その直感だけは間違っていないような気がした。