ファブルは内ポケットから小さな缶を取り出し、四階の踊り場、手すりの影に置いた。息を止めて上部のボタンを押し込むと、カチリと手ごたえがある。そのままフロアに入り、ドアを閉める。
あのDAエージェントの対抗策。一定空間に停滞し、無色透明無味無臭の隠密性と引き換えに酩酊レベルではあるが、混乱を生じさせる神経ガスだ。踊り場に足を踏み入れれば、ほんの数呼吸で効果は現れる。かつて組織から支給された裏社会にも出回ってない代物なので、適切な装備が無ければ初見殺しのトラップ。
そっと、ナイトホークカスタムを握りしめる。インカムなど用意しているはずもなく、通信はスマホ頼りなのが心もとない。
階下からは断続的な銃撃音が聞こえてきた。
各階を監視しているグループ映像通話を確認すると、二階の連中は突破されたようだ。
まあいい、と作戦をもう一度脳裏に描く。十分な時間稼ぎにはなった。
この雑居ビルに屋外階段は無く、上下階の移動は屋内階段か四階に停めてあるエレベーターに限られる。なので各階の事務所スペースに机などで遮蔽を作り、階段の踊り場を見ればよい。
屋上からの逃走経路の確保と侵入を防ぐため六階と五階に四人ずつ。二階と三階は遅滞と消耗に努め、四階で本格的に迎撃する間に複数人でエレベーターを使って階下に回り、挟み撃ちにする。
エレベーターホールは階段と接していないので、気取られる心配もない。
即興にしては、トラップの次作としても上出来だろう。
「いけそうか」
と組長が呑気に尋ねた。
「まあ大丈夫だと思うが。おまえは四階から出ない方がいい。一番守りが固い」
スマホを監視していた部下が小さく報告した。
「三階もそろそろ制圧されます……信じられない。ガキ一人で俺たち相手に、こんな事が……」
「認めなくていいが、相手は弾を避ける。だが階段や事務所スペースという閉所で火力を集中させ、躱す空間を物理的に潰せば圧殺できるはずだ」
それだけ言って四階を任せ、手練れを連れて停めていたエレベーターで二階へ向かう。部下の前では冷静に徹していたが、フルオートのライフルを装備した数人を蹂躙された事実は重くのしかかっていた。
到着するといくつもの呻き声が聞こえる。事務スペースは酷い有様で、いたるところに銃撃戦の傷が刻まれていた。すべて、躱されたという事だろう。割れたガラスからの狙撃に注意を払う。
そして一人も死んでいない。報告にあった通り、ゴム弾のようなものを使用しているらしい。
マガジンはご丁寧に窓から投げ出されたようだが、拘束されただけの者や、まだ動けそうな負傷なら予備の銃を貸与してやり戦力を補充する。
兵隊の腕や足には、結束バンドが食い込んでいた。ナイフで切るが、それにしては奇妙な拘束方法だ。
「インシロックで縛ったのか? 単騎突入でそんな悠長な事が……」
ファブルのボヤキに、兵隊の一人が解放された腕の具合を確かめながら言った。
「妙な武器を使われて。袖口に射出装置を仕込んでいるようです」
どうやら不殺を徹底している。確保して情報を探りたいのか、それとも別の信念があるのか。どちらにせよ舐められたものだとファブルは不快感を覚える。覚えるが、こちらに有利な状況ではある。
殺されないという前提があれば捨て身で戦えるし、こうして全体的な継戦能力も底上げされる。
傲慢の報いを受けるのは、あのガキだ。
相手が非殺であることを本隊に告げる。少しして三階が制圧されたと報告が入った。
いよいよだ。スマホを確認する。そこで初めて、六階の映像が映っていない事に気付いた。いつからだ? 二階に到着した時には確かに……
五階をモニタする。暗闇の中、マズルフラッシュが黒い目出し帽の男を浮かび上がらせたのを最後に、通信が途絶える。
ファブルの脳裏に冷たい疑念が這いずり回った。
DAのエージェントか。いや背格好からしてそれはない。であれば同業……? 一人? だが階上に配置した人数は階下に比べて少ないとはいえ、それでも報告なしに制圧されるものなのか?
……俺なら出来なくもないが、この短時間なら複数人と見るのが妥当か。しかし建物の周囲はDAが張っているはず。大勢での侵入は……本隊が来る前からこのビルに潜んでいたという事もありうる。
さまざまな可能性を勘案するが、最終的には一つの袋小路に行き当たる。
もしも、単独でやってのけるほどの腕ならばそいつは……まさか……
まばたきすら忘れ、部下に肩をゆすられて我に返る。どれくらい時間が経った? 冷や汗が噴き出ている。
いるわけがない。
ファブルは畏怖を覚えるが、それを欲望で無理やりねじ伏せる。いや、だとしたら尚のこと退けなくなった。いい機会じゃないか。ヤツが実在するのならば、ここで……
スマホに視線を落とす。先に四階に降りてきたのは目出し帽の男だった。固唾を飲む。トラップの有効範囲内に入る、手前で踵を返して消火器を手に戻り噴射していた。
「なッ!?」
ありえない。無味無臭なはずだ。それともこいつの鼻や舌はそれを感じ取るほど過敏なのか。
ガスが霧散され、白煙が落ち着くと再び目出し帽の男は階段を降りる。トラップは無効化されたとはいえ、二の矢がある。目標が踊り場に立てば、合図一つで機銃を含めた自動小銃がドア一枚隔てて斉射される。
同時にDAエージェントが階段を登る。階下と階上のクリアリングが二人の視線を結ぶ。
これは、とファブルは動悸を速める。組長の時流を、信じてしまいそうなほど。
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先に動いたのは千束だった。手すりに足を掛けて踊り場を踏むことなく一直線にアキラに迫る。対応してアキラはスルリと手すりから降りた。手品のように二人の立ち位置が入れ替わる。
千束が身を乗り出して射撃するが、階下に逃げられる。砕けた非殺傷弾頭の粉塵が赤く舞った。マガジンを落とし、追いながら装填する、ファブルを仕留める為の弾丸を。
三階の事務スペースに逃げ込む姿を視界の端で捕え、間髪入れずにドアを蹴破る。すぐそばにいたアキラが、指で軽く目を覆いながら電気を付けた。急激な輝度差に千束の瞳の順応が追い付かず、目を細める。
伸ばされた手に袖口を向けるとインシロックが飛びだして拘束した。腕一本だけ抑えても意味は無いが、僅かに生まれた隙でその場から飛び退き、バリケードの裏に転がり込む。
「やるねぇ~。さっすが。伝説ってだけはある」
「少し腕が鈍ってるみたいだがな──ここにいるヤツらを倒したのはきみか?」
目出し帽でくぐもった声が返ってくる。返事するとは思ってなかったので、少し面食らった。
「まあね」
「マジで──こいつらライフルとか持ってるが、ショットガンとか」
「スゲーだろ。まいったか。だからアンタも諦めた方がいいよ」
「あー、けど俺も用がある」
「今度は誰を殺すってー」
撃たれた店長を思い出し、愛銃のデトニクス コンバットマスターを握りしめる。声の位置からして、奥へ移動している。
「いや、殺しはしない──」
「説得力無いなあ。こないだのビルで一般人を虐殺されちゃあ」
「俺じゃない」
「やったのは部下だから?」
「いや……なるほど、わかってきた」
千束がバリケードから飛び出して距離を詰める。
アキラはその辺に転がっていた、気絶している兵隊の首を前腕で抱えて盾にしていた。静かに狙いをつけ、撃つ。同時に千束がほんの少し右肩を沈ませると、弾丸は背後に抜ける。
二人はそれぞれ、瞬間的に奇妙な感覚を覚えた。
「ん?」
「──?」
スライドを引き、排莢。二発目は、無意味と判断して撃たなかった。盾を蹴飛ばす為に僅かに重心を移動させ、格闘戦に備える。
千束が確実に弾を命中させられる距離に踏み込む、その半歩手前で固まった。
一秒にも満たない空白の後、パッと拳銃を握る手を開く。人差し指にトリガーガードが引っ掛かっただけのデトニクスが、非戦を主張するようにぷらぷらと揺れている。
「うわ別人じゃん! ファブルって二人いんの!?」
千束が風俗ビルで交戦したファブルとは別人である事を見抜けた要素は
一つは、扱っている銃弾が違う。
本来のオートマチックならば射撃と同時にスライドが後退して排莢される。だが今回は手動でスライドを引いていた。動作不良でないのなら、おそらく弾丸に使用される火薬量が少なくブローバックしないせいだろう。
つまりは弾丸の直進性が保証されるかも怪しく、よほど当たり所が悪くなければ死にはしない非殺傷弾に近いのだ。
「やっぱりヘタクソじゃなくて元同業か……」
「あん? 誰がヘタクソじゃい! 確かに近づかなきゃ当たらないけど!!」
「そっちじゃなく──」
アキラが言いさし、二人は給湯室に飛び込む。手榴弾が起爆し、凄まじい破裂音とともにフロアの窓ガラスにヒビが入る。電灯が割れた。大勢が流れ込んでくる足音がする。
「こりゃ団体さんだ」
「おい」と声をかけたアキラを無視し、喫茶リコリコにもこれくらい繁盛すればいいのに。と思いながら千束は身を晒す。
「撃てッ!」
千束が小さく舌なめずりする。
千束の優れた観察力は相手の視線や微細な筋肉の動きを捉え、次に行う行動を予知できる。射撃される弾丸に対しては自らに飛来する【小さな点】として認識しており、その点を参照し弾丸を先んじて避けている。
これが弾丸避けの秘密だ。
点は当然のことながら彼我の距離が近づくにつれて僅かに大きくなり、誤差程度だが躱しにくくなる。
だがアキラが出現させる点は奇妙だった。いくら近づいても小さなままなのだ。まるで銃など初めて握った素人だとでも言うような。DA最強のリコリスを相手に立ち回っているにも関わらず、それは明らかな矛盾。
風俗ビルのファブルとは、点が確実に異なっていた。
機関銃や何丁もの自動小銃がフルオートで斉射された。数秒で空になったマガジンが捨てられ、すぐに装填される。吹き荒れる鋼の嵐の中を、千束は意に返さず悠然としていた。
揺れるように左右に駆け、身を捻り、時にはかわゆく腰に手を当て片足をぴょんとあげて避ける。
その様子を少し顔を出して観察したアキラがぼやく。右肩を狙ったはずの弾丸の行方を思い返しながら。
「──俺が鈍ったわけじゃないのか」
暗い室内でいくつものマズルフラッシュに照らされる彼女は、本隊にとって幽鬼じみて見えた。実際にそうなのかもしれない。だから弾が当たらないのだ。いままで殺してきた誰かがこうして現れたのかも。
空薬莢がカラコロと床に落ちては転がる虚しい音が、悪魔の嘲笑いのようだった。
「なんっだこいつ!」
「当たらんぞ……本当に人間かよッ」
「亡霊が……来んじゃねえ! 死ねクソ!!」
「んまー失礼な! いたいけなJKに向かってなんつー……そっちがへたっぴなんだろ!」
ぷりぷりと頬を膨らませながら、銃をコンパクトに構えた姿勢で次々に射撃した。赤い弾頭が兵隊の眉間や胸部に命中し、意識や正常な呼吸を奪う。
「銃はダメだ! 組み付けば殺せる、数で押せ! 囲め!」
踊り場から端末で状況を監視していたファブルが命じると、ナイフや撃ち尽くしたライフルを鈍器にして兵隊が襲い掛かる。無論、それもまた卓越した観察力によって予測可能の範囲内でしかない。上半身を逸らすだけで躱し、返しに脇腹へ爪先をめり込ませる。
とは言え、千束に相対するにあたって有効な戦術である事は確かだ。非殺傷弾故に確殺に至らず、タフな相手だと何度も戦う羽目になる。それに一度物理的に拘束されれば危うい。
三階かー。飛び降りても平気だし、いったん退いてもいいかな。と考えながら銃撃を混ぜた格闘戦を開始する。
視界の端で、低い姿勢のタックルで飛びだしてきた兵隊を捉えたが無視する。サイレンサーによる鈍い音の射撃が、その膝を撃ち床へ這いずらせたからだ。
ぬるりと影が忍び寄り、適当な一人の顎を掌底で打ち抜く。糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。カシャンとスライドが引かれ、射撃音。別の誰かの鎖骨が撃ち砕かれ、苦悶の声が響く。
「なんだてめえは!」
誰かが叫ぶ。視線を集めたアキラが、無情にスライドを引いた。
「えっ? ファ」
言いさした兵隊の鳩尾に踵を入れる。
「がはっ」
「そいつも敵だ! 殺せ!」
ファブルが叫んだ。兵隊の何人が我慢できずに拳銃を抜くが、いつの間にかそれはアキラか千束の手に収まっていた。
「だから銃はダメだと……ディスアームされるぞ! 弾切れさせろ!」
「たった二人に手間取ってんじゃねえ!」
「クソッ! なんなんだこいつら、強いとか弱いとかじゃなくてもっと別の……」
聞こえてくる本隊の声に苛立ち、頭を掻く。
四階の連中も投入しているが、それでもあの化け物じみた二人の心臓に手が届くかどうか。いや、足元にさえ……
すでに何人かがこっそりと階下に逃げた。別にそれを咎めはしない。あいつらの腕では、おそらくビルから出た瞬間に殺される。ただ、計画は破綻しかけているのも確か。
トラップも、閉鎖空間での火力による圧殺も。
━━俺も逃げるか。
強く歯を食いしばる。そうじゃないだろと己を奮い立たせる。
ゆっくりと階段を登った。四階の事務スペースに戻ると、煙草を咥えた組長が「終わったか?」と無邪気に聞いてきた。足元にはいくつもの吸殻。
「ああ、終わりだ━━」
ウォーミングアップの気分で引き金を引く。組長は理解の追い付かない表情で、壁に背をやって崩れ落ちた。
終わりだが、ヤツには俺の持ちうる全てを叩きつける。
次 明日の朝は無しで、たぶん夜だけだと思います。