夏紫(なつむらさき)・Ⅰ
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! こらぁ!」
夏草むせかえる、深山の繁み。
灌木の下をでっかいヤマアラシが走る……と思いきや、リリのザンバラ頭だった。
前方には、二足歩行のタヌキ風物怪(モノノケ)。
「このぉっ!」
リリの放った風礫(つぶて)が二度三度土煙を上げるが、タヌキはヒョイヒョイと避け、前歯を見せてケタケタと笑った。
「このっ、キャッ、いたたた!」
いつの間に、誘い込まれた蕀(いばら)の繁みで、長い髪を絡み取られて動けなくなるリリ。
「ああっ、もぉ~~」
タヌキはペロリと舌を出して、この隙にと前を向いた所で、逞しい足に行く手を阻まれた。
「ほぉら、捕まえた。大人しくしろ」
ジタバタするタヌキを両手で抱えて、コバルトブルーの青年が立ち上がる。
「ユ、ユゥジーン」
娘は蕀を引きちぎりながら、ムスッとして青年を睨んだ。
「あたしの仕事に手出ししないでよ!」
「ああ、悪い悪い」
と言いつつ、青年はあんまり悪いと思っていない風で、タヌキを目の前に持ち上げて覗き込んだ。
「ここはお前さんの住む場所と違うんだ。木霊達が困っているから、自分の領域へ引き揚げてくれるかい?」
「そんなんじゃダメよ! 言ったって何回も来るんだから。お仕置きで身を持って分からせないと!」
娘が二本指を振り上げる前に、タヌキは青年の手をすり抜けて、繁みに飛び込んで姿を消した。
「ああっ、何で放しちゃうのよっ」
「手出しするなって言ったのはリリだろ」
「~~~~!」
リリは葉っぱを絡ませたまま立ち上がって、膨れっ面でユゥジーンを睨み付けた。
「何しに来たのよ」
「いいじゃない。俺の仕事早く終わったし、ここ帰り道だし」
青年は近寄って、紫の前髪に絡んだ茨を取ろうとした。
その手を払い除けて、リリは踵を返してズンズン歩く。
「ね、こういう細かい説得系の仕事は苦手だろ? 苦手なモノは苦手って割り切って、手伝って貰ったっていいじゃない。みんなもそうしてんだし」
繁みをバキバキかき分ける娘の後ろを、ユゥジーンはゆっくりと着いて行く。背丈が大人と子供なので、歩幅が全然違うのだ。
「余計なお世話! あたしは一日も早く何でも出来るようにならなきゃなの! 手伝って貰っている暇なんかないの! でないとこの間みたいに……」
「リ――リ!」
「何よっ!」
不機嫌に振り向いた娘の真ん前に、コバルトブルーの真剣な瞳があった。
「な、何よ・・」
「それはもう、気にしなくていいって言っただろ? 結果的に大丈夫だったんだし。俺、何とも思っていないよ」
「うっ、うるさ――いっっ! ううううるさいうるさいうるさいっ」
肩に掛けられた手を思いっ切り払い除け、リリは怒鳴るだけ怒鳴って、藪を物ともせずに走り去ってしまった。
後にはヒラヒラ舞う葉っぱの中に立ち尽くすユゥジーン。
困ったものだ。
この間の事件……ユゥジーンが山の集落で獣人に襲われてあわやの目に遭ったのを、リリは自分のせいだと引き摺って、ずっとピリピリしているのだ。
確かに、カノンが予知を一番に伝えたのはリリだったが、その後ホルズにだって他の大人にだって、当のユゥジーンにだって、彼は伝える機会があったのだ。
「伝えて貰えなかったのは、俺がカノンとの信頼関係を築けていなかったからだよ。リリには何の責任もない」
何回もそう言って宥めているのだけれど、あの自分中心が身体の芯まで染み付いている娘は、何でも自分のせいにして、殻に隠(こも)ってしまうのだ。
執務室に入ってもう何年も経つのに、いまだに他のメンバーと馴染もうとしない。
何かと言うと長娘、長娘、って垣根を作り、出来ないくせに何でも一人でやろうとする。
元々魔法力だけは人並み外れて強いもんだから、周囲も迂闊に手を出せず、ますます孤立させてしまうのだ。
「優しくて純粋で、いい娘なんだけれどなあ・・」
***
「え? えええ――っ?」
自宅でもう一度漏らしたその言葉に、芋の皮を剥いてたレンが悲鳴を上げた。
「や、優しくて純粋ぃ??」
「純粋だろ? 小さい時からあのまんま。ちっとも変わらない」
ユゥジーンは岩塩をナイフで削りながらシレッと言った。
「ガ、ガキンチョなだけなんじゃないの?」
「ガキンチョ……うん、そうだな。大人の朱に染まらないんだよな、あいつ」
レンはマジマジとユゥジーンを見た。
ここへ来た時から何とな~く思っていたんだけれど、リリが執務室で働いていられるのって、このちょっとズレて寛容なユゥジーンのお陰なんじゃないか?
芋の皮をバラバラと落としながら立ち上がって、少年は鍋を引き寄せた。
「でもユゥジーンが悪かったね。そりゃリリ、怒るよ」
「ふぇ、何で?」
「『何とも思ってないよ』って、ダメだろ? 『お前には何も期待していない』って意味じゃん。ユゥジーンがそのつもりでなくても、そう受け取っちゃうんだよ。あいつ、プライド高いから」
「そ、そうか、複雑なんだな」
「逆! 単細胞なだけ。だからガキンチョだってんだ」
ユゥジーンは削った塩をレンに渡し、ガラクタを端に寄せて食卓を作りながら思った。
永らく隣に居ても越えられなかったリリの垣根を、この少年はヒョイヒョイと越えて行く。彼が来てからリリの表情が目に見えて生き生きし出した。
さすがあのエノシラさんに育てられただけはあるな、と、しみじみ感謝するユゥジーンだった。
カノンが退院してからも、リリは夜になるとユゥジーン宅に訪ねて来ては入り浸って、そのまま泊まってしまう日が続いている。
「僕、床で寝るの、好きになっちゃった」
とかレンが言っているし、あのリリが、少年二人といる時は、まるで子供時代を取り戻すように無邪気になるので、好きにさせていた。
しかし、彼らとは仲良く出来ても執務室では相変わらずだし、あの厳しいナーガ長が娘に関しては放任主義なのも心配で、何かと気苦労の絶えないユゥジーンでもあった。
***
「う・・」
傷口を見たおウネ婆さんの呻きを聞いて、カノンは(やっぱり……)と、心で呟いた。
「う、うむ、熱も引いたし、もう膿む心配もなかろう。毎日の清潔を怠るでないぞ」
「はい、ありがとうございます。じゃ、包帯はもういいんですか?」
「い、いや、今日の所は巻いておこう」
――額に爪が食い込んだ時の感触から、覚悟はしていた……
診療所を出ると、もう夕暮れだった。
しかしカノンの足は、帰宅とは別方向へ向かう。
「どっちへ行くのよ」
振り向くと、いつもの感じで腕組みをした紫の前髪。
「や、やあ、リリ」
「怪我人がウロウロと道草食ってんじゃないわよ」
「…………」
「何よ?」
「今日診療所へ寄る日だって知っていて、迎えに来てくれたの?」
「なに自惚れてんのよ。ついでよ、こっちに用事があったの!」
「ふうん、そうなんだ」
カノンは逆らわず、並んで歩いた。
ぼさぼさの紫の前髪は彼より拳ふたつ低いけれど、彼女の方が年上だ(幾つ上かは知らない)。
「で、どうだったの?」
「うん、もう通院しなくてもいいって」
「そ、良かったわね」
返事をしない少年を、リリは見上げた。
夕闇で表情が見えないけれど、多分『良かった』って顔はしていない。
「どこへ行くつもりだったのよ」
「うん、ハウス。散髪して貰おうかなって。上級生の女の子に髪を切るのが上手な子がいるんだ」
「…………」
「ほ、ほら、イメージチェンジ? レンみたく前髪おろして遊ばせて、てっぺん立てて、イマドキ風にしようかなって。えっと、その、そしたらレンみたいにモテるかな――っとか」
リリが立ち止まったので、カノンも止まった。
「それならあたしが切ってあげる」
「えっ?」
「櫛なら持っているわ。それと小刀。はい座って座って」
少年は勢いで路傍の柵に座らされた。娘は愛用らしい胡桃の櫛で、髪をガシガシ梳き始める。
「え、いや、待って」
「あたしのセンスを見くびるんじゃないわよ。そうね、あんたの髪だとレンの真似は無理ね、コシがないったら。いっそスキンモヒカンとかどう? インパクトあるわよぉ」
「待って待って待って――!」
本当に髪の根元に刃を当てられて、カノンは慌てて逃げ出した。
リリは追い掛けはせず、肩を降ろして小刀を鞘にしまう。
「そんなに目立つの? 額の傷痕」
数歩向こうでカノンも止まって、ゆっくり振り向いた。
「うん、まあ」
「……」
「あの腹の据わったおウネお婆さんが凄い顔をするんだもん。スキンモヒカンなんかよりインパクトあるよ、きっと」
「見せてご覧なさい」
カノンは戻って来て柵に腰掛け、包帯を解いた。
「・・!」
そこそこ度胸のある筈のリリが、眉間に縦線を入れて黙ってしまう。
子供らしくつるんと綺麗な額の、そこだけ無機質な粘土みたいに抉られた、無残な痕……
「凄いでしょ」
珍しくリリより先にカノンが言葉を発した。
「見たの?」
「うん、明るい昼間に水鏡で」
「…………」
「これでも長殿が何度も術を施してくれたんだよ。だから回復は早かった。でもこの傷痕は消せないって言われた」
「…………」
「えーとだから、前髪切って隠すようにしようかなと」
やにわにリリが顔を上げた。
「切るのはダメよ! あんた術者になるんだから、切っちゃダメっ」
「え、えっと、僕、術者になんて別に……」
「なりなさいよ!」
「なんでだよ、急にっ?」
「とにかく切っちゃダメなんだってばっ」
リリのイライラした表情が爆発した。
「このあたしが気に入ってんのっ! 根元が深い青で表面が薄氷みたいなグラデーション。そんな髪色の子そうそういないわ。あんたは自分で分かっちゃいないだろうけれど、そのへんの女の子なんかにさわらせたら、きゃあきゃあ面白がって、台無しにされるに決まってる。だからぜったいにダメ!」
「えっ、えーと?」
いっぺんに沢山捲し立てられて、カノンは混乱した。でもその沢山の中の切れ切れの言葉を繋ぎ合わせて、彼の聡明な頭脳が一つの結論を導き出す。
「あー、リリ、要するに、自分の気に入りの髪を他所の女の子がいじるのが嫌って訳?」
「バッカじゃないの? 何よ、その自惚れ!?」
「バカって何だよ。そもそも僕の事に、何でリリがいちいち口出しするのさ」
「あ、あたしは、その傷の責任が、あたしにあるからで」
そこまで喋って、娘は口ごもった。
その隙間にまろび出た、カノンの罪のないひとこと。
「リリに責任なんてないよ。僕、何とも思っていないし」
「あ? 何それ?」
家に帰ってレンに指摘されるまで、カノンは、小さな胡桃の櫛がてっぺんの旋毛(つむじ)に刺さったままなのに気付かなかった。
「ああ、リリの櫛」
「一緒だったの?」
食卓に器を並べていたレンは、首を伸ばして外を見た。
「うぅん、途中まで一緒だったんだけれど、帰っちゃった」
カノンはあやふやに言いながら、食卓に付いた。
『うるさーい! あんたなんか大っ嫌い!』
って、いきなり理不尽に怒鳴られた事は、黙っていた。