店長は重たい仕事道具を担いでエレベーターに乗り、五階を押す。まずは最上階に構える事務所に向かい、そこから問題の部屋に案内された。
二階のソープランドに向かう途中のエレベーターで、悲鳴のようなものを耳にした。一緒に乗っていた事務員も聞いていたようで、無意識に顔を見合わせる。気のせいという訳ではないらしい。厄介な客でも居たのだろうか。
到着を示す電子音が鳴り、扉が開いた。全裸の女性が乳房を揺らし走り過ぎる。ぺたぺたぺたと、裸足で階段を降りる音が小さくなってゆく。しばらく動けなかった。
レスラーがするような覆面をしたジャージ姿の男がエレベーターを覗き込んだかと思えば、店長は腹に熱を覚えた。遅れて激痛に膝をつく、立っていられない。どうやら隣の事務員も同じらしい。腕を引っ張られ廊下に引きずり出される。
小刻みに乱れた呼吸で見上げて、そこで初めてじぶんは撃たれたのだと理解した。
激しい放水音が短くした。店長にはそう聞こえた。事務員がごろんと頭を傾け、額からトロリと血を流す。
ジャージ男はサイレンサー付きの拳銃を店長に向け、作業着の胸元についている店名に気付いた。エレベーターに振り返ると掃除道具がある。
「なんだ外注業者か」
悪態をつくように言って店長のスマホを回収して撃ち抜くと、エレベーターで上階に向かって行った。
店長はなんとか体を起こして、事務員のポケットを探る。残念ながらスマホは無かった。落胆して壁に背を預ける。これ以上動ける気がしなかった。
なんで、こんな。僕が何を。した。
ささやかな恨みを念じる。しばらくするとエレベーターが開いた。股間を手で隠しただけの中年男性が飛び出てきて、廊下に広がる血で派手に転んだ。でっぷりとした腹が床に叩きつけられ、贅肉が波打っていた。
「なあ、あんた」
震える声で店長は助けを求めようとするが。中年男性はそれに気づかず階段の方へと、ほうほうの体で進む。その姿をじっと眺める事しかできない。じぶんと事務員の血で出来た足跡だけがそこに残った。
ふいに、なんださっきのオヤジはと小さな笑いが込み上げてくる。汚いケツだった。
それでなんとなく、アキラを連れてこなくて良かったと思えた。もし残業に付き合わせていれば、きっと理不尽にも同じ目に遭わされていただろう。
訳も分からないうちに、抵抗する事すら、命乞いさえする暇もなく無遠慮に撃たれていたに違いない。
今頃はきっと、奥さんと食卓を囲んでいるのだろう。だからきっと、これで良かったんだ、もう。あークソ。結婚か。あの時、別れなければよかった。かもしれない。いや、どのみちダメだったか。
だんだんと意識が朦朧としてきた。再び、エレベーターの扉が開く。今度はレスラーの覆面をしていないヤツ。代わりに黒の目出し帽をしていた。ただ、既製品ではなくニット帽に適当に穴をあけただけの物で、目元は歪に綻んでいる。それがかえって異様ではあった。
エレベーターから身を乗り出そうとし、すぐに庫内へと身をひそめた。射撃音と同時に血しぶきのような煙が近くの壁を覆う。
「アンタがファブル?」
どこか聞き覚えのある声がした。なんとか視線だけを動かすと、赤い服の少女がおぼろげに見える。
まさか、そんな、幻聴に決まっている。店長は重い瞼に必死に抗いながら否定する。彼女がこんなところにいるわけがない……
寿命を迎えようとしている安い蛍光灯が明滅した。待合室から漏れ出る流行りの曲が、僅かな沈黙に虚しく流れる。
ファブルと呼ばれた男が手早く廊下を確認しつつサイレンサーを取り外し、表明するように言った。
「そうだ。おまえらがそう呼んでる━━俺は殺し屋の━━ファブルだ!」
サイレンサーをノイズとして廊下に放り、エレベーターから放たれた矢のように飛びだす。足元の血だまりが跳ねた。マズルフラッシュと耳をつんざく射撃音が連続して狭い廊下に響く。
少女は不感無覚に駆けて距離を詰める。合間によろめき、転びそうにも見えた、時に素早く壁に身を寄せて、不規則に並べられた見えない飛石を跳ねるかのごとく床を蹴る。
ファブルの撃った弾丸は全て少女の背後に着弾した。落とされたサイレンサーが、無意味に硬質な音を立てる。
縮まった距離に対してファブルは空を蹴り上げ、チャンバーに弾を残したままマガジンをリリース。靴底にたっぷりと付いた粘質な血液が弧を描いて少女の顔を打つ、直前に前腕で眼前を払い視界を確保した。目を除いた頭から胴にかけて、べしゃりと縦に一筋の血痕が斬られたように付着する。
格闘戦の発生する一歩手前で、少女の引き金を操る指に必要最小限の力が伝達される。
ファブルが対応して半歩下がり、射線から身をよじりながらジーンズのバックポケットから抜き出したマガジンを装填する。
その刹那、声がした。店長が小さく呻いた。
少女に僅かな、まばたき程の停滞が生まれたのをファブルは見逃さなかった。もう一歩下がって店長に銃口を向ける。少女は店長の胸元を掴む。発砲音。小さな体躯からは想像できない膂力でエレベーター内へと引っ張り込む。数瞬前に店長のいた所へ弾痕が刻まれた。
ファブルは階段に後退しながらエレベーターめがけて不規則に射撃を繰り返す。少女は迷うことなく追撃を諦め、庫内にあった掃除道具でボタンを押して扉を閉める。応射は必要ない。それよりも手榴弾などの爆発物を投げ込まれれば面倒だ。
弾丸が金属の扉を撃つ。そんな中で目を閉じたままの店長がうなされるように何度も呟いた。
「ち、さ……逃げ……て……さと、ちゃん逃」
「大丈夫、わたしは大丈夫だから」
安心させるように微笑みを浮かべて手を握った。そして背負った通学カバンから救急セットを取り出す。
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珍しい事もあるものだ。と楠木は半目して思った。
DA本部に出頭した千束が珍しくおとなしい。というより、どこか張り詰めた空気を纏っている気もする。気のせいかもしれない。彼女の精神構造は存外にタフで読みづらい。
だからといって指摘するような事では無いので、報告に思考を委ねた。
件のファブルの容姿は黒の目出し帽のため判明しなかったが、成人男性程度。装備はサイレンサー付きナイトホークカスタム。千束の見立てではかなり弄っているらしい。
先行したファブルがビルの監視カメラを破壊したので侵入から逃走までの段取りは不明だが、目撃証言を精査すると他に五人の仲間がいた事になる。包囲していたリコリスはファブルにより継戦不能の状態にされ、全員を取り逃がす結果となった。
なぜファブルを追わなかったのかを詰めるのは悪手だろうな、と楠木は指でデスクを叩いた。それに、交戦の命令は達成されている。
千束が結論を待たずに口を開く。
「顛末シナリオはどうなるんですか?」
「あの風俗ビルをフロントにしている組と敵対している組が羊にされる。で、どうだったファブルは?」
「ん~……プロでした。ファーストリコリス一人では難しいかも……わたし以外の」
それを聞いて、ふむんと逡巡した。貴重なファーストを複数人動かせばなんとかなる、と言っている。
だが不測の事態に対処するリソースを削る事になる。好ましくはない。
じっと千束の瞳を見つめる。血のように赤い。
「おまえなら確保できるか?」
「あっれー? 珍しいですね、司令が斬首作戦以外を提案するなんて。ファブルに尋問したい事でもあるんですか」
「保税倉庫の件がある。殺傷実包を使うのなら望みどおりの命令をくれてやるがな。人を殺せない低品質の弾頭を使うおまえに、譲歩してやっただけだ」
一拍の空白の後、千束は退室した。
楠木はなんとなしに万年筆を弄んだ。普段は能天気に見えてあれで案外、鋭い。あの様子では、こちらの意図もある程度は勘付かれているだろう。
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千束は原付を走らせる。燃えるような夕陽の中を。
病院に到着すると、シート下のフックで吊っていた袋を手に取る。果物の詰め合わせだった。
消毒液の匂いが漂う廊下を進み、記憶している病室に訪ねる。四人部屋の奥のベッドに店長はいた。仰向けのまま本を読んでいる。手がつらそうだ。
少し驚かせようとそろりそろりと近づき、しかし他の患者もいることなので密やかに言った。
「どーもっ、喫茶リコリコです」
「わっ、びっくりしたな」
「はいこれ、果物のお届け物。傷の具合はどうですか?」
「まあ、ぼちぼちって感じかな。ていうか、なんで知ってるの、僕が入院してる事」
「そりゃまあ店長のお店は地元に根差した会社ですから、自然と耳に入ってきますよ。よーやく面会できるようになったってのも」
脇に目をやると、他にも来客があった事が伺える品々があった。たくさんの菓子折りの箱や新品のタオル、今読んでいる本もそうなのだろう。シリーズものが積んである。
「そっか、それは嬉しいな。見舞いに来てくれてありがとう」
はにかんで、店長は不意にじっと千束を見やった。あのとき……と口を開きかけて、ばかばかしさが勝ったので止めた。あるわけない、そんな事。
「元気が出るよ。早く退院しないとな。親父ひとりだと店は回らないし。おっ、きみも来てくれたのか」
店長が千束の後ろに視線を向ける、釣られて振り返るとアキラが立っていた。果物の詰め合わせを持っている。千束のそれを見やって言った。
「被ってしまった」
「いや、そんなこと気にしないよ。いくらあっても嬉しいもんさ。来てくれてありがとう」
「ええ、まあ、当然です。それで……」
アキラがいつもと変わらない、無感動な口調で尋ねた。
「……撃たれたって、本当ですか」
アキラの普段を知る店長は、小さな違和感を覚えた。てっきり、ふらっとやって来てふらっと帰るものだと思っていた。別にそれで構わないし、干渉し過ぎないのは美点でもある。そういう適度にドライな所を、店長は気に入っていた。
だからある意味で彼らしくないと感じた。いや、誰だって銃で撃たれたとなれば気になるというものか、と納得し、二人にカーテンを閉めてもらい顛末を話した。
その途中に、店長は物思いに耽った。彼女はいったい何者なのだろうか。警察にも話してみたが、それらしい人物は発見されなかったそうだ。しかし、医者が言うには応急処置が施されており、それが無ければ死んでいたとのこと。自分自身ですらその真偽には懐疑的だ、あの少女の正体は。
「どうしました?」
急に口を閉ざした店長に、アキラが尋ねる。
「……実は、たぶんなんだが僕を助けてくれた人がいる。彼女がいなければこうしてきみたちと会話できていないだろうな。僕の記憶違いかもしれないけど……でももし本当にいたのなら、会って伝えたかった」
そっと、大切なものに触れるかのように言った。
「ありがとうって」
「じゃあ、早く良くなって探さないとですね」
大真面目にアキラが言うものだから、店長は小さな微笑みを浮かべる。
そーそー、と千束が腕を組んで頷き、優しく言った。
「それにもし会えなくても、店長が元気に仕事をしているのを見かけたら、彼女はきっとそれだけで嬉しいと思いますよ」
「そっか、そうだよな」
店長はしみじみと二人の言葉を噛み締め、そういえばと思い出す。
「そういえば、アキラくんに一つ頼みがあるんだった」
「何でも言ってください」
「図々しい話なんだが……親父は歳だし、腰をやってる。現場には出られない。僕もこんなだから入ってた仕事もキャンセルしたけど、お得意様だけはどうしても穴を開けたくなくて」
重い口で店長は続けた。
「だから申し訳ないがアキラくん、本業があるのは重々承知だが、付き合いが長い顧客のところには行ってくれないだろうか?」
「わかりました、問題無いです」
即答したので少し面食らう。
「そう、言ってくれると、少し肩の荷が下りたよ。すまんな。まだ仕事も慣れたばかりで不安だろうけど」
「不安はまったくありません」
「……いやでも一人でやったことないでしょ? ほら、僕がいないとちゃんと出来てるか気になるもんじゃん?」
「完璧に清掃してきます。仕事として……バイトとして」
いや……でも、と店長は呆然として含み笑いの千束に視線をやった。なんでこいつはこんなに自信満々なんだ? アルバイトにしてはプロ意識が高すぎるだろ。
謎のおかしさが込み上げてきて、小さく吹き出した。
「わ、笑かすな。きみのせいで傷口が痛む」
「痛いのは店長を撃ったヤツのせいで、俺は悪くありませんです」
「あークソ、やっぱ大阪から来た男は一味違うな。ふふふ、いてて。まあでも大丈夫か、きみなら」
痛みのせいか笑ったせいか、あるいはその両方で滲んだ目じりを拭い、店長は誇らしげ言った。
「小さな汚れもよく見つけるし、見えないところまでキレイにするし、どんな臭くて汚い所の清掃も文句ひとつ言わずにやる男だしな」
「また来ますねー」
と千束が明るく手を振り、アキラがぺこりと頭を下げて病室を出た。
待合室のテレビでは、逮捕された暴力団員が例の風俗ビルでの犯行を認めたと報じている。
「ヤクザかあー。物騒な事が起きるな。けっこー平和だと思ってたが」
「やんなっちゃいますよね」
「ホントになー。けど犯人が捕まったんなら、まあーって感じだ」
そんな世間話で駐輪場まで行き、千束はヘルメットをかぶる。
アキラは愛用のママチャリに跨り、適当な挨拶で分かれた。そのまま繁華街の方へと向かう。
件の風俗ビルに到着したころには、ちょうど日が暮れていた。少し離れたところに自転車を置き、幾重にも貼られた立ち入り禁止のテープをくぐる。薄暗い中をゆっくりと見渡しながら進んだ。まだ、血の跡はいたるところに残っていた。
エレベーターは当然動いていないので一階から順に五階まで階段で登り、そして二階に戻ってきた。
窓ガラスが外から内側に破られている。隣のビルとの間は狭く、両壁に手足を突くなり壁蹴りなりで簡単に突入できる。
エレベーターの前に立ち、そこに拳銃に見立てた人差し指を向ける。静かに九つの弾痕に射線を合わせた。手前になるにつれて左右の壁に痕が増え、対象が近づいているのがわかる。一発も命中していない。
「ヘタクソか」
振り返る。弾痕は無い。格闘戦を許した形。
そのまま半歩下がる。ちょうど、血の足跡と重なった。
「元同業か」
それは背後の階段へと続いており、閉じたエレベーター扉には銃弾が撃ち込まれている。
腕を下ろし、その場を後にした。
病院の待合室で見た、テレビキャスターの言葉を思い返す。
「ヤクザじゃないなあー」