白い靄(もや)が視界を覆っている。手足の自由が効かない。
粘り気のある液体の中に潜っているみたいだ。
(……夢?)
カノンは何となく自覚しながら、身体を動かそうと努力した。
しかし、ただの夢とは違う違和感が、靄の向こうから迫って来た。
(!?)
水に落とした墨のようなドロドロが、生き物の如くこちらへ伸びて来る。
カノンの本能がそれを怖がった。
あれに触れちゃ駄目だ。
しかし身体が言うことをきかない。
(助けて! レン、リリ!)
叫びたいのに声も出ない。
禍々しい黒はもう目の前。
(やだぁ――――!)
ドロドロはカノンの周囲を通り抜けた。
(??)
振り向くと、十歩向こうにコバルトブルーの髪が見えた。
(ユゥジーン?)
黒い墨の標的は彼だったのだ。
ドロドロは一ヶ所に集合し、獣の前肢の形となった。
鋭い爪が四本指を広げてユゥジーンに襲い掛かる。
ユゥジーンは目の前の驚異が見えていない。
まったく無抵抗なまま、ナイフのような爪に身体を貫かれた。
突然の衝撃に顔が歪む。
口が開いて血泡と共に何か叫ぶが、音の無い空間でその悲鳴は聞こえない。
(ユゥジーン! ユゥジーン!)
必死で手を伸ばす。
しかし青年を捕えた爪はそのまま遠去かり、水底に沈むように小さくなって行った。
(助けて! ユゥジーンを助けて!)
カノンは渾身の力で、眠っている自分の身体を覚醒させようとした。
――キンキンキンキン!!
甲高い金属音が意識を身体に引っ張り戻した。
目を開く、飛び起きる。
隣のベッドでレンが耳を押さえてキョロキョロしている。
リリは? 既に上衣を羽織って出口に向かっている。
「起こしちゃった? ごめん、あたし行くから」
「双子石だろ、今の音。西風で何かあったのか!?」
双子石は、ナーガ長がエノシラに持たせている緊急連絡用の石だ。
片方を叩くと、遠く離れた片方にも共鳴する。
「そうよ、だから行くの。そんなに心配しなくてもいいのよ、石を叩く余裕があるんだから。あんた達は大人しく待っていなさい」
急いて御簾を開けると、外は夜明け前の薄暮だ。
「リリ! ユゥジーンが!」
カノンの言葉にリリは止まって振り向いた。
「ユゥジーンに何かあった!」
「ええっ、ホントか?」
リリは冷静に、首から下げた山吹色の小袋を手にとって、チラと見てから聞いた。
「何でそう言うの?」
「夢で……」
「あたしが今急いでいるのは、分かるわよね!」
「でも、あの夢は……」
カノンの言葉を置き去りにして、リリは外へ駆け出して行った。
後に茫然とした二人が残される。
「に、西風で何があったんだろ? でも、リリの言う通り、石を叩く余裕があるんだから、大丈夫だよな…… な、カノン」
レンが自分に言い聞かせるように呟く。
「……」
「カノン!」
「あ、うん……」
「何だよ、自分の夢の方が気になるのか?」
「だって、あんなの普通じゃない。ユゥジーンが……ユゥジーンに何かあったんだよ、絶対!」
カノンの真剣な表情に、レンは怒っていた肩を降ろした。
「どんな……夢だったの?」
一通りの話を聞いて、真面目な顔になったレンが聞いた。
「そういう夢よく見るの? 夢が現実だった事って、今までにあった?」
「ううん、初めて。でも分かるんだ、ただの夢じゃない!」
カノンの胸の中には、ユゥジーンの絶望の表情が楔みたいに食い込んでいる。
そして黒い爪の恐怖が、まだ背中に鳥肌を立てていた。
里の端の馬繋ぎ場から、紫の光が垂直に飛び立つのが見えた。ほぼ同時に執務室から鷹が矢のように発ち、少し遅れてナーガ長の大きな馬も、高空気流に向けて上昇して行った。
「ナーガ長も西風へ行ってくれるんだ。心強いじゃないか。ね、大丈夫だよ、カノン」
「うん、そうだよね……」
夜明け前の薄明かりの中、レンとカノンは執務室へ向かって歩いていた。
カノンの夢の話を、執務室の誰か大人に言っておいた方がいいと思ったのだ。
二人は坂を登って、高台にある建物に到着した。
ここへ来るのは留学の挨拶に来た時以来だ。偉いヒト達が忙(せわ)しなく出入りしていて、近寄り難く思っていた。
窓の側まで来た所で、中からの声が聞こえた。
「ナーガ長殿まで行かれる必要があったのか?」
年寄りっぽいひしゃげた声だ。
二人は足を止めた。
「発祥を同じとする友好部族とはいえ、西風は遠い。高空気流を使っても、行って帰って一日がかり。鷹も飛ばしたし、差し当たってはリリ一人で充分だったのではないか?」
別の年寄りの声。
「その間、こちらの草原で何か起こったら、どうなさるおつもりじゃ。だいたい長殿は、西風贔屓が過ぎる」
レンとカノンは口を結んで顔を見合わせた。
「儂ら古老は常日頃、執務室に口出しせぬよう留意しておる。しかし今日は言わせて貰う。西風の事となると、長殿は無理を押し通して、自ら出張って行こうとなさる。幾ら亡きモエギの君に長殿が、昔、懸想(けそう)していたとはいえ……」
カノンはそこまでしか聞いていなかった。
後退りして、段差の縁で足を踏み外して落っこちたのだ。
***
―― どしゃっ!
大人の背丈ほどの高さを落ちて、したたかに背中を打った。
しかしその痛さも霞(かす)む別の痛みが、心臓をワシ掴みにしている。
物音に気付いた建物の中から誰かが出て来る。
カノンは跳ね起きて、執務室に背を向けて力一杯駆け出した。
レンの自分を呼ぶ声がする。でも足は止まらない。
どんな言い訳も聞きたくなかった。蒼の里の中心の執務室で、自分の揺るぎなき誇りである祖母が、あんな風な言われ方をされた事実は変わらない。
住居区を一気に抜けて、里の奥の放牧地まで走って、やっと立ち止まった。
土手の側に小さな厩舎がある。
修練所の授業用の、主無しの馬達が繋がれている。
早朝でまだ人気のない馬房へそっと足を踏み入れた。
と、同時に後ろから、赤いバンダナが走り込んで来て肩に腕を回した。
「ふぃ~、やっと追い付いた!」
「レン……」
「やっぱりカノン、本気出したら速いなあ。蹴り玉やればいいのに」
「…………」
「執務室から出て来た奴にアッカンベして来てやった。あんな連中にカノンの夢の話をしたって、まともに取り合ってくれるもんか。西風を馬鹿にしやがって」
話しながら、レンはカノンに背を向けて、一番大きな馬を引き出して来た。
「カノン、頭絡頼む。僕、鞍やるから」
「レン」
「行くぞ、ユゥジーンのトコ。カノンもそのつもりだったんだろ?」
「僕一人で行こうと……」
「僕だって行くよ!」
「夢で見ただけなんだよ。それで馬泥棒をするんだ、レン」
「だって、そんなのよりユゥジーンが大事だよ。ユゥジーンを助けて、西風の妖精の能力を知らしめて見返してやる」
「そんな、知らしめる程の確信なんか無い、僕がただ行きたいだけなんだ。レンを巻き込む訳には……」
「僕は信じてる!」
レンは馬装を終えて、とっとと前に跨った。
「行くぞ、早く乗れ」
渋々乗ったカノンを後ろに、レンは軽く馬銜を掛け、大きな草の馬を上手に御して上昇した。初めて乗る馬なのに全然危なげない。
彼はどんな馬に乗ってもそうなのだ。
ヒトだけでなく馬の心も真っ直ぐに掴むレン。そんなレンこそ西風の誇りだとカノンは思った。
「棘の森って南西だったよな。カノン、ナビして」
「うん」
里の外へ出るのは初めてだけれど、地形図は、図書室の虫のカノンの頭にしっかり入っている。
初めて飛ぶ土地で、二人は方向を違(たが)わぬように前しか見ていなかったので、後方の雲の中から、蒼の里へ垂直に降りる馬影に気付かなかった。
「ねえカノン、さっきの」
「んん?」
「モエギ様とナーガ長が昔付き合ってたみたいな話。ホントかなあ?」
「レン!!」
カノンは後ろからレンの腕を掴んだ。
「お祖母様は、ついこの間、亡くなった所なんだ!」
「あ、ああ、実現してたら凄かったなって思っただけだよ。ごめん、悪かった」
レンは罰悪そうに黙った。
気まずくなって、カノンは後悔した。ここまでしてくれるレンに、神経質過ぎる自分。
噂なんていつだって話半分なのに。
こんなだから僕は、レンみたいに皆に愛されないんだ。
「ううん、ごめん、レン」
謝りかけた所で、後方に気配を感じた。振り向くと、空の一点の騎馬が迫って来る。
「追っ手だ!」
予測はしていた事だ。レンは心得たとばかりに高度を下げた。
高空では飛行術に長けている蒼の妖精に敵(かな)いっこない。眼下は切り立った谷と多少の森林。
「カノン、しっかり掴まってろよ!」
「うん!」
レンは谷の張り出した岩をくぐり、上空からの死角へ入り込んだ。
後方の騎馬も高度を下げて追跡して来る。
「よ――しよし、こっちへ来い」
相手が十分に降下して来た所で、そっと岩の反対に回り、逆死角から森の方へ飛び込んだ。
「これで、巻けるだろ」
潜んだ木陰で外を見やるレンを、カノンは感嘆の目で見つめる。
ホント、レンの飛行術は凄い。僕が大人だったら、躊躇なく草の馬の免許皆伝をあげるのに。
ホケッとそんな事を考えていて、不意に後ろから肩を捕まれた。
「ひぇっ?」
「なかなかだったな。俺じゃなかったら上手く巻けていただろうけれど」
気配もなくそこにいたのは、二人に見慣れたコバルトブルーの青年だった。
「ユ、ユゥジーン?」
髪の毛一本間違(まご)う事なき正真正銘のユゥジーンは、腕組みして鼻から大きく息を吐いた。
「まぁったく!」
「えっ、何で?」
「何ではこっちが聞きたいよ。君ららしくないぞ」
あまりの予想外に止まってしまっている二人を、ユゥジーンは眉間にシワを入れて睨んだ。
徹夜で疲れて帰って来た所に余分な用事が待ってりゃ、そりゃそうだ。
「ホルズさんにだいたい聞いた。気持ちは分かるけれど、君達だけで西風に向かうなんて、無茶苦茶だぞ」
「ううん、僕達……」
言い掛けるカノンを遮って、レンが叫んだ。
「僕達の気持ちなんか分かるもんか! 西風の者の気持ちは、西風の者にしか分かんないよ!」
一瞬ひるんだユゥジーンに気付かれないよう、レンはカノンの手首を強く握った。夢の話はするなって合図だ。