北方連
首都
東西冷戦は北方連合の崩壊という形で終わったが、それは戦火の果てにもたらされたものではなかった。
かつてユニオンと覇を競ったこの国は、党が完璧を約束していたはずの経済体制により瓦解したのである。
硬直した計画経済は柔軟性に欠け、人々の需要を完全に満たすことができなかった。
国力の根源たる食糧を、あろうことか敵である資本主義国からの輸入に頼らざるを得なくなり。
その上未だ世界地図をチェス盤としか見ていない指導層が局地での戦争に経済力を注ぎ込んだ結果。
北方連合は崩壊した。
今では、"社会主義国家の連合"という名目すら捨てざるを得なくなり、緩やかな"連邦"としての再出発を余儀なくされている。
どちらかというと、『ミロスラフ・ログネンコ』は北方連合の崩壊によって得をした側だった。
父アントン・ログネンコは北方連合の悪名高き国家保安委員会に所属していて、対外諜報任務に従事していた彼は息子に資本主義経済の仕組みを叩き込んでいた。
アントンは自分の息子が将来的に国家保安委員会に所属することを望んでいたからだ。
敵を倒すには、まず敵を知らねばならない。
大戦の末期にある作戦でユニオン中央情報局に煮湯を飲まされたアントンは、親子二代に渡ってでもユニオンへの報復を成すつもりでいた。
アントンが思い浮かべた報復は、北方連合共産主義の勝利という形での報復だった。
その報復を実現するため、強い反資本主義思想を組み込まれたミロスラフは、やがて父の望み通り国家保安委員会の一員となる。
しかしアントンの思い描く勝利の構図は年月と共にその現実味を失っていった。
硬直した体制は資本主義陣営を圧倒するどころか逆に圧倒されるばかりで、上層部も最後には核戦力を担保に譲歩を引き出すという惨めな方法で穀物を調達するようになっていく。
斜陽の北方連合の行く末を案じながら、アントン・ログネンコはこの世を去った。
北方連合は未だ政治体制を保っていたが、大戦の直後に比べれば瀕死も同然だった。
それでもアントンは死の間際に息子にこう言った。
"いつの日にか、共産主義が勝利する。決して諦めるな…息子よ"
残念ながらミロスラフ・ログネンコはその遺言を早々に放り投げた。
彼はもうどうにも止められない崩壊を食い止めようと無駄に足掻くよりかは、寧ろ崩壊に備えることを選択した。
共産主義体制が崩壊して、国有企業があまりにも滑稽な方法で民間へと解放されると、ミロスラフ・ログネンコはドサクサに紛れて自身の経済基盤を獲得したのだ。
北方連合の大半のものは、資本主義に触れた事すらなかった。
食糧は列に並んで手にするもの、そういう社会に育ったのだから無理もない。
ただしミロスラフ・ログネンコの場合はそうではなかった。
彼は父に資本主義を叩き込まれた。
だからチャンスをしっかりと掴んで、今は首都の一等地にある高層ビルにオフィスを構えている。
「………それで…うんうん、想定の範囲内だ。何も心配はいらない。はい…はい…うん、そうしろ。しばらくこちらから動くことはないだろう。受身でいい。それが"あの方"の望みなのだから………そうだ、それで頼む。」
ログネンコは長電話を終えて、参謀役の方に顔を向ける。
お気に入りの部下である『ヴィクトル・スヴェトキン』は中肉中背の一回り年下の男で、彼は連合崩壊時に国家保安委員会に所属していた中でもとびきり若輩の人間だった。
「どうしました、ボス?」
「スヴェトキン、ユニオンのゴロツキもミトロヴィッチも任務をしくじった。」
「…それでは……
「ああ。難儀な注文だったがここまでは完璧だ。連中は釣り針を咥え込んだ。…こっちでリールを巻いてやるまでもないがね。」
ログネンコは上手く体制の崩壊を乗り切ったが、国家保安委員会の同僚達の多くは資本主義体制に上手く溶け込む事ができなかった。
彼らは自身の技量が求められるような組織を探し出しはしたものの、そこはかつて彼らが必死に取り潰していたような組織…つまりはマフィアだったのである。
窮地に陥った同僚達に、ログネンコは自身の財力で持って様々な便宜を図ってきた。
勿論それは同情の類によるものではなく打算によるもので、現にログネンコは同僚達を動員し、ユニオンのゴロツキやミトロヴィッチを派遣した。
「…社員達に出撃を命じますか、ログネンコさん?」
「言ったろ、スヴェトキン。リールを巻くまでもない。放っておけば向こうからやってくるさ。」
北方連邦有数の財力を誇るログネンコは、ある傭兵企業の事業主でもある。
豊富な資金で買収したオリバー・エグゼクティブ社…通称OX社と呼ばれる私兵集団はログネンコが直接動かせる武装組織だ。
大半はマフィアのロクデナシで構成されているものの、元特殊部隊出身者の精鋭部隊もいる。
何より、体制崩壊時の混乱に乗じて手に入れた大型兵器の数々がこの会社を有名なものにしていた。
しかしログネンコは現在手持ちの戦力に動員をかける気はない。
それは"あの方"の意思とは異なる。
何が目的かは知らないが、"あの方"がログネンコに求めるのは文字通り盲従することであり、あれこれ質問することではない。
「連中の情報網はかなりのものです。"あの方"は既にユニオンでの駒を失っている…故に相手の情報網はこちらの手元にあるそれと同等であると考えた方が良いでしょう。」
「ユニオンの駒…親父に煮湯を飲ませたのはアイツさ。死に方としては少々呆気なかったが、長年苦しんだようだから親父は何も言うまい。…スヴェトキン、親父の話は君にもしたと思うが……」
「ええ。今でも同じ目標をお持ちで?」
「愚問だよ。悪いがコレは私の使命であり、"あの方"とも利益を共有している部分でもある。ユニオン連中は冷戦に勝った気でいるようだが…」
「敵が利用しかねないものは予め潰しておくんですね。」
「ああ、ヤツらが動く前に邪魔者は消しておこう。…話を戻すがオイゲンは遅かれ早かれ我々に辿り着く…恐らくはもう辿り着いている。だが、いつかの"マーティン君"のようにはいかんだろうね。」
…………………………………
ユニオン
オイゲン自邸
「危険が過ぎるわ、オイゲン」
ティルピッツはオイゲンの相談を即刻却下した。
再びOX社の社宅を襲うというのだから正気の沙汰ではない。
息子がプロの狙撃手に狙われたことを知れば、オイゲンの逆鱗に触れることは容易に想像できた。
だから直接伝えにきたし、改めてオイゲンに会ったのはその暴走を止めるためだった…必要とあらば文字通り力づくで。
「少し落ち着きなさい。あなた一人で解決できる問題じゃないわ。ヨアヒム君は協力者の保護下にいるから大丈夫。」
「私も舐められたものね。ヨアヒムにプロを寄越しておきながら私にあんなゴロツキを…アイツらは私の弱点を知ってる。優先目標は私じゃなくてヨアヒムだったのよ。…放っておけばまた狙われる。」
口調こそ落ち着いているが、その内心は間違いなく怒りに燃えていた。
あんな卑劣な真似をされたのだから無理もないが、ティルピッツとしてはやはり彼女に落ち着きを求めたい。
「よく考えて。連中はあなたを襲って時間を空けてからヨアヒム君を襲った。確実に始末したいなら、標的に警戒されるような時間を与えたくはなかったはず。きっと、同時に襲ったでしょう。」
「…何が言いたいの?」
「つまり、敵はあなたが今みたいな状態になることを狙っている。少し落ち着いて、オイゲン!敵の思う壺よ!」
オイゲンがようやっと心の中の消火活動に取り掛かったことをティルピッツは見てとった。
やはり来てよかった。
今の彼女なら、ある鉄血系の元ボディビルダー俳優よろしく機関銃とロケットランチャーを担いで暴れ出してもおかしくない。
きっと敵はそれを待っているはずだった。
「"マーティン君"を助け出した時は、あなたを誘い出すのが目的だったからあんな連中を警備に当てていた。今回の目的はあなたの抹殺だと仮定しなければならないし、あなたの正体を知っての攻撃なら戦友会のことも知っているはず…敵は既に私達が奴らを突き止めていることも知っているし、その分周到な備えをしているわ。」
「…要するに、罠だと言いたいのね。なら私はどうするべき?さっきも言った通り、ヨアヒムは未だ危険な状態にある。」
「重桜の協力者は信頼できるし強力なチカラも持っている。今心配しなければならないのはあなたの方だ。」
「とにかく、何か手を打たないと…」
「勿論打つべき手はあるけれど…ふはぁ…あなたにはやらせたくないわね?」
「あら?腕が鈍ってると思うなら大間違いよ?」
「いや、あなたならきっとやり遂げられると見込んでいるが…何か引っかかる。エウロパ大陸から使えるチームを呼び寄せた方が…」
「いいえ、私にやらせて頂戴。」
「あなたを使う場合のプランは…正直使いたくないんだが………仕方ない。分かった、手配しよう。我々としても奴らについて物事を進めなければならない。」
「なら、決まりね。まずはどこから始めるの?」
「まずはフロリダから。マイアミに例の犯罪組織の支部がある。…そこから始めましょう。」