シュワルツにとって不本意に始まったここクライガナ島の生活は、存外快適で面白い。
――ポーラータング号の船内は十分広いが潜水してしまうとどうしても閉塞感がある。クルーたちは良い兄、良い姉だが、毎日ずっとシュワルツの相手をしてくれるわけもない。母は今モビー・ディックに行っているため、電伝虫で声を聞けても顔を合わせるのは無理だ。
そう鬱々としがちな気分を晴らそうと、ルフィを見送るついでに
犯人はシャボンディをうろつくゴロツキ……ではなく、ゴーストプリンセス・ペローナ。連れ去られた先は彼女がいま根城にしているクライガナ島。
彼女と出会ったのはシャボンディパークの一角だ。ちょうどその時はウタがその場を離れてシュワルツ一人という、そんな間隙の出来事だ。
ベンチでチュロスドッグをパクついていたシュワルツを通りがかりの彼女は二度見三度見したと思えば、「……はあっ!?」という奇声を上げて飛ぶように……ではなく実際に空を飛んで迫ってきた。そしてシュワルツの両肩を掴むと「こんだけそっくりなら親子で間違いねえな」だの「おまえ自分の父親が誰なのか知ってるか」だのと喚いた。
父親が誰なのかなど拾われっ子の身で切るはずもなく、また大きくて丸い目やらピンクのドリルヘアやらなんやらにシュワルツはすっかり圧倒され――振り払うことも思いつかずされるがままに空を飛び……まさかの強制連行。
「おい見ろこの顔! ほら、そっくりだろ!? な!?」
幽霊らしき女に連れ去られ、怯えきった猫の子のように無力にぶら下げられながら、シュワルツはそうしてこの島の主人・ジュラキュール・ミホークと出会ったのだ。
口から生まれましたとばかりにしゃべり、頻繁に罵倒し、興奮して腕を振り回すペローナの話と、ゴーストに連れ去られて来たこの島は地獄なのではと青ざめるシュワルツの話を聞き終えたミホークは、疲れの滲む渋面でため息を吐いた。
「家族かそれに近しい人は電伝虫を持っているか?……いや、番号が分からんか」
「持ってる、ます。番号も大丈夫」
話の通じる男ミホークのおかげで地獄探訪の誤解が解けたのち、電伝虫を借りてウタに連絡をとった。「無事でよかったよー!」と泣かれて困るやら嬉しいやらどうにか宥め、シャボンディ諸島で合流するか迎えに来てもらうかできないかと話した。が――「人命に関わる緊急の用ができてしまった」ためハートの海賊団はシャボンディ諸島を離れねばならず、迎えに来るのもすぐには難しいらしい。用が済むのは二ヶ月後か三ヶ月後か……期間の見通しが全く立っていないのだというウタのため息が耳に届く。
ハートの海賊団は医者と看護師の集団であるし、重病人の患者を診ることになったのかもしれない。
そして誘拐事件についてもう一人連絡すべき相手――母にはウタが連絡してくれることになり、シュワルツはそっと胸を撫で下ろした。電伝虫越しにあの声が響いてみろ、母がどこの誰なのかバレる。間違いない。
『あー、でも、シュワちゃんがそんなことになってるって知ったらさ? ママ、シュワちゃんを迎えに行こうとするかも。いいな〜、ママがお迎えかあ』
そんな姉の言葉にシュワルツはハッと気づく。これまで何度も「自分が」「母を」見送り、出迎えてきたが……「母が」「自分を」迎えに来たことはない。それに気づいてしまったからには「母に迎えに来てもらいたい」気持ちがむくむく湧き上がるというもの。二人の前で母に喋らせなければ良いのだ。喋らなければバレない、はず。
「ウタ、おれ、母様に来てほしい……」
『アハハ、そりゃそうだよね〜!』
というわけで、シュワルツは母が迎えに来るまでクライガナ島に滞在することになった。
――そうして不本意に始まったここクライガナ島の生活は、存外快適で面白い。
クライガナ島には人間が二人とヒューマンドリルの山しかいないため、人目を気にせずに好きなだけ外を走り回ったり鍛錬したりすることができる。
海との境界線が滲むほど広い空、シュワルツの足で二十分以上まっすぐ走り続けても壁にぶつかることのない大地。島に降る雨は広葉樹を伝って柔らかく、風は立ち並ぶ木々に散らされて凪いでいる。
裸足で踏む土の感触、一晩のうちに出来上がっている蜘蛛の巣、鳥や獣の声、氷のように冷たく心地よい井戸水。大きな岩に寝転がって見上げる木漏れ日は真珠のように美しく、湿っているのにべたつかない空気が、早朝、若葉の先から零れ落ちる。
物語に描かれたままの美しい世界!
誘拐犯ペローナは家族を引き離したことに多少の罪悪感があるらしくあれこれ世話を焼いてくれ、シュワルツのまだまだ小さい体格ではどうにもならないこと――たとえば棚の本を取るとか、高いテーブルでの作業とか――をしてくれる。
ただ「おれの親の方が読み聞かせが上手い」という議論はいつも平行線で決着がつかない。ペローナもシュワルツも、自分の養親こそが世界で一番素晴らしいのだと信じているから仕方ないのだろう。
こんな風に対等に誰かと意見をぶつかり合わせることのなかったシュワルツにとってペローナとの論戦は新鮮で、楽しく感じられた。
島中に
一頭のオスが群れにおけるルールを教えてくれているが、そのうちの八割が「我が身が可愛ければ他者の恋愛にくちばしを突っ込むべからず」というもの。ヒューマンドリルの世界でも「恋はハリケーン」らしい……周囲の被害が甚大だ。
そして最後に。シュワルツはこの島で、「世界一」の師匠を得た。
ジュラキュール・ミホーク。世界にその名を轟かす剣士だ。
――日が昇る前に起き出して島の外周ランニングをし、一周半走って城まで戻ると次は素振り。起床した頃はまだ水平線の下にいたお天道さまも素振りが終わる頃にはしっかり空に姿を現していて眩しい。
汗みずくの体を引きずって井戸の隣、丸太を切っただけの椅子に腰掛ける。井戸の縁に置いていたタッパーを開けて塩昆布を一切れ口に放り込んだ。とたん味蕾から体中に塩分が染み渡るような気持ちよさ……汗をかいた後の塩昆布は最高に美味い。
桶に掬った井戸水をゴクゴクと飲み、飲みきれなかった残りは頭から被る。汗で蒸れた頭が冷えて気持ち良い。
手ぬぐいでゴシゴシと顔を拭って立ち上がり、城に爪先を向ける。
朝の自主練に顔を出さなかったということは、今日の朝食はミホークが用意しているのだろう。
城内の食堂は一度に五十人は食事が取れそうな広さで、昔は何脚もテーブルが並んでいたのだろうが、今は窓の近くにシンプルな木製テーブルが一台と椅子が四脚あるだけだ。使うところだけ掃除をするスタンスのため、テーブルから遠い壁は凹んだり汚れたりしたままになっている。
カウンターを挟んで食堂と繋がっているキッチンにミホークの姿を認め、シュワルツは近寄りながら「師匠、今日のご飯なに?」と声を掛ける。
「ハムエッグとサラダだ。――バナナは?」
「走りながら食べた」
「ならいい。テーブルを拭いておけ」
「はーい」
台拭きを投げ渡すミホークと、受け止めるシュワルツと。二人の関係を知らない者には彼らが親子に見えることだろう。
なんせこの二人、鋭い目元も跳ね上がる眉尻もすっと通った鼻筋も……まるでそっくり同じなのだ。
ふらふらふよふよと食堂に現れたペローナが揃えば朝食の時間だ。マナーとして身についているからなのか、シュワルツのためなのか、クライガナ島では朝昼晩の三食とも「みんなで揃って」食べる。物心ついた時にはもう船で暮らしていたシュワルツにはそれがなんだかむず痒く、心地良い。
ハムエッグを掃除機のように吸い込む朝食を終えると次はシュワルツの仕事だ。一つめ、煎茶の用意をする。二つめ、甘味を――羊羹など――三人分切る。三つめ、それぞれの前に煎茶と甘味を置く。以上。
空腹で会話を楽しむ余裕がない食事の時間と違いデザートの時間には会話の花が咲き、今日もまたペローナと「おれの養親こそ最高」の戦いとなった。負けられない戦いが此処にある。
だがペローナが「えーんモリア様が死んだなんて! おれは絶対に信じないからなー!」と泣きながら空中で地団駄を踏み始めたことで本日の戦いも決着がつかずに終了。天井近くでぐるぐる回りながら喚くペローナの姿は全く年甲斐がない。
黙って煎茶をすすっていたミホークが、ぽつりと口を開いた。
「……お前は本当に『母様』が好きなようだな」
この数ヶ月、ミホークの前だとかどうだとかなど関係なしに「おれの養親こそ最高」合戦をしてきたのだ。シュワルツが拾われっ子であることをミホークも知っている。
「うん……。母様は優しいし、頭が良いし、凄い人なんだ。大好きだし尊敬もしてる」
「そうか」
「本当に凄いんだよ。母様の才能とか性格とかに惚れ込んで、結婚したいって言ってるヤツが何人もいるくらいに凄い」
シュワルツの母様――マリンローズはすごい人だ。
作家としての豊かな才能、育った環境ゆえの教養、落ち着いていて聞きやすい声と口調……なのにコロコロ変わる表情は柔らかで親しみやすい。いつも笑顔で、気が長く、シュワルツはマリンローズが怒ったり泣いたりしている顔を見たことがない。
あえて欠点となるものを挙げるとすれば、体力がゴミ、腕力がカス、戦闘センスが皆無。引きこもり気質で体はひょろ長、不細工ではないが美人でもなく、特徴は大きな金色の目だけ――と言ったところか。
だがそれを「そんなところも素朴さと人間みがあって素敵だ」とか抜かすサメ人間がいるそうなので、上に挙げたこれらの要素は欠点ではないのかもしれない。
「ウタたちがそいつらを面談してるって聞いてるけど、変な奴が母様の夫になったらどうしよう」
ウタたちが「変なヤツ」を選ぶはずがないし、シュワルツの心配はきっと無用なものだろう。だが……選考に関われないシュワルツの胸に焦りや不安がもやもやと漂ってしまうのはどうしようもない。
「うー」と唸りながら両手で顔を覆い……自分の両手に、ふと気づくものがあった。母の髪は白で、シュワルツの髪も白。目の前の男とシュワルツの顔はうり二つ。そうとも、三人並べばきっと……。
「なあ師匠。おれ、師匠なら母様とお似合いだとおも――」
「しない」
――クライガナ島に向かう船の中で、マリンローズは「へくし」とくしゃみした。
「誰かがわちしの噂をしているあますな……。いい噂だと良いのだけれど」
頬に手を当てため息を吐いたマリンローズに、落ち着いた金髪の青年がからりと笑う。
「いい噂ですよ、きっと。貴方の噂ですから」
彼らがクライガナ島に着くまで、あと半月。
婚活戦士ローズ「おかしいよ……知らない間に結婚フラグが折れていくんだ……」