その日は妙に清々しい気分だった。
空を仰いで、混沌の風景が雲のように頭上を通り過ぎていくのを見ていた。
蘇ったのだと気がついたのは、しばらくボーッとそうして空を眺めた後だった。
身体を起こして、辺りを見渡す。
幸いにも少し覚えのある場所だった。多少風景は変わって居たが、確かこの近くに適当に立てた小屋があった筈だった。
あばら家とも呼べないくらいに粗末な作りだったが、それでも作った家だ。
軽快な足取りでそこに向かえば、そこは、異常な程に時間が経過していた。
作ってから、まだ数ヶ月と経過して居ない筈だった。
それだけの時間があればコケくらいは生えるし、蔦が伝う事もあるだろう。
だが、そんなレベルじゃなかった。
かつて家があった場所には、大木が根ざして居た。
隅に転がっている、『オレの家』と今はまだない筈の日本語の刻まれた石が、この場所がオレの家であったことを否応なく証明している。
何があったのか。
オレは脳裏を探って、そして。
途方もない存在に消し飛ばされた記憶を見た。
恐怖に身が竦み、思い出した瞬間に全ての胃の内容物をその場にブチ撒けた。
言わずとも理解した。
『霊王』
あれがそうだと、心身ともに理解した。
思い出すことを拒否するような脳を叱咤して探れば、出るわ出るわ悍ましい罪の数々。
経過を省いて言えば、オレは、虚に似た存在として万年近い年月を過ごしたらしい。死んでは食らい、死んでは食らい、殺しても無限に蘇り続ける化け物として。
そして見兼ねた『霊王』に討滅された。
妙に体が軽いのは、死神としての資質を強く顕にして、『霊王』がオレを攻撃したからだろう。
斬魄刀で罪を祓うように、
だが、『霊王』と言えど慮外の力に関しては祓えないらしい。
不死身としてオレは蘇った。
莫大な、虚として蓄積した霊力を保持したまま。
詳しい話は、省く。
オレが何故虚に近しい存在になったのか、それは人の魂魄を食らったからだろうと思うが、それ以降の記憶は語りたくはない。
我が事ながら、悍ましさに吐き気が止まらないほどの所業だった。
強い霊力を得る。
その目的は意図せずして達した。
けれど、オレは素直に喜ぶことができない。
数多の魂魄を犠牲にして得た力を、喜ぶことが出来ない。罪の意識に苛まれて心が壊れそうだ。
──なんて。
……そう言えれば、どれほど楽だっただろうか。自分がマトモなのだと信じられただろうか。
二度とやりたいとは思わない。
だが、その苦痛が喉元を過ぎ去れば、残るのは欲しくて欲しくて堪らなかった圧倒的な強者という立場。並の虚を優に上回る圧倒的な霊力。
身体に満ち溢れる霊力を実感して震える。
オレは聖人君子ではない。
この時にハッキリと悟った。
胸に溢れるのは申し訳ないという僅かな想いと、それを押し潰すほどに大きい歓喜の念だった。
何度死んで、何度願って、何度無力に咽び泣いたか。
無間の地獄を生きる道から脱した事が、何と寿ぐべき事か。
それを思えば、罪悪感など塵に等しかった。
産声を上げるようにオレは声高々と笑った。
笑って嗤って嗤い続けた。
そして。
声が掛かった。
「──何と邪悪な笑い声か。『霊王』様の御心のままに、失せれば良いものを」
ゾンと、体の半分が失せた。
左の眼球が失せた右半分を見る。その後に正面を見た。
そこには、和尚と呼ぶべき男が立っていた。
「何度でも、壊し尽くしてくれよう。心壊れるまで、安心して何度でも去ね」
オレの、新たなる地獄の始まりだった。
魂魄を食らわない。
そんな決意は一瞬で忘れた。
勝てない。このままでは殺され続けるだけだ。
オレは無我夢中で食い続けた。一度濯がれたせいか、魂魄を食らっても意識は飛ばなかった。
逆にそれはそれで地獄だったが、何度も殺され続けるよりはマシとオレは受け入れた。
虚すらも食らえるようになった。
自分が人間であることが不思議な程に容易に食らえた。
旨かった。大きい魂魄であればあるほど旨いとその時に知った。
味がある訳ではないが、喉越しが凄まじく旨かった。
『
オレがそう呼称されるようになるまで、時間はさほど掛からなかった。
何度も、何度も和尚に殺された。
死神の前身であろう者どもにも執拗に殺された。
まだ勝てない。まだ勝てないとオレは『冷徹に』死んで次の機会を待った。
虚を喰らい続け、魂魄を食い続けて、オレの霊力は膨張に膨張を重ね続けた。
不可思議な事に食らった後の生では、食らった魂魄が内部に蠢いている感覚があるのだが、一度死ねばその感覚は失せた。
不死身が適用されるのはオレだけという事なのだろう。
だが、高まった霊力はそのままだった。
その事を認識してから、きっと魂魄たちはオレが死んだ瞬間に解放されるのだと
食って食って食って。
闘争と逃走と討死を繰り返して、それでも死神は強かった。『霊王』も味方について居たから、幾度となくオレは消しとばされた。
そして、何万年が経っただろうか。ついにオレは死神の前身の一人を殺す事に成功した。
初めて食らう死神は、とても濃厚な味がした。
そこで初めてオレという存在を脅威と考えたらしい。
当然だ。
『霊王』に消しとばされても、何度殺しても蘇り続ける化け物。
そんな存在が脅威でなければ何なのか。
和尚がオレの前に姿を現したのはそんな時だった。
「──主と交渉がしたい」
「嫌だと言ったら?」
「戦いが続くまでよ。そちもそれは望んでいまい」
「はは、前まではな、けど、今はお前が旨そうに見える」
「やれやれ。困ったもんじゃ。死があれば良いのに、無いのだからな。加えてお主は地獄にも混沌にも引かれぬと見た。どういった理屈か皆目見当がつかんわ」
「……死が、ない?」
「ん? なんじゃ、お主まさか、
その和尚の言葉は衝撃的だった。
そう言えば、そうだった気がする。
混沌の時代には生死すらなかった、と。
「混じり合う。それが今の時代で、死に一番近い。あとは地獄か、そちは罪を犯しておるのに、何故か引かれんようだがな」
「ま、待て。なら、オレが食らったこれまでの魂魄は……」
「はぁ? お主に混ざり合ったに決まっておろう。さながら胃袋で消化するように、な」
その一言は、信じ難いほどにオレの土台を揺さぶった。
これほどまでに悪逆の限りを尽くしておいて、一丁前に罪悪感を刺激された。
その後は口先三寸、和尚が言うがままにオレは停戦を受け入れた。
そして呆然と日々を過ごしているうちに、オレは気がつけば変なところに囚われて居た。
簡単に言えば騙されたのだ。
和尚はオレを放置する気などサラサラ無かった。たまたまオレが隙をすぐに見せたから捕まえた。
始めはそんな『温い』事を考えて居た。
「──おお、目を覚ましたか。いやいや、助かるわ。さすがに『霊王』様に支えてもらうのはどうかと、思うておったのでな」
喋れない。口を塞がれて四肢を抉られていた。
死なないように延命措置を取られていた。
「お主なら、なーんの問題もないわい」
ニカリと笑った和尚の表情には何の邪気もなく。
それはつまり、オレが人間扱いされていないのと同義だった。
和尚は、初めからこうするつもりだったのだと理解した。
オレの特性が徹底的に暴かれた。
混沌においても死ねる、蘇る特性を。
死んでも死んでも蘇るシステムを、どういった原理か蘇る場所を固定されていた。
行われる実験と夥しい量の死。
嬉々として死神が、オレの身体に集う。
そして。
オレの本当の地獄が始まった。
この記憶も、語るべきではない。
忌むべき記憶でしかない。憎悪を膨らませるだけの価値しかない記憶。
そんなものを追憶する事に時間を費やすのも、馬鹿らしい。
結果的に言えば、オレは三界を支えるのには適さなかった。
さすがに『霊王』の代わりとなるには不死身程度では不足していたらしい。
幸運だったと考えるべきか、あるいは『霊王』に劣る程度の特性だったと嘆くべきか判断に困るところだが、身体中の全部を抉り抜かれて何十万年も延命させられるよりは楽だったと思いたい。
それが例え、『霊王』が支えとなって三界が分たれた後も、無限に殺され続ける地獄の只中に居たとしても、だ。
オレが解放されたのは偶然に偶然が重なった、ある意味必然ではないかと思うほどの出来事によってだった。
オレは零番隊の管轄とされて、実験に実験を重ね続けられて居た。
只管に憎悪だけを支えにオレは意識を繋ぎ続けていた。
いや、もはやそれは憎悪であるのかも定かではない。
純粋な、一本の糸ほどの細さにまで研ぎ澄まされた意志だった。
死に慣れ親しみすぎたオレには無限の死すら緩くなっていた。生と死が混じり合うような不思議な感覚。
だからきっと、ただの気まぐれだろう。こんな些事でオレが決意するわけがない。
──■■■■■■■■■■■と思ったのなんて。
その大きな口で、オレを食らう事によって。
その虚は特殊な性質を持っていた。
その身に蓄え続ける性質と無限に増殖する性質を。それと同時に固定するための器具すら食われて、オレの意識は泡沫に溶けた。
繰り返し死に続けた果てに、自由になった時に備えていたオレの意志が、か細い何かを辿って、とある肉体に漂着した。
それもまた、偶然であり必然であったのかもしれない。
オレは初めて、世界に産まれるのではなく、とある女の股から産まれた。
「──『霊王とは如何なる存在なのか』」
即ち三界の楔。
その存在が隠れることがあれば、三界は崩壊するであろう。
「──『ならば、楔が打ち込まれる前は如何なる世界だったのか?』」
そんなものは存在しない。
決して、存在しない。考えることも許されない。
そう、厳しい叱責の声を浴びた。
オレは、その声を浴びた。
幾千。幾万。幾億。
いや、一千億の屍を踏み越えて初めて、オレは死神に受肉した。
己が意志に最も相応しい肉体に。
オレの名は、