東郷と晴哉は天照大御神社を出て東へと歩く。
「御館様の屋敷までは大体四.五日はかかるだろう」
「四.五日?貴殿は五日程で往復したではないか」
キョトンと首を傾げながら聞く晴哉は、これまでの大人びた言動とは打って変わって純粋な子供の様であり、そんな晴哉に東郷も思うところがあったのか、わしゃわしゃと頭を撫でる。
朝焼け色の髪紐で結われた漆黒の髪が、先日まで血で固まっていたのが嘘のように柔く手の中から逃げていく。
「鬼と戦う術のないお前さんを連れて夜に出歩く訳にはいかん」
日が沈んでからも進めるならば多少は早く着けるのだろう。
しかし、鬼が活動し始めるのは奴らの天敵である陽光が沈んでからであり、そんな中を
そも東郷とて剣の指南を受けていた訳でもなく、晴哉という自分の身を守る術も持たぬお荷物を抱えながら生き残れる程強くはないのだ。
「日中は藤の家を探しながら御館様の元へ向かう」
「藤の家とは?」
「かつて鬼狩りに命を救われたっちゅう、藤の花の紋を家紋のように掲げる家のことだ」
藤の家_後に藤の花の家紋の家と呼ばれるようになる_は、鬼狩りに命を救われた公家の一族の者が用意した家で、鬼狩りであれば無償で尽くしてくれる。
今回の様に宿として利用したり、怪我をしていれば医者だって呼んでくれる。
「そんな家があるのか……」
「ふ、世界は広いだろう。鬼狩りになってもならんくっても、色んなもんを見て、聞いて、感じて、好きなもんを探してみるといい。お前さんは自由に生きるんだ」
「自由、に……」
望んでいた小さな小さな夢はもう叶うことは無い。
どれだけ願おうと、失ったものが帰って来ることはないのだ。
ならば、新たな地で、新たな自分として、なんの縛りもなく自由に生きるのもまた一興。
壊れた小さな夢に代わる、新しい夢を探すのもいいかもしれない。
「悩め、若人」
☆
山を越え、川を越え、日中は只管に歩き、日が沈めば藤の家に世話になること数日。
御館様の屋敷から一番近いという藤の家で、晴哉と東郷は藤の家の主人が用意した夕餉を食べていた。
「御館様の屋敷までは半日もあれば着くだろう」
予想よりも少しばかり早い到着だが、それもそのはず。
初めての長旅である晴哉に気を使った東郷が多少の余裕を持たせて四.五日と言っていたのだが、蓋を開ければ晴哉は歩けど歩けど疲れというものを知らなかったのだ。
日頃鬼を狩っていて体力のあるはずの東郷の方が晴哉に気遣われていた程。
「全く、不思議なものだな」
「……」
魚を箸で突きながら言う東郷を、晴哉は味噌汁を啜っていたのを一瞬動きを止めて盗み見た。
魚の身を箸で摘まんで口に運ぶ手は止まっていおらず、東郷を見ている晴哉を見もしないのだから本当にただ疑問を口にしただけなのだろう。
その様子にホッと息を吐きながら再び味噌汁を啜った。
晴哉は人の身体が透けて見える〝透き通る世界〟のことも、どれだけ動こうとも決して疲れることのない呼吸法のことも東郷に話すことが出来ていなかった。
親を亡くしたばかりで世間知らずの晴哉を気遣い親切にしてくれる東郷に黙っているのは少しばかり心苦しいが、仕方のないことだと割り切るしかないだろう。
彼が善性で所謂〝いい人〟なのはこの数日で分かっている。
しかし、この力はそう無暗に言いふらすものではない。
どんなに〝いい人〟だろうと、たった数日で彼のすべてを信頼することなど出来はしないのだ。
「あのなァ、俺ァお前さんが何を隠してようが別に気にしやしねェよ」
心配事が透けて見えていたのか、呆れたように言われ、思わず息が詰まる。
「、何故」
「そりゃあお前、人間誰にも言えねェ秘密の一つや二つぐらい誰にだってある。むしろたった数日で信頼なんぞされちゃあこっちが心配しちまうぜ」
いっそ清々しい程に愚直で真っ直ぐな目に見詰められ、全てを見透かされているのでは無いのかと錯覚してしまう。
「俺にだって誰にも言えねェ、胸の内に秘めとる事ぐれェある。だからお前さんは俺の事なんて気にしなくていい」
晴哉の隠し事も何も本当に気にしていないのだろう、そう言った東郷が最後に味噌汁の椀を一気に傾けて飲み干した。
椀を膳に置き、風呂の支度を頼もうと席を立ったその袖の裾がキュッと柔く握られた。
「い、まは言うことが出来ない、けれど、、何時か貴方に全てを話せれたらと、思う」
ほんの少し頬を赤らめ、つっかえながらも途切れ途切れに言う晴哉のその姿に思わず目を見開く。
この数日間共に過ごして分かったことだが、晴哉は自分の事にも他人の事にも基本無頓着だ。
全てがどうでもいいような顔をしながらも、それでいてこの世界の全てに焦がれているのだ。
この限られた事しか知らない小さな子供に自由を、広い世界を見せてやりたい。
それがまだまだ庇護されているはずの子供にこの薄汚くて血なまぐさい世界を見せてしまう、せめてもの贖罪になるのなら。
「いつまでも、待っててやるよ」
それまでは、きっと絶対に死ねないだろう。
手足が千切れようと、内臓が腹から転び出ようとも、意地でも生き足掻いて見せる。
「さ、さっさと食って、風呂に入って、明日に備えねェとな」
晴哉の頭を軽く撫でた東郷は今度こそ風呂の支度を頼みに襖を開けて出ていった。
きっと弟か妹か、少し年の離れた兄弟か何かがいるのだろう。
ガサツそうに見えるその手はいつだって優しくて、面倒見の良さが所々に滲み出ている。
「まるで、兄様みたいだ」
晴哉に兄弟はいない。
けれど、東郷のような者が兄ならば、きっとそれは〝幸せ〟というものなのだろう。
☆
翌日_
東郷の言っていた通り、藤の家より半日もすれば、御館様の屋敷の塀だという土塀の横を歩いていた。
ずっと先まで続いている塀の中ほどで漸く足を止めれば、右手側には大きな門がどっしりと構えている。
門の脇には腰に刀を携えた門番が一人立っていた。
「御館様の命により客人を連れてきた。門を開けてくれや」
「久方ぶりです、東郷さん。客人の事は御館様より仰せつかってます」
年若い門番はちらりと晴哉を見たが、別段何を言うでもなく視線を逸らす。
今空けますね、と年若い門番が鐘を鳴らせば、それに呼応するかのようにゆっくりと左右に門が開いていく。
一礼して敷地に足を踏み入れる東郷に習い、晴哉も一礼して後に続く。
「これから御館様に目通りしてもらう。お前さんに言う必要はないだろうが、くれぐれも御館様に失礼のないように頼むぞ」
御館様の屋敷はとにかく広かった。
晴哉の生まれ育った天照大御神社も神を祀るに相応しい広さを持っていたが、ここも負けず劣らずだろう。
門から玄関までの道中には鯉の泳ぐ池に掛けられた朱色の橋を渡り、女中の案内で謁見の場まで連れられる途中には立派な庭園をも見た。
鬼への対策だろうか、何所を歩けどもこの屋敷に満ちた藤の花の匂いが鼻を掠める。
「失礼致します、お館様。東郷様とお客様をお揺れ致しました」
「うん、入っていいよ」
静かで穏やかな、鬼を狩る組織の長とは思えない声が襖の向こう側から聞こえてくる。
女中が襖を開ければ、どこよりも濃い藤の花の匂いが漂ってくる。
「鬼狩りが一人、東郷明彦が御館様の命により馳せ損じました」
晴哉よりは若干年上だろうが、まだ若い、少年と青年の間程の歳だろう。
額に浮かぶ焼けただれたような痣がいやに目に付く。
ああ、気持ちの悪い。
ああ、何とも可哀そうに。
その身体に、血に、魂にこびりついた呪いが_
「君が神籬晴哉だね?」
パチリ、と問いかける御館様と目が合った。
全てを受け入れて、それでも足掻いて、覚悟を決めた目に、胸の内から何かが沸き上がり零れ落ちていく。
産屋敷家22代目当主である産屋敷煌哉は、己よりも幾らか年下の客人を前にして歓喜に震えていた。
鬼に神宮と巫女であった両親を惨殺され、神職の一族でありながらも鬼狩りになる事を望んだ哀れで可哀そうな子供。
少なくとも実際顔を合わせるまで、煌哉は晴哉の事をそう認識していた。
きっと己や侍こどもたちと同じように、鬼への怒りや憎しみに染まっているのだと、そう思っていたのだ。
だがしかし、実際に顔を合わせてみればどうだ。
その鮮やかな朝焼けの瞳は深淵を覘いているような、底知れぬ憂いを帯びていた。
「明彦、少し席を外してはくれないか。彼と二人きりで話をしたいんだ」
一礼をした東郷が部屋を出ていき、晴哉と煌哉は二人静かに向かい合う。
何も映していないような、或いはこの世のすべてを遥か彼方まで見透かしているような不思議な瞳に、己の身体の中に流れる呪われた血が沸き立つ。
可笑しな話だが、煌哉はこの者こそを己が、前線に出て鬼を狩る侍こどもたちが、そして産屋敷の一族が待ち望んでいた人間だと思った。
「私は産屋敷家22代目当主、産屋敷煌哉。遠き地よりよく来てくれた、神籬晴哉殿」
「此度の招待、礼を申し上げる。だが姓は捨てた身故、名で呼んでほしい」
カラン、と晴哉の頭上高くに結われた髪紐の大振りの玉虫の鈴が物淋しく鳴る。
その音はまるで晴哉の憂いや哀しみを代弁している様に聞こえた。
「そうか、それは……いや、私が貴方の事をとやかく言うべきではないね」
煌也はスっと姿勢を正し、真っ直ぐに晴哉の目を見た。
生まれながらに病弱で、代々受け継がれる呪いで日々身体が蝕まれて長くは生きられない。
呪いが目に見える様になり、身体を動かせば違和感を感じるようになってきた。
時が経つにつれて呪いは進行し、やがて死ぬのだろう。
それが平安の時代より定められた産屋敷一族の血の呪い。
だがしかし、その藤色の瞳に諦めというものは微塵もなかった。
「明彦を遣いにやってから此処に来るまでの数日間、考える時間があったと思う。……鬼狩りになりたいというのは今でも変わらないかい?」
暖かな風が吹き、開け放たれた襖から一層濃い藤の香りが漂ってくる。
一度目を閉じてその香りを吸い込み、それからゆっくりとその朝焼け色を覗かせた晴哉は、真っ直ぐに煌也を見ているようでどこか遠くを見詰めていた。
「……私は、この美しい世界に生まれ落ちる事ができたことを幸福に思う。日々神に仕え、境内の小さな一室で両親と共に慎ましく暮らしてきたかつての生活が、私の小さな幸せだった。だが、それを壊した様に、この世に鬼が存在する事でそんな小さな幸せを奪われる者がいるのなら。私はそんな人々を守りたい。小さな幸せを、何の憂いもなく享受出来るような、そんな世界にしたい」
今度こそ、晴哉は真っ直ぐに煌也を見た。
晴哉の朝焼け色と煌也の藤色の瞳がぶつかって、そして交わる。
「どうか、私を鬼狩りとして生きさせて欲しい」
晴哉は畳に手を付いて頭を下げた。
頭上高くで結われた漆黒の髪が、左右から滑り落ちて晴哉の顔に影がかかる。
「顔を上げて」
ゆっくりと頭を上げる晴哉に呼応するように、玉虫色の鈴がカランと鳴る。
煌也は深く息を吸い、一瞬止めて、吐き出す前に言葉を紡いだ。
「正直に言ってしまうとね、私は貴方を
晴哉の切れ長の目がスッと細められる。
至極真面目な顔をしていた煌也が、フッと力なく笑った。
「……そう、思っていたんだ」
「……と、言うと?」
「可笑しなことに貴方を前にしたらそんな考えは何処かに消えてしまったよ。どうか我々に力を貸して欲しい。鬼のいない、光り輝く未来を目指して」
「、御意」