ifウマ娘個別ストーリー(駿川たづな) 作:愉快な笛吹きさん
「ふう……」
ぱんっと水切りした雑巾を干し、すっかり綺麗に様変わりしたトレーナー室を眺めながら額の汗を拭う。
12月28日、世間一般では一応仕事納めになる日だ。
普段は栄養ドリンク片手に月月火水木金金なトレーナーたちも、流石にこの時期だけは殆どの者が休んでいる。
自分もその一人のため、しばらく留守にするここの大掃除をしていた。
チェックも終え、全て完了したところで時計を見る。現在15時45分。今日は16時半の退出予定なので中途半端に時間が空いてしまった。
特にやることも無かったので思い切ってソファーに寝っ転がる。胸ポケットから取り出した携帯で適当に動画サーフィンをしていると新たに通知が届いた。
以前寺本に無理やり登録させられたチャンネルのライブ配信が16時から行われるようだ。どれどれと再生してみる。
「コーッパッパッパッパ!! よくぞ来た! 間もなく風水塾の始まりでリッキー!」
開始と同時、バンザイポーズをとったリッキーが例の謎の悪役キャラでセリフを叫ぶ。
そうして数秒。何も進行しないまま、恥ずかしさに耐えきれずぷるぷるし始めたリッキーの姿が捉えられた瞬間、コメントの数が一気に膨れ上がる。
『今日もこれを見るためにやってきた』『リッキーちゃん可愛杉』といった、アグネスデジタル度数がかなりお高めのファンがついているらしい。
「うんっ、リッキーちゃんお疲れさまっ☆ てことで、今日も始めていこっか。リッキー&ファル子の、風水ウマドルチャンネル。はっじまっるよー☆」
「よ、よろしくリキー! ううっ……まだこのキャラ続けなきゃだめ〜? ファル子さん」
「もっちろん☆ 前回の配信を見てくれた人たちからも一杯お手紙をもらってるんだもん。ちょっと紹介してみよっか――初めまして、友人からこのチャンネルを勧められ、以来四歳になる娘と欠かさず見ています。風水をわかりやすく学べるだけじゃなく、冒頭のリッキーちゃんの挨拶や、EDで流れるファル子ちゃんのハイレベルな歌や踊り、そしていつも楽しそうな二人のやり取りが最高です。これからも頑張って下さい。P・S 娘が通う保育園でリッキーちゃん笑いが凄く流行ってます――だってさ。皆はどう思う?」
そう言ってファル子が視聴者に反応を求めた瞬間、またコメントの嵐となった。
『もう同意しかない』『30分耐久バージョンを作るべき』『保育園で流行るの凄くわかる』『教育番組枠でも全然いける内容』など、ほぼ全てが賛同の方向に、リッキーが一瞬圧されかけるものの、ぐっとふんばった。
「じゃ、じゃあさ、私がいつも使っている挨拶を代わりにやるのはどうかな?『リッキー☆ ラッキー☆ みんなでハッピー!』――って感じなんだけど」
ポーズも付けながらリッキーが代案の挨拶を行うと『かわいい』『すこ』などのコメントがぽこぽこ飛んできた。
ほっとした様子の彼女が「じゃ、じゃあ――」と言いかけた途端、『でもコーパッパッパで』『それも可愛いけどコーパッパッパかな』『コーパッパッパからしか摂取できない栄養がある』『いっそ両方やってくれ』などの意見が大量に流れ込み、リッキーの案はあっさり却下される。
皆ひどい! とちょっぴり拗ねてしまったリッキーを慰めるファル子の構図でOPが始まった。
「すっかりバズってんなあ」
再生を止め、携帯をテーブルに置くと仰向けになって目を閉じる。
退出まではあと30分、それまで少しだけ仮眠することにした。何せこの後は有マと並ぶ大イベントである忘年会が待ち受けている。つい数日前にネイチャの祝勝会で活躍したばかりのオレノカンゾーが連続出走するため、体調には十分に気を付けなければならない。
「ふぁ……」
リラックスしてきたのか、あくびが漏れ出てくる。
ちなみに今回の発案者は馬場さんだ。なんでもネイチャの祝勝会のときに貰ったり、封を切って中途半端に余ってしまった大量の酒をホームパーティの形で処分したいとのことだった。
何人か誘っても大丈夫との事だったのでたづなさんのほか寺本にも声をかけたところ、リッキーはさっきの配信があったことからマンハッタンカフェのみが参加する流れとなった。
ネイチャも当然参加することから合計六人。男女比も人バ比も丁度良い感じだが、たづなさんだけは学園の点検作業があって遅れるとのことだった。
――そうか。終わるまで待ってるよ
――いえ、先に行っていただいて大丈夫ですよ。禁断症状が出たら困りますし
数時間前のLANEでのやり取りだ。完全にアル中扱いされていることが少々残念だが、まあありがたくはあった。
「なら、お言葉に甘えますよ」
くすりとしながらメッセージを送ったであろう彼女の姿を思い浮かべつつ、そっと目を閉じた。
「はーい」
あっという間に時間は過ぎ、馬場さんが住むマンションまでやってきた。インターフォンを鳴らすと本人ではない若い女性の声が返ってくる。
にやりとすると、
「うまぴょい警察です。独身トレーナーの自宅に学生らしきウマ娘が頻繁に訪れているとの通報を受けてやってきました」
そう言った瞬間、派手に吹き出す音がスピーカーから聞こえてきた。やがてドア越しに廊下を小走りする音がしたあと、がちゃりとロックが外れる。
「トレ〜ナ〜さあ〜ん?」
「よ、数日ぶりだな」
ドアが開くなり思い切りしかめっ面をしたネイチャに出迎えられ、中に入る。
「もー! そういうの笑えないってば」
「悪い悪い。当たり前のようにインターフォンに出たもんだからちょっと悪戯したくなってな。もうみんな来てるのか?」
「うん、たづなさんはどれくらい遅れそうって?」
「小一時間くらいだってさ。何か作ってるのか?」
「うん、色々とね。メインはネイチャさん特製にんじんハンバーグ。皆で温かいうちに食べてもらおうと思ってるからさ」
ぐっ、と力こぶを作ってアピールする辺り、かなり自信があるらしい。そうこうすると廊下の終わりまでたどり着く。
ドアを開け、先に中に入った彼女に続けば予想よりずっと広めの部屋が飛び込んできた。1LDKだが六人程度は全然余裕で過ごせる面積がある。キッチンもアイランド式で一人暮らしには勿体無いほどだ。とはいえそのうち二人になるんだろうが。
ネイチャを除いた面々は既にダイニングテーブルの椅子に腰を下ろしていた。まずは幹事の馬場さんに目を合わせると挨拶をする。
「お世話になります。馬場さん」
「おお来てくれたか! 先日はネイチャ共々世話になったな」
「いえいえ、今日も飲ませてもらえるとか俺の方が感謝したいくらいですよ。あ、これ手土産です。食後用のスイーツと、いざというときのナンデモナオール」
「ありがたい! これで気を遣わずに飲めるな!」
「まあそうだろうけどさ。あんまり無茶しなさんなよ、トレーナーさん方や」
と、馬場さんの代わりに紙袋を受け取ったネイチャが、勝手知ったる足取りでキッチンに消えていく。
恐ろしいほど自然な妻ムーブ。俺でなくても見逃さないね。
まるで新婚夫婦の家にお邪魔したかのようなぎこちなさを感じながら席に座ると、対面の寺本たちにも声をかける。
「よう、お疲れ。忙しいときに急な誘いに乗ってくれてありがとな」
「礼には及ばん。トレーナー業はもとより『こっち』の方も年末年始は落ち着いているからな」
「そうなのか?」
片方の掌を立てたジェスチャーで淡々と告げる寺本。その隣りに座るマンハッタンカフェがこくりと頷いた。
「ええ……リッキーさんの言葉を借りるならこの時期は陽の気が大変強くなりますから……」
「まあクリスマスからこっち、賑やかな雰囲気が続くもんな」
納得していると、ネイチャがお盆に缶や瓶、人数分のグラスを乗せてやってきた。配膳を済まし、再びキッチンにとって返す彼女を見かねたカフェが「私も手伝います」と申し出る。
「いやいや大丈夫なんで。カフェさんはどんと座っといて下さいなー」
「ですが……」
さっきから一人で忙しくしている彼女に悪いと思っているのだろう。
気遣わしげな表情の彼女に、寺本がぽん、と肩を叩く。
「止めておけ。無闇にキッチンに立ち入られるのはワイフネイチャとしても本意ではないだろうしな」
「ぶふうっ!」
意図的か、それとも単なる天然ボケか。今の彼女にぴったりな呼び名を寺本が告げた瞬間、ネイチャがまたもや吹き出した。
ばっ、と寺本に向き直る。
「いやワイフじゃなくて! ナイスネイチャです!」
「む、そうだったか。さっきからあまりにもワイフめいた立ち回りなので混じってしまったようだ」
「けどワイフネイチャも意外に悪くないんじゃないか? 馬場さんはどう思います?」
「うむ、中々可愛いニックネームだと思うぞ!」
「そうですか……ではワイフネイチャさん、この場はよろしくお願いします……代わりに食後は私がコーヒーを入れますね」
「んにゃあああああ!」
あっと言う間に定着した呼び名に耐えきれず、ネイチャが奇声を発して悶絶する。
まだ乾杯前ではあるが、何となく今日の会は楽しくなりそうな予感がした。
「よーし、皆グラスは持ったな!」
大人はビール、子供はにんじんジュースが注がれたグラスを手に取ると、馬場さんが声を上げ、次いでこちらに振り向いた。
「うむ、目が合ったようだな。というわけで乾杯の挨拶は任せた」
「完全にターゲティングされてたように思いますが……まあいいか」
サトノダイヤモンド並みの強引さだったが、寺本たちを呼んだのは自分なのでまあ妥当だろう。
すっくと席を立つと、口を開く。
「じゃあ、皆この一年お疲れさま。仕事やトレーニングのことは一旦忘れて、今日は思う存分楽しくやろう。ただあんまり羽目を外したら怖い秘書さんに怒られるからほどほどに」
たづなさんをダシにおどけると、ウマ娘の二人から苦笑いのような声が上がった。多分二人とも経験したクチっぽいな。
くすりとして宣言する。
「乾杯っ!」
「かんぱーいっ!」
かちんと互いにグラスをぶつけ合い、やや泡の消えたビールに口をつける。
すかっとした飲みごたえ。暑い時期に飲むのとはまた違った爽快さが喉に染み込んでいく。
「――ふう、やっぱりこの一杯は最高だな」
「うむ、まったくだ!」
ごとっ、と大ジョッキサイズのグラスを空にして馬場さんが言う。酒豪たちが揃うトレセン学園スタッフの中でもこの人は特に凄まじい。
こういうところも商店街の人たちに気に入られている理由なのだろう。
「はい、どうぞー」
そしてまだ握ったままの馬場さんのグラスに、いつの間にか瓶を手にしていたネイチャがおかわりのビールを注いでいく。膨らむ泡の分まで計算された完璧な分量を注ぎ終えると、呆気にとられている自分たちに気付いたらしい。
わたわたとして、
「あ、ち、違うの。実家がスナックだから見様見真似でやってるだけで……」
「どの口が言うかこのワイフめが」
「馬場先輩の飲み方を完璧に把握してなければああはできんだろうな」
「まさに阿吽の呼吸ですね……」
「うぐぐ……と、とりあえずつまみ取ってくるからっ!」
恥ずかしさに耐えきれず、ネイチャが慌ただしくキッチンに消えていく。あの様子だとこの部屋にしょっちゅう入り浸っているに違いない。
とはいえ馬場さんの性格的に手を出したことは無いだろうが。
「前の担当でもこんな距離感だったんですか?」
「いいや、この部屋まで上がりこんできたのはネイチャだけだな。きっかけは彼女から申し出があったからだが……今にして思えばそういう事だったのかと自分の鈍さに反省しきりだ」
「まあ自身の事って意外とわからないものですしね」
そう言って頭を掻く馬場さんに軽く笑いかけると、「まったくだな」と呟いた寺本に何故か半眼を向けられる。
あれ、これって。
「そのリアクションはもしかして俺に気がある展開か?」
「なるほど、どうやらタチの悪い悪霊が憑いているらしい」
「冗談だ。だからその謎に複雑な指の動きを今すぐ止めてくれ」
隣のカフェがぎょっとしたのを見るに相当ヤバい代物であるのがわかる。素直に謝るとすんなりと納めてくれたが。
と、今度はそのカフェが急にきょろきょろし始めた。
「どうしたんだ?」
「あ、いえ。お友だちが……怯えてどこかに行ってしまって……」
「え、マジで」
彼女の近くに守護霊みたいな存在がいることは寺本から聞いている。まさか今の悪ノリがそんな方向に飛び火するとは思わなかった。
すまないと告げるとカフェが首を振る。
「いえ……トレーナーさんがついてからは割とよくあることですので……多分しばらく街を走り回ったら戻ってくると思います」
「首輪の外れた犬みたいだな」
そう呟いたタイミングで、ネイチャがつまみと称した数々の自作料理を盆に乗せて戻ってきた。見事な出来栄えに、おお〜と皆が盛り上がる。
お友だちの行方は未だ気になるものの、カフェがそう言うのであれば気にしなくてもいいのだろう。
意識を切り替えると、すぐさま箸を付けた。
流れる夜景を視界の端に入れながら、ちらりと時計を見る。忘年会の開始時刻から既に40分ほど経過していた。
はあ、と小さくため息を漏らす。こういう日に限って何かと問題が発生するのは何故なのだろうか。
この時ばかりは流石に秘書の立場を恨めしく思ってしまう。
とはいえ――
「だめよーたづなさん。そんなにしかめっ面だとシワができちゃうわよ」
急いで出た学園前の道路で、やや年の離れた友人、マルゼンスキーさんの車にたまたま乗せてもらえたことは不幸中の幸いだった。道交法違反スレスレを攻める運転は普段ならまずご遠慮願うところだが、背に腹は変えられない。
さっきのやや失言気味な言葉についてもまあ……水に流しておくとしよう。
息を吐くと、にこりとして告げる。
「すみません、ちょっと気が急いておりました。もう大丈夫ですので、くれぐれも安全運転でお願いいたしますね」
「ん、OKよ。じゃあ舌を噛まないようにね」
「話聞いてましたか!?」
非難も虚しく、手慣れた手付きでシフトチェンジを行った彼女がアクセルを踏み込んだ。急激なGに身体がシートに押し付けられたまま、間もなく訪れた急カーブではもはや何をしているのかわからない複雑な操作で車体を傾かせる。
そうしてスキール音を響かせ、ガードレールを舐めるようなドリフトでカーブを抜けると、マルゼンスキーさんが満足げな声を上げた。
「うーん今日も良い調子♪ 最近は誰かを横に乗せることが無かったからつい張り切っちゃうわね」
「はあっ、はあっ……は、張り切らないで下さい! この調子じゃせっかく忘年会に行っても胃が受け付けなくなりますから!」
「あらそう? 残念ね」
そう言うとシフトレバーから手を離した彼女がパトカーばりの定速運転に切り替えた。さっきまでとは全く違った快適な車内に、最初からこれでいってくれたらいいのにと半眼を向ける。
「あはは、メンゴメンゴ♪ 久しぶりにたづなさんを乗せたもんだからつい嬉しくなっちゃって」
「そんなに久しぶりでしたっけ?」
「そうよー、前回は確か三月くらいだったかしら。ほら、終電を逃しちゃったから家まで送ったときよ」
「ああ……家に辿り着くまでに何故か峠を二つも越えたときの」
「忘れられない思い出ってやつね?」
「忘れてしまいたい記憶ってやつです」
どうにも良い方に解釈しようとするマルゼンスキーさんに口を挟むと、くすくすと彼女が笑う。
「何がおかしいんですか?」
「ん、何かね。前より本音で接してくれてるのかなーって思ったの」
「え?」
「だって、以前はあたしの運転に声を荒げたりとかしなかったでしょ? 最初に見せたしかめっ面だってそう。たづなさんが人前であんな顔をしているのを初めて見たわよ」
「そ、そうですか?」
言われてみれば、以前は生徒を見守る者として、もう少し肩肘を張っていたような。
いつの間にか気が抜けてしまっていたのだろうか? 考え込む私に、マルゼンスキーさんが空いた手をひらひらとする。
「ほらほら、そんなに気にしなくたっていいわよ。あたしは今の方がずっと親しみやすいと思ってるんだから」
「ほんとですか?」
「ええ。以前はいつもお人形さんみたいに笑ってるだけだったし、どこか一線引かれてる感もあったから……友達と言いつつお姉さん正直寂しかったのよ」
「そうだったんですね……気を遣わせてしまっていたみたいですみません」
「ん、もう。そういうとこよ」
苦笑しながら嗜めるマルゼンスキーさん。友人だが学園の生徒でもある彼女がそう言うのであれば、このくらいでいいのかもしれない。
「で? たづなさんがこうも活き活きとするようになっちゃったのって……やっぱり男の人?」
「……まあ、否定はできませんね」
冗談のつもりで言ったのだろう。苦笑しながらそう呟けば、マルゼンスキーさんがぽかんとした顔になる。
「そ、それって本当に――」
「マルゼンスキーさん! 前っ!!」
「えっ!? きゃあっ!!」
彼女がこちらに振り向いて何か言いかけた瞬間、ヘッドライトに照らされた前方に人影らしきものが見えた。警告すると、ワンテンポ遅れて気が付いた彼女が慌ててハンドルを切る。
「はあ……はあ……」
車体が半回転したにも関わらずどこにもぶつからなかったのは単に運が良かったからだろう。
とりあえず互いの無事を確認すると、マルゼンスキーさんが車を端に寄せた。それからハンドルを切った箇所まで戻ってみるものの、不思議なことに何の痕跡も見当たらない。
まるで狐につままれたような気分で佇んでいると、「そういえば……」とマルゼンスキーさんが切り出した。
「確かこの辺じゃなかったかしら? トレセン学園に入学予定だったウマ娘が自主練中に車に撥ねられ亡くなったのって……」
「それってただの都市伝説ではなかったですか?」
「だけどさっき一瞬見えたシルエットって……間違い無くウマ娘のものだったと思うんだけど……」
「……」
「……」
「ええと……良かったら今からでも迂回、しませんか?」
「がってん承知の助よ!」
意見が合うやいなや急いで車に乗り込み、この場から逃げ帰るようにUターンする。
再び身体がシートに押し付けられるなか、さっきのウマ娘らしきシルエットをもう一度思い返してみる。少しだけマンハッタンカフェさんに似ていたような気がするが、まさかこんなところにいる由もないだろう。
ぞくりとしながら来た道を戻っていった。
「――というわけで、大学卒業後は家業を継ぐつもりでしたが、最終的に親父が指名したのは次男の方でした。自由なお前にはこの寺は向いてないと言われましてね。それでしばらく身の振り方を考えていたんですが……」
乾杯からおよそ一時間くらいは経ったか。割と早いペースで酒が進み、程よく酔っ払ったトレーナーたちが、今はちょっとした身の上話をしているところだった。
いつしか得物を日本酒に切り替えていた寺本がお猪口を一口舐めた後、親指をくいとこちらに向ける。
「ある日、ふと中学高校のとき友人だったこいつの事を思い出しましてね。厨ニ病気味の騒がしい奴でしたがトレーナーになるという夢だけはやたら熱く語る奴でした。それがきっかけですね。こいつがそうまで言うのなら、何かしら面白みがあるんじゃないかと思ったわけです」
「なるほど……何とも波乱万丈だったんだな。それで、実際になってみた感想は?」
ほんのり赤ら顔の馬場さんが寺本に訊ねる。
見た目こそ変わらないものの、やはり酔ってはいるのだろう。興味深そうに隣で聞いていたカフェの頭をくしゃりと撫でると、穏やかな様子で告げる。
「今までとは真逆でしたね。悪霊相手であれば何だかんだ俺が出張ればそれで片付いた。だがレースではどうあがいても最後はこの娘たちに託すしかない。それが何とももどかしく、面白いところですね」
「と、トレーナーさん……」
普段の友人からは想像もつかないほどの濃厚なスキンシップに、カフェの顔がたちまち赤くなった。
が、そんな彼女の耳にふらりと顔を寄せた寺本が、更なる追い打ちをかける。
「だが任せておけ。こうして担当になったからには絶対にお前を大舞台で勝たせてやる。あのお友だちにもな。だから俺を信じて付いてくるといい」
「は、はいっ……」
上擦ったカフェの声を聞いた寺本が良い子だ、と最後に囁いてから離れていく。
ぽーっと熱を帯びたまま、完全に心ここにあらずとなってしまったカフェを見たネイチャが、ひそひそと話しかけてきた。
「ええっと……今のって新手の口説きテクとか?」
「残念ながらただの決意表明だろうな。ドーベルの本だったら完全に王手なんだろうが」
「だ、だよね……あーびっくりした。まさか人前であんな大胆なことするなんて思わなかったから」
「おまいう」
公開告白とかいう大胆の極みを行ったウマ娘が何をおっしゃるのやら。
またもイジり倒されるのは流石に勘弁なのか、「そ、そういえばさ――」とネイチャが露骨に話題を変えてきた。
「今の話だと、寺本トレーナーさんとは同級生なんでしょ? なら二人は同期ってこと?」
「いやそこは違っててな。俺の方がかなり先輩になる」
「ああ。俺は大学を卒業してからだが、こいつは高校卒業と同時にここへ来たらしい」
「マジ? トレーナーの資格ってめちゃくちゃ難しいって聞くんだけど」
「まあな。だが実は俺には前世の記憶があってな。その知識を活かしたおかげで――」
「設定が雑だ。30点」
「すまん嘘だ。本当は死ぬほど勉強した」
友人に酷評され、あっさりとゲロする。思えば厨二の病もこんな感じで直されたんだっけか。
「あーはいはい、謝らなくてもいいよ。実家のお客さんの方がもっと突拍子もないこと言ってたし」
そう言って、ネイチャが笑いながら軽く受け流す。流石はスナックが実家なだけあって、酔っ払いの扱いが上手い。
代わりに馬場さんが大声で笑い出し、
「俺はうっかり信じかけてしまったがな! 流石は寺本くん。やはり付き合いが長いぶん嘘かどうかすぐ見分けがつくらしい」
「いえ、単にこいつの魂をスキャンしただけです。相手が前世持ちとか人名持ちのウマ娘とかなら二つの名前が表示されますから」
「理由がガチだった!」
今度は流石に驚くネイチャ。ようやく再起動したカフェも『さすトレ』と言わんばかりの熱視線を寺本に向けた。
ふむ、と顎に手を置いた馬場さんが告げる。
「最初に見たときは随分幼い印象だったが……まさか高校卒業と同時とはな」
「海外ではそう珍しくは無いみたいですがね」
「だが日本では殆ど例が無い。トレーナーの仕事に余程こだわりがあったとみえるな」
「ああ、そういえばお前がトレーナーになりたがっていた理由は聞いたことが無かったな」
「あれ? もしかして今度は俺が話す流れ?」
まるで話を催促するようなやり取りにきょとんとする。念の為ウマ娘の二人にも視線を向けてみるのだが、
「はい……トレーナーさんのお話……ぜひ聞いてみたいです」
「あのたづなさんを現役復帰させちゃうような人ですよ。そりゃあ興味持ちますって」
好奇心を隠しきれない瞳で見つめる二人に「そうか……」と息を漏らす。
「あーうん……言っとくけど、あんまり盛り上がる話じゃないぞ」
予防線じゃなく実際にそういう内容ではある。
一応確認したものの、皆の意見は変わらないようだった。仕方無いかと覚悟を決め、グラスに残ったビールをぐいと飲み干す。
「じゃ、話すぞ――小学生の頃、俺は東京競バ場の近くに住んでてな。両親は共働きだったけど週末だけは親子三人で集まってよくレースを見にいってたんだ。大小様々なレースを見て、あの娘は凄かった、あの娘は惜しかった、みたいな話を毎回うるさいくらいに親に話しかけていてな。凄く楽しかったよ」
もうおぼろげにしか記憶に残ってないものの、あの時の感情だけは今も覚えている。
ふふ、と笑みが溢れた。
「で、小6の時だ。来週には日本ダービーが行われるってその時期にな、突然両親が事故で死んだ。仕事帰りに一緒にいたところを飲酒運転のトラックが突っ込んできたらしい……ダービー楽しみだなって話を朝交わしたばかりだったのに、次出会った時は病院だ。正直わけがわからなかったな」
ふうと息を吐いて周りを見る。うん、予想した通り完全にお通夜の空気だった。馬場さんだけは早くも号泣していたが。
とはいえ暗いのは一応ここまでだ。もう少し我慢してもらうことにして先を続ける。
「それからのことはあまり覚えちゃいない。いつの間にか葬式が済んだと思いきや、関西に住む祖父母の家に行くことが決まってた。なんていうか……自分が古いモノクロの映画でも見ているような感覚だったな―――で、引っ越しが終わって住み慣れた家を去る直前にな、思い出したんだわ」
「何を?」
「――今日は、日本ダービーの日だってな」
はっ、はっ――と。
通り慣れた道をひたすら駆け抜ける。
爺ちゃん婆ちゃんには「ちょっと待ってて」と言ったけど、行き帰りの時間まで考えたらとても"ちょっと"どころじゃなかった。
心配しているかも、とは一瞬思ったものの、それ以上にレースを見にいかないと、っていう想いが身体を掻き立てる。
「着いた……」
ようやく正門にまで辿り着くと足を止め、一旦息を整える。
五月とはいえ気温は高い、したたる汗を手で拭い去ると門を抜け、再び走りだす。
そうしてやってきたパドックには、既に誰の姿もいなかった。どうやら発走時間が迫っているらしい。
すぐにスタンドの方に向かわなきゃ、と踵を返した――その時。
「すみません……ちょっと手を貸していただけませんか?」
「え?」
突然の声がして、再度振り返る。パドックのスタンド下に設けられた関係者用の部屋から、一人の女性が出てくるのが見えた。
ウマ娘……だった。前走のレースにでも出ていたのだろうか? トレセン学園から支給されている汎用勝負服を見につけ、どこか覚束ない様子でこちらに歩いてくる。
「って、あら? 子供さんだったの。ごめんなさい。だったら無理はさせられないわね」
「え? あ……その」
まさかレースを走る選手が間近にきて会話してくるとは思いもしなかった。
あわあわとしていると、彼女がにこりと微笑む。
「私はミノル。トキノミノルよ。今からダービーに出走するの」
「そ、そうなの? でもそれにしてはやけにフラフラしてるっぽいけど」
「そ、そうかしら? あ、ええと……じ、実は少し前に食中毒に当たったの。ほら、生肉は危険っていうでしょ?」
「いや大変じゃんそれ! 棄権した方がいいって!」
よく見ればミノルさんの額には汗が滲み、頬も赤かった。かなりの高熱が出ていることは間違いないだろう。
思わず声を荒げて説得するものの、彼女は首を横に振る。
「それはできないの……ずっとこの舞台に立つのを夢見てきた。走らずに終わってしまうことだけは私の誇りが許さない」
そう言って、凛とした空気を見せた彼女に思わず息を呑む。確かに、せっかくここまで来たのだから出場したいのは当然だろう。
素直に格好いいと思えたこともあり、レースではミノルさんを応援しようって思った。この体調不良では碌に走れやしないだろうが、例え最下位になったって精一杯応援するつもりだ。
「ところで……今日はあなた一人? お父さんやお母さんは一緒じゃないのかな?」
「お父さんと……お母さん……?」
「うん、もしかして迷子……とか?」
膝を折ったミノルさんが同じ目線で話しかけてくる。だが彼女の言葉はここへ来るまでの間に、一旦は忘れていた現実を無慈悲に呼び覚ました。
力無く地面に目を伏せて、告げる。
「お父さんとお母さん……この前死んじゃったんだ」
「えっ?」
「交通事故に遭って……今度のダービー絶対見に行こうって言ってたのに……だから俺、一人でここに来たんだ。お父さんとお母さんのぶんまで一緒に見てあげようって思って……ほら、約束守ればさ、きっと、向こうにいっても……喜んで、くれるか……なあって――」
「…………もう、いいです」
ふわり、と。
ミノルさんが腕を伸ばし、俺の身体を抱き寄せた。
やはり熱があるのだろう。やや薄手の勝負服を隔てて、彼女の高い体温が伝わってくる。
心配する気持ちが強まったせいだろうか、高ぶりかけた感情が徐々に収まってきた。
「……落ち着いた?」
「うん……ありがとうミノルさん。俺、スタンドで応援するからさ、レース頑張って」
そっと身体を離したミノルさんに礼を言う。
もうすぐレースだっていうのに、余計な気遣いをさせてしまった。少し野暮ったくはあるけどキレイなお姉さんに恥ずかしいところを見せた羞恥心も合わさり、申し訳無い気持ちでいっぱいだ。
ありがとう、と笑顔で頷くミノルさん。それで終わりかと思いきや――突然「そうだ!」と声を上げる。
「ここで出会えたのも何かの縁だし、私と一つ約束してみない?」
「約束?」
「そう。私たち、理由は全く違うけどお互いボロボロの状態でしょう?」
「……うん」
「でも私はレースに勝つことを諦めてはいない。だからね、もしこれで私がダービーを獲れたら、あなたもこの先何があっても諦めずに強く生きていくの――どう?」
「ど、どうって……そんなの約束って言わないよ。まずミノルさんがまともに走れる状況じゃないのに」
「私のことはいいから。それで……どうかな? 約束できる?」
再度訊ねてくるミノルさんに、少しだけ悩み、決心する。
「……わかった。そんな身体で勝てたら奇跡だもん。だったら俺にもこの先何か良い事があるかもしれないし――いいよ、約束する」
「ありがとう。それじゃあ約束ね」
「うん」
こつん、と軽く拳を突き合わせる。そうして彼女との約束は成立した。
がたん、とゲートが開き、各バが一斉に飛び出した。応援スタンドのフェンスに手を掛けながら、ミノルさんの姿を探す。
いた。中団より少し後ろ。逃げを打つことが多いと言っていたにも関わらずあの位置ということは、スタートを失敗した証拠だった。
コーナーを抜けてバックストレッチへ。ターフビジョンに映し出された映像を見ても、彼女の走りに変化は無い。いやそれどころか、一瞬アップになって映ったときの彼女の表情は明らかに苦しそうな顔をしていた。
「やっぱり……」
呻きながら自然と両手を組む。強がりを言ったところで、やはりあんな体調じゃ到底無理だったのだ。
もうまともには見ていられなかった。ターフビジョンから目を背けると瞠目し、ウマ娘の三女神様に祈りを捧げる。
どうか彼女が無事に戻ってくることを、ひたすら願うばかりだった。
だが――
『さあ間もなく第四コーナー、外から徐々に上がってきたのは――トキノミノル! 今日は出遅れたまま中団を走っていた本命バがついにそのヴェールを脱ぎ始めたぞ!』
「えっ!?」
実況から聞こえてきた名前に、まさかと目を見開く。舞台は既にラスト直線。フェンスから身を乗り出す勢いでターフを見やれば、大外を怒涛の勢いで疾駆しているウマ娘がいた。
「ミノル……さん」
彼女の姿を捉えた瞬間、ぎりっと歯をきしませる。自分はさっさと諦めてしまっていたというのに。あんなにも熱があったというのに。彼女は未だ最後まで諦めていなかった。
あの時自分を優しく抱きとめてくれた両腕を懸命に振り、今まさに先頭のウマ娘に食らいつこうとしている。
『さあラスト200を切った! もはや他のウマは追いつけない! ―――とトキノミノル、二人の一騎打ちだ! その差は一バ身! トキノミノル、まだいくか!! いけるのか!?』
ボルテージをマックスにした実況に合わせ、東京競バ場が大歓声に包まれる。何という熱量。それに値するに相応しいデッドヒートを繰り広げている彼女の真剣な表情が見えた瞬間、ぶるりと想いが込み上がる。
「行け……」
気付けば声が漏れ出ていた。さっきの後悔も両親のことも、今この瞬間だけはきれいに吹き飛んでいく。
彼女に勝ってほしい。その想いがどうしようもなく心の内を占めた瞬間、彼女が自分の正面を横切る。
突き動かされるように声を張り上げた。
「行けええええ! ミノル姉ちゃんーーー!」
精一杯の応援の言葉。
聞こえたのか、それとも聞こえなかったのかはわからない。ただ声を上げたその直後、ミノルさんの足がなおも唸りを上げた。ついに先頭のウマ娘に追いつくや、そのまま華麗に抜き去っていく。
そして――
『今、ゴォォォォォーール!! 毎年新たなドラマが生まれ続ける日本ダービー! 今年も壮絶な争いの名勝負となりました! 勝ったのは15番トキノミノル、トキノミノルー!!』
「いいいやったあああああ!!」
アナウンスが流れた瞬間、全力でガッツポーズを取っていた。噴き出しそうなほどの熱い何かが胸の内に次々と湧いてくる。
本当に良いレースだった。本当に熱いレースだった。
この歴史的な時間を直接目に焼き付けられたことへの興奮を味わいつつ、いつものように声を上げる。
「凄い! 本当にやっちゃったよミノル姉ちゃん! あんな状態で一着とるとか本当信じられないって! ねえ二人もそう思うで――」
そうして振り向いた先にいたのは、見知らぬ中年の男性だった。突然声を浴びせられて怪訝そうにする彼に慌てて謝ると、興奮は冷めやり、少しずつ重い現実がぶり返してくる。
だけど。
――私がダービーを獲れたら、あなたもこの先何があっても諦めずに強く生きていくの。どうかな?
あの時のミノルさんの言葉を思い出す。重度の体調不良という試練を乗り越えて、彼女は見事に約束を果たしてくれた。なら自分だって、いつまでもめそめそしているわけにはいかない。
順位が確定し、ファンサービスのためスタンドの方に歩いてくるミノルさんの姿を焼き付けながら瞠目する。
「本当に……凄いレースだったよ。ちゃんと見てたかな? お父さん、お母さん」
これだけのレースを見逃したとなれば、きっと凄く悔しがることだろう。
頭を抱える二人の姿を想像し、くすりと笑いが漏れ出そうになる。
その、瞬間だった。
『――ああ、ちゃんと見ていたよ。本当に熱いレースだったな』
『――ミノルちゃん、一着になって良かったわね』
「……えっ?」
ぱっと目を開ける。ただの妄想……なんかじゃなかった。耳に残る二人の声も、肩に置かれた二人の手の重さも、確かな感触として残っていた。
ああ――と納得する。そりゃあそうだ、レース狂いなあの二人が、こんな熱戦を見に来ていないわけがない。ミノルさんの激走は、自分に確かな奇跡をもたらしてくれたのだ。
そして、
「ふうっ……くっ……」
二人が亡くなって以降、ずっと抑え続けていた何かが決壊していく。盛り上がる観客のコールに応えてミノルさんが手を振ったその瞬間――世界に再び色が戻った。
「うぇ……うええええええん!」
大観衆が織りなす笑顔と興奮の嵐の中、ただひたすらに涙を零し続ける。これまで押し殺してきた寂しさも悲しさも、降り注ぐ雨のように全部、全部。
――数十秒か。それとも2、3分は経っただろうか。
やがて歓声が少しずつ鳴り止むころ、涙も枯れ果てた。鼻水をすすり、再び顔を上げた先に見えたのは歩きながらスタンドに手を振るミノルさんの姿だった。
自然と、感謝の言葉が漏れ出てくる。
「ありがとう……ミノル姉ちゃん」
遠くの彼女にへへっと笑いかけ、そして決心する。レース自体は好きだったが、これまでは誰か特定のウマ娘のファンになることはなかった。もしその娘がレースで負けちゃったら悲しい気持ちになるから。
だけど今日からは彼女のファンになる。優しくしてくれて。決して諦めない心が奇跡を呼ぶんだって教えてくれて。そんな恩人を応援しないなんて有り得ないだろう。
「よし」
どうやらミノルさんは少しずつこちらに近付いてくるようだ。最前列だし運が良ければ気付いてもらえるかもしれない。何にせよ近くに来たら思いっ切り叫ぶつもりだった。「ありがとう! 俺ミノルさんのファンになる! これからも頑張って!」って。
そんな想いが届いたのだろうか。自分の間近を彼女が通りかかると、確かに目があった。
どこか儚げに笑ったミノルさんに、思い切り声を張り上げようとして――
「……えっ?」
崩れ落ちるようにターフに倒れた彼女の姿を見て、それっきり声を出すことは叶わなかった。
「…………てことがあってな」
きりの良いところまで話し終えると、いつの間にか注がれていたグラスをあおって喉を潤す。
ガキの頃の話なんてさぞ退屈だろうと思いきや、皆食い入るようにこちらを見つめていた。
にじり寄るようにしてネイチャが声を上げる。
「そ、それから……どうなったの? ミノルさんは?」
「ああ……すぐにタンカが来てスタッフに運ばれていったよ。俺も気になっていたけど環境が変わったことでしばらくばたばたしてな。落ち着いたタイミングで調べてみたら、持病が再発したためトゥインクルシリーズを当分休養するって話だった」
「え? じゃあ……」
「ああ。あの時の高熱はそういう事だったんだろうよ。で……そこからだな。俺がトレーナーを目指そうとか思い始めたのは」
「トレーナー……ですか? お医者さんではなく……?」
ぼそりとカフェが疑問を抱く。
ああ、と頷くと、
「医者は頭良くないと無理だし医大も出なきゃだろ? トレーナーの場合は一応学歴不問だからな。俺が彼女を担当して、凄いトレーニングを考えてまたレースに出られるようにしてあげたい! とか考えてたんだよ。まあ――」
結局は医者並みに勉強したんだけどな、と告げて話を締め括った。こうして振り返るともの凄い子供の浅知恵で将来を決めたのだと実感する。
と、それまで黙っていた寺本がおもむろに口を開いた。
「その後、彼女には出会えたのか?」
「いや……できなかった。結局レースに出たのもそのダービーが最後みたいでな。トレーナーになってすぐ学園名簿を調べてみたが案の定在籍はしていなかった。卒業後の行方も自分なりに調べてはみたんだがそれも手応え無しだ」
「うむ……引退後、卒業後のことは完全に個人情報だからな。学園にある資料でそれを把握することは難しいだろう」
腕を組みながら、うーむと馬場さんが考え込む。他に何か痕跡を見つける手段はないかと探しているのだろう。
ありがたいなとは思いつつ、首を振る。
「いいんだよ。別に今更出会ったところで何ができるわけでもないだろうしな」
「だけどさ……トレーナーさんの初恋の人なんだよね。それでいいの?」
「初恋ってお前な……まあでも、或いはそうだったのかもな。今更気付かされたわ」
「きっとそうですよ……悲しいですが……素敵な思い出だったんですね」
そう言って慈しむような視線を向けてくるカフェを見て、もはや我慢の限界を迎えた。
テーブルにあるビール瓶をぱっと手に取り、自らグラスに注いで一気飲みする。ただでさえしんみりとした空気にさせてしまっているのに、こうして気遣われたりするのはお腹一杯だった。
「はいはい! もう俺の話は終わりだ終わり。せっかくの忘年会なんだからな、もっと面白い話に切り替えようぜ」
「ふむ……ではネイチャがこないだのレースで勝利インタビューされた時の話でもしようか。乙名史記者から『来年の目標は?』と聞かれたんだが、ネイチャはレースのことではなくて――」
「んにゃああああ! 止めーーい!」
顔から火が吹き出そうな勢いで赤くなったネイチャが馬場さんの口を引っ掴むと、途端に笑いが生まれた。
馬場夫婦の気遣いで一気に変わった空気にほっと胸を撫で下ろすと、この際一緒に乗っかることにする。
「そういやこっちもデビュー戦では面白かったな。たづなさんGⅡ以下は体操服を着用ってルールを知らなかったみたいでさ、控室で初めて服を渡したんだがそのときの反応が――」
「――私がどうしましたか? トレーナーさん」
「……」
突如、背後から聞こえた声に口をつぐむ。
瞬時に溢れ出る冷や汗と共に振り向けば、いつの間にか上がってきていたたづなさんがこちらに笑顔を向けている。ルドルフが好きな四文字熟語でいう暗黒微笑というやつだ。
「ええと……いつからそこに?」
「たった今です。何度かインターフォンを鳴らしたのですが反応が無かったもので。失礼ですが勝手に上がらせていただきました」
「ああ、構わない。寒い中待たせてすまなかったな」
「いえ、大丈夫ですよ。皆さんが大いに盛り上がっておられるようで何よりです」
コートと、このメンバーなので帽子も脱ぎながらそう告げるたづなさん。その後はまるで獲物を観察する肉食獣のように、視線を外すことなくがっちりと自分の隣の席に座る。
「それで、どんな話で盛り上がっておられたんですか?」
再び乾杯の準備を皆がし始めるなか、たづなさんがこっそり訊いてきた。どうやら怒っているのはフリだったようだ。或いはワンアウトか。
うーんと今までの流れを思い返す。盛り上がる内容であれば自身の身の上話はまず除外だろう。
「そうだな……ネイチャの新しい呼び名とか、カフェがメロメロになったりとか、あとは寺本の特殊能力とかかな。何でも前世持ちかどうか魂を見たらわかるらしいぞ」
「凄いですねそれ。流石は元霊能者さんです」
「いえ、それほどでも。とはいえ特に意味はありませんがね。所詮は目に見えない肩書みたいなもの……で……」
「……どうした?」
不意に口を閉ざした寺本を訝しむ。が、すぐに「何でもない」と首を振ると、ぽんと肩を叩かれる。
「……末永く爆発しろ」
「お前は何を言っているんだ?」
急に突拍子もない事を言い出した友人に訊ねるも、「そんな気分だ気にするな」と返される。
どうやら本格的に酔っているらしかった。隣で見ていたたづなさんと顔を合わせて疑問符を浮かべていると、馬場さんの大きな声が響き渡る。
「よーし、たづなさんも揃ったところであらためて乾杯だ、せえのお!」
「かんぱーい!!」
掛け声に合わせ、最初より一つ増えたグラスの束が次々と音を奏でていく。そうして飲み慣れたビールを喉奥に納めれば、再び楽しい時間の始まりだ。
男も女も人もウマ娘も。等しくがやがやとしながらふと思う。
この世は忘れたいものより忘れられないものの方が遥かに多い。
そんなことを気付かせてくれるような忘年会だった。
今回の話に合わせる形で七話の『デビュー戦(○年ぶり二回目)』のたづなさんの回想シーンを少し差し替えました。