三日月が、空の真上から猫の目みたいに見下ろしている。
修練所の広場のゴールポストの丸太のてっぺんに、片膝抱えて座る人影があった。
大人の背丈の二倍もある垂直の丸太に軽々登れる子供なんて、そんなにいない。
その影が、ちょっと動いて片手を挙げる。
「やぁ……」
「レン……」
細い月が土手の上の親友を照らした。
「どうやって僕を見つけたの? ああ、そのチャパティか。ホント凄いな、カノンは」
「えと、あっ、食べる? お腹空いてるでしょ」
「うぅん、いい」
レンはゴールポストに座ったまま、背中を丸めた。
カノンは何て言っていいか分からなくて、チャパティを両手に持ったまま突っ立っていた。
リリはそんな事ぐらいでレンを嫌いになったりしないよ、って言ってあげたいけれど、ここいらでレンに脱落して欲しい……なんて思っちゃう自分もいる。
「ね、カノン、こんな細い三日月の晩は、アレが出そうだね」
呼び掛けられて、ちょっと自分勝手なコトを考えていたカノンは、我に返った。
「えっ、アレ?」
「ほら、『砂漠の灰色狐』に出て来る『追っ掛け妖怪』。子供が列を作って夜の砂漠を歩いていると、後ろの子から順番に、音もなく拐われて行く、って奴」
「な、何で、今、その話を…?」
「何でかな? 何となく今思い出したの」
「…………」
カノンは背筋がぞわぞわした。昔っからその手の話が超苦手なのだ。
「ねえ、そんな話を急に思い出す時って、すぐ後ろにいたりするんだよね」
「よ、よしてよ、レン」
カノンは震え声で目を伏せた。でも見たくないと思う程に、レンの後ろの暗がりに目の端が吸い寄せられる。
「特に、今の僕みたいに、呪われた気分の子供が・・大好物なんだってぇぇえうぇえ――!!」
レンはいきなり顔を上げて大口を開けた。
口の中も目の下も真紫、声もレンじゃないみたい・・尋常じゃない!
そしてそれを合図に、ゴールポストの後ろに垂直の鬼火が立ち上がり巨大な妖怪の出現!
縦長の楕円形の胴体の、半分が顔。一つ目の下の大きな口から舌が地面まで垂れ下がっている。
身体の周囲に放射状に、駱駝の蹄を付けた足が何十本もウゴウゴしている。要するに直立した巨大なワラジ虫だ。
「ひぇええ!」
それがどんなに間抜けな姿でも、常軌を逸したモノである事には違いない。
カノンはビビって腰を抜かした。
しかし次の瞬間、心臓が凍り付く光景。
巨大ワラジ虫がゴールポストに取り付いて、レンを襲い始めたのだ。
長い舌が細い足首に、もうちょっとで届きそう。
あの大きい口、子供なんか一呑みにされてしまう。
「カノン、カノン、タスケテ……」
あの活発なレンが、ひきつった悲鳴を上げてに震えている。
そこまで弱る程『大嫌い』がショックだったのか。
「ば、化け物、やめろ、こっちだ、こっち!」
カノンは勇気を奮い立たせ、土手を転がるように駆け降りた。
腰に小さなナイフしか持っていない。そんなのよりはいっそ……!
「カマイタチ!」
掌と掌を打ち合わせて風の刃を作る。
あんまり得意じゃないけれど、武器っていったらこれしかない。
――ジャッ!!
カノンの投げた風は真っ直ぐ飛んだが、ワラジ虫は舌を引っ込めて軽々避けた。
妖怪は弱っている少年にしか興味を示さないみたいで、丸太をゆさゆさ揺さぶり始めた。
レンは今にも落っこちそうだ。
「タ、タスケテ、タスケテ、カノン……」
「レン――!」
レンが、レンが、あの何でも自分で出来ちゃうレンが、今は助けを求めている。
誰を呼びに行っている暇もない。ここには自分しかいない!
助けなきゃ、助けなきゃ!
カノンは力一杯両手にカマイタチを作った。
肩が沸騰しそうに熱い。
腕を交差させて、思いきり解き放つ、
二つの風の鎌。
ブーメランみたいに弧を描いて妖怪の虚を付き、見事背中から両側へ突き抜けた!
――ジャキンン!
ワラジ虫はゴールポストと共に真っ二つになって崩れ落ち……たと思ったら、すうっと消えた。
「!!??」
***
三分割されたゴールポストが地面にドシンドシンと落ち、その上にレンがひらりと降りた。
そして、空中をひらひら落ちて来る三つに切れた朴(ほお)の葉を掴んで叫んだ。
「幾ら何でもこりゃないだろ! どういうセンスしてんだよ!」
「え? え?」
カッコウみたいな声しか出せないカノンの頭上で、甲高い声がした。
「だって、『砂漠の追っ掛け妖怪』なんてあやふやな情報しか言ってくンないから、そんなのしか思い浮かばなかったのよ!」
背後の朴(ほお)の木のてっぺんから、さっきベッドで怒っていた娘が降って来た。
「だいたいヒトのコト言えるの? なに? あのダイコン演技。緊迫感も何もあったモンじゃない! あんなのに騙されるのなんて、カノンくらいじゃないの!?」
「うっさいな! あんなの見せられて笑うなって方が無理だろ! それを言うならお前の作ったワラジ虫を本気で怖がるのなんか、せいぜいカノンぐらいだぜ!」
「あ、あのぉ……」
ケンケン言い争う二人の間で、青銀の少年が遠慮がちに片手を挙げた。
「えっと、今の流れで判断すると…… 二人で共闘して僕を担(かつ)いだ……ってコトで、いいのカナ……?」
二人同時にカノンを振り向いた。
「当ったり前でしょ! ちょっと黙っててよ!」
「それ以外のなんだってんだ! この状態でまだ気付かないんなら深刻だぞ、カノン!」
「…………」
カノンは黙った。そして、二人の楽しそうな口喧嘩が終息するのを辛抱強く待った。
「要するにね、あんたがあんまり自分を卑下しているから、自信を付けてあげたかったのよ」
紫のリリは相変わらずの居丈高で、腕組み。
嘘がバレたんだから、もうちょっと申し訳なさそうにしてもいいのに。
「しっかし、カノン、ホンットにド天然な。あのワラジ虫の出来損ないが出た時点で、何か変だと気付かないか? あぁ、桑の実、渋っ」
目の下の隈のメイクを拭き取りながら、レンも悪びれなく言った。
騙されて怖い思いをした当のカノンは、二人に叱られているみたいに小さくなっていた。
何か違うくないか?
「でも、まあ、最後は予定外だったわ」
「え?」
「シナリオでは、あんたに妖怪は倒せなくて、あたしがカッコよく助けに入る事になっていたのよ。そしてあんたは、修行して力を付けておく事の大切さを想い知る、っと!」
「…………」
「悔しいわよ。自分にはその力があった筈なのに、いざという時何も出来なかったら」
「…………」
リリはそこの所は真顔でゆっくり言った。過去にそんな経験をしたのかもしれない。
カノンも神妙に受け取った。
「長殿も加担してらしたの?」
「まさか!」
リリは腕組みをほどいて掌(てのひら)を上に向けた。
「父さまがそんなに器用なもんですか。あれは、そのマンマの反応よ」
「あれが、そのまんま……?」
「もしかして父さまが、父親でいる時まで立派な『蒼の長』だと思っていた? まさか、娘に対してはホント、平々凡々よ」
「……うん」
その辺の平々凡々とはちょっと違う気がする…… と、カノンは思ったが口にはしなかった。
この二人が、自分の為に骨折ってくれた事だけは真実。そこはちゃんと感謝しよう。
それを証拠に、確かにさっき土手を駆け降りた自分とは違う自分が、今土手を登っている。
カノンの持って来たチャパティは草の上に落ちていたが、砂を払って三人で分けた。
かじりながら三日月の下、並んで歩く。
「カノン、怖い思いさせてごめんな」
リリの自宅が見えた辺りで、今更ながら、レンが謝った。
「ううん、芝居でよかった」
「んン?」
「あらぁ、あたしがレンにキッスされたってのが、嘘でよかったって? ホンットお子ちゃまね! このあたしがキッスの一つや二つで動揺する訳・・」
紫の前髪の下のピンクの唇が、不意を衝いて両肩を掴んだカノンに塞がれた。
「これでおあいこだ!」
突き飛ばされてレンに受け止められながら、カノンはチャパティのカケラがくっついた舌先を引っ込めた。
「なぁにが『お子ちゃま』だよ。自分の事だろ、口端に食べかすくっ付けて」
「あ・あ・あんた!」
「明日から宜しくって長殿に伝えておいてくれ。行こう、レン!」
カノンは彼とは思えない不敵な笑みを浮かべて、レンの手を引いてたちまち駆け去った。
「何よぉ!」
リリは叫んだが、追い掛けはしなかった。
「何よ、まったく……ガキンチョなんだから、バカよ、バカ……」
バカと言いながら、今日、二人の男の子が駆け抜けて行った唇に触れる。
彼らと過ごす日々の中、あやふやだった自分の居場所、どれだけ掘り下げて貰えたか。
西風の少年達も、やがてはリリを追い抜いて、先に大人になって行くんだろう。
大人になるって、複雑で読めなくなって行く事だ。透明な明け透けではなくなる事だ。
あの子らの真っ直ぐな少年時代のひとときに、自分がいられた事に感謝しよう。
子供の頃だけに見えていた、道端の花のように。
リリは顔を上げて、細い三日月の家路を歩いた。
~天人唐草・了~