やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 咲 ─emi─   作:Pond e Ring

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四話: 似たもの同士

 

 

 

 家はすっかりもぬけの殻になっている。 両親は二人とも、地方に出勤しており、家を留守にしている。小町は起きた時には既にに家を出ており、書き置きやメール、LINEでのメッセージなども特になかった。八幡は修学旅行の後のあの日以来、彼女とずっと口を聞いておらず、それまでの関係がまるで嘘であるかのように間隙(かんげき)を生じたままであった。

 勿論、八幡に非があることも重々承知していたが、意固地(いこじ)になっているというよりは、すっかり機会を(いっ)してしまいるという形だ。

 正午をすぎて、昼食をインスタントで適当に腹を満たすと、そろそろ約束の時間に迫っていた。

 

 

「いってきます」

 

 

 何も返さないのは寂しいと感じたのか、白地に灰色の(しま)を持つサバトラの飼い猫─カマクラが甲高い鳴き声をあげて、八幡のいる玄関まで近づいてきた。

 

 

「にゃあご」

「そうかそうか、お前は見送ってくれるんだな」

 

 

 しかし、カマクラは八幡を離すまいと彼の足に寄って、その小さな体躯(たいく)(こす)りつけてくる。甲高い声で鳴き続け、その可愛らしい真ん丸の瞳で見上げてくる。

 

 

「にゃあ」

「……餌が欲しいってことね」

 

 

 八幡が履いた靴を脱いで上がると、尻尾がぴんと垂直に立つ。これは嬉しさをあらわす猫の仕草だった。

 餌を与えたあとは猫に木天蓼(またたび)というように、すっかりそのキャットフードに夢中で、「お前は呑気(のんき)でいいもんだな」と嫌味をぼやいても、八幡が玄関の扉を開けても、歯牙(しが)にもかけることはなかった。

 

 

 ──最近の社会は猛烈な勢いで、利便性が増している。今では厄介な道案内をこのスマートフォン一台がしてくれているのだ。交通量の多い大通りに出ると、いつも向かっている高校の方とは逆の方向に向かって進んでいく。いくら千葉市民とも言えど、滅多に足を運ばない住宅街の方は、全くの不案内であった。

 十五から二〇分ほど歩くと、目的地に到達した。辺りを見回すと、そこに『川崎』の表札が見てとれた。冷静に考えると、これが人生で初めての同級生の女子の自宅訪問になるのだ。この訪問には色気もへったくれもあるものではないが、その事実だけで、このインターフォンのボタンを押すのはいくぶん気が引けた。

 そうして尻込みしている八幡を、「はーちゃんっ……!」と突然目の前のインターフォンが呼びかけた。

 彼は言葉には表せない()頓狂(とんきょう)な声を出して、すっかり(ひる)んでしまった。すると今度は、無邪気な笑い声がインターフォン越しに聞こえてきて、

 

 

「はーちゃん、おどろいたっ?!」

「け、けーちゃん?!」

「はーちゃんのことずーっと、まどからみて、いまかなー、いまかなー、ってまってたの」

「あ、そうなの。めっちゃ驚いたよ」

「やった!」

 

 

「まってて、いま、あけるね!」とどんどん小さくなっていくインターフォン越しの天使の声を聞くと、思わず頬が緩み始める。やがてその目と鼻の先の玄関の不透過(ふとうか)硝子(ガラス)(にじ)んだような影がちらついた。影がもぞもぞと(うごめ)くと、ドアが勢いよく開けられて、目が合うと開口一番、

 

 

「はーちゃんっ……!」

 

 

 ドアノブを頭の位置で握って、笑顔でこちらを燦々(さんさん)な笑顔で迎える川崎京華(けいか)の御姿はまさしく大天使そのものであった。その小さな頭の上には、黄色の輪っかが回っているように見える。思わず浄化して、この世から召されてしまいそうになる魂を必死に引き留めて、小ぶりに手を振った。

 

 

「こんにちは! それと……、えっと、いらっしゃいませ……!」

「けーちゃん、こんにちは。ちゃんと挨拶できて偉いな」

 

 

 京華は何かを求めるようにその(つぶ)らな瞳で見上げてきている。妹を持つ彼にはどこかその要求は懐かしく、可愛らしい。自然と手が小さな頭の方へと伸びていた。

 

 

「偉いぞ、とても偉い」

「えへへ……」

 

 

 (てのひら)を開けば収まってしまいそうなほどで、撫でるとふわふわした髪の感触が伝わる。だが目を細めて、八幡の手を受け入れる京華の姿に、ここ最近口を聞けていない妹を自然と重ね合わせてしまっていた。

 

 

「あれ、どうしたの、はーちゃん。……いてっ」

「さっき、はーちゃんをびっくりさせた仕返しのデコピンだ。隙を見せてしまったな、けーちゃん」

「むむぅ、けーかもしかえしのデコピンするっ……!」

「はーちゃんの身長が高いから、けーちゃんにはできないな」

「むむむぅ! はーちゃんのいじわるっ!」

 

 

 (じゃ)れ合っていると、まもなく居間の奥から、「いらっしゃい」と、川崎がやってきた。

 いつもと違い、その長い髪を下ろしており、白のフリルブラウスにかかるほどまで垂れ下がっている。その髪先が(とぐろ)()くように落ち着く、その胸元は女性的な豊満さを暗に示している。一方、ダメージが(まば)らに入っている細身のジーンズが通るほど、脚が細く長く伸びていた。彼女のスタイルの良さは折り紙付きだとは当然感じていた。ただこのようなラフな私服姿を見ると、その均整(きんせい)のとれたスタイルが強調されている。一介の健全な男子高校生である八幡にとっては最早目に毒のレベルであり、意識をしないようにと意識するしかなかった。

 

 

「……何、なんか変?」

「いえ、別に。当たり前だが見慣れない格好だなって思っただけだ」

「あ、そう。今日は来てくれてありがと。とりあえず(うち)に上がっちゃって。けーちゃん、はーちゃんを案内してあげて」

「はーい、じゃあ、いこっ! げんかんえきをしゅっぱーつ、しんこーっ!」

 

 

 上機嫌の京華に手を引かれて、川崎家の上がり(かまち)を踏みしめる。川崎のはーちゃん呼びに隔靴(かっか)掻痒(そうよう)の感が込み上げてくるが、京華の前という事もあって致し方ないのである。

 

 

「じつはね、けーか、あした、えんそくなんだよ!」

「へぇ、それは楽しみだな」

「うんっ! はーちゃんにもあえたし、たのしいこと、いっぱいだよ!」

 

 

 京華と話す度に八幡は浄化されていく。やがて、この目の腐りさえも消えていきそうな程だ。

 川崎家は、外観はごく普通の一軒家であったが、家の中も生活感があり、やはり兄弟の数が多いということで、子供用の遊び道具が詰められたダンボール箱や、絵本や図鑑がぎっしり並べられた本棚があった。その奥の居間には一家団欒(だんらん)を囲めるほどの木製の大きなテーブルが置いてあって、そこに川崎はいた。調理台のところに立って何やらいそいそと準備をしている。

 

 

「はーちゃん、りびんぐえきにとうちゃーく」

「おぉ、ここが川崎家のリビングかぁー」

「ありがと、けーちゃん。比企谷、今、お茶用意してるから。どこでもいいから適当に座っておいて」

「お茶か、助かる」

 

 

 間もなく温かい(ほう)じ茶、加えて「こういうのしか無いけど」と蓋で閉じられた湯呑みが出てきた。その蓋を開けると、白い湯気の中から卵黄の色が鮮やかに光る料理ができたのだ。

 

 

「え、これ、茶碗蒸し……?」

「そ。あたしが作ったやつなんだけど、食べて貰えらたらと思って」

「手作りなのか。川崎、料理得意なんだな」

「まぁ、これは簡単だから。時間がある時は作ってるって感じ」

「おぉ、すげ。ありがたくこれも(いただ)くわ」

 

 

 手を合わせて、「いただきます」と一言。早速茶碗蒸しの中にスプーンを差し込むと、その弾力がそれ越しに伝わる。それをこぼれないように慎重に口に運ぶ。それはものの見事に、すぐに腔内(くうない)(とろ)ける。八幡は決して美食家では無いから、一々評価したりだとか、風味や味付けなどを気にかけることは無い。だからこそ、単純に、そして反射的に「おぉ、うめぇ……」という言葉が漏れ出ていた。

 

 

「ふふっ、それは良かった。結構茶碗蒸しは自信作なの」

 

 

 そう言う川崎の顔は、柔らかで、慈愛に満ちていた。八幡が思わず見蕩れてしまうあの魅惑的な微笑みだった。それは隣で「おいしいおいしいっ!」と素直に表現しながら、ばくばくと食べる京華にも向けられていた。

 

 

「……マジで美味い。本当に美味しい茶碗蒸しってこんな味なのか」

「それは褒めすぎだって。(おだ)てても何も出てきやしないよ」

「いや、俺が何か出すレベルなんだけど。すげぇよ、川崎」

「……そ、そこまで言われたら、仕方ないからそう受け取っておく」

 

 

 隣の京華がいち早く食べ終わったようで「さーちゃん、ちゃわんむし、おかわりっ!」と声を挙げたが、晩御飯が食べられなくなるからまた今度と(たしな)められてしまい、やや()ねてしまっていた。

 

 

「そういや川崎、今日は、どんな感じの予定にするんだ」

「けーちゃん、比企谷と遊ぶこと凄い楽しみにしてたから、近所の公園にでも連れてって、そこで遊んでもらいたいなと思ってたんだけど、どう?」

「オッケー」

「ありがと。後、その前に買い物行きたいんだけど、それで良い?」

「お易い御用だ。こんな美味しい茶碗蒸しも戴いたしな」

「じゃ、もう出よっか」

 

 

 針の音を刻んでいる鳩時計を見るとすでにお天道様が下がり始める三時。川崎は少し準備すると言って、部屋を出て京華を連れて二階の方へと上がって行った。しばらくリビングで待っていると、「お待たせ」と声が掛けられる。川崎は長い髪の毛をいつものように後ろで束ねたようで、更にブラウンの格子縞のシングルブレストコートを一枚羽織っていた。一方京華は、不自然に両腕を後ろにして、八幡の視線をいちいち確認しながら、部屋に入ってくる。

 

 

「いやいや全然待ってないけど……」

「じゃ、けーちゃん、はーちゃんに」

「うん!」

 

 

 不自然だった両腕を前に出すと、そこには編み込まれた赤いマフラーがあった。

 

 

「これ、あげるっ!」

「え、マフラーくれるの?」

「最近、けーちゃん、マフラー作りに()っててね。ね、けーちゃん」

「うん、マフラーつくってるの! つくったやつは、パパとかママとかさーちゃんとかにあげてるんだよ!」

 

 

 八幡が浮かび上げたのは、極寒の雪景色の中、外出できないからと、(まき)()べられた暖炉で暖を取りながら、前後に揺れる椅子で大切な人のために編み続ける女性の姿だった。それは園児で、まだ手先が(つたな)いであろう京華に作るには難しそうだと感じた。

 大変ではないのかと川崎に話を聞くと、糸を編み込んだリリアンを作るための機械がかなり手頃な価格で買うことができ、それが園児にも扱えるほど使いやすいものだということだった。

 

 

「手作りで作るなんて凄いな、けーちゃんは」

 

 

 八幡が再び頭を撫でて賞賛すると、「ふふーんすごいでしょ」と言わんばかりの見事なまでのドヤ顔を見せつけて、「はーちゃん、首に巻いてみて!」と強請(ねだ)ってきた。八幡は立ち上がって、そのマフラーを慎重すぎるほど丁寧に首に巻く。

 

 

「どう、似合うか?」

「おぉ、すっごく、にあってるよ!」

「うん、はーちゃん、格好よくなったね」

「そ、そうか」

 

 

 もちろん京華に合わせるためだとは分かっているが、川崎の言葉には意識せずにはいられなかった。

 

 

「けーちゃん、ありがとな。大切にする」

「じゃあ、プレゼントも済んだし、とりあえず行こっか」

「ちょっとまってね!」

 

 

 京華は急ぎ足で部屋を出ると、ドタンと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。しばらくして、京華の手には昔懐かしいフィルムカメラが握られていて、

 

 

「これで、かっこいいはーちゃんのこと、けーかがとってあげる」

 

 

 八幡がまさかモデルになるとは(つゆ)にも思わなかったが、そこに拒否権は無い。

 

 

「さぁ、おはじめます。はーちゃん、よろしくおねがいます」

「よろしくお願いします」

 

 

 恐らく見様見真似で覚えたであろう、そのぎこちない敬語とカメラを構えたポーズ。そして、そのまま撮影会は始まった。

「おぉ、いいぽーずだね!」「はーちゃんいいよー」と撮影現場を映すテレビでよく見る掛け声を、京華は繰り返す。ただ園児ということもあって「もうすこしがんばって、さぁ、いなばうあー」とイナバウアーさせられてしまい、川崎の失笑を買ったりしてしまったりした。

 京華の撮影会は意外にも(つつが)()く進み、最終的には彼女が満足するまで続けられた。

 

 

「はい、おしまい!」

「どうだ、はーちゃんを格好良く撮ってくれたか?」

「うん、ばっちり!」

 

 

 京華は至極御満悦といった感じであった。そして、カメラを仕舞うために、部屋を出ていくと、再びドタドタと足音を大きく鳴らして階段を上る音が聞こえた。

 

 

「あの子、最近、あたしが買ってるファッション誌も知らない間に読み始めてて」

「なるほどね、じゃあ、川崎もモデルになってるのか」

「うん、しょっちゅうね……」

 

 

 児童の興味の広さとその傍若(ぼうじゃく)無人(ぶじん)なほどの行動力には魂消(たまげ)るばかりであった。その後、現像された川崎がモデルの役の写真が、戻ってきた京華によって八幡に公開されそうになり、川崎は見せまいと死に物狂いで隠していた。

 

 

 ▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

「おかしのところいってくる!」

「分かった。後で迎えに行くから、けーちゃん、そこから絶対に離れちゃだめだよ」

「はーい!」

 

 

 近くのスーパーに辿り着くと、川崎は野菜コーナーで真剣に商品に目を向け始めた。カートを引きながら、物色する様は、良い意味で高校生には見えないある種の貫禄があった。トマトが並べられたところでは、一つ一つを手に取って、まるで鑑定士のようにしげしげと吟味(ぎんみ)している。ただ、その様子を見て、八幡はふと疑問に感じた。

 

 

「ん、これとか真っ赤なのに、良いのか」

「うーん、トマトって赤くて熟しすぎるのは酸味がなくなっちゃってベストじゃないの」

「へぇ、そうなんだな。じゃあこれとかは?」

「あ、それいいかも」

 

 

 八幡からそのトマトを受け取った川崎は、しばらく舐めまわすように見た後、軽く縦に首を振って、「よし、これにしよ」と慣れた手つきでビニールに包んで、カゴの中に入れた。

 その後も野菜コーナーでは川崎鑑定士が見極めを行っており、八幡も助士のような役割で、良い野菜の見分け方の知識を実戦形式で吸収していった。例えば、根深(ねぶか)(ねぎ)は白と緑のコントラストがはっきりしているものが瑞々(みずみず)しくて良いらしい。そもそも葱の種類が色々ある事を知らなかった八幡にとっては知見が広がるばかりであった。

 他のコーナーも一通り回ると、カゴの中身は既に(すし)詰め状態で、窮屈になっていた。彼女の家は四人兄弟の大所帯であるから、これだけの物を買う必要があるとの事だった。

 

 

「ありがとね」

「凄いな、川崎。他の人もそんなにじっくり見てないのに」

「まぁ、そういうの眺めてるのが好きだってのもあるんだけど、少しでも味を美味しくしたいから。家でも言ったけどあたしかなり料理好きで、夕飯とかも作っちゃうぐらいだし……」

「……単純な疑問なんだが、何でそんな料理好きなんだ?」

「分かると思うけど、あたし小さい頃から人を笑わせるのとか凄く苦手だからさ。それで、最初、お母さんの手伝いで作った簡単な料理を食べてもらって。その時、みんな凄く柔らかい顔になって、それがたまらなく嬉しくて、今でも作るって感じ」

 

 

 最初の鮮明に残っているであろう食卓の光景を思い出したのであろうか。きっかけを語るその顔には懐かしさに浸っているような温かい面持ちになっていた。

 

 

「なるほどな……」

 

 

 本当に家族の事が好きなのだと感心している八幡であったが、川崎はどうやら勘違いしたようで、いたく物憂(ものう)げな様子で、

 

 

「ひ、引いてる……?」

「え、俺が……。ぷっ、あははっ……!」

 

 

 違うと手を振って否定すると、川崎は愁眉(しゅうび)を開いたように安堵のため息を吐く。

 

 

「過去一の感心顔だったのに、引いてる顔に見えるって、俺ったらどんな顔ですかね」

「ち、違うから……」

「……でも、それはあれかもな。川崎も笑顔だからだろうな」

「き、急に何言ってんの」

「学校でもその顔してれば、ボッチでは無かっただろうなと思うほどには良い顔だと思うぞ」

「ほ、ほんとに何言ってんのっ……!」

 

 

 栃麺(とちめん)(ぼう)を食ったような慌てぶりを川崎は見せ、「は、早く、会計しなきゃ」と逃げるようにカートを押し進めていった。確かに八幡自身もかなり恥ずかしい事を言っている自覚があった。由比ヶ浜ならまだしも、雪ノ下にはこのような気気障(きざ)な発言をできないだろうし、きっと「洒落にならないほど気持ち悪すぎるわ」と冷えきった言葉を木で鼻を(くく)ったような態度で返されるのが目に見えていた。

 ただ川崎には、最近接する機会が増えつつあることで、言われ慣れていないのか、このような真正面からの褒誉(ほうよ)台詞(せりふ)に弱いと薄々感じていた節もあり、もちろん本音でもあるのだが興味本位で試してみた部分も大きかった。ただ川崎の様子を見て、謎の満足感もあり、これまでの経験上、マゾヒスティックな性質(たち)かと感じていたが、意外とサディスティックの気も見つけることができたのだった。

 川崎に追いつくと、なぜかカゴの中身を見ており、眉根(まゆね)を寄せて、難しそうな顔をしていた。八幡も見てみると、お菓子コーナーの棚の近くには寄っていないはずなのに、いくつかお菓子が入っていたのだった。

 

 

「ん、どうした……?」

「このお菓子、何か知ってる」

「いや知らない」

 

 

 二人はお菓子コーナーに向かった。そこには、お菓子をずっと眺めている京華の姿があった。

 川崎に呼びかけられた京華は、カゴの中から取り出されたお菓子を見るや否や、露骨に顔を歪めた。そこからすぐに右顧(うこ)左眄(さべん)と目を動かして、口をもごもごとさせ始めた。彼女が犯人であることは間違いがなかった。

 

 

「さ、さっき、えっと、その、ようせいさんがもってきて、いれてた……」

「そうなの。じゃあその妖精さんは今、どこ?」

「え、えと……。もう、いなくなっちゃった……」

「そっか、じゃあこれは返さなきゃね」

「あ……」

 

 

 もう(しら)を切ることはできまいと悟ったのか、京華は両手を固く結んで震わせながら「ごめんなさい……」と小声で謝った。

 

 

「……何で、入れちゃったの?」

「その、あした、えんそくあるから、おかしを、もっていかなきゃいけないの。でも、さっき、ちゃわんむしたべちゃったから、おかしかってくれないかもって」

 

 

 (うつむ)きながら、詰まりながらもしっかり理由を述べる京華に対し、川崎はしゃがみこんで、目線を京華のそれに合わせると、やけに(こわ)ばらせていた顔も、テグスの糸を切ったかのように(ほど)けさせて、ほほ笑みかける。

 

 

「けーちゃん、ちゃんと言ってくれてありがとね。さーちゃんもすっかり遠足のこと忘れてたごめんね。でも、今度から入れる前に言うこと、嘘をつかないこと。さーちゃんと約束できる?」

「うん……。やくそくする」

「じゃあ、さーちゃんもけーちゃんも忘れない為に、これしよっか」

「うん。さーちゃんもわすれちゃ、だめだから。けーかにうそついたらだめだから」

「それは困るかなぁ」

「え! さーちゃんだけずるいっ!」

「嘘だよ、けーちゃん」

 

 

 悪戯(いたずら)っぽく笑う川崎に、京華はそのやわっこい頬を風船のようにぱんぱんに膨ませて、

 

 

「あぁ、うそついた! ずるいっ!」

「けーちゃん、早くしないと、さーちゃんは嘘をつき続けるぞ!」

「はっ! はーちゃんのいうとおりだ……。はやく、これっ!」

 

 

 必死だからこそ振り回されてしまう京華の様子に耐えられなくなったのか、川崎は失笑してしまった。

 

 

「うん。分かった。いいよ」

 

 

 小さく丸っこい小指と、しなやかで細い指。それらが絡まり合い、やがて(ほが)らかな声で指切りげんまんを交わす二人を八幡は口角が上がっただらしない顔で見ていた。 このような日常の仲(むつ)まじい姉妹の姿は、中々フィクションでは演出することができない。だからこそ、癒されるうえに尊さすらも感じることができた。

 だが京華が八幡とも約束することを言い出し、指切りをすると京華は川崎と八幡も二人で指切りするように求めてきたが、「もう既に約束してるから」と子供を悲しませない嘘をついて断った。

 

 

「……あとで針千本用意しておかなきゃだな」

「ふふっ、本当に。すぐに約束破っちゃったね、あたし達」

 

 

 二人して笑いながら、真剣な表情でお菓子を選ぶ京華を眺めていた。ただそこで、彼女はたくさんお強請りして、再び川崎に注意されてしまうのであった。

 

 

 ▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

「うわーいっ!」

 

 

 買い物を終えて、スーパーを出ると、住宅街の一角にある公園に向かった。そこはテニスコート三面分ほどの広さがあり、住宅街にある公園の中ではかなり大きい方であった。そこには遊具一式は一通り揃ってあり、京華は到着すると矢も盾もたまらず、ブランコに目掛けて走っていく。

 

 

「けーちゃん、気をつけて」

「うん、わかったっ……!」

 

 

 とは言いつつも、やはり走って、ブランコに目がけて走っていってしまった。川崎は「はぁ、もぉまったく」と溜息を吐きながらも、苦笑いを浮かべていた。一方、遊ぶ気が満々であったものの、すっかり置いてかれてしまった八幡は呆然(ぼうぜん)としていた。

 

 

「あの子、最初はあんな感じで一人で遊びたがるから、ちょっと待ってて。しばらくしたらお呼びがかかると思うからその時遊んであげて」

 

 

 公園のベンチに八幡は腰を掛けて、食材等が入ったエコバッグを横に置いた。隣には川崎が座る。ただ、その二人の間には(はた)から見て恋人とは勘違いしないような、確かな距離が空いている。

 

 

「荷物持つの手伝ってくれて、ありがと。すごく助かる」

「いいのいいの。俺が男手として活躍する機会中々無かったから、むしろ(なま)るの防げて、助かったわ」

 

 

 住宅街に佇むからこそ、騒音とは切り離されており、子供たちの(にぎ)やかな声だけが聞こえてくる。

 清々(すがすが)しいほどの秋晴れということもあって、絶好の行楽(こうらく)日和(びより)であった。

 (くすぐ)るような微風(そよかぜ)が、頬を撫でていく。木々が穏やかに音を立てると、一枚の薄く朱が混じる(まる)い葉が、それこそひらひらと踊るように落ちていく。

 

 

「なんか、いいな。こういうの……」

「あたしもこの時間好きなんだ。退屈なんだけど、良い退屈っていうか」

「凄く分かる。分かりすぎる」

 

 

 この感覚は、学校の中でも八幡は感じていた。言うまでもなく、ベストプレイスである。三段程度しかないコンクリートの階段。すぐ横のテニスコートから届けられるラケットの快音。昼間に足繁く通う海風に身を任せて、ゆらゆら揺れている通路脇の草花。

 そこでもう一つ気づいたことがあった。

 

 

「この雰囲気、屋上に似てるよな」

「それを言うなら、えーと、あんたがよく居るベストプレイス、だっけ。あそこにも似てる」

 

 

 一瞬、目が合って、そこでまた、二人揃って吹き出してしまった。

 

 

「つまり、俺たち似たもの同士って事ですか」

「うん、そうかも。前から思ってたけど、相当似たもの同士、だよね、あたし達」

 

 

 以前からボッチであったり、どちらも一家の長子でブラコン・シスコンであったりと似たもの同士だとは分かっていたことだった。だが、こうして共有して確かめ合ったことで、妙に心が踊るような心地になった。そこからは世間話やらなにやらで談笑していた。

 

 

「そういや、スカラシップとかも取れそうなのか?」

「うん、お陰様で。本当ありがと、比企谷」

 

 

「比企谷には助けられてばっかりだね」と、その横顔を隠すように下ろされた横髪の先を手櫛(てぐし)でなぞりながら告げる。

 

 

「でも、それを言うなら、助けられたのは俺の方だ」

「え、あたし、何かしたっけ……」

「最近、色々あってな。こんな感じで思い切り羽伸ばせてなかったからな。久しぶりだ。こんなに楽しいの。こちらこそ誘ってくれてありがとうって感じだ」

 

 

 その時、明らかに川崎の顔つきが変わった。こちらを見て、一瞬逡巡(しゅんじゅん)した様子を見せたが、すぐに切り替わって、

 

 

「……それって、修学旅行の事でしょ?」

 

 

 川崎の口から修学旅行の話題が掘り起こされるという予期せぬ事態に、八幡の眉間(みけん)には(しわ)の波が立った。八幡は言葉に出さなかったものの、無言の肯定と取るには十分すぎるほどだった。

 

 

「やっぱり」

「……何でそれを?」

()()()の比企谷の顔見れば誰でも分かる。その後にあんたが海老名に告ったって話、あたしのところにまで流れてきたから。それで一応海老名にも聞いて、一部始終を」

「そうか……」

 

 

 ここ最近、川崎と接する時は、気楽で、気軽で、心地よかった。しかし、そのような感情が湧き上がるということは、川崎を思い出さないための()()()()()()()()()()として利用してしまっていることにほかならなかったのだ。それは修学旅行のことだけではなかった。その後の奉仕部との二人のこと、雪ノ下陽乃の思惑、葉山隼人の同情、そして不和が続いている妹の存在、全てから逃げるために、何も負の感情を抱かずに済む川崎を利用していたのだ。

 嘘の告白で傷つけた自覚があるにもかかわらず、二度目の彼女に対する過ちを八幡は犯そうとしているのだ。喉元に鋭い刀を突きつけられたように、自らの愚かさをまざまざと直視させられていた。

 

 

「……やっぱり比企谷は一人で抱え込みすぎ」

 

 

 反射的に赤らんできた雲がひとつもない秋晴れの空を八幡は見上げた。「そんなことはない」と(ただ)ちに否定したいところだが、この一言は核心をついていた。罪悪感に浸りつつある今もまさにそうである。

 そしてそれは、八幡が以前、()()()()()()()()でもあったのだ。所謂(いわゆる)ブーメランということであった。

 だからこそ、この極めて自分本位の罪悪感に浸った自己を彼女に悟られないためにも八幡はわざと「お前が言うか、それ」と揶揄(からか)いの言葉をかけると、

 

 

「あたしだからこそ言えるんだけど。一人で何でもしようとしてた時、比企谷に助けてもらったお返し。つまりお互い様ってこと」

「お互い様……」

 

 

 そのお互い様という響きには、不思議と凝固(ぎょうこ)してしまった心が(ほぐ)れていくような心地があった。これは葉山が差し向けた、否、下賜(かし)したともいうべき一方的な同情と八幡が受け止めたものとは全く違っていた。拒絶することなく、自然とその言葉を受け止めることができたのだ。

 

 

「だから、前も言ったけど、あたしを頼って。あたしにもあんたの背負ってるもの、背負わせて」

 

 

 横を向くと、またあの柔らかく、全てを包み込むような慈しみに満ちた微笑みだった。

 

 

()()()()()()なんでしょ、あたし達」

 

 

 その言葉には、とびきりの抱擁力と優しさが詰まっていた。それで八幡の罪悪感が決して消えるわけではない。ただ猜疑(さいぎ)心の強い八幡ですらも、川崎には身を預けられるような安心感が確かにあった。一方、恥じらう様子もなく言ってのける川崎の様子に、かえって八幡の方が照れくさくなってしまって、

 

 

「……はっ、何その、プロポーズ的なやつ」

 

 

 と、意趣(いしゅ)返しの言葉を(つぶや)いた。すると柔らかい顔のまま川崎は、()で上がっていく(たこ)のように(またた)く間に顔を赤くなっていく。

 

 

「プ、プロっ……。そ、そんな訳ないでしょ。馬鹿なんじゃないのっ……!」

 

 

 その後も何かを取り(つくろ)おうとしては口ごもり、金魚のようになってしまっている川崎を見て、八幡は軽く吹き出してしまう。

 丁度その時、一人で遊んでいた京華が、可愛らしい薄らとした眉を落として、やけに悩ましげな顔でベンチの方までやってきた。

 

 

「ね、はーちゃん」

「ん、けーちゃん、どうした。何かあったのか」

「うん、あのね。あれとってほしい」

 

 

 京華が指を差す先には、脇に植えられている立派なハナミズキの木があった。かの有名な薄紅色の花ではなく、それが成熟したあの赤い実を取って欲しいとの事だった。

 一生懸命あの実を取ろうとして、つま先が痺れるほど背伸びしたり、頑張って精一杯飛んでみても届かなかったり、でも取りたいから木に登ったりして、と幼い頃の朧気(おぼろげ)な記憶を八幡は思い出していた。だが不思議なことに手を伸ばせば容易に届くことになった今になっては、その実を取ろうともしなくなってしまっている。それどころか、子供の時のように遥か高いところにあるものを取るために、手を伸ばそうとしなくなってしまっていることにも気付かされる。

 

 

「──よし、良いだろう。やっとこの身長が()きる時がきたか」

「あたしはここで見てるからさ。目いっぱい遊ばせてあげて」

「おうよ」

 

 

「それと危険なことはさせないように」と注文が入り、八幡は首を縦に降った。ハナミズキの木の下までくると、辺りは落ちて潰されてしまったハナミズキの実がいくつかあった。そこで京華は納得のいかないような顔で、上を見上げている。

 

 

「せっかくならけーちゃん取りたいだろ?」

「うんっ、とりたい! でも、けーかじゃとれないし……」

 

 

 八幡は落ち込む京華を横目に、すっとしゃがみ込んだ。

 

 

「これでどうだ?」

 

 

 軽く微笑んでやると、八幡の行動を直ぐに理解した京華の目は大きく広がり、言葉通りキラキラに輝き始める。

 

 

「それだ!」

「よーし、準備できたら言うんだぞ」

「うんっ!」

 

 

 京華は(はや)る気持ちを隠すことなく、飛び乗るように肩に足をかける。そして、「じゅんびぃ、かんりょう!!」の元気な掛け声とともに、八幡はすくっと立ち上がった。

 

 

「すごいっ、たかいっ! はーちゃん、たくさんとれるよっ!」

「次の人の分もあるから、残しておくんだぞ」

「わかった! ちゃんと、のこすね!」

 

 

 木にぶら下がっている赤く()れたハナミズキの実をいくつか採ることができて、京華は大変ご満悦なようだった。

 そのままロボットごっこが始まり、パイロットの京華の意のままに八幡は決して狭くはない公園を駆け回った。

 砂場では、小ぶりな山とその山の中をくり貫いてトンネルを作り、近くに置いていたバケツを借りて、水を汲んで、一級河川の『京華川』を作ってみせた。完成の際には、写真に収めたいほどの鼻を天狗のように伸ばしたドヤ顔を見せつけてくれた。

 (さび)がところどころ目立つ年季の入った赤色の滑り台では、京華が逆走して登ろうとして、転んで滑り落ちてきたところを川崎に見つかり、「約束したでしょ」と二人ともども叱られた。

 パンダの顔が左右両端に(ほどこ)されたシーソーでは、八幡が乗った瞬間に訪れる浮き上がる感覚がよっぽど気に入ったようで、それを何回も繰り返した。

 

 

 一頻(ひとしき)り遊ぶと、京華の服もすっかり土の色が浮かんで見えるほど汚れてしまっていた。手の爪の中には、砂が入っていて、いっぱい遊んだ証になっていた。八幡はすっかり綿(わた)のように疲れてしまって、縦横無尽に公園の中を駆け回った京華はまだまだ遊ぶ気満々であったようで、ぶうたれる様子を見て子供の体力に末恐ろしさを感じている。

 

 そのような京華を川崎は夜ご飯という甘い罠を使って、手馴れた様子で釣り上げて、帰路についた。八幡も荷物を取りに帰るために一緒について行く。京華は大事そうに持っていたハナミズキの実をポケットに仕舞いこむと、丁度二人の間に納まった。両腕を広げて、それぞれの手を掴むようにと求めてくる。

 そうして三人連なってできたのは、川の字というよりはアルファベットのエムの字になった凸凹の影だ。

 京華は何かを期待しているように、やけに鼻息を荒くしている。川崎は小声で「京華に、飛ぶやつさせてあげて欲しい」と伝えてきた。

 そう言えば、小さい頃、父と母に良くやってもらっていたな、と懐古の念に八幡は浸っていた。とうとう自分の番かと、ある種の感慨を混じらせて、「分かった」と返した。

 川崎は「ありがとう」と優しく微笑んだ。彼女は軽く咳払いをした後に、聞き慣れない高い声を出して、

 

 

「こちらさーちゃん、緊急事態発生です! 前に障害物発見しました! 京華さん、どういたしますか!?」

「こちらけーか、だっしゅつをこころみるっ……! さーちゃん、はーちゃん、ジャンプじゅんびっ……!」

 

 

 京華の腕にぐっと力が入った。その瞬間、八幡と川崎は互いに目配せして、

 

 

「いまだっ……!」

「「せーのっ……!」」

 

 

 その掛け声で、高く飛び上がった小さな小さなシルエット。遠くに伸びていった影。満足気な顔。「だっしゅつせいこうーっ!」の歓喜の声と共に、高らかな幼女の笑いが、長閑(のどか)な住宅街に染み入るように拡がった。

 何度も大きなジャンプを繰り返して、慣れない八幡の腕が棒のようにくたくたになった頃、気付けば川崎の家に到着していた。

 すっかり日没の時間を超えており、町の灯りがぽつぽつと(まだら)模様に、()え始めた。

 

 

「え、はーちゃん、もう帰っちゃうの……?」

「あぁ、もう夜になっちゃったからな。また今度な、けーちゃん」

 

 

 到着して直ぐに荷物を取って、玄関に向かっていると、京華が後をつけてきていた。しゃがみこんで頭を撫でると、彼女のその真ん丸な(いとけな)い瞳が、一杯の涙で満たされていった。そのまま彼女は八幡の腕に飛びつき、動けないようにするために精一杯の力でしがみついてた。

 

 

「やだっ……! はーちゃんともっといっしょにいたいっ……!」

「おいおい、けーちゃん。すごく嬉しいけど、そんなこと言ったら、はーちゃん勘違いしちゃうからね。他の子とかには言わないでね」

 

 

 八幡が遠回しに京華を(さと)そうとするが、むしろ逆効果であったようで、その涙(みなぎ)る瞳に射抜かれてしまい、

 

 

「はーちゃんだけだもんっ……!」

 

 

 と叫ばれてしまっては、元々妹属性に耐性が毛程もない八幡は、「分かった。はーちゃんもけーちゃんともっと一緒に居たい」とすっかり手篭(てご)めにされた。しかし、即座に彼の頭に軽い拳骨(げんこつ)が繰り出され、「余計なこと言わないで」と川崎から(とが)められた。

 

 

「こらっ、けーちゃんもはーちゃんを放しなさい」

「いやっ……! さーちゃんのいじわるっ……!」

 

 

 今思えば、その窘める一言が、凶悪な最終兵器のトリガーだったのだ。

 

 

「はーちゃんは、今からお家に帰るの」

「じゃあ、パパとママみたいにはーちゃんと──」

 

 

 次に(つむ)がれる言葉は、(おの)ずと理解できた。しかし、身構えても、もう遅かった。その銃口はゼロ距離で向けられている。

 

 

 

 

「──結婚するっ……!!」

 

 

 

 

 八幡の意識は、遥か彼方へと消えた──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──日がすっかり沈んでしまい、初めて通る道を、自転車を押しながら、街灯の明かりを頼りに、歩いていく。

 彼の隣には道先案内人として、先を行くでもなく、後を着いてくるでもなく、横に並んで、同じ歩調で川崎が歩いていた。行きは分かり易い大通りを通ってきたが、この蜘蛛の巣のような入り組んだ住宅街の小道の方が早く帰れるという事だった。

 

 元来寡黙(かもく)な性分であり、あまりうるさいのを好かない八幡にとっては、ただ黙々と歩くふたりの傍らで、一定のリズムを保った足音と、鉄錆が生み出す奇妙な自転車の音色が織り成す和音が妙に小気味よい。

 

 ただ肌身に染み入る抗えない寒さは刻々と迫ってきていた。上に羽織る物も厚着を持って来てくれば良かったと、後悔するほどには本日の夜の千葉は寒かった。夜の気温は十二月下旬並ということだった。

 だからこそ、八幡は今、首元に巻かれている黒色のマフラーをプレゼントしてくれた京華に感謝している。

 

 

「けーちゃんがくれたマフラー、本当に暖かいな」

「うん、本当に」

 

 

 川崎の首元には青色のマフラーが巻かれている。これも昨年の川崎の誕生日に、京華が編んでくれたものらしく、とても愛おしむ様に彼女はそれを撫でていた。

 

 

「そう言えば、この季節でよかったね」

「ん、マフラーだからこの季節だろ。実際、少し早いぐらいじゃねーか?」

「実は、弟の大志も京華からマフラー貰ってるんだけど、真夏にプレゼントされてて」

「ははっ、それは──」

 

 

「小町と関わった神罰だな」と口にしようとしたが、その言葉を口にしたら大志を罵った神罰が下りそうであったので、喉の奥に押し込んだ。

 

 

「見たかったな」

「ちょっと待って、今、丁度あるから」

 

 

 川崎は携帯を開いて、写真フォルダを探し始めた。そこはしっかり分類されており、三人の弟妹の写真の総枚数は、画面の数字を見ると約三〇〇程度あるようで、そのブラコン・シスコンっぷりに八幡ですらも畏怖の念を抱くほどであった。

 因みに大志の半袖にマフラーの写真はそこそこの面白さであった。

 

 

「あの子、すっかり比企谷のこと気に入っちゃったみたいだからさ。今日もたくさん遊んでくれて本当にありがとう」

「いやいや、俺も楽しかったし。たまにはこうして昔に戻って遊ぶってのもいいもんだな。すっかり忘れてたわ、あの感覚」

 

 

「そういえば」と八幡は、一呼吸おいて、

 

 

「モテるって存外大変なんだな。まさか二人にプロポーズされるとは。モテる奴恨んでたけど、これはこれで苦労するもんだ」

「あ、あれは違うって言ってるでしょ!」

 

 

 結局、八幡は京華の唐突なプロポーズのあまりの尊さに、死の一歩手前まで及んでいたのだった。

 何とか現世に戻ってきた時には、川崎に運ばれて既に八幡の自転車の目の前に就いており、そのまま帰路についたのだった。

 

 

「でも、京華大変だったんだから。アンタが上の空になった後も、最後まで『さーちゃんだけ、ずるいっ! 結婚するから京華が一緒に帰る!』って駄々こねてたし」

「……なるほど川崎が、お義姉(ねえ)さんになるかもしれないのか」

「……あんた本気で言ってるの?」

 

 

 恐らく今までで一番冷えきった目が八幡を突き刺す。切れ長の目はこういう時に凶器になり得るという、どこかの小説の一節にあったフレーズを思い出しては、誠にその通りだと肌身に感じた。

 

 

「冗談です、ごめんなさい。……でも、けーちゃんはモテるだろうなぁ。すごく明るいし、人懐っこいし、それに……」

 

 

 思わず言葉に詰まった。川崎も怪訝(けげん)そうな顔で、八幡を見ている。

 

 

 ──川崎みたいに美人になるだろうからな。

 

 

 いつもの彼なら軽い気持ちで言えたはずの一言だったが、突然喉元で引っ込んでしまったのだった。

 

 

「それに……?」

「いや、ずっとこのまま天使だろうし」

「何それ」

「実質保護者の隣で、将来とびきり可愛くなるとか美人になるとか言ったら、どつかれると思ったからな。『娘を狙う不躾(ぶしつけ)な男は許さん!』的な」

「……ば、馬鹿じゃないの。どつくわけなんて、な、ないし……?」

「何で疑問形なんですかね……」

 

 

 かなり適当な事を言ったつもりだったが、その反応からして、この姉は本当にやりかねない。将来の京華にアタックする男達の事を考えると不憫(ふびん)で仕方がなかった。

 まもなくすると大通りに繋がる道に辿り着いていて、その道の先には車の光が残像を残して消える瞬間が映し出されている。

 

 

「うし、ここまで来たらさすがに大丈夫だ。夜遅いのに悪いな、送って貰って」

「別に大丈夫。近くのコンビニに用があったし。それに、あたしが比企谷と一緒に居たかっただけだから」

 

 

 妹の京華からつい先刻、聞いた言葉だった。川崎の軽妙(けいみょう)なボケに、思わず口元が柔らかに歪んだ。

 

 

「ははっ、一緒にいたいって。けーちゃんに言ったことを復唱するが、そんな女子力高いこと言ったら、俺みたいな男子勘違いしちゃうから」

「うん、勘違いして。こんなこと比企谷にだけしか言わないから」

「はいよ、って、どういうこと……?」

 

 

 てっきり八幡を揶揄って(たの)しむ小悪魔のような笑みを浮かべていると彼は考えていたが、振り返ったその顔には、巫山戯(ふざけ)ているようには到底感じなかった。同じ言葉でも、京華のような子供の親愛を表す真っ直ぐな好意とも違った。

 もし八幡が読んできたフィクションのラブコメディであったなら、たとえ両想いの二人であっても、ここでは勘違いというオチが定石であろう。それほど、あまりにも日常的で、唐突であった。

 しかし、今ここはフィクションでは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

「──私、比企谷のこと好きだから」

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉が紡がれた瞬間、二人だけが世界から切り取られたように、時が止まった。

 

 

 

 

 

「──────は……?」

 

 

 

 

 簡単すぎる言葉の意味を咀嚼(そしゃく)するのに時間がかかる。ここまで真っ直ぐで、濁っていなくて、だからこそ信じ難い好意を示す言葉を、八幡は受け止めたことがなかったからだ。過去の積み重ねが生み出した防衛機制のようなものが、川崎の言葉の裏を探してしまっていた。

 

 

「あー、えーと、それはつまりあれか。()()()()()の俺への仕返しか、いやその節は本当に──」

「比企谷が好き」

 

 

 決して逃がさぬように、また、その真っ直ぐな言葉が、八幡の耳に届く。ただ受け止められるほどの器量は八幡にはなかった。だが、その単純明快な言葉は、虚飾(きょしょく)ではないとは理解できた。

 

 

「お、おう、そうか……」

 

 

 たじろぐ八幡の様子を見て、次に川崎が放ったのは、「ごめん」と謝罪の一言だった。

 

 

「これはあたしの我儘(わがまま)。今の比企谷にこの気持ちを打ち明けたら、きっと困らせるって分かってた。でも、もう嘘はつけない」

 

 

 続けて、川崎は言葉を紡ぐ。

 

 

「勿論、あたしの一方通行なのも分かってる。でも、答えは今出さないで欲しい」

 

 

 しかし、それ以前に八幡はあまりの突然のことに、すっかり当惑してしまっていた。

 

 

「す、すまん、答えを出す云々(うんぬん)以前に、ちょっと俺には分からないんだ。あまりにも急すぎて、な……」

「そ、そっか……」

「こういうの聞くの、本当に野暮なのかもしれないが──」

 

 

 川崎の目は、まじまじと真剣に八幡を貫いている。嘘では無いと感じるからこそ、心の底から気に掛ることがあった。

 

 

「──その、何で俺みたいなやつの事を、好きになってくれたんだ」

 

 

 すると、川崎はこくりと頷いて、滔々(とうとう)とその経緯を八幡に語り始めた。

 

 

「前、京華と会った時、あるでしょ。実はずっと気が晴れない日が続いてて、怖い顔になってたみたい。それで京華にも心配かけちゃって、泣かせちゃったりしたし」

 

 

 顔を(いささ)か歪めるが、その口が動かすのを止めることは無かった。

 

 

「比企谷とか雪ノ下に助けて貰った時から、実は家族で色々あってね。簡単に言えば、親とか大志とかの態度ががらっと変わっちゃってさ。時折『辛かったでしょ。負担をかけて、ごめんね。私たちの分まで背負わせて、大事な時間を奪っちゃってごめんね』って言われるようになっちゃって。その時、あたし物凄く罪悪感感じさせちゃったってたんだって初めて気付いてさ。それに、家事とかバーテンダーの仕事も別に嫌いじゃなかったのに、あたしが嫌いなもの無理やり押し付けられてるように皆は感じてるんだっ、て──」

 

 

「でも」とやけに川崎は強調する。

 

 

「でもっ、比企谷は、比企谷だけは言ってくれた。『最初は無理してると思ってたが、今はそうは全く思ってない。だってら家族のこと考えてる時の川崎は、一番幸せな顔してるからな』って。それが凄く嬉しくて」

 

 

 家族を何よりも大切にしている川崎。それゆえ、かえって家族はその川崎の表情の意味を知らなったのかもしれない。だからこそ、唯一理解して欲しい家族に、理解されなかったことが彼女の精神的苦痛になっていたのだ。

 

 

「あの時、本当に、本当に嬉しかった。救われた。比企谷は不器用なあたしのことこんなに分かってくれてる。そして一人で背負い込みすぎるなって頼らせてくれる。それに、比企谷と話すの結構、違う、物凄く楽しいし、気も合うし。気づいたら──」

 

 

 丘陵(きゅうりょう)なだらかな切れ長な目を微睡(まどろ)んだように恍惚(こうこつ)とさせている。街の光は、まるで彼女がこの瞬間、世界の主役であるかのように照らし出した。その瞳の潤いすらも、反射する。

 

 

「──気づいたら、好き、でした……」

 

 

 一刹那も、目が離せなかった。

 あの普段はクールで無口な川崎が、夜の(とばり)ですら隠せないほど頬を真っ赤に染めて、ここまでの感情、しかも好意をぶつけてきている。

 八幡も男だ。陽乃は彼の事を理性の化け物と(なか)ば皮肉を込めて、(たた)えた。だが決して言葉に出すことは無くとも、らしくない川崎の姿を見て、本能的に湧き上がってくる感情を抑え込むことができなかった。

 すっかりと八幡の顔は穴という穴から蒸気が吹き出るほど沸騰していた。心臓は張り裂けるほど、強烈な鼓動を打ち付けている。

 

 

「……」

「そっか、そういう顔してくれるってことは、少しはあたしを女として意識してくれてるってことだね。ふふっ、嬉しい」

 

 

 その緊張が解けたような微笑みには、言葉通り純然たる喜びが混ざっているように思えた。八幡は相変わらず言葉が出ない。次第に酔ったような雰囲気からは()めやらずとも、落ち着きを取り戻しつつあり、やがて照れ臭さが込みあげる。

 それは川崎も同じであったようで、図ったように両者揃って、目を逸らした。

 秋の夜長(よなが)の沈黙が、暫く二人を支配した。

 

 

「……このことはあたしとあんただけの秘密だから。じゃあね、比企谷」

 

 

 まだその頬に(しゅ)(のこ)したまま、いつもとは違い、胸元で手を小刻みに振った後、直ぐに川崎は駆け出した。

 彼女を象徴する真っ直ぐ伸びた青いポニーテールは、あの時よりも速く、小刻みに揺れている。川崎の後ろ姿を、ただ茫然自失としながら見送った。やがて、夜の影へとその姿が飲み込まれていく。

 

 生まれて初めて与えられた、純粋で真っ直ぐな掛け値なしの好意。

 相変わらず高揚している。紅潮している。だが八幡には、眩しすぎて、重すぎた。今、周りの外気に冷やされると、次第に視界が揺れ始めた。拍動も乱れ始めた。嫌な汗が吹き出し始めた。

 

 ここで彼は気付いてしまったのだ。彼が傷つけてしまう()()()()が増えたことに──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








拙文を読んで頂きありがとうございます。
お気に入り、感想、高評価、誠にありがとうございます!
これからも精進していくので、お付き合いのほどよろしくお願い致します!


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