重桜
ペータル・ミトロヴィッチは49歳の男性で、かつては冷戦直後に祖国で起こった内戦で何人もの敵を倒した名狙撃手だった。
彼は一昨日重桜の国際空港で飛行機を降り、本日ある総合ビルに入居している"団体"から別に輸送した荷物を受け取って、標的のいるホテルまでレンタカーで向かっている。
受け取った荷物はユニオン製のM4カービンで、強装薬の5.56ミリ徹甲弾を弾倉に装填し、サプレッサと高倍率スコープを用意してあった。
今はレンタカーの後部座席に、黒いソフトケースに包まれて置かれている。
内戦が終わった後、ミトロヴィッチには帰るべき家などなかった。
家族は異教徒の少数民族に殺され、家は瓦礫の山と化していた。
その上軍は内戦の終結後に人事の削減を志向して、大勢の兵隊を組織から追い出したのだ。
だからミトロヴィッチは内戦で磨いた狙撃の腕で稼ぐことにした。
フリーランスの殺し屋として生計を建てているミトロヴィッチだが、残念ながら羽振りが良いとは言い難い。
競合他社は他にもごまんといたし、ミトロヴィッチのようなフリーランスが入り込める余地は極々限られていた。
ただし今回の依頼は、それまでのものに比べて比較にならないほど容易で稼ぎの良いものだった。
重桜で鉄血系の夫婦1組を暗殺すればいい。
最大の問題は重桜での銃規制の厳しさだが、ここは依頼主の方が手を回しておいてくれた。
故にミトロヴィッチは順調にここまで物事を進めることができたし、あとは狙撃位置について可哀想な夫婦の頭を撃ち抜くだけだ。
狙撃地点は予め決めてあった。
重桜に入国する前に衛星写真によっておおむねの見当を付け、先日には丸一日をかけて実際にその場所を入念に偵察している。
そこは目標が滞在しているホテルの一室をよく見ることのできる立体駐車場で、ミトロヴィッチの読みが正しければ5.56ミリ徹甲弾でも確実に2人を射殺できる距離にあった。
確かに都市部特有のビル風というものはあるが、だからこそ依頼主はミトロヴィッチにこの仕事を頼んだのだろう。
ミトロヴィッチが活躍した内戦では、彼の戦場は主として市街地だった。
風を見越した偏差射撃ならお手のものだし、中東の広大な砂漠や山々での任務ならともかく、市街地で民間人を撃ち抜くようなことは飽きるほどやってきた。
つまり、こういった血も涙も必要のないような任務にはそれこそ習熟している。
ミトロヴィッチはレンタカーを立体駐車場に入れ、階を登っていく。
鉄血製のセダンはスムーズに駐車場内のスロープを登って行き、やがてはミトロヴィッチが予め決めていた場所に到着した。
車から降り、後部座席のドアのソフトケースからM4を取り出すと、サプレッサとスコープを取り付けて20発弾倉の中身を薬室に送り込む。
高性能スコープを覗いて目標のいる部屋を確認すると、目標の夫婦が部屋で存分にくつろいでいるようだった。
夫婦は新婚旅行中、このホテルにはあと3日泊まる予定だったらしい。
人生最高の思い出に水を差して悪いとは思うが、ミトロヴィッチにも生活がある。
そちらはあまり深く考えずに、風と偏差を考慮してからスコープを調整、ミトロヴィッチは普段と同じように引き金を絞った。
かつて市街地でよくやったように、ミトロヴィッチは素早く2人の頭を撃ち抜いた。
5.56ミリ弾が威力を保証するような距離での狙撃では、初弾の弾着を見極めて修正するような必要はない。
2つの人型が頭から赤い液体を飛び散らし、続いて倒れ込む様を見届けたミトロヴィッチは、内心ホッとしてスコープから顔を上げた。
…少なくとも、いつのまにか隣に立っていた人物から声を掛けられるまではホッとしていた。
「
ミトロヴィッチは内戦で身体に叩き込まれた通り、新たな脅威へとカービン銃の銃口を向ける。
だがその新しい脅威はカービン銃の銃身を片手で掴み、あろう事かそのままへし折ってしまう。
愕然とするミトロヴィッチには、この新しい脅威に対する覚えがあった。
目の前で微笑みを浮かべながら、カービンの銃身を鉄屑へと変化させている黒髪の美女は決して人間なんかじゃない。
こいつは恐らくKANSENで、何の魔法を使ったかは知らないがミトロヴィッチの任務の内容を知っていた。
もう役に立たないカービンから手を離し、ミトロヴィッチは腰のホルスターに手を伸ばす。
ホルスターに収まるMac11を手に取ると、至近距離でKANSENに 1マガジン叩き込む。
この小型火器の連射速度は異常なもので、30発の38口径弾を1.5秒で撃ち切るように設計されていた。
その分制御も困難とはいえ、ミトロヴィッチは至近距離でその殆どをKANSENにぶち当てた自信がある。
KANSENは艤装を装着しているようには見えなかった。
いくら奴らでも至近距離でこんな射撃を喰らえば…
硝煙が晴れ渡ったあと、そこには相変わらず笑みを浮かべているKANSENがいた。
その整った顔面には2発の38口径弾が命中していたが、砕かれたのは彼女の顔面ではなく銃弾の方で、薄いコインへと変形した2発の銃弾は力無く剥がれ落ちる。
「現代の技術とは素晴らしいものですね。かつて艤装といえば大海原を駆るに相応しい大掛かりなものでしたが、今やこのような軽量な物も用意できる…」
「………」
どう頑張ったってミトロヴィッチにはKANSENがスーツを着込んでいるようにしか見えない。
しかし銃弾を無力化した彼女の存在はミトロヴィッチの戦意を削ぐに十分だった。
「申し遅れました。私、『比叡』と申します。お仕事の後で申し訳ないのですが、1つお伺いしたいことが。」
「………」
「あなたを雇った方をお教えいただければ、こちらとしても悪いようには致しませんよ?」
ミトロヴィッチは何も言わなかった。
ホールドオープンしたサブマシンガンを捨て、内ポケットから38口径の小さなリボルバーを取り出す。
それを脅威の方へと向けるのではなく自身の顎下に当てると、躊躇う事なく引き金を引いた。
「あら、まだ銃をお持ちだったとは…
そうは言いつつも、比叡はこの狙撃手から何らの情報も引き出せないことを予め承知していた。
ミトロヴィッチのようなフリーランスのプロは口を割るよりかは死を選ぶ…もし裏切れば、依頼主から凄惨な報復を受けると知っているからだ。
ともあれ、最低限の目的を達成した比叡は、彼女の上司に電話をかけることにした。
…………………………………
「脅威は排除されたようです。とりあえずはご安心を。」
和服美人に部屋から連れ出された時は何事かと思ったが、"脅威"というあまり一般的ではない言葉がヨアヒム・ルートヴィヒにある可能性を確信させる。
つまるところ、ヨアヒムとエミリアの新婚夫妻はある者から命を狙われていたのだろう。
「つまり…僕らはもう部屋に戻っていいのかな?」
「あまりお勧めはできませんわ。今頃あなた達のお部屋には赤いペンキとプラスチックの破片が撒き散らかされているはずですから。」
ヨアヒムの問いかけに、和服美人はそう言ってクスクスと笑う。
当然のことながらヨアヒムは笑う気にはなれなかった。
彼女の言うには、彼らを狙っていた"脅威"は最低限の目的を達成したということになる…つまりはこの新婚夫婦に対する致命的な攻撃の実行を。
何故狙われるような事になったのか、ヨアヒムには身に覚えが有り余るほどある。
父親は旧鉄血海軍指揮官、母親は旧鉄血海軍のKANSENだし、自身は中央情報局の職員でもあった。
中央情報局の作戦の犠牲者となった者にとっては、復讐対象の新婚旅行など格好の標的であろう。
しかしなぜこの和服美人が彼らへの事前の攻撃を察知し、保護するに至ったかヨアヒムにはわからない。
そんなヨアヒムの様子を見てとったのか、和服美人はクスクスと笑うのをやめてヨアヒムに手を差し出した。
「ああ…これは…申し遅れました。私のことは『天城』とお呼びください。」
「天城…重桜KANSENの?」
「ええ。私達はある組織の依頼を受け、あなたの身の安全を保障することになりました。」
「……その組織ってのは、もしかして戦友会のことか?」
「うっふふ、よくご存知のようですね。私達も私達で似たような組織を持っています。…『落葉会』……それが私たちの組織の名前です。以後、どうかお見知り置きを。」