カノンが怪我で眠っている間のお話
夏巡(なつめぐる)・Ⅰ
「ああ、もぉ! そこじゃないったら!」
夕方の埃っぽい執務室。
山のような未処理の書類の前で、紫の前髪のリリのヒステリー声が響く。
怒鳴られたのは、これまた山のような書類を抱えて右往左往する、赤いバンダナのレン。
「東の地域の書類はそっちのファイルだって言ったでしょ!」
「こ、これは東でも川の分野だからこっちだろ。あうぅ、入らないぞ」
「川なら川って言いなさいよ! そのファイル、もう一杯じゃない? 川の中でも分類しなきゃなんないっていうの!? あああ、もぉ~~!」
レンは、唇の先っぽまで出掛かっている口答えを呑み込んで、この忌々しい作業をとっとと終わらせようと努力していた。
しかし片付けても片付けても、書類の山は一向に減らない。片付けが苦手な者が二人寄ると、厄介も二乗になるのだ。
「ふぉ~~いお前ら、キリキリ働けぇ。そんなペースじゃ日曜もご出勤だぞ」
長椅子にドッカと収まって、執務室統括者のホルズは、片目を開けてのんびり茶をすする。
「げ! 日曜!?」
レンが慌てふためいて手を早めた。
明後日の日曜は、蹴り玉の試合があるのだ。
ただの試合じゃない。里をあげてのお祭り行事、いわゆる運動会みたいな物だ。
子供がそれに参加出来ないなんて、子供にとっては一大事なのだ。
「な、何であたしがこんな目に…」
リリはいつもの自信満々っ振りは何処(いずこ)へ消え失せたか、泣きそうな声で頭を抱えている。
「自分で、カノンの分の罰則を肩代わりするって言ったんだろうが」
「厩掃除だと思ったからよ。こんな頭の痛い作業だと分かっていたら……ゔゔ……」
執務室のメンバーが戻る時間になって、ようやく本日の作業終了のお許しを貰った二人は、ヨレヨレの足取りで帰り道を辿った。
「カ、カノンはいつ目を覚ますの?」
「今朝のおウネ婆さんの話だと、まだしばらくは眠っていそうだって。でも、毒にやられているんだから、起きても無理させられないよ、リリ」
「……」
「そんなに書類が苦手?」
「何がどう苦手か説明も出来ない位苦手だわ」
リリは書類に書かれた文字を見ていると、頭痛がして具合が悪くなるというのだ。
「意外だな、執務室の一員なんて、超エリートで弱点なんてないかと思ってた」
「誰にだって苦手はあるわよ。だいたい、あの文字って代物? 何であんな同じようで違う形の羅列を、皆すらすら理解出来るのよ?」
「そ、そう?」
「『書き』は、考えながらゆっくりやれば何とかなるわ。でも『読み』ってのがさっぱりよ」
レンは呆れて肩を竦めた。文字なんか、修練所の低学年で普通に習うし、生きていく内に自然に身に付いて行くモンだろ?
「修練所は、卒業したんだよね?」
「んん、まあね……」
リリはちょっと口ごもった。
「あ、あたしは、石板を使わなくてもいいって決まりだったの」
「はあ?」
「だから、石板を使う数式や読み書きの授業は、出なくてもよかったのよ」
「何だそりゃ? 数式やんなくていいなんて夢のようだぞ。誰がそんな事を決めたの?」
「あのヒト、……サォせんせ」
「ふえぇ? せんせ、ズルいなあ。長娘だからって贔屓じゃ……」
最後まで言い終わる前に、目の前に二本指がビッと突き出され、燃えるような目のリリがズズイと顔を寄せて来た。
「あたしの事は何て言ってもいいけれど、あのヒトの悪口は、許さないわョ! あんただろうと!」
「う、うん、分かった、了解……」
レンが両手を上げて降参ポーズをし、リリは興奮した自分に恥じ入った様子で、目を逸らして指を下ろした。
そして三歩先へ走って、切り替えるようにクルリと回った。
「カノンの所に寄って行くでしょ? 寝ている間にヒゲ描いちゃおうか?」
「先っぽの渦巻いてる奴か?」
レンも気を取り直して笑顔になって、二人並んで診療所に向かって駆け出した。
(それにしても、リリにも苦手な物があったんだな)
レンは走りながら、新たな発見に感じ入っていた。
(しかも読み書きなんて簡単なコト。執務室の一員ったって、案外長娘だから特別に入(はい)れているだけなのかもしれない)
翌日も、修練所の終了の鐘と同時に、蹴り玉の誘いも断って、レンは執務室にダッシュした。
とにかく今日中に罰則を終わらせて、明日の蹴り玉大会に出場したい。
「おお、ご苦労だな」
大机のホルズが、書類の山を積み上げながら待ち構えていた。
「こんにちは、リリは?」
「今日の任務は厄介だからな、戻れても夜中になると思うぞ」
「え、ええ――っ!」
「リリは執務室の仕事が本業なんだ。子供の本業は勉強と罰則。文句を言う前に手を動かせ」
「うう……」
過去の書類の山を分類して、閉じて、棚に収める作業。
山積みになった未処理の書類は見事なまでにバラバラで、リリでなくとも文字の羅列を見ていると気持ちが悪くなる。
文字大好き書物中毒のカノンなら楽々こなすんだろうか? まったくあの時、自分が悪者に引っ掻かれればよかった。
「いやダメだ」
書類を抱えながらレンは頭を振った。
ケガしちゃったら蹴り玉大会に出られないじゃないか。
「何が駄目なんだぁ?」
ホルズが長椅子で、独り将棋(シャタル)の駒を並べながら、呑気に聞いてきた。
暇ならちょっとくらい手伝ってくれてもいいのに……
「あの、ホルズさん。実は明日、蹴り玉の大会があるんです」
「おお、知っているぞ。お前、上手いんだってな」
「は、はい、それで…」
「じゃあ、さっさと終わらせてくれ。罰則が理由で試合にエースを欠くんじゃ、俺がガキどもに恨まれっちまう」
「……」
泣き落としも効きそうにないか……
その夜は遅くまで執務室で粘ったが、ユゥジーンが戻った時、いい加減ホルズに追い出された。
もっとも、どう頑張っても今日中に終わりそうになかった。
半泣きで俯(うつむ)きながら歩くレンの横で、ユゥジーンが気の毒そうに慰める。
「罰則はケジメだからなあ。こればっかりはどうしてあげようもない」
「だって、そもそも馬を盗んだのは、ユゥジーンを助けたいからだったんだよ!」
「ホルズ様だって解っているさ。ただやっぱり、許しちゃうと他の子供に示しが付かない。草の馬の訓練が受けられる代償みたいな物だからね。まあ今回は残念だったって事で……」
「今回? 僕、来年はいないんだよ!」
レンはその夜は悔しい気持ちで眠れなかった。
やりたい事が自由にならない。子供って損だ。
***
日曜日。
忌々しい程の晴天。
こんなに明るい朝なのに、起きた瞬間鉛みたいな気持ちになるなんて。
レンがどんよりした表情で顔を洗っていると、後ろから蹴り玉が飛んで来た。
「わっ!?」
受け止めた正面で、ユゥジーンがウインクして言った。
「よ! 悩める青少年! 行けるみたいだぞ、蹴り玉大会」
「えっ?」
「明け方リリが戻ってね。今日は自分が一人で罰則やるからって、ホルズ様に掛け合ってくれたらしい」
「ホントに?」
「本来なら徹夜明けは休養日なんだ。リリに感謝しろよ」
「うん! うん!」
レンはたちまち子供らしく元気になって、蹴り玉をドリブルしながら会場へ向かって駆けて行った。
「ゲンキンだなあ」
見送りながらユゥジーンも、懐かしそうに目を細めた。
まあ、自分だってあの位の年頃は、蹴り玉が人生の最重要事項だった。
(ただ、リリ……あいつ、大丈夫かな……)
大会場所の修練所の広場は、参加する子供達や応援の家族で賑わっていた。
たまの行事に、皆楽しそうにニコニコしている。
就学前の小さい子が駆け回り、気の早い家族は土手に宴席を広げている。
レンが駆け付けると、同級生達は歓声を上げて出迎えてくれた。
よかった! 参加出来て、ホントに。
最初の方は下級生の試合だったので、レンは仲間達と土手に座って見学していた。
「よ! 馬盗人(うまぬすっと)小僧!」
人聞きの悪い声に振り向くと、見知った厩番の青年がいた。
馬事係の中で一番若いこの青年は、レンが馬を盗んだ馬房の係りで、戻ってからこっぴどく叱られた。
しかし、レンが草の馬の訓練を受けられる許可を、何でか嬉しそうに持って来てくれたのも、彼だった。
「弟が出場するんだ。お前の対戦相手のチーム。俺がコーチしたんだから、なかなか手強いぞ」
「へえ! お手柔らかに」
青年は、レンに麦菓子を差し出して隣に腰掛けた。
「懲罰が厩掃除じゃなくて、時間のかかる書類整理をやらされているって聞いて、参加出来ないんじゃないかと心配していたよ。間に合ってよかったな」
「いえ、罰はまだ終わっていないけれど、リリのお陰で来られたんです。今日は一人で書類整理を引き受けてくれて。後で埋め合わせしてやんなきゃですよね」
「リリ……?」
青年は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「リリ……って、あのリリだろ、長娘の? 彼女、書類整理なんか出来るのか?」
「えっ?」
「俺が修練所の高学年の時、あの子、入所して来たんだけれど」
「……」
「いや、そうか、努力して読めるようになったのか、彼女」
青年は自己完結して話題を切ろうとした。
「リリ、修練所に入った時は随分苦労したって言っていました」
レンはわざと知ったか振ってみた。
思い通り青年は、この仲良しっぽい少年にはリリは何でも話しているんだろうと、気を許してくれた。
「そう、本当に、当時はどうなる事かと思ったな。文字を覚える事を強要した教官を吹っ飛ばすわ、教室の黒板を粉々にするわ、挙げ句にはヒステリー起こして屋根のてっぺんで大竜巻だもんな。
誰も取り押さえられなくて、俺ら半日外へ出られないで震えていたっけ。あれは強烈だった」
「…………」
「さすがの長様も、あの時は困り果てていらしたな。入所三日で、早、就学する事を諦めて」
「そう? でも、修練所は卒業したって……」
「ああ、あのヒト」
青年は、遠くで係員として走り回るサォ教官を指した。
「あのヒトが、毎日彼女ん所に通って、我慢強く話し合ったって。んで、彼女は文字の授業は受けないって事で修練所に通い出したんだ。父兄とかあちこちから文句が上がったのも、サォせんせが説得して回ったって。良いせんせだよな。俺、今でも好きだよ」
「…………」
「聞いていなかった? 彼女から」
「う、ううん。少し聞いてた。そ、そう……数式やんなくていいって、お得だなあって思った!」
「お得ねえ…… 確かに、上級生の講義に勝手にバンバン出まくって、好きな講義だけで単位の帳尻合わせて、とっとと修了しちまったけれど。あれ、お得っていうのかなあ? 友達もいなくていつも独りでさ。
だから今、お前らとつるんでるの見て、不思議な感じ……ってのが正直な感想さ。この間もビックリだったし」
「この間って?」
「お前が盗んだ馬に乗って、彼女が帰って来た時。馬事係の詰所に捩(ね)じ込んで来たんだ。レンの馬泥棒の責任は自分にあるんだって」
「え??」
「何だか、カノン……? あの子が予知を早くに伝えて来たのに、取り合わなかった自分がイケなかったって。彼女があんなに必死で沢山喋るの、初めて見た」
「…………」
「それで、まあ、事情も事情だし、お前の草の馬の訓練の凍結も解除になったのさ。これは聞いていなかったろ? 伝えておいた方がいいと思ったから」
「…………」