「──はぁ、はぁ、はぁ」
荒い呼吸音だった。
胸を抑える手は小さく、矮小で、体躯にあった大きさだった。
人間の年齢で言えば、僅か一桁の年齢にしか見えない子供が、双眸に激情と涙を浮かべて、残ったもう一つの手をギチギチと動かしていた。
復讐を遂げた喜びと苦しみの相混じる表情を浮かべた少年は、脳から感じる不快と快感に酔う程に唇の端から涎を垂らし、身体が発する激痛という悲鳴すら鑑みずにその身に秘めた『卍解』の力を行使していた。
辺りは、血の海だった。
それ以外に形容のしようがない。
眼球が、頭髪が、歯が、舌が、耳が、血液が、臓物が、排泄物が破れて溢れたモノが、ありとあらゆる身体の部位が、ブツ切りに、あるいはバラバラに、原型を残した者も、残さない者も、何十人という単位で夥しい死体となって転がっていた。
その中で、最後の一人が、辛うじてまだ残る息を懸命に維持しながら、幾度となく繰り返したであろう命乞いを続ける。
「ま、まで、ごろざないで……、あやばる、あやまるから」
少年に問いを繰り返す死に体の男は、身体が半分失せていた。
横に、ではなく。身体の正中線から縦に裂かれていた。
当然のように内容物が地面にバシャバシャと撒き散らされているが、そんな事も構わず男は命乞いを繰り返す。
その言葉に答えたのは、少年ではなかった。
いつの間にか少年の背後に立って、母が子を抱き締めるように包容をする、両目をバッテンの布で覆った豪奢な着物を破廉恥にはだける女が問いに答えた。
しかし、その声は
「キハハハ、キャハハ、どうする? どうするの? 『双ちゃん』にまだ殺してほしくないってさ! キヒヒヒ!! なーんてねぇ! 殺さない訳ないよねぇ! さっきのさっきまでコイツらが殺そうとしてたってのに、なーんてオメデタイ頭してるんだろうねぇ! 答える? 答えちゃう? 私が言ったことそのまま話しちゃう!? ついでに『お姉ちゃん』の恨み言も言っちゃう!? キャハハ!」
「う、うるさい……!! お前が、お前がもっと早く……!!」
「キハハハ!! あれ? あれれ? もしかして気づいてないの? 『双ちゃん』ってば、お姉ちゃんが死んだのは私のせいだと思ってる!? 違う、違う違う!! 私はアンタなんだからね、私が早くアンタを助けなかったのは、アンタのせいだよ? だって、心のどこかでは思ってたんでしょ? お姉ちゃんが、アンタの大好きで大事なお姉ちゃんが、強い強い虚を全部やっつけてくれるなんて、あわーい希望を抱いちゃってたんでしょ? キハハハッ!」
「う、うるさいうるさいうるさい!! ……お前が!! お前がもう少し早く助けてくれればッ……姉さんは、姉さんは助かったんだ!!」
「キヒヒヒ、いいよぉ、私は無駄が大好き! 過ぎちゃった話を何度も何度も、呆れるほど蒸し返しちゃおーよ、無駄話に時間を無駄に使っちゃおーよ! アンタってば、腰が抜けちゃって大好きなお姉ちゃんと一緒に戦うことすら出来なかったもんね! ほらほら、よーく思い出して? キャハハ!!」
そう言われて、少年はついこれまでの光景を脳裏に浮かべた。
必要のない、生まれてからこれまでの記憶すらも。
「──双ちゃん、立派な死神になろうね!」
そう、少年の事を呼ぶのは双也の姉だった。
純粋で清廉たる人だった。
木剣を手に握る双也はそんな姉を疎んでいた。
痣城家。
かつては剣術と鬼道に優れた一族として、その力のみで貴族位を手に入れた武力に優れる一族だったが、無情な時が流れるにつれてその力は衰えた。
研鑽を忘れ、安寧に呑まれ、貴族らしい貴族となって矜持すらも忘れ去り、もはや高い力を持つ武闘派という評価は過去の栄光にしか存在せず、恐れられていた記憶は遥か遠い昔のこと。
やがて斬魄刀の始解すら一族の者が出来なくなった頃には、痣城家の力を恐れる者は誰もいなくなった。
当然だ。力があるからこそ貴族で居られる。
力なき貴族など食い物でしかない。
痣城家の者たちもそれを理解していたからか、『暴力』という力を失うのと同時に新たな力を求め始めた。
もしここで、過去の栄光を求めんがために鍛錬に精を出せば、また違った未来もあったであろうが、残念ながら安寧と堕落に溺れた貴族らしい貴族にその発想はなかった。
『暴力』と引き換えに得たのは『財力』だった。
過去に手にした遺産を元手に不動産や金貸しに事業を広げて、『財力』を新たなる痣城家の力として誇示するようになった。
力の種類など関係がない。
権力、暴力、財力。等しくどれもが力である。
新たに得た『財力』という周囲を恐れさせる力を持って、痣城家の者たちはさらに事業を拡大させた。
ますます力を蓄えて、貴族としての地位を頑として守り続けながら、もっともっと、と貪欲に力を求めていった。
死神としての矜持など忘れて久しく、一銭の価値もないと捨て去られ、泥に塗れていた。
他人を蹴落として得る『財力』の魅力に取り憑かれたように、金を稼ぐ事ばかりに腐心する。
それが痣城家にとっての正しい行いであり、自らが引き継ぐべき当然の権利である。
まだ幼い少年であった双也はそれが至極自然であり、力に貴賎はなく、『暴力』が『財力』に変わっただけであると、弱者を虐げ搾取する貴族としての在り方に一片の戸惑いも迷いも持っていなかった。
だが、少年には姉が一人存在した。
彼女だけが唯一、異なる気質を持っていた。
突然変異とでも呼べば良いか、それとも先祖返りと呼べば良いか。
それほどに今現在の痣城家では考えられない優しさと、そして痣城の名に誇りを持っていた。
今の一族の者たちが忘れ去った、過去の一族が打ち立てた武勲を倉庫から引っ張り出しては読み漁り得た知識を、双也に幾度となく繰り返し授けて、一緒に護廷十三隊と目指そうと、死神になろうと、瞳を輝かせながら言葉を発する姉が、少年は疎ましかった。
その度に少年はさまざまな言葉を駆使して姉に反論、もとい抵抗の意思を示した。
しかし、姉はその度に双也の言葉をしっかりと聞き入れた上で、私はこう思うと持論を述べた。
幼い双也にとっては唯一同じ目線に降りて、しっかりと話を聞き、その上でしっかりと意見を述べてくれる貴重な存在だった。
「お金は無くなっちゃうかもしれないけど、誇りはなくならないよ」
双也の姉の言葉はいつもそう締め括られた。
柔らかく優しい表情で、姉はいつも双也に笑いかける。
金に汚く他者を蹴落とし、嘲笑を浮かべながら薄汚れて生きる一族の中で、彼女だけが、姉だけが異質であり、汚泥の中に居ながらも染まらず、清廉たろうとしていた。
双也はそんな姉が疎ましかった。嫌いだった。
なぜそんな面倒な事をするのか理解に苦しんだ。
黙っていれば手に入る地位と金を、むざむざ捨てる理由がわからなかった。
──けれど。
姉が見せてくれる笑顔だけは、素直に大好きだと言えた。
恥ずかしいから、決して言葉にはしなかったが、確かに双也は自覚していた。
だから、魔が差したと言えるのかもしれない。
その笑顔を見るためだけに、死神とやらになってやってもいいかもしれない、と。
双也はそんな貴族特有の傲慢な、けれど子供らしい生意気な夢を抱き、姉が剣を振るう姿の隣で、見よう見まねで剣の振り方を学んでいく。
「しょうがないな。僕も死神になってやるから、姉さんは足手纏いにならないでよね」
「うん! 双ちゃんなら、きっと誰よりも強い死神になれるよ」
姉のその言葉と、微笑みが心に刻み込まれ、斬魄刀ですらない木刀を振るうのもおぼつかない未熟な年頃の少年は、彼なりに必死に、幼い中で可能な限りの全力で夢を叶えるため鍛錬に打ち込んだ。
いつしか、姉を疎んでいた気持ちは消えていた。
その笑顔が見たい。
ただそれだけで動機は十分だった。
姉が望むのなら、誰よりも強く、誰よりも高潔で、誰もが認める最高の死神になろう、と。
幼い胸に大志を抱き、夢を追い、いつか必ずと、姉をカッコよく守る自分の姿を思い描いていた。
──しかし、現実はあまりにも無情だった。
その夢が無惨に破れ去るのはあまり唐突で、あまりにも残酷な仕打ちが行われた。
瞬く間に夢は泡沫に変わり、水泡に帰して、希望は絶望に成り代わる事となった。
痣城家の財産を狙った、複数の貴族の結託によって、尸魂界に対する叛逆という荒唐無稽な罪をでっちあげられたのだ。
それは口にする事も憚られるほどの大罪である。
瞬く間に一族、そして真央霊術院に通っていた姉も捕縛された。
当然のことながら、未だ幼いために真央霊術院には通っておらず、自宅に帰ってくる姉から日々学院の話を聞いて、一緒に木刀を振るっていた双也も、抵抗すら浮かばないほどの『暴力』によって捕縛された。
無論、貴族である。
すぐに処刑とはならなかったが、そんなものは時間の問題だった。
でっち上げられた罪に、一族が侵していた幾つもの本当の罪が積み重ねられ、形だけの裁判を持って、一族郎党の処刑が決まった。
その数は三百四十三名。
使用人に至るまでの全てが、関与した罪によって処刑とされた。
それも隊長格の処刑のみに使われる双極などといった高尚なモノでも、斬首や絞首などといったある意味でまっとうなやり方ではない。
──処刑の為だけに掘られた穴蔵に、殺気石を埋め込んだ死刑場に放り込まれた。
そう。穴蔵だった。
上部には
それはつまり、処刑とは名ばかりの
相対するのは虚。死神が、調停者であるべき矜持を捨てたかのように、虚に死神を食わせる事で
最後に残されたのは、まるで
自分の番を迎えて、震える足で穴蔵に進む双也が空を見上げれば、殺気石に囲まれて安全を確保した穴の上では、痣城の一族を罠に嵌めた貴族家が酒を飲み、美食を食らい、女を侍らせながら、ゲラゲラと笑って痣城の一族が滅ぶ様をエンターテイメントの一種として消費している姿があった。
待っている間にも、双也はその様子を伺うことが出来た。責められて然るべき醜態を晒す貴族たちに憤りを覚えて叫んだ。これが誇りある死神のすることか、調停者としての矜持がないのか、と。
だが、自らが実際に嘲笑される側に回れば、双也には恐怖しか浮かばない。
ガクガクと震える足は言う事を聞かず、そんな双也の姿を見て、また見物客たちがゲラゲラと嘲笑をけたたましく鳴り響かせる。
そんな中で、双也の姉だけが、背筋を伸ばして真っ直ぐに歩いていた。
己に後ろ暗いものは何もないと、堂々とした仕草で示す姿は双也が思い描いている理想の死神の姿だった。
双也と、姉の手にはそれぞれに浅打の斬魄刀が与えられた。
それが意味するのは、姉弟同士での殺し合いである。総身に寒気が走った双也だったが、そこで待ったの声が掛かる。
姉との殺し合いを強要されるのかと全身を凍らせていた双也にとってそれは、ある意味で救いにも似た声であったが、しかし。
その理由は愕然とすべきものだった。
双也の姉は真央霊術院の中で好成績を収めていた秀英だった。
そんな姉と、未だ学院に通ってすらいない弟では余興にすらならない、という善意ではなくむしろ悪意と嗜虐に濡れた下卑た物言いだった。
その代わりとなる余興として用意されたのは、これもまた悪辣な貴族らしい提案と愚案だった。
「かつての英雄と呼ばれた痣城家には、既に我々が尊ぶべき力は残されておらず、継続させるに値しない。没落するに相応しく、何の力も持たぬ汚れた血筋と、実証するための余興をご用意しましょう」
一息を吸い込み、下卑た笑みを浮かべた執行人が続けた。
「痣城家に残った最後の血族。一族の結晶にして、無力なる二人の姉弟。二人がかりでも虚を滅することが出来ず、怠惰な日々を送り研鑽の必定を忘れ、堕落と奢侈を尽くした己の一族を呪いながら、下賤なる虚に生きたまま踊り食われる様こそが、没落の証明となるでしょう! それを天から眺める者こそが勝者であり、残すべき血筋であると、私は強く確信します! 没落した一族の末路をとくと御笑覧あれ!」
あまりにも醜悪。これが貴族かと、己がこうなったかもしれない未来を考えて怖気が走る。
虚とは、護廷十三隊に入隊した者ですら最初は複数人がかりで祓うべき存在だ。
それを、秀英とはいえ未だ真央霊術院を卒業していない姉と、その学院に通ってすらいない双也が、二人がかりで倒せるはずがない。
怖気と同時に、これから訪れるであろう虚との戦いを考えて恐怖に身を竦める双也を、しかし姉は優しく撫でた。いつものように、双也が大好きな笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんが、双ちゃんをここから出してあげるからね」
双也を撫でるためだけにしゃがんでいた姉は、すぐに立ち上がると、頭上に巣食う貴族たちに向けて啖呵を切った。
「なれば、私達が虚と打ち倒せば、未だ一族に祖先と同じ、戦うための力が宿っている事の証となるでしょう!貴殿の述べた『尊ぶべき力』の証を立てたその暁には、何卒我らの延命を聞き入れられたし!」
力強い言葉だった。
側から見る双也にとって、嘲笑の全てを跳ね返して堂々と述べる姉の姿は、まさしく夢にまで見た誇り高い死神の姿だった。
その姉の言葉に押されてか、執行人の男が無表情に呟いた。
「
希望が見えた。
その瞬間に双也は期待してしまった。
姉なら、姉ならやってくれるのではないか、と。
愚かにも、愚かしくも、そう思ってしまった。
未来で、愚鈍極まるその思考に後悔する事になるとは夢にも思わず。
姉は奮戦した。
実際に虚との戦いを見たことがない双也から見ても、それは激戦であり、姉のこれまでの努力が伺える戦いぶりだった。
虚の身体には無数の傷がある。その巨体に浅打で刻まれた多くの傷跡は全てが姉が付けたものだ。
姉は、十分過ぎる程に奮戦した。
──だが、現実は無情だ。
他でもないその虚の大顎に咥えられ、姉の身体が、ミシミシと骨と肉を軋ませていた。
貴族どもに用意された道化に過ぎない虚が、本能に従って姉を食いちぎろうとしていた。
動け、動け、動け。
ガタガタと震える歯が立てる音が喧しい。
双也は、地べたに尻を着けたまま、ただの一歩も、その場から動けなかった。
浅打を握りしめて、力を込めて、震える手と足をあらん限りの気持ちで叱咤しても、恐怖が身体を縛り上げる。地面に縫い付けられたように、双也の抜けた腰は地べたに面したままだった。
いざという段になって、あれほど生意気な口を訊いていた双也は何の力にも成れなかった。
戦い続ける姉を見つめながら、その足は一歩も前に進めなかった。
握る浅打は己の無力さを嘲笑うように地面に引っ掻き傷を作る。
そんな双也を、虚に咥えられて今にも息絶えそうな姉が、だらりと力なく頭を振って見つめた。
見るな。見ないでくれ。
それは虚に殺されるのとは別種の恐怖だった。
あんなに期待してくれていた姉を、裏切った自分。
最期に見る姉の表情が絶望と落胆であったのなら、全てが耐えられない。
死神になってみせると、誇り高い死神となって、誰もが認める最高の死神になると誓った自分自身の言葉が、嘘であると突きつけられる瞬間を感じて、双也は泣きじゃくる無力な子供として、表情を引き攣らせながら姉を見ていた。
だが。
予想に反して、姉は双也のことを責める素振りを見せなかった。
いつものように、双也を見て優しく笑った。
大好きな、大好きな姉の笑顔だった。
そして、変わらずに、双也に
「私の代わりに、強くて誇り高い死神になって、みんなを守ってね。双ちゃん」
目を見開いて、感涙とも安堵とも絶句とも形容し難い感情に支配される双也の前で、呟いた後の姉は、両手で最期の力を振り絞って印を組み、鬼道を詠唱した。
『双蓮蒼火堕』
もし双也に鬼道の知識があれば、その呪文が『双蓮蒼火堕』であるとわかっただろう。
だが、理解できたのは、姉が何事かを呟いた後に、姉の身体が虚の顔面を炸裂させるほどの勢いで『爆散』したという事だけだった。
業火に包まれ、姉の肉片とも虚の残骸とも解らない『何か』が飛び散る最中。
双也の絶叫が、言葉にならないほどの悲鳴として空洞に響いた。
双也は未だ知らないことではあるが、本来扱えぬ高等鬼道を無理やりに詠唱することによって、命を
霊力が少なければ、少しでも躊躇があれば成立しない。勇壮な覚悟が求められる行動だった。
そんな事はわからずとも、姉がこの場で
虚を討滅し宣言通りに双也を生き残らせるためだけに。
ただ一つのその理由だけで自らの命を散らした姉を想って、双也は滂沱の涙を流した。
何も出来なかった、無力な己を呪いながら。
僅かに胸に居来する、命が助かったという安堵に自己嫌悪を覚えながら、双也はひたすらに涙を流し続けた。
そして、しばらくの沈黙が場に訪れた。双也が涙を流すだけの時間。
その、
「さあ、残った最期の痣城の血族の、
笑いながら聞こえたその声に、信じられない思いで視線を上げれば、そこには変わらずの嘲笑を浮かべて
絶望が湧き上がった。
初めから、約束など守るつもりはなかったのだ。
姉が生き残ったとしても
延命するつもりなど欠片もなかった。
姉は
そう気がついた瞬間に。
ブツリと、双也の中で何かが千切れた。
意識が一瞬だけ途絶える。
俯き膝を落とした双也に虚が襲いかかる。
──手に握る
「──思い出した?! 思い出したかな!? キハハハ!」
場面は戻る。
血の色に染まった景色は、
つい先ほどまで命乞いをしていた貴族は既に事切れて、地獄の末路に相応しい死に顔を浮かべている。
だが、それでも。
双也の胸に、心に救いは訪れない。
復讐は何も生まないと言う言葉は真実だった。
失った姉は帰ってこず、あの無力だった自分を変える事はできず、過去を振り返っても喪失感は途切れず、仇を殺し尽くした事実すら心の間隙を埋めてくれる事はない。
全てを悟ったあの瞬間に心象風景に連れ込まれ、始解すら飛ばして『卍解』に至った双也であったが、その心中に満ち満ちているのは後悔と諦念と無力感ばかりだった。
「もう少し、もう少し早くお前が……!!」
まるで誰かのせいにしなければ心が保てないとでも言うように、双也は己の斬魄刀に向けて悲痛の声をあげる。
しかし、その声にも斬魄刀は何の痛痒も感じていないとばかりに、むしろ楽しそうに笑い声を上げた。
「キハハハ!! だーかーらー! 言ったでしょ? 『双ちゃん』のせいなんだってば! 私はアンタなの。お姉ちゃんが助けてくれると思っちゃったんでしょ? 淡い淡い希望を抱いちゃって、きっとなんとかしてくれるー! って思っちゃったんでしょ? もう一回言うよ? 私はアンタなんだよ? ──あんたにムダに闘う勇気があれば、私だってもう少し早く顔を出してたかもね! なんたって、私はムダが好きだから! キハハハ!」
頭を抱えるように、『卍解』を発動させたばかりの反動を小さな身体で受け止めながら、双也はそれ以上何も言い返せずに蹲る。
「だまれ……だまれ……!」
「キハハ! 『双ちゃん』ってばかわいーんだから! やんちゃなんだから!」
キハハと独特の笑い声を発していた斬魄刀が、突然、時を止めたように停止した。
あまりに唐突だった。
何かに気がついたように背筋を伸ばした。
その視線はただ一点に向けられている。
他の誰にも分からない。しかし、特殊な感知能力を持つこの斬魄刀だけが、その有り余る程の脅威を認識していた。
「──双也。起きて! 早く!! 急げ!!!」
声音を変えて、切羽詰まったように鋭い言葉を斬魄刀が発した。
それまでの可笑しげな様子は微塵もない。
『卍解』である筈の彼女が、それほどの焦燥を見せる事柄など皆無と言っていい。
だが、無情にも。
いや、必然にも、その男は姿を現した。
優しげな風貌をした男だった。
肩ほどの長さで切り揃えられた銀髪。
その前髪には上級貴族しか身に着ける事が許されない
朽木家の縁者でない。
男の風貌は美形ではあるものの、端麗さを窺わせるその五代貴族ではなく、それ以外の五大貴族であろう狐を思わせる鋭さがあった。
「──構わないとも、そのままでね。随分と無理をしたみたいだね。
優しげな口調、風貌。
何の違和感も感じさせないほどに馴染んだソレに触れて、双也は顔を上げた。
双也は見ずとも周囲の状況は『卍解』を通じて見聞き出来る。
双也の『卍解』である『雨露柘榴』は常時開放型の卍解であり、物質と融合し、融合した対象を同化・支配する能力を持つ。そのため周囲の状況を見ずとも把握できた。
それでも顔を上げたのは、まるで自身の『卍解』の事を理解するかのような男の言葉に対してであり、双也がまだその能力を使うことに慣れていないからでもあった。
「あんたは……」
そう思い、問いかけようとしたが、男の前髪にあるモノを理解した瞬間に、双也の思考は真っ赤に染まった。
同じだ、貴族だ、殺せ。姉をあんな目に合わせた奴らを皆殺しにしてやる。
ドス黒い憎悪に呼応して、やめろと叫ぶ己の斬魄刀の静止すら無視して双也は得たばかりの、しかしながら強力無比である『卍解』の力で襲い掛かる。
男の死覇装が、斬魄刀が、身に着けるモノ全てが、周囲にあるモノ全てが、双也に操作されて、刃となって襲い掛かる。
──が。
「おいたが過ぎるね」
無傷。
いや、そもそもがこの男の霊圧圏内にあるモノが操作できない。
莫大。甚大。枠外。
そう、思えるほどの霊圧がそこにはあった。
あの
一生、勝てない。
ただの霊圧だけで、己の『卍解』を完全に無効化した男を前にして、双也は呆然自失といった様子で男を見上げた。
「だーかーらー! やめろっていっただろー! 勝てるわけないよ! コイツ化け物みたいな霊圧してんだからさ!! 融合して霊圧密度を緩めたとしても傷なんかつけられっこないくらい、根本的に格が違うんだよ!」
斬魄刀のその言葉は『卍解』を使っての攻撃手段の一つだった。
どれほどの強者であれ、霊圧を支配されれば刃は簡単に通ってしまう。児戯のような剣技であれ、魂魄の肉体である以上は逃れられない必殺の刃である。
──筈だった。
緩められるのはそこに隙間が生まれる余地があるからだ。
だが、この男の霊圧は尋常でないほどに詰まっている。例え霊圧が解放状態にあったとしても、この男が垂れ流す霊圧だけで己の『卍解』が無効化される事は、他ならない斬魄刀自身が一番良く理解していた。
双也も本質的に理解する。
この男に抗う事は不可能だと。
「む、無駄な足掻き……」
双也がその言葉を呟いたのは、つい先ほどの姉の死が
その言葉を聞いて、想定通りと言わんばかりに、男は柔らかく優し過ぎるほどに優しい笑みを浮かべた。
「
口調こそ異なるが、まるで誰かを模倣するような言葉だった。
数百年を掛けて形作ったその雰囲気はもはや偽物と断ずる事が出来ない。
「……いや、無駄だ! 姉さんは、姉さんは、僕なんかを残して死んでしまった……!! 生き残るべきは姉さんだった……僕なんか、僕なんかが生き残ってしまう事が、無駄以外の何だと言うんだ!?」
「キミには聞こえないかな」
男は、両手を広げて、世界を仰ぐように目を瞑って空を見上げた。
「耳を澄ますといい。大気が、霊子が、この尸魂界の全てと繋がれるキミには聞こえる筈だよ、今まさにこの時に助けを求める者たちの声が。誰が彼らの声を拾う事ができるかな? 私か、それとも霊王か。護廷十三隊、四十六室か。いいや、誰にも出来はしないんだよ。──キミ以外にはね」
静かに、男は双也を立ち上がらせる。
双也の手を引いて、服の埃を手が血に濡れる事も厭わずに落とし、血濡れの地面からもっと先にある光景を見せる。
視界に広がるのは瀞霊廷だった。
いくつもの家屋が、眼前に広がっていた。そのさらに先には流魂街に続く外区が広がっている。
「もちろん、今はまだ難しいだろう。キミには経験も、実力も、知識も、覚悟も、ありとあらゆるものが不足している。──私が、それを補おう。必要なモノを須らく与えてみせよう。キミはただ、私の後ろを付いてくればいい。その先の景色を見て、決めるといいよ。キミの姉の判断が、
それは本来であれば無駄を執拗なまでに嫌うようになる少年の楔を、破壊する言葉だった。
夕陽が天から照らし始める。
血に濡れた地面が照り返すが、そんな事が気にならないほどに、昇る日は眩しく美しかった。
そんな光景に釣られて双也は今までとは真逆の言葉を呟く。
「……無駄じゃ、ないのか?」
「その答えを出すのは私ではなく、現在のキミでもなく、遠い未来のキミだよ。──場所を変えてもいいかな? ここは少し、子供が居るにはそぐわないからね。付いてきてくれるかな、痣城双也くん」
柔和な笑みで微笑む。
護廷十三隊の副隊長である隊証を腕に括る男の名は。
──
その身に莫大な霊圧を秘める、人知れない最強の一角であった。
──あの日、修多羅千手丸との邂逅を経て、既に数百年が経過していた。