「わり、ちょっとションベン」
インカムにそれだけ言うと、いかにもなチンピラが薄暗い中を手探りで歩く。ガタイの良い体格にパーカーとジーンズといったラフないでたちだ。
闇に順応した視界で、広く高い屋根に連なる、物品で満載の棚に手を添わせながら進んだ。合間合間にキャンプ用のLEDランタンの明かりが灯っているのでなんとかドアまでたどり着き、配布されたカードキーを手探りで通して開けた。
黒くぬらめく波間に、月明かりと外灯をぎらつかせる海が広がっている。潮の匂いが鼻に纏わりつく。波の音が緊張した心を撫でつけた。
少し離れた場所まで歩き、ジーンズのジッパーを下ろした。夜空と水平線を眺めながら、海面にじょろじょろと用を足す。
日常では体感する事の無い解放感を覚えるが、パーカーのポケットから伝わる重量が現実に引き戻した。
手を差し込むと、少しばかりひんやりとした感触。抜き出せばそれは拳銃だった。グロックだとかそんな説明を受けた。あまり興味はない。
一応の使い方は、関東で名の知れた半グレ組織の一員として理解している。慣れたものだ。今回の仕事にしても。
一晩だけブツの警備をすればそれで終わりだ。
盗品や表に出せないカネ、クスリをちょっと預かってくれだとかは珍しくない。だが場所が税関の保税倉庫で、なぜか入れるよう手引きされており、なんとなく、身の丈を超えた厄介事に巻き込まれている気がしないでもない。
ここまでくるとブツの中身が気になると言えば気になるが、もちろん手出し無用のお達しだし、知らぬが仏だろう。
腑に落ちない点は多いが依頼主の金払いは良かったらしく蹴るには惜しい。
大丈夫、よくあること。と、チンピラはじぶんを納得させる。
暴対法によりヤクザの人間を使うと上が捕まるので、半グレに仕事をアウトソーシングする事はよくある。今回もその内の一つだろう。終わったら仲間と朝キャバ行って、それで……
インカムに小さくノイズが走った、飴細工で出来た夢想を砕くように。
それで、ちんこ丸出しで何やってんだろと我に返る。心配ない。同じく拳銃を持った腕に覚えのある仲間が十人もいる。
腕時計を確認すると、夜光塗料の針がトイレにしては長い事を示していた。
「すまん、長くなった」
カードキーを通して倉庫に戻る。こうも暗いと持ち場に戻るのも一苦労だ。目印のランプを無意識に探そうとし、消えている事に気付く。そっと拳銃を抜いた。手は少し、汗ばんでいた。
「どうした、明かりが消えている。なにかあったか?」
慎重になって尋ねると、小さなくぐもった声が返って来る。
『ああ、侵入者だ』
「数は?」
『一人』
なんだと胸をなでおろして、今さら思い出したようにセーフティを外す。襲撃ならもっと大人数を予想していた。
「ならすぐ済むな」
『ああ』
「どうする」
『みんなブツの前で固まってる』
なるほど、と足音を立てないように慎重に進んだ。命令は侵入者を殺す事では無い。ブツを守るのが仕事だ。周辺を固めるのは理に適っている。
それにもまして一人でいるのが怖いというのが正直な気持ちがあった。倉庫の外は外灯で明るく、まだ暗闇に順応してない瞳では射撃も難しいだろう。はやく仲間と合流したい。
はやる気持ちを抑えようやくブツのある棚に近づいてきた。が、何かに躓いて転んだ。音を立ててしまった事よりも、チンピラは手を突いた時の感触の方に青ざめた。
布越しにぺたりと柔らかい、ちょっとだけ弾力のある、じぶんでもよく知っている。つまり肉。
立ち上がろうとして、ぬるりとしたものに脚を取られて尻もちをつく。ジーンズがじんわりとそれを吸い上げ、下着にまで侵食していくのが臀部でわかった。
これが侵入者のものであれば、まっさきに仲間が知らせるはずだ。
だとすれば、そうだとすれば、いやそんなはずは。
震える手でスマホを取り出し、ライトをつけて息をのむ。無機質な通路の床を覆う、赤い生命の液体。それが入っていたはずの肉体がいくつも転がっている。
いや、その死者の連なりの合間に佇む生者の足元が照らされた。
チンピラはじぶんの呼吸の荒さにも気づかず、希望に縋ってスマホを上に傾けその姿を知る。鈍い射撃音、それに腹を貫く苦痛と、僅かばかりの延命を引き換えに。
「━━終わった」
侵入者が短く告げると、すぐに増員が現れてブツの入った箱を重そうに運んでいく。その内の一人がチンピラを顎で指し、いいんですか? と尋ねる。無論、息の根がある事に対してだ。
「肝臓を撃った━━助からない。しばらくしたら死ぬ」
チンピラは半グレたちの中で一番生き永らえ、それが幸運なのか不幸なのか判別がつかないまま油汗をしたたらせ、腹から出る黒い血を必死に抑えようとし、痛みに耐える低い唸り声をあげながら、件の侵入者は仲間内にこう呼ばれていた事を聞いていた。
ファブル、と。
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都会の喧騒から少し距離を置いた街の一角に、その店はあった。昭和レトロな住宅を和洋折衷でリノベーションしたような佇まいは、なかなかにしゃれている。
大きく面積を取られたステンドグラスが朝日を美しく反射しており、香ばしいコーヒー豆の匂いが春風に乗ってほんのりと漂っている。
看板には、喫茶リコリコとある。
やがて赤い学制服を来た少女が原付の軽快な走行音と共にやってくる。近くにいたスズメが飛び立った。
店の横手に愛車を停め、ヘルメットを脱ぐ。プラチナブロンドのショートヘアが陽を浴びて輝いた。炎のように赤い瞳は雲一つない空を見上げる。今日も晴れるだろう。
少女は小走りで入店しようとし、扉にかけられている看板に目が点になった。本日休業、とある。
「あっれ~? おっかしいなー」
ふうむ、と顎に手をやる。定休日では無かったはずだ。それに店内からは先生と客らしき人物の声が僅かに聞こえる。こりゃあミズキさんが看板を掛け間違えたか? それとも今は公に出来ない来客があるのか……
ま、いっか。と扉を開ける。開いたという事は鍵がかかってない訳で、鍵がかかってないという事は立ち入っても怒られないはず。仮に怒られたとしても鍵をかけてない方が悪い。
「おはよーございまーす! あ、やっぱり先生いるじゃん。表の看板、掛け間違えてるよ」
カウンターの中にはこの店の主である、褐色肌の大男が立っていた。ミカ、あるいは少女からは先生と呼ばれている。紫の着物姿がよく似合い、長く垂らした縮毛と口髭、知的なメガネが特徴的だ。その奥の瞳は、少しばかり呆れている。
席には作業着を着た二人の男性客。
「こっちこそやっぱりだ。今日は臨時休業だって言ったろ、間違えてるのはおまえだ。千束」
「だっけ?」
千束と呼ばれた少女は小首を傾げた。ミカはため息交じりに口を開く。
「半年に一回の清掃だ。昨日ちゃんと伝えたぞ」
むむむ、と千束は難しそうな顔をし、腕を組んで記憶をたどる。なんか……そんなこと言われた気もする。
油ものを扱う事は少ないので日頃の掃除で間に合うと言えば間に合う。ただ、やはり飲食店を経営する以上は衛生面に気を配るべきだし、グリストラップ等は専門業者に頼んで奥までキレイにしてもらわないと詰まる事もある。
だから定期的に清掃業者を呼んでいるとかなんとか。
「だった」
合点をいかせ、ポンと手を打つ。次いでカウンター席に視線をやると、二人の内の一人は見覚えがある顔だった。柔和な笑みで千束に小さく手を振る。
「てことは今日はわたしも給仕の仕事をしなくていいからお客さんな訳だ。先生、わたしにも一杯。喉乾いたから大き目のマグカップでカフェオレがいいなー。ホットで、まだ朝晩は寒いから」
「店を閉めてるんだからお客さんでもないぞ。まったく、しょうがないな」
隣に座った千束に、先ほど手を振った中年男性がにやりと笑う。ミカに含みを持たせるように言った。
「まあ忘れちゃうよね、年に二回じゃ。毎月依頼してくれればいいのにねえ? こうして仕事前と休憩中にもコーヒーをご馳走してくれる優良取引先なんだし」
「そーだそーだ!」
千束が調子に乗るも、差し出されたカフェオレの手が止まったので「そーかもそーかも」に語気を弱めた。無事、マグカップを手にする。
ミカは困ったように笑った。
「いやいや、うちは優秀な従業員が日々キレイにしてくれますから。それに店長のほうは、けっこう繁盛してるって聞きますよ。これ以上増やしたら他のお得意様が困るでしょう」
「まあーおかげさまで。こうして人を雇う余裕も出来たわけですけど」
はにかみながら、店長と呼ばれた中年男性は隣に座る人物に視線をやった。
そういえばと千束がひょいと店長を挟んだ席を覗き込んで尋ねる。どこにでもいるような、それでいて少し頼りなさそうな目をした男が、じーっとコーヒーを見下ろしていた。
「そういえば、前回はお一人で仕事に来てましたよね」
「うん? ああ、まあ、おれ一人でもギリギリ回せるし。親父と二人でやってる小さな自営業だから、バイトを雇う必要は無いっちゃ無かったんだけど」
店長はちらと隣に座る男に視線をやる。
「アキラくんとはちょっとした縁があってね。彼、新しく構えた東京支店を任されて結構経つんだが、なかなか軌道に乗らないらしくて……奥さんもいるし副業を探してるって話だったから、ちょくちょく手伝ってもらってるんだ」
「へえー大変なんですねえ。本業ってなにされてるんですか?」
千束が相槌を打つが、アキラと呼ばれた男は会話の先がじぶんに向いている事に気付かないのか、手つかずのコーヒーを注視していた。黒い液体の中に何かを見出そうとしているかのよう。
ミカが心配になって声をかける。
「なにかお気に召されないようでしたら、別のものを用意しますが……」
「あー、いえ」
と、アキラは初めて口を開いた。高くも無く、低くも無く。どこかで聞いた気もするし、誰かに似ている気もする。その辺の同年代の男性を捕まえてサンプリングすればその声域になりそうな、要するに特徴が無い。少なくとも千束にはそう感じられた。
「彼は猫舌で、冷めるのを待ってるんですよ」
店長が代弁し、コーヒーカップを触って温度を確かめた。
「うん、全然熱くない。大丈夫だって、ぬるめを用意してもらったんだから」
「そうですか」
いただきます、と口を付ける。その瞬間、「あ“ーーっづづ!!」と悲鳴をあげながら椅子から転げ落ちる勢いでのけ反り、小指をタンスの角にぶつけた時のような苦悶の表情を浮かべる。
およそ大の男が取らないであろう過剰な反応に一同は固まった。
「ウソだろ!? えーそんなにか? ちょっと貰うぞ」
店長がカップから一口やるが、適温だ。
「ふつうは問題ないと思うけどなあ」
「……そうですか、ふつうは……」
そんな猫舌なことある? 何とも言えない雰囲気に、「んふっ」と呼吸を我慢するような音がした。全員が見やれば、千束が頬を膨らませてプルプルしている。手には飲みかけのカフェオレ……
そして懸命に小さく首を横に振っている。まるで誰かにサインを送っているようで、ミカと店長が反対側に顔を向けると、千束に視線をやったままのアキラがふつうと言われた事が気がかりなのか、もう一度コーヒーにトライしようとしていた。
ミカと店長は再び千束を見やる。「んふーッ! んん”~!!」と鼻息を荒くして懸命に何かを訴えている。目の端には小さな涙さえ浮かべていた。二人はまたもやアキラの方に視線をやる。先ほどと変わらぬ姿勢のまま、恐る恐る慎重にカップを口に運んでいる。千束を見たまま。
店長はゆっくりと席を立った。
「んあ“ぁーーっづづッ!!」
「ぶはッはっはっはっ! だあーはっはっは!」
顔中にしわを寄せて叫ぶ成人男性と、口に含んだまま行き場を失くしたカフェオレを吹き出して大笑いする少女。
ザ・ファブル。その死を語る始まりは、謎過ぎる光景だった。