ホライズン   作:西風 そら

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ホライズン・Ⅱ

  

 

 

 夕陽のオレンジの書物の部屋。

 長椅子の女性は、カノンが部屋に入って来ても、視線を動かさなかった。

 少年は黙って彼女の横まで歩き、片手を肩に置く。

 

「っ!!」

 女性はビクッと揺れる。

 

「目が覚めた?」

「……」

「貴女は誰?」

「西風の、ルウシェル……」

 

「僕は誰?」

「…………」

「分からない?」

「カノンだ、私の息子」

 

 カノンは肩を降ろした。今日はそんなに記憶は飛んでいないみたいだ。

 

「シドさんが沿海州から戻って来たよ。エノシラさんが、今日、夕食にどうぞって」

 

 少年は母に背を向けて、書物の山を越えて探し物を始めた。

 

「シド……エノシラ……」

「分かる?」

「ああ、シドは私の乗馬の先生で、エノシラは留学先の宿主だ」

「惜しい所だね。合っているけれど、それ、僕の生まれる前」

 

 少年は嫌でも母親の人生の出来事と順番を暗記してしまっていた。

 

「そうか……カノン、何さがしてる?」

「西の大陸の歴史の書物。この前三巻まで読んだんだけれど」

「左の棚の下から二段目だ」

「えっと、下から……あ、あった! サンキュ」

「良かったな、読んだら元の位置に戻して置くんだぞ」

 

 カノンは目当ての書物を引っ張り出して、ルウを振り向いた。

「ねぇ、数字通り並べて置いてもいい? 読み返したりしたいのに、あちこちバラバラにあるんだもん」

「駄目だ!」

 

 ルウは頬杖を付いて、フィと窓の外へ向いてしまった。

 カノンは書物の山を崩さないように乗り越えて、彼女の横へ戻る。

 

「ごめん、ルウシェル。言ってみただけ。分かってる、ちゃんと戻して置くから」

「ああ……」

 

 カノンは母親を名前で呼ぶ習慣が付いていた。このヒトは、たまに息子の存在すら忘れるからだ。

 

「面白いよ、西国の歴史」

「ああ、私も好きだ。全部読んだ」

「今晩、討論しようよ」

「ああ」

 

 

 カノンをこの世に送り出して、張り詰めていたモノがプツッと切れて

 プツプツプツプツプツンッと切れて……

 ルウシェルの記憶は振り子のように、過去と現在を行ったり来たりになってしまった。

 

 初めは皆、難産で疲れて呆けているのだと楽観していた。

 でもエノシラがすぐ、ただ事ではないと気付いた。幾ら何でも、子供を生んだ事すら忘れるのは異常だ。

 蒼の里の医療師に問い合わせて、蒼の長そのヒトも何度か訪れた。しかし治癒には至らなかった。

 

 普段の生活や、知恵や知識に関しては問題はない。

 混乱するのは、ソラが介在した出来事や、ソラの周囲の者に関する記憶だけ。

 そして……

 

「なあ、カノン」

「何?」

「私、ここで誰を待っていたんだっけ?」

「僕じゃないかな?」

「そうか……」

 

 

 砂漠の流砂が太古の遺跡の傷痕を呑み込むように、ルウシェルの記憶から、ソラの存在がポッカリと抜け落ちていた。

 人生の所々、時には随分長い間、穴が開いたように無になってしまっている。

 それでもヒトって何となく生きて行ける。

 

 でも……

 ルウは自分の手を見つめる。

 私の人生って、こんなに渇いた物だっけ?

 

 カラカラの干からびた果実みたいな心の中で、常に投げ掛けられる疑問がある。

 例えば、何で暇さえあれば此処へ来るのか?

 何でここの書物を動かしたくないのか?

 いつも目を吸い寄せられる、あの壁の長衣は誰の物?

 ルウには分からない。

 分からないが、ここへ来ると、渇いた果実に何かが染み込む。

 

 

 エノシラもシドも、ルウの前で敢えてソラの話をしなかった。

 これ以上揺さぶると、最後の糸がプツンと切れてしまいそうで怖かった。

 それに悲しみを封印してしまったのなら、それはそれでいいんじゃないか? という気持ちもあった。

 ただ、カノンを不憫に思っていた。それでなくとも賢く感受性の強い子なのにと、常に心を配っていた。

 

 カノンは、エノシラ達のそういう気持ちは察して、素直に感謝していたけれど、冷めた部分もあった。

 だって自分は、どうしたってあの家の子供ではないのだもの……

 

 

 

   ***

 

  

 

 戸締まりをして二人で外へ出ると、薄暮(はくぼ)の坂を登って来る者がいた。

 

「こんばんは、ルウシェル殿。やあ、カノン」

 

 筋骨逞しいこのヒトは、修練所の教官スオウだ。

 

「こんばんは、スオウ殿。この春から主任教官になられたそうで、おめでとうございます」

 ルウはスラリと挨拶をした。

 ソラが介在しない人物や出来事に関しては、何の支障もないのだ。

 

 スオウはにっこりと礼を言い、カノンの方を向いた。

「ちょっと手伝いが要るんだ、頼めるかな」

 

「はい……」

 

「ルウシェル殿、カノンを少々お借りしても宜しいか?」

「先にシドさんちへ行っていてよ。すぐに行くから」

「ああ、分かった」

 

 ルウは、薄暮の坂道を、しっかりとした足取りで下って行った。

 

 彼女が見えなくなってから、スオウは抱えていた書束の中から数枚を引っ張り出した。

「長殿が計画する来期の物品分配の予定表。これで提出すれば、元老院は文句の付けようもないと思う」

 

「ありがとうございます」

「また元老院から書式を無視したようなややこしい書類が回って来たら、言いなさい。何も言わせない出来にきっちり仕上げてあげるから」

「はい」 

 

 このスオウ、元老院のトップ、大僧正の孫である。

 老人達が不備だらけで謎解きのような書類を押し付けて来ても、元老院内部の原本を見放題の彼がサックリ完璧に仕上げてくれる。

 

「心配しなくてもいいよ。長殿をサポートするのは、私達、モエギ殿のお陰できちんとした教育を受けられた世代の役割だ」

 

「スオウせんせ、あの……」

 少年はおずおず切り出した。

「この間、シドさんとエノシラさんが話していたのを陰で聞いてしまって。こういう仕事をこっそり手伝う為に、所長に就任する話を蹴って、主任で済ませたって」

「ああ、それは……」

 

「何の為に? って思っちゃうんです。もういっそ、スオウせんせが長でいいじゃないですか」

 

 スオウは苦笑して、少年の肩に手を置いた。

「長というのは、そういう物ではない。上手く立ち回れるとか仕事ができるとか、そういうのとは違うんだ」

 

「風を流す力?」

「それもあるが、それだけじゃない」

 

 西風の長が朝夕、砂漠の地に清浄な風を流すのは、太古からの生業だ。

 溜まった澱を流し悪い気を追いやると言われるが、宗教的意味合いが強いとカノンは思っている。

 

 ただ、カノンの祖母のモエギが子供の時代、長の継承が途切れ、砂漠の地全体が争いで荒れたという。当時、次期長が育つまで代わりに風を流しに来てくれたのが、遠い北の草原の蒼の妖精で、彼等との太い縁(えにし)はその時代からだ。

 だから里の者は、風を流す生業を軽視はしない。

 

「分かんない。僕から見れば、ルウシェル以外の誰が長になってもいいと思う」

 

 スオウは痛ましい顔で少年を見た。

 記憶の飛んでしまった母が、周囲に同情されながら長でいる状態が、いたたまれないのだろう。

 

「カノン、もし私が長になれと言われても、辞退するよ、なれるとは思わない」

「そうなの? 大変だから?」

「いや、長という物は、なる物じゃない。育つ物なんだ」

「そだ……つ?」

 

「ルウシェル殿は、里を背負う運命に生まれ、逃げずに立ち向かい、立派に長に育った。その長殿が足踏みをしているのなら、里の者が支えるのは当たり前なんだ。長は里を背負って、私達は長を支えて、皆でこの地を末永く継承して行く。そういう物なのだよ」

 

 イマイチ納得していないという顔の少年に、スオウは、少し早足だったかな、と反省した。

 

「そうそう、この間話した、この旧棟の事だけれど」

「あっ、はいっ」

「やはり老朽化で、梁の劣化が危険だと判断された。これ以上引き伸ばすと解体その物が危なくなってしまうし、夏までに取り壊す事に決まった」

「…………」

 

「すまないな、こればかりはどうしようもない」

「……はい」

「本などを運ぶ時は言ってくれ、手伝うよ」

 

 親身に言ってくれるスオウにお辞儀をして、カノンはすっかり暗くなった坂を駆け下りた。

 

 ――みんな優しい  だけれど、本当に欲しいモノは、誰もくれない・・

 

 

 

 シドの家で食事の後、一緒に片付けを手伝うレンが外へ水汲みに行った隙に、カノンはそっとエノシラに相談した。

 

「前に、診療所の他に療養施設が欲しいって言っていたでしょう。あの旧棟を使いたいって言ったら、反対はされないと思うんだけれど」

 

「ああ……でもね、カノン」

 三つ編みの女性は心痛そうに言った。

「梁に亀裂が入って修理のしようがないって聞いたわ。それに、いい機会かもしれない」

「いい機会?」

 

「あの部屋にルウが閉じ籠(こも)るの、良い事だとは思っていなかった。ルウにも貴方にも、まだずっと未来があるもの」

「…………」

「荷物を運ぶ時は言ってね、手伝うわ」

「……ありがとうございます」

 

 レンが水桶を持って戻って来たので、その話は終わった。

 

 居間ではルウシェルとシドが茶を飲み、子供達が歓声を上げながら土産の菓子を広げている。

 土産は勿論カノンの分もあり、少年は礼を言って受け取った。

 

 

 砂漠地方とはいえ、初春の夜は冷え込む。

 母子並んで歩く帰りの夜道、ルウシェルは立ち止まって、頭から被った駱駝のケープを広げた。

「お入り」

 

 素直にケープにくるまれてくっついて歩く子供に、ルウはポツリと呟いた。

「お前も苦手なんだろ。ああいうダンラン」

「……うん」

 

 レンもファーも大好きだ。

 だけれど家族とセットになると、途端に遠い存在になる。

 カノンはルウの匂いのする毛皮に鼻を埋めた。

 狭い空間でお互いの温もりが結び付いて、この世に二人きりしかいない気分になる。

 

「何で私は、お前のお父さんを思い出せないんだろうな」

「…………」

 

 このヒトは、いつもいつも夢の世界にいる訳じゃあない。

 覚醒しては、抜け落ちた記憶に飢渇して苦しむ事を繰り返している。

 常に側で生活するカノンだけが知っていた。

 

「思い出せないお父さんなんて知らなくていいよ。僕、ルウシェルだけいてくれれば、それでいいから」

 

「お前は優しい……優しい、いい子だ……」

 

 

 




挿し絵:かえりみち 
【挿絵表示】



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