セイレーンが姿を消し、アズールレーンとレッドアクシズの戦争が終わってからいくばくの時が経っただろうか?
かつてその渦中にいた一人の女性が、キッチンの戸棚からミックス粉を取り出しながらもふとそんな事を思った。
アレから世界は度々緊張を孕みつつも、概ね平和な日々に包まれている。
どこかで戦火が絶えることはないのは確かだが、しかし、少なくとも女性の周囲には及んでいない。
彼女は名を『オリヴィア・ベッカー』という。
いや、違う。
彼女はそう名乗っているが、実を言うとこれは彼女の本当の名前ではない。
彼女の本当の名前は『プリンツ・オイゲン』…先の名前は、彼女がある国家から現在住んでいるユニオンの片田舎へ秘密裏に亡命する際に用意された名前だ。
ユニオンに亡命した時、オイゲンには愛する夫がいた。
『ハンス・ルートヴィヒ』…大戦中にはオイゲンの指揮官を務めていた男で、彼女はこの夫との間に1人の息子を設けている。
息子は『ヨアヒム・ルートヴィヒ』と名付けられ、夫婦の愛情をたっぷりと受けて育っていたが、残念なことに、長年の過労が祟ったらしいハンス・ルートヴィヒ氏はヨアヒムが成人を迎える前に他界した。
それ以来オイゲンはこの大切な1人息子を女手一つで育てていたが、その息子も成長し、やがて『エミリア』という妻を持つようになる。
オイゲンは現在、この片田舎で息子夫婦と共に暮らしていた。
大切な息子の伴侶となるエミリアの"身元調査"の為に色々と調べ物をしたのも懐かしい記憶と化している。
どこか抜けたところのあるあの息子は、自身が中央情報局の職員であることも考慮しなかったらしく、エミリアが誰なのか婚約の直前まで知らなかったのだ。
エミリアはオイゲンの古い古い知り合いの娘だった。
自身の出自にコンプレックスを抱いていたようだが、オイゲンからするとそこは問題ではなかったので、確認を取ったオイゲンは素直にヨアヒムとエミリアが結ばれるのを祝福することにしたのだ。
その幸せな息子夫婦は現在新婚旅行で重桜へ行っている。
重桜?
てっきり鉄血に行くのかと思っていたのだが。
意外な旅行先ではあったが、オイゲンが反対する理由にもならない。
そもそも"煩い姑"にならないように気をかけているオイゲンは、2人の決定に自身が介入する余地はないことを自覚していた。
息子夫婦には彼女が経営する酒店の利益から、2人の旅費の半分を捻出して渡してある。
きっと楽しい旅行になっていることだろう。
そんなことを考えながらも、オイゲンは午後の小腹を満たす為にパンケーキを作っていた。
パンケーキの作り方は、ある大陸にいたときに例の古い古い知り合いとその義理の姉から教わった。
知り合いの方は既に故人だが、義理の姉はまだ生きているようだ。
大戦の生き残りは段々とその数を減らしている。
"KANSENは歳を取らない、でも死なないわけじゃない"
しかしながら今現在、オイゲンにはまだその順番が回って来ないように思える。
彼女も、知り合いの義理の姉も少々長生きをし過ぎているように感じるが、そのおかげで息子夫婦との幸せな一家団欒を味わうことができるのだから…贅沢は言うべきではないだろう。
ボールの中をミックス粉で満たし、卵をその白い粉の上に落とす。
牛乳と砂糖を加えて生地を混ぜていた時に、オイゲンはいつもとは違う"何か"を感じ取った。
途端にボールの中を掻き回すのをやめた彼女は、その違和感の正体について考えてみる。
「………はぁ…いったい、どこの誰かしら…」
オイゲンはその違和感を過去に幾度となく感じた事がある。
ボールを置いた彼女はミックス粉を戸棚へと戻し、その次いでにミックス粉の横に置いてあるオートミールの箱を手に取った。
実際にはその箱は大麦で満たされているのではなく、頑丈な自動拳銃と予備弾倉によって満たされている。
手慣れた手つきで箱に隠していたワルサーP5を取り出して、そのスライドを引く。
この高価な自動拳銃は今は亡きオイゲンの夫がある大陸の独裁者から贈られた物だった。
ハンス・ルートヴィヒを一時的に雇用していた独裁者は民間人への警告なしに敵国の首都へ毒ガスを使うような男だったのだが…しかし銃のセンスについては誉めてやらねばなるまい。
ルートヴィヒもオイゲンも、このP5の前身となったP38には触れたことがある。
かつて人類がアズールレーンとレッドアクシズに分かれて戦った大戦中、陸にいる時はレジスタンス対策の護身用としてP38を携帯していた。
だから彼女達は難なくP5を扱えたし、独裁者はその辺を見込んでいたのだろう。
慣れ親しんだ操作を忘れていなかったおかげで、彼女は違和感に対して早急に備えることができた。
大戦の時幾度も感じたその違和感は、紛れもない接敵の予兆である。
確かに考えてみれば不思議な事は盛り沢山とあった。
オイゲンはとうの昔に現役を退き、名前と身分を変え、片田舎のシングルマザーとしてこの社会に溶け込んでいる。
そうやって元KANSENが陸に上がって余生を過ごすというのは、今時期特段珍しいことでもなくなっていた。
だとすれば、このタイミングで彼女に危害を加えるような人間がいるだろうか?
思い浮かべるのは、中東某国の情報機関である。
彼らは大戦中に鉄血の独裁者が彼らの同胞に対して行った非人道的な所業の数々を決して忘れることはない。
オイゲンは…認めたくはないが、それとは知らず彼らの同胞の非人道的な輸送任務に携わった可能性があった。
しかしこの記録は例の独裁者の元に身を寄せていた事、そしてその後かつての戦友達の手助けを得た事でユニオンに入国した時には完全に抹消されていたハズである。
オイゲンの戦友達はこんな大切な事に手を抜きはしないし、中東某国が刺客を送り込んでくるならば何らかの情報を寄越したはずであろう。
彼女の戦友達が探知できないほどの、特殊な情報網を持った相手か、或いは………
オイゲンの家の前に、一台のバンが止まった。
素早くキッチンから身を引いた彼女はP5を片手に窓際へと身を寄せる。
相手から見えないようにそっと窓の外を覗くと、3人の男共がバンから降りているところだった。
3人とも示し合わせたように大柄だが、その分かなり肥えている。
1人はギラギラしたシルバーフレームの散弾銃を持ち、1人はサタデーナイトスペシャルの38口径銃を持ち、1人はTEC9で武装していた。
どこからどう見ても"その道のプロ"ではないし、バンのボンネットに描かれた南部連邦旗が彼らの身元を雄弁に語っている。
「…よりにもよって、私を襲おうなんて」
南部連邦旗を見たオイゲンは心底呆れたようにそう零した。
白人至上主義の連中が、あろうことか旧鉄血海軍所属のオイゲンを襲おうというのだからこれほどの皮肉はない。
しかし相手はあくまでも銃器を持ってこちらの玄関へと向かってくる。
だから彼女は警戒を解かず、くれぐれも油断しないように配置についた。
…………………………………
「やっちまえ、ロイド!」
ズドン、ズドンと散弾銃が2度発砲して、玄関のドアが乱暴に開けられる。
ロイドと呼ばれた男は東煌製の散弾銃をコッキングして、銃口を前に突き出しながら家屋への侵入を試みた。
ところが玄関に入って一歩も進まないうちに、眉間に9ミリの命中弾をうけて倒れ込む。
「くそ!ロイドがやられた!」
「食いやがれ、畜生が!」
散弾銃の男が倒れ込む様を見た2人のうちの1人がサブマシンガンを家屋内に向けて乱射した。
違法改造のフルオート火器が50発の9ミリ弾を送り込むと、家屋は再び静寂に包まれる。
TEC9の男は少し苦労をして空になった50発マガジンを外し、それから32発マガジンを突っ込んだ。
そうして、残された2人の男達は屋内へと改めて足を踏み入れる。
「畜生、くそ、ロイドがやられちまった!」
「黙れ!こんだけ派手にぶっ放したら警察を呼ばれてる!さっさと片付けるぞ!」
TEC9の男が喚き散らし、2人は屋内を進んでいく。
そして2人でリビングに入った時、それは起こった。
リビングの影から身を滑らせたオイゲンが、寝転んだ状態でTEC9の男の腹部と頭を撃ち抜いた。
そして最後の1人が叫び声を上げる間も無く、そいつの膝に1発撃ち込む。
男はサタデーナイトスペシャルを放り投げ、激痛に悲鳴を上げながら倒れ込んだ。
オイゲンはP5を片手に立ち上がると、何やら喚き散らしている男の下まで歩いていく。
そうして男を見下ろせる位置に立つと、脚で男の傷口を踏みつけて、拳銃の銃口を男の顔面に突きつけた。
息子とその伴侶を迎え入れるはずの家屋は、TEC9と安物の散弾銃のお陰で無茶苦茶になっている。
オイゲンは勿論怒り心頭だが、それでも1人生かしておいたのは、当然の疑問をぶつけるためだった。
「話すなら生かしておいてあげる。…雇い主は誰か、言いなさい。」