少女が目覚めると、目の前には木の天井がいっぱいに広がっていました。体を起こして周囲を眺めてみれば、自分がやけに大きい、藁でできたベッドの横にいるのが分かります。近くに置いてあった机には「食べていいよ」と書かれた書置きと、美味しそうな果物、そして、綺麗な紫と白の花束。少女はここは何処なんだろうと不思議に思って、見知らぬ家の中を探し始めました。やけに大きな家具にキッチン、たくさんの本棚に、玄関の外に綺麗に作られた花壇、そして古びたピアノ。少女は家中を探し回りましたが、しかし、探しても、探しても、ここがどこかはさっぱり分かりません。自分が大嫌いで、大好きだった赤髪の海賊団も、そして幼馴染の活発な青年も、ここにはそのどちらもおらず、またその面影もありません。海賊独特の海の匂いも、あの騒がしい宴も、そんなものは何処にもないような静けさが家を覆っていました。
しばらくすると玄関の方に誰かが近づいてきているのを感じました。ずっしりとした足音はその持ち主が大きな体を持っていることを少女に伝えます。少女はそうっと窓から玄関の方を覗き、そして驚きました。人よりもはるかに大きく、恐ろしい顔をしたクマが玄関の扉を開けていたのです。クマは少女を見つけると、なぜか笑いだして駆け寄ってきました。
「あぁ、ようやく起きたんだね。もう三日も目を覚まさないから、おいら、びっくりしちゃってさ。人間がどうやったら元気になるのかなんか全然分かんなくて…もし、死んじゃったらどうしようって、すっごく怖かったんだよ…」
嬉しそうに話すクマはそれから、ちょっと待っててね、今から朝ごはん用意するからね、と言ってキッチンのある方へと向かってしまいました。少女には、何が何だか分かりません。なぜクマが人間の言葉を話しているのか、自分はなぜこんなところにいるのか、不思議なことがいっぱいで何から聞けばいいのかも分からなかったのです。しばらくして朝食の用意が終わった後、少女はこれまたやけに大きな木製の椅子に何とか座って、美味しそうな目玉焼きが乗ったパンをどこか夢心地に食べ始めました。
「ねぇ、あの、いきなりで申し訳ないんだけど…ここってどこなの?」
少女がそう質問すると、クマはあぁ、そういえばそんなことも言ってなかったね、と頷き、そして、近くに置いてあった古ぼけた地図の右端を指さして言いました。
「ここはね、ナユタケ島って言う、そうだな、まぁ、なんの変哲もない島さ。地図で言ったらこのあたりかな。そいで、おいらたちがいるのはその端っこ。君がいた砂浜からちょっと離れた場所だね」
「砂浜?私、どこかの砂浜にいたの?」
「そうだよ、君は砂浜に打ち上げられた箱の中にいたんだ。えっとね、何から説明すればいいんだろ―――」
不思議そうなその顔に、クマは少女が砂浜に打ち上げられた棺の中に入っていたこと、あのままでは死んでしまうかもしれないと思って連れてきたことなど、それから随分と長い間、少女は眠っていたことなど、これまでの出来事を覚えている分だけ詳しく説明しました。
話を聞いた少女はこの親切なクマにお礼を言いました。見ず知らずの人を可哀そうだからと何日も看病するのは、きっととても大変なことに違いないのです。
「いや、そんなお礼を言ってもらうようなことでもないんだよ…たまたま、君を見つけて助けただけ…あのまま、君を見過ごしたってなれば、きっと後悔するだろうなって思ったっていう、ただそれだけのことなんだ。」
「うん、でも、それでもありがとう。私、君と少しだけだけど話して分かった。君ってとっても優しい人だ。こんな人に助けられて、多分、私ってすっごく幸せなんだと思う。」
「そ、そうかい…そりゃあ、お、おいらもうれしいよ…」
少女の真直ぐな視線と笑顔にクマは顔を真っ赤にしてうつむいてしまいます。その外見からクマはあまり褒められたり、感謝されたりすることはあまりありませんでしたから、あんまりに嬉しくって、感激してしまって、どう答えていいのかが分からなかったのです。
「そういえばさ、あなた、何ていう名前なの?名前を知らないと、何て読んだらいいのか分からないわ」
「お、おいらかい。おいらはベアー、ベゴニア・ベアーっていうんだ。」
「そう、ベゴニア・ベアーって言うんだね。じゃあ、ベアーって呼んでいい?」
「うん、いいよ。おいら、誰かに名前呼ばれるの、君で二人目だよ…そ、それで…えっと、えっと…」
ベアーは、もじもじとその大きな体に見合わず顔を真っ赤にさせました。“
「えっと、君は…君は、何て名前なんだい?」
「そ、そうだな。私は、私は―――」
ベアーにそう問われて少女は悩みました。実のところ、ベアーは知らないことですが、少女はとても有名人だったのです。有名人といっても、普通の有名人というわけではありません。今、世界で一番有名な人物であるかもしれないのです。そして、それだけではなく、少女の頭には、この島に来る前にあった、とてもつらい出来事がよぎりました。もし、この優しいベアーがあの日の出来事を知ってしまっていたら、あの日、愛してくれていると思っていたファンが彼女を捨てたように、彼女の新時代にはついてきてくれなかったように、彼女はまた、嫌われてしまうと思ったのです。
「私は…シン。シンっていうんだ。」
「そっか、そっか。シンっていうのか。おいら、嬉しいよ。これからよろしくね、シン。」
ベアーの笑顔に、少女は胸が痛くなりました。自分のことを思って親切に接してくれているこの優しいクマをだますことは、とてもいけない、ずるいことなのではないかと、そう感じたのです。
「も、もし、よかったらさ、シン。朝ごはんを食べ終わったら、おいらにこの周りを案内させておくれよ。シンは久しぶりに出来た友達だからさ、おいら、この島の綺麗な場所、いっぱい見せたいんだ。」
少女は必死に罪悪感を心の中から追い出しました。そうでないとベアーに自分の嘘がばれてしまうような気がしたのです。そして、キラキラとした瞳でこちらを見つめるベアーの提案に首を縦に振りました。
「よし、それじゃあ。まずは、おいらのお気に入りの滝から紹介させてよ。この滝がね、案外普通のやつと違って―――」
それから少女はベアーの案内に沿って島をめぐりました。神秘的な太陽の光が反射する滝や、ひんやりとした鍾乳洞、色々の木の実がなる林、苔むした祠、ベアーの元気にあふれたナビから見えるナユタケ島は、自然の美しさと彼の思い出に溢れていて、少女の顔には自然に笑顔が戻っていました。そして、そのツアーの最後、家に帰ってきた少女にベアーは一番にお気に入りの物を紹介しました。それは、少女が家を探索した時に見つけた古いピアノ。このピアノこそがベアーにとって何よりも大切な物でした。
「あ、あのね、シン。おいらにとってね、このピアノは人生のすべてみたいなものなんだ。父さんもいなくなって、母さんもいなくなって一人になって…でも、あの子と一緒にピアノを演奏した時に、あの子に褒めてもらえた時に、本当に生きててよかったって思ったんだ。だから…だから――――」
ベアーは息を大きく吸い込んで、言葉をつづけました。
「だから、おいらの名前を呼んでくれた、こんなおいらの名前を呼んでくれた君に、一曲演奏したいんだ。いいかな?」
頷く少女にベアーは満面の笑みを浮かべました。そして、それから深呼吸をして鍵盤をゆっくりと弾き始めました。演奏したのは、ピアノを弾き始めてから初めて通して引くことが出来た曲、ある有名な音楽家が親友のために作った名曲、ベアーが一番練習した大好きな曲です。自分に優しくしてくれた、この小さな友人のために、一生懸命に心を込めて演奏しました。
曲が終わると少女は長い、長い拍手をベアーに送りました。もう手が千切れそうなくらいの拍手です。
「すごい、凄いわ、ベアー。あなたのピアノって、何だか、こう、凄く暖かい音がするのね。私、あなたの演奏大好きだよ」
そう言われて、ベアーはまた赤くします。
「そ、そうかい、えへへ、そう言われると嬉しいな。でも、あんまり上手くなかっただろう?」
「いいえ、いいえ。十分上手かったわ。それに、音楽って言うのは気持ちが一番大事なんだから。私、ベアーの気持ちがすっごく伝わってきて嬉しかったもの」
「あ、有難う。君ってほんとに優しい人だね…」
ベアーの顔は今ではもう、真っ赤なトマトのよう。今にも収穫できそうなほどです。
「ベアーってさ、そんなに上手いなら他の人の前で演奏したりはしないの?きっと皆、ベアーのこと素晴らしいって褒めてくれるわ」
「他の人の前で何て…そんなの無理だよ…ほら、おいらってこんな見た目だし、人の前に出ると怖がられちゃって…」
ベアーの弱気な態度に少女は憤慨しました。こんなに上手い演奏が世の目を見ないなんてそんなことは可笑しいと思ったのです。
「そんなの関係ないよ。重要なのは外見じゃなくて中身なんだから。ベアーはもっと自信を持つべきなんだよ」
その言葉にベアーは胸が貫かれるような気がしました。重要なのは外見じゃなくて中身、もっと自分は自信を持つべき、それはここ最近、自分がずっと悩んでいることへの的確な答えのように感じました。
「ねぇ、シン。もし、もしよかったらさ。おいら、これから、ある演奏会に応募するんだけどさ、つ、付いてきてくれないかな…」
「え、ベアー、演奏会に出るの?」
「う、うん。シンがさ、さっき言った言葉が胸に刺さったんだ。今まで怖がってたけどさ、おいら、頑張ってみるよ。だから、あの、その…」
もじもじと手をすり合わせるベアーに少女は頷きました。
「うん、いいよ。付いていってあげる。ベアーはもう、私の友達だからね」
「そ、そうかい。やっぱり、君はほんとに、ほんとに優しい人だね。この恩はおいら、絶対に忘れないよ。そ、それじゃあ、行こうか。早くいかないと、今日中に応募できなくなっちゃうよ」
玄関から飛び出したベアーをシンはちょっと待ってよ、と急いで追いかけました。少し日の暮れかかった道にやけに大きい影が一つと、それに続く小さい影が一つ。そう、これから二人は向かうのです。
ここら一番の音楽演奏会、「ラ・ミュージカ」に。
自分は「ウタカタララバイ」が一番好きです!