カノンは必死で、固いゴワゴワのたてがみにしがみ着いていた。
馬は、馬の走り方をしていない。鷹が滑空するように脚を一杯に広げて、見事に風を捉えていた。
足下の景色が光のように流れて行く。
レンと飛んだ時の比じゃない、嘘みたいに速い。
でもほとんど風の抵抗を感じない。一体どうなっているの?
正面の山肌に、へばり着くような小さな村。
「あすこだよ、降りて、お願い!」
叫ぶ前に馬は急降下を始めていた。
真ん中の大きな建物の窓の前まで一直線に降りて、いきなり停止。
背中の少年は馬の首を飛び越えて、そのまま窓に飛び込んだ。
「うああああ!!」
中は酒席だった。
数人の男性が囲むテーブルの上を、突然飛び込んだ子供がゴロゴロ転がる。
瓶を撥ね飛ばして皿の中身をぶちまけて、その子は反対側の壁に激突して止まった。
一瞬の惨事に、全員唖然として突っ立ったまま。
今まさに乾杯の声を上げた所で、手に手に酒杯を掲げていた。
床に倒れたカノンの真横で、ユゥジーンが真ん丸に見開いた目で見下ろしている。
依頼が解決して、感謝の一席を、という所だったのだ。
「カ、カノンか?」
茫然とする青年の前で、割れ瓶のカケラをバラバラと落として、少年は立ち上がった。
そしてやにわにユゥジーンの手の杯を引ったくって、側の村人に突き出した。
「飲んで!」
「おい、カノン?」
ユゥジーンは少年の肩を掴んだが、村人全員がが真っ青になって凍り付いているのに、真顔になった。
「な、何なんです? 酒に何か入っているんですか?」
村人達はおろおろして、しどろもどろだ。
「い、いや……ただ、ちょっと眠くなるだけだと……」
「な……」
聞き掛けるユゥジーンの声に被せて、カノンが、ついぞ聞いた事のない激しい声で叫んだ。
「じゃあ飲んでみてよ! ちょっと眠くなるだけならいいでしょ! 違うんだ! これ一口含んだだけで、血を吐いて海老みたいに反って、あっという間に動かなくなる!」
背中に冷水を浴びたような顔のユゥジーンの横で、叫びながら少年は涙をぼろぼろ溢す。
「どうしてそんな酷い事が出来るの!?」
外で甲高い馬のいななき!
同時に、戸口や窓を破って、黒革の鎧の野党達がなだれ込んで来た。
ヒトの形はしているが、身体が熊のように大きく、首から上は猛々しい獣。
その手から、夢に出て来た黒い大きな爪が伸びていた。
そう、カノンは『起こった事』を視たのではなく、『これから起こる事』を視ていたのだ。
半人半獣の野党達は、巨大な斧を振りかざして、ユゥジーンを囲んだ。
「ふん、そんな人数で俺を倒せる気か?」
青年剣士は背中の二刀に両手を掛けた。
「た、助けて下さい! 女子供が捕らえられているんだ!」
村人の一人が叫んで、ユゥジーンにも動揺が過る。
鎧の獣人の一番大きな男が、一歩前に出て唸るように言った。
「この地が欲しい。お前らに取って代わるのだ。蒼の一族の厄介な剣士を密かに一人づつ片付けて、一気に攻めさせて貰うってぇ算段さ」
ユゥジーンの横で、カノンは膝の震えが止まらない。
蒼の一族は強くて、彼等の治める草原は平和だと思い込んでいた。
「二刀を使う男は特に厄介だという情報だったので、万端の準備をしたのだが。そのチビが現れなければ、何も知らずに一瞬で逝けたモノを」
獣人達は包囲を縮めた。
ユゥジーンは脂汗を滲ませて固まっている。
「まま待って!」
カノンが真ん中に飛び出した。
「よせ、カノン!」
ユゥジーンが退けようとしたが、カノンは震える足で踏ん張った。
「せ、戦争なんかしなくても、蒼の一族にいうことを聞かせられる方法があるよ。僕を人質にすればいい!」
獣人達はいきなりな事を言い出す子供にちょっと驚いたが、すぐにせせら笑った。
「ガキが! お前が何者だというのだ!?」
「貴重な蒼の長の直系だ!」
カノンは怖いのを必死で隠して、声を張り上げた。
「僕のお祖母様は、昔、蒼の長の恋人だった。分かるだろ、あんた達みたいなのがいるから、離れた西風の地でひっそり育てられていたんだ!」
***
獣人達が色めき立った。
ここへ来る前に様々な情報を下調べして来た用心深い彼らは、今代の長が過去に西風で色恋沙汰を起こした噂まで知っていた。
ユゥジーンはしゃっくりしたみたいに唾を飲み込んでいる。
「本来の跡取り候補のリリが味噌ッカスだから、僕が呼ばれたんだ。里でも一部の偉いヒトしか知らない。今までだって、西風の里に何かあったら、蒼の長は一目散に駆け付けた。僕がいたからだよ!」
トンでもないハッタリだ。
しかし、マメに調べた事が仇となっている獣人達には、説得力があった。
「僕を人質にしておけば、蒼の一族はあんた達に逆らえない。だから、ユゥジーンには何もしなくていいでしょ!」
「小僧!」
リーダーとおぼしき一際(ひときわ)大きな獣人がズシズシと迫り、子供の青銀の髪を掴んで顔を引き上げた。
血の色の口に、カミソリみたいな歯がギラギラしている。
「人質というのは、交渉が決裂したら八つ裂きにされるモノだ。知っているか?」
「……こ、交渉する気があるのなら、今すぐユゥジーンに向けている刃(やいば)を降ろさせて……」
少年は震え声なのに、言葉は引き下がらなかった。
「カノン、もういい、よせ」
ユゥジーンが言い終わる前に
――パンパンパン、パパン!!
破裂音!
緊張が途切れた!
「ひ、人質の小屋の方だあ!」
村人が外へ飛び出した。
一人飛び出したら連動して全員飛び出した。
獣人達も怯んで集中が分散した。
カノンの髪を掴んでいたリーダーも一瞬手を緩めた。
それを見計らったように、窓から複数の小さい玉。
カノンには見覚えがあった。
「ユゥジーン、目を守って!」
――パパパパン!
炸裂音がして、部屋中に刺激臭が満ちる。
「こ、胡椒?」
「唐辛子も入っている筈だよ」
丸い爆竹を凝視していた獣人達は、目をやられて悲鳴をあげている。
素早く伏せて粉塵を逃れた二人は、床を低く走って、包囲を抜ける事に成功した。
表に飛び出すと、カノンの予想通りの顔があった。
「レン!」
「カノン、僕を置いて行くなよな!」
赤いバンダナが草の馬の上から、白い歯を見せて親指を立てている。
「見張り連中、こっちに気が行っていたから、簡単に『必殺の武器』を浴びてくれた。人質の人達はもう逃げ出したよ」
村端の小屋の前で、黒い獣人達が顔を覆ってうずくまっている。
しかし難を逃れた数人が、逃げ足の遅い村人を追い掛けようとしている。
「レン! 馬貸せ!」
レンは素早く飛び降りて、乗って来た馬をユゥジーンに渡した。
「また盗んで来たんだ、後で弁護してよ!」
「後だ後! 今は安全な場所に隠れてろ!」
馬上のユゥジーンは二刀を抜いて、風のように獣人に向かって行った。
「僕達もずらかろうぜ」
少年二人は何処かの建物に隠れようと走りかけた。
――ガシッ!
カノンの頭が後ろからわし掴みにされた。
「小僧・・! 許さん・・許さん・・!」
目を真っ赤にしたさっきのリーダーだ。
鉤みたいな爪が額にズブズブと食い込むのが分かった。
「あ゛あ゛・・!」
「はなせ、はなせ――!」
レンが毛むくじゃらの腕にぶら下がって噛み付く。
「小僧が!」
獣人はもう片手で、後ろからレンの首を掴もうとした。
細い子供の首なんかひと捻りにしてしまいそうな容赦の無い鉤爪。
「レン、逃げて! お願い逃げて!」
――ガツン!!
額に食い込んでいた爪が外れた。
落とされた地面から振り向くと、鍬(すき)を握りしめて必死の形相の村人。
さっき逃げ出した村の男達が、手に手に武器を持って、視界のない獣人の足を払って叩きのめしていた。
「ぼうや、ぼうや、大丈夫か?」
「は、はい、ありがとぅ」
「礼を言いたいのはこっちだ……」
獣人達はほとんどが打ち倒された。残った数人が縛り上げられ、皆に取り囲まれたが、まだ目を剥いて毒づいている。
「俺達をこの人数だけだと思うなよ! 本隊はもっと肝心の、別の所を強襲している!」
「蒼の里か? お前達には見付ける事も出来まい」
ユゥジーンが二刀を収めながら冷静に言った。
「ふふん、もっと効率のいい場所だ。砂漠の西風の集落を押さえられたら、貴様ら、身動きが取れまい」
レンとカノンはその場で跳ね上がった。
朝の双子石は、それだったんだ!
「その小僧が蒼の里の皇子なら、尚更だな!」
―― お生憎サマ!
頭上に紫の光が広がった。
「あんた達のショボい鉤爪なんて、父さまの剣の一振りで、一網打尽だったわよ。西風のヒト達に指一本触れる前にね!」
紫の前髪の女の子が、愛馬若紫と共に上空から降りて来る。
「リリ!」