ifウマ娘個別ストーリー(駿川たづな) 作:愉快な笛吹きさん
「デビュー戦が決まりました」
多くのウマ娘たちで賑わう昼休みの学食にて。たった今スマホに届いた知らせを、カウンター席で隣に座るたづなさんに報告した。
それまで軽快な箸さばきでランチを食べていた彼女の手がぴたりと止まり、こちらを向く。
「……いつでしょうか?」
「10月の第二週の日曜日です。ちょうど聖蹄祭とハロウィンイベントに挟まれた形ですね」
「いえ、直に当たらなかっただけで十分です。良かったぁ〜」
ほっとした表情でたづなさんが胸を撫で下ろす。というのも、今年は参加バ数がやたら多いことからまさかの枠待ちが発生しており、URA側が日程を調整する事態になっていたからだ。最悪の場合学園行事と丸かぶりする可能性もあったため、とりあえずは一安心だ。
「そうですね。日取りを見て俺もほっとしました。ところで登録名って本当にあのままで良かったんですか? まんま発泡酒の名前なんですが」
以前デビュー戦の申請用紙をたづなさんに記入してもらったときのこと。名前欄に彼女は何故か自身のウマソウルネームではなく、エイプリルフールのときに付けた"グリーンラベル"を選択したのだ。
それ自体は特に問題があるわけではないのだが、理由のほどはやはり気になる。
「ええもちろん。結構気に入ってるんですあの名前。それに……元の名前はどちらかと言えば嫌な思い出の方が多いものですから」
「あ、そう……でしたね。すみません」
やってしまった、と顔をしかめる。彼女が現役を退かざるを得なかった理由を思えば自ずと答えはわかっただろうに。考えが足りていなかった。
くすっ、とたづなさんが笑う。
「そんなに気にしてもらわなくてもいいですよ。単にちょっと縁起が悪いかな?ぐらいの話ですから。13日の金曜日とか黒猫が前を横切ったとか、牛乳を買うなら製造日の新しい方を選ぶとか、そんな感じです」
「最後のはちょっと意味が違うような……けどまあ、わかりました」
気まずい空気はさっさと払拭してしまいたい。反省しつつ、何か他の話に切り替えようと試みる。『そのご飯の量、まるで日本昔ばなしみたいですね』『そういやもうすぐ健康診断か……』『今日の日替わりカロリー多くなかったですか?』――だめだ。微妙に失礼な絡みしか浮かんでこない。
頭のリールを再度回転させ、ようやく一つ引っ張ってくる。
「そういえば午前中、インソールが完成したって連絡がありました」
「ほんほへふか!?」
「あ、食べ終えてから反応してもらって大丈夫です。というか食いつきいいですね、両方の意味で」
そう告げると携帯を取り出し、もう一度通知内容を確認する。当初は一人で取りにいくつもりだったのだが、どうも最後の微調整のため使用者本人にも来店してもらう必要があるらしい。
「――それで、今日早速受け取りに行くんですか?」
「うおびっくりした……えっ、もう完食したんですか? いつの間に?」
「まあ昔は何かと早食い大食いを強制されましたので。やろうと思えばこのくらいは……」
そう言って恥ずかしそうに視線をそらすたづなさん。仕草こそ可愛いらしいものの、ちょっと目を離したうちにあの量の飯が消失するのは割とホラーではある。
何にせよ、それだけ完成が気になっているということなのだろう。いつもとは違った彼女の一面にふふ、と笑みが零れる。
「わかりました。たづなさんも待ちわびてるみたいなので、今日は練習を早めに切り上げましょう。ですがもちろん練習強度は据え置き! インターバル走とタバタ式トレーニングによるジャンピングスクワットを、今日はなんとセットでお付けいたします!」
「わあすごーい、って言うとでも思います? 鬼ですかトレーナーさんは」
やや掛かり気味だった先程の様子から一転し、たづなさんの表情が恨みがましいものに変わっていく。どちらも短時間で足を産まれたての子鹿に変えてくれるトレーニングなので当然ではあるが。
「すみません。日程も決まったのでこれから少しずつ追い込んでいく必要があって。もう少ししたら併走も誰かにお願いするつもりです」
「まあそういうことなら……わかりました。もし歩けなくなるほど疲れていたらおぶって下さいね」
「その時はセグウェイを借りてきますよ。多分これが一番早いと思います」
お互いにそんな冗談を交わし合う。そうしてむくれるたづなさんを宥めているうちに、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「よし! ラスト20秒だ!」
「うう……あああっ!」
放課後の練習用コース――手足に重りを付けたたづなさんが、乳酸に侵された筋肉を無理やり動かして全力のワイドジャンピングスクワットを繰り返す。やがてゼロを告げるアラームがタブレットから鳴り響いた瞬間、限界を迎えて膝を着いた。
「大丈夫か?」
崩れ落ちるたづなさんの上半身を抱きとめ、ゆっくりとターフに寝かせた。激しい筋肉疲労に喘ぐ彼女の状態をくまなく観察し、やがて徐々に落ち着いてきたのを待ってから声を掛ける。
「ええ……やっぱり凄くキツいですね。これ」
「ああ。俺も本を読んで試してみたけどマジで地獄だった。これ考案した人は悪魔か何かに違いないな」
「ならそれを実行させるトレーナーさんも悪魔では?」
「いえ、あくまでもトレーナーなんで」
「どっちですか、それ」
寝転んだまま、たづなさんがぷっと吹き出した。そのまましばらく彼女の回復を待っていると、ジョギング中のグループがこちらに近付いてくる。
「お疲れ様でーす」
「おうお疲れ様。頑張ってなー」
「はーい! 担当さんもファイトねー!」
「ええ、ありがとうございます」
声を交わして通り過ぎたグループが、再びトレセン学園用のミリタリーケイデンスを歌い始める。これで今日他のグループとすれ違ったのは三回目。だが自分の隣にいる担当がたづなさんであることに気付いた者は過去も含めてまだ一人もいない。
「何で誰もたづなさんだって気付かないんだろう?」
「うーん……普段は耳と尻尾を隠しているのが大きいんじゃないでしょうか。リボンも今は解いていますし」
言われてみれば、練習中はトレードマークの一つともいえる黄色のリボンを外している。着ているものも学園指定のジャージのため、ぱっと見には鹿毛の平凡そうなウマ娘にしか見えないのかもしれない。
「そうかそうか。なるほど……」
「どうしましたか。何だか悪い顔をしていますけど」
「いやあ、色々と面白くなりそうだなあと思って」
一見しただけではたづなさんだと気付かれないうえに、出走登録名はグリーンラベル。加えてデビュー戦の参加者はやたら多いときている。
かつて本来の能力や素性をひた隠しにし、ジャパンカップを制したオベイユアマスターという海外ウマ娘がいたが、今の状況はそれと似ている。彼女はあの一戦でバ脚を現しきったが、たづなさんの実力ならば皐月賞……上手くいけばダービーまで力を隠匿しておけるかもしれない。
と、ここで一つ疑問が浮かぶ。
「そういやなんでアイツはたづなさんだってすぐにわかったんだろう?」
思い出すのはこの間引退した元担当ウマ娘の顔だ。呟いた直後、たづなさんがくすりとする。
「彼女は門限破りの常習犯でしたから。お説教や反省文を書いてもらうために一緒にいることが割と多かったんです」
「そうだったのか。意外だな、そういう規律は割と守る方だと思っていたけど」
「ええ。基本的にはそうなんですが、何でも熱狂的に推している男性アイドルグループがいるらしくて。コンサートやファン集会などが開催される日はどうしても、とのことでした」
「マジかよアイツそんな趣味があったのか」
今になって知った元担当の事実に驚きを隠せない。見た目はエアシャカールやディクタストライカ系なのに、まさかそんな乙女な一面があったとは。
「そうか……言ってくれたら一緒に行ってやったのにな。お出かけ扱いなら門限だって関係無いんだし」
「それについても言っておられましたよ。恥ずかしいからトレーナーさんには絶対知られたくない。あといつも忙しくしてるのにプライベートまで付き合わせたくないって」
「何だよまったく素直じゃねえなあ。今度電話してからかってやろう」
「どの口が言いますかそれ」
ふふっ、とたづなさんに笑われる。自覚はしているので特に反論はしなかった。
「で、まさか戻ってくるとは思わなかったな」
しんと静まり返った夜の練習用コースに、さくさくと芝を踏む音が響く。
あれから練習を切り上げてインソールを受け取りに行ったのだが、すぐにでも試してみたいという担当からの熱い要望に応えて、とんぼ返りすることになったのだ。
徐々にウマ娘の本能を隠しきれなくなっている彼女だが、新しいガジェットを手に入れてテンション爆アゲになる気持ちはよく理解できるため協力は惜しまない。
データ収集用の機械をコースにセットすると、スタート地点へと戻ってくる。
と――
「何だ、他に走ってる奴がいるのか」
「ええ、あれは……マンハッタンカフェさんですね」
地面から聞こえる微かな振動に反応すると、すかさずたづなさんが教えてくれた。マンハッタンカフェ――確か長距離を得意としているウマ娘だ。走り自体には光るものがあるものの、やたら不気味な発言が目立つらしく、未だトレーナーはいないそうだが。
こんな時間帯でも、どうやら個人練習の最中らしい。徐々に大きくなってくる地響きの音に耳を澄してみる。うん、中々悪くない走りだ。試運転にはちょうどいいかもしれない。
「こんばんは」
マンハッタンカフェが足を止め、呼吸を整えたタイミングで声をかけた。それまで何かの独り言を呟いていた彼女がびっくりした様子でこちらに振り向く。
「ええと……アナタは……?」
「ああ別に警戒しなくていいぞ。この学園のトレーナーだ。今はこの娘の担当をしている」
「こんばんは、マンハッタンカフェさん」
そう言ってたづなさんが挨拶すると、カフェの緊張も多少は解けたようだ。ぺこりと頭を下げる。
「は、初めまして……何か……ご用でしょうか?」
「ああ。大したことじゃない。さっき一人で走っていただろ? こっちもちょうど同じ状況なんで、良かったら併走をお願いできないかと思ってさ」
「……いえ、一人ではありません……『お友だち』が……います」
「え、友達がいるのか? どこに?」
「それは……いえ……やっぱり何でもありません……」
(うん……?)
またもぺこりと頭を下げる彼女を見て訝しむ。
ややたどたどしくはあるが受け答え自体はまともなので、何かの電波を受信してるわけではなさそうだ。
態度が変化したのは何故か姿の見えない『お友だち』というワードが出てきてから――なるほど、何となく答えが見えてきた。
「君はもしかしてあれか、人に見えないものが見えるクチか」
「――っ!!」
ばっ、とカフェの顔がこちらに向いた。よしよし、どうやら当たりらしい。
「な、何故……わかったのですか?」
「ただの推測だよ。俺も昔はそんな時期があったしな」
「トレーナーさんも……ですか?」
「ああ、君よりも少し若い頃にな。それに取り憑かれてからは突如右目が疼いたり、暴れ出しそうになる腕を必死に抑えつけようと休み時間に独り言を呟いていたもんだ」
「よくある症状です……それで今は……大丈夫なんでしょうか?」
「ああ、今はもう何ともない。同じクラスのTって奴に色々諭されて完治したよ。寺生まれの奴はやっぱり説得力が違ったな」
「相当な力を持っていたんですね……無事で良かったです」
「ええと、何となく噛み合ってないような気が……」
たづなさんが何故か困惑した様子をみせるものの、そんなことはない。俺は詳しいんだ。実際カフェの方も随分打ち解けた雰囲気になったしな。
「……わかり、ました……併走ですね。距離は2000でいいですか?」
「ああ、2000の右回り、一本勝負でいこう。お互いそれでいいかな?」
「はい……」
「ええ、大丈夫ですよ」
「よし、なら10分後にスタートだ。それまでは休憩でもアップでも自由にしていてくれ」
頷き合った二人が別々の方向へと走っていく。妙な出会いから始まった夜のレースが、間もなく始まろうとしていた。
――ふっふっと、素早くもも上げを繰り返す。10秒ほど経ったところで最後に軽いジャンプを数回すると、アップを終了した。
そろそろ10分だ。スタート地点に向かうと、先程出会った二人は既におり、何やら話しこんでいた。
何とも不思議な二人だった。私以外にこんな時間にコースを走るウマ娘がいるとは思わなかったし、トレーナーさんの方もそれに望んで付き合っている感じだ。いっそ変わり者といってもいいのかもしれない。
(……でも)
だとしても、二人の間には確かな信頼があることが雰囲気でわかる。ちょっと羨ましい。
ちらと視線をずらせば『お友だち』もスタート地点の少し先で佇んでいた。どうやら併走に参加するようだ。
『お友だち』――幼い頃からこの世のものならざるものが見える体質のせいで気味悪がられ、引きこもっていた私を自身の走りで外に連れ出してくれた存在。その正体は未だ不明だが、相当な実力のウマ娘であることは確かだ。
いつも背を向けている彼女にいつか追いつき、肩を並べて走ることを目標としているものの、未だに自分の体質を理解してくれるトレーナーすら見つけられない現状では話にならない。
もう一度、二人に目をやる。そういえばこのトレーナーさんは私の言葉も否定せず、更には過去に私と同じような経験を味わったという。
或いはこの人ならば、私を理解してくれるのかもしれない……だとすれば、この併走にも勝つ理由が生まれてくる。彼に迎え入れてもらいたいのであれば、まずは自身の強さを証明しなければ。
「……よろしくお願いします」
「はい。お手柔らかに」
どこか既視感のある彼女と挨拶を交わし、スタート地点に並ぶ。調子のほどは悪くない。大丈夫――いける。
「二人とも準備はいいか。なら始めるぞ。よーい、スタート!」
「……えっ?」
一瞬、意味がわからなかった。トレーナーさんが腕を振り下ろした瞬間、隣にいた彼女の姿が消えたのだ。
まさか幽霊――と勘違いしかけたほどだった。恐ろしいほどの好スタートと急加速によって、既に彼女の姿は何バ身も先にいる。
「くうっ……!」
焦燥に駆られたまま彼女の後を追いかける。もはやアピール云々の話どころではない。これまでどこか印象の薄かった彼女が、これ程の能力を誇っているとは思いもよらなかった。自身はおろか、それこそ『お友だち』にすら匹敵するほどの――
(なっ!?)
まさか――と目を見開いた。いつだって自分の前を走っていたあの『お友だち』が、今まさに追いつかれようとしている。
信じられなかった。間もなくコーナーに差し掛かり、見惚れるような足さばきで『お友だち』が加速して先頭をキープするものの、再び直線になればじりじりと差を詰められていく。
そして――
「……凄い」
「えっ?」
「凄い、凄い! まるで足と一体化しているかのようです! すごく、いいですっ! あはははっ!」
「笑っ、て……」
意味不明な言葉を吐きながら笑い声を上げる彼女に鳥肌が立ったのも束の間。ふっ――、という呼吸音が聞こえた。
直後、襲いかかってきた圧力に否が応でも理解してしまう。彼女は未だ、本気で走ってはいなかったのだ。
「そろそろですね――」
そうして最終コーナーに突入する。落ち着きを取り戻し、一段と冷たくなった彼女の声に、あの『お友だち』がびくりとする。普段の柳を思わせる動きをかなぐり捨てたような獰猛さでターフを駆け抜けるものの、もはや追いつかれるのは時間の問題に見えた。
来る――
コーナーを抜けて最後の直線へ。その瞬間、彼女の足が深く沈み込んだ。膨れに膨れきった風船がようやく解放されるのだ。
自分も、そして前を走る『お友だち』ですらも。敗北の2文字を嫌でも意識させられた、その直後だった。
「あ、あれ……あし、が……」
「えっ?」
膨れきった筈の風船が、まるで栓を開けられたかのように急速に萎んでいく。何の前触れもなくふらつきはじめた彼女は足を止めると、そのままばたりとターフに倒れこんだ。
「おいマジか!? たづなさん! たづなさーん!!」
併走を中断し、異変に気付いたトレーナーさんが血相を変えて駆け寄ってきた。と共に叫ばれた名前を聞いて、まさかと倒れた彼女を覗き込む。
……ああ、どうして今まで気付かなかったのだろう。もはや間違いようもなかった。この人は理事長秘書の、駿川たづなさんだ。
「すまない! 暗くてゴール地点からはいまいち確認できなかった。一体何が起こったんだ!?」
「わ、わかりません……直線に差し掛かって足を溜めた瞬間、急に様子が変わった感じでした」
到着したトレーナーさんに状況を説明した瞬間、彼の顔が絶望的なものになる。あれだけのスピードで争っていたのだ。捻挫や靭帯損傷。最悪の場合には重度の骨折すら発生している可能性もある。
「たづなさん。返事をしてくれ! たづなさん!!」
たづなさんの上半身を抱き起こしたトレーナーさんが、必死に彼女の名前を呼ぶ。
すると――
「ト、トレーナー……さん」
「あ、ああ。ここにいるよ。どうした? どこか痛むのか?」
「お、お腹……が……」
「お腹……まさか内臓か? くそ、倒れた拍子にどこかぶつけたのか?」
「ち、違うんです……その……お腹が」
その直後だった。夜のターフに突如、ぐう〜っ、という音が鳴り響く。
呆然とする私たち――多分『お友だち』もそうだろう――に、顔が真っ赤に染まったたづなさんが微かに唇を震わせる。
「お腹が……空きました……」
「エネルギー切れ……ですか……?」
「ああ。夕方までかなりのハードトレをこなしたうえにメシも食わないで併走したんだ。体内のグリコーゲンが枯渇すりゃ、こうなっても全然おかしくはないわな」
「本当に……すみませんでした」
あれから約20分――たづなさんを後ろに背負ったトレーナーさんと、夜の道をとぼとぼ歩く。
衝撃の告白の後、一応トレーナーさんが彼女の身体をチェックしてみたものの異常は見当たらなかった。結局、空腹による軽いハンガーノックであると断定し、常備しているゼリー飲料を飲ませた後は(半ば強引に)誘われて夕食を食べる流れになった。
ちなみにその際、私が背負うことを提案したものの丁重に断わられた。曰く「親切心からなのはわかるが、これ以上担当バを追い詰めないでやってくれ」とのこと。
確かに、もしも私がその立場だったらかなり恥ずかしいだろう。未だ羞恥に項垂れるたづなさんをちらり見ながら反省する。
「それにしても驚きました……たづなさんがウマ娘だったのもそうですが、まさか今になって現役に復帰するなんて……」
「まあ……やっぱり変ですよね」
「あっ、いえ……そこまでいうつもりじゃ」
失言の類だったことに気付き、慌てて訂正する。が、当のたづなさんはそれを気にすることもない様子だった。ふふっ、と笑い声が漏れる。
「大丈夫ですよ。多分殆どの方は多かれ少なかれ奇異に映るんだと思います。大人で、もはや学園の生徒ですらない者が一体何をしているんだって。でも……私にとっては奇跡だったんです」
「奇跡?」
「ええ。トレーナーさんに出会えた奇跡です。私を理解してくれて、迷いを振りほどいてくれて、諦めかけていた夢を叶えさせてほしいと言ってくれた。だから、スカウトされたときに決めたんです。この先誰が何を言おうとも、私は自分の夢と、それを信じてくれるトレーナーさんのために走ろうって」
「そう……なんですね」
たづなさんの言葉にはっとさせられる。それはまさしく、私が『お友だち』に抱いている気持ちとほぼ同じものだったから。
「いや……流石に目の前でそんなこと言われたら恥ずかし過ぎるんだが」
「私一人だけじゃ不公平ですから。それに、本当に感動したんですよ。前の時なんて『お前を俺のチームに入れてやる、光栄に思え』でしたから」
「どこの刑務所だそれは」
「サイテーですね」
そう告げて、三人でくすくすと笑う。こんな自虐じみた冗談も、今が幸せだからこそ言えるのだろう。
笑うのを止め、そっと心に蓋をする。できればトレーナーさんにスカウトされたかったが、これ以上二人の歩む道の邪魔をしたくはない。
焦らずともたづなさんのようにいつかは転機が来る。それがわかっただけでも十分だった。
「あ、そういえば併走に付き合ってくれたお礼がまだだったな」
「……今から行く食事がそれでは?」
「いや、介抱を手伝ってもらったうえに、たづなさんのことも黙っててもらう約束だろ? それだともう少し上乗せしないとな。さっき話に上がった寺生まれのTのこと、覚えてるか?」
「ええまあ」
「あいつ、大学卒業後はしばらく家業を継いでいたんだが、何を思ったかここのトレーナーに転職していたみたいでな。こないだ夏合宿の打ち上げのときにばったり出会ったんだわ」
「え?」
「で、話聞いてたら今ちょうど担当がいなくてサブトレーナーやってるらしいから、良かったら口利きしてみようか? あいつなら多分君の事情も把握してくれると思うぞ」
「えっ?」
急転直下な話に頭が追いつかない。救いを求めるように『お友だち』の方を向けば、何やら愉快そうに笑いながらサムズアップしていた。
「どうかな? 悪い話じゃないと思うけど」
「…………はい……お願い、します」
こくこくと首を縦に振る。随分と早く訪れた転機だった。
「おはようございます、たづなさん」
「おはようございます、トレーナーさん」
翌日のトレセン学園の廊下で、ばったり彼女と出会う。人目がある時ない時で言葉遣いを変えるのもだいぶ馴染んできた。
二人並んで廊下を歩きつつ、言葉を交わす。
「もう身体は大丈夫ですか?」
「はい。夕食を食べてからは全然。ご迷惑おかけしました」
「あの後は逆にカフェを送っていったんですよね? 何か言ってましたか?」
「いいえ特には。私のことは内緒にすると念押しされていたのと、紹介の件についてお礼を申し上げていたくらいでしょうか」
「そうですか。T……寺本っていうんですがあいつの方も乗り気のようでした。きっと俺のときみたいに何とかしてくれると思います」
「う〜ん、やっぱり噛み合っていないような。でも結果的に上手い具合に納まったんでしょうか?」
昨日同様、困惑した表情を浮かべるたづなさん。言ってることはよくわからないが、最後の部分には同意する。直感だが、おそらくあの二人なら上手くいくだろう。
ある意味敵に塩を送った形なのかもしれないが。
「ええ。多分強くなりますよ、あいつ」
「ふふ。なら私も負けないように頑張りますね。あ、そういえば昨日の併走のデータは取れましたか?」
「ああ、ばっちり取れてますよ。でもちょっとおかしなことがありまして。走ってたのは二人だけなのに、データだと何故か三人分の集計が上がってるんです」
「え……?」
「しかもそのうちの一人は何故かゴールまでのタイムが上がってました。変ですよね? たづなさんもカフェも、走るのは最後の直線で中断したはずなのに」
「……」
「……たづなさん?」
何故か黙ってしまったたづなさんに声をかける。直後、弾かれたように後ずさった彼女がロボットじみた動きで背を向ける。
「あの、すみませんがこれから用がありまして。トレーナーさんもお仕事頑張って下さい。あ、あとそのタブレットは神社か寺本トレーナーに見ていただく方がいいかもしれませんね。そ、それではっ!」
「ちょ、ちょっと!」
歩きとは思えないほどの速さで立ち去っていくたづなさんを慌てて追いかける。その時の光景が生徒たちの間で目撃され、しばらくの間は彼女にナンパを仕掛けて無視される女好きトレーナーと噂されるようになった。理不尽極まりない。
――その後、やはりマンハッタンカフェと寺本はばっちりウマが合ったらしく、担当になってからはメキメキと実力を伸ばしていった。その後たづなさんとも何度かしのぎを削ることになるのだが、その時の彼女は決まって誰かが自分の横にいるような気配を感じたとか。
たづなさんがやったトレーニングについて
インターバル走
陸上部などがよくやっている練習。一定の間隔で、早く走るダッシュとゆっくり走るレスト(ジョギング)を繰り返すトレーニング方法。キツい
タバタ式トレーニング
オリンピック選手なんかも取り入れているトレーニング
「20秒間全力で運動→10秒間休憩」の30秒1セットのプログラムを4分間、計8セット繰り返すことで身体を追い込む。スクワットジャンプならたった4分で足を産まれたての子鹿に変えて悶絶させられる