人に似た形をした歩く影、それが魔王。
その言の葉は事物を選ばず伝わり、見えぬはずの姿を見ていた。
魔王が見定め、示したすべての物は、それまでの名を忘れて歪んでしまう。
かつて栄華を誇った国、偉大な指導者、流れていた川、眠り続けるはずだった遺体、意味を秘したはずの言葉。
歪んだ者たちが集まって作った国は魔王への畏れで満ちていた。
魔王が名を呼ぶ前に追い払えば良い。
声に従って人々は石を持った。
歪んでいる者を認めてはならない。
黒い髪は魔王に似ている。
白い髪は魔王を呼ぶ。
弱きものは魔王に従う。
魔王が現れる前に追い払えば良い。
声に従って人々は石を投げた。
歪んでいる者を認めてはならない。
声に従って選んだはずの行動が、何時しか習慣になり、常識になっていた。
優しい声が褒めてくれる。
オルトリヴロレとはそういう国だ。
白い髪の神父、黒い髪の浮浪者、混ざり物の子、身体のどこかが欠けた者。
幼い子供だった頃に、それらに石を投げつけた。
また、成長して少年ともなった頃に、それらの頭を石で割った。
誇らしげに伝えるだけで褒めてくれた。
「偉い」
父が褒める。
「偉い」
母が褒める。
『偉い。いつかきっと勇者になれる』
優しい声が男を褒めてくれた。
胸が高鳴るようだった。
男の輝かしい思い出だ。
それから年月を掛けて成長した男は冒険者となった。
活躍するほどに、優しい声が褒めてくれた。
褒められるために繰り返した努力が実を結んだのか、男は実力を示し、ギルド内でも頭角を現していった。
指名される依頼も増えた。
ギルド内での信頼も増していた。
ある日、一流のパーティから勧誘を受け、参加を決意するまでにそう時間を要さなかった。
それまでソロで戦っていた男にとって、肩を並べて仲間と連携することは不思議ながらも楽しい物だった。
自分一人では苦戦する魔物も、嘘のようにあっさりと倒せてしまう。
頼れる仲間たちとの冒険は、男をより一層強くした。
長いようで短い時間を共に過ごし、男はパーティとの絆を深めていった。
口数少なく冷静な人間性を気取っていた男だったが、慣れていけば仲間と互いに下品な冗句を口にして他愛ない子供のように笑い合った。
黒い髪、白い髪、混ざり物、弱き者、歪んでいる者たちに男が率先して常識を教えてやれば、いつものように優しい声が褒めてくれる。
充実した日々だった。
優しい声に従って男が活躍を続けていると、所属しているパーティに緊急の依頼が届いた。
よくあるアンデッドの討伐だったが、ギルドとして無視できない規模に膨れ上がったというのだ。
国からの要請も有り、腕利きの冒険者は前線への動員を余儀なくされた。
男も参加するのに不満はなかった。
前線での活躍によって届く声こそが男を満たすのだ。
しかし、男のやる気とは裏腹に、依頼はアンデッドが発生した原因や移動範囲の調査だった。
男は不満だったが、兄貴と慕うパーティの団長の一声で依頼を受けることに決まった。
結局、国内各地、特に森の中に残っていた死体がアンデッド化した程度しかわからず、それが男の不満に繋がっていた。
隣国カンセラから凄まじい勢いで飛んでくる魚群が腐敗をばら撒いていたことも分かったが、悪臭を放つだけのそれに男が関心を寄せることは無かった。
国の端を腐らせた死霊の軍勢は、その影響を国境線沿いにまで膨らませきっていた。
男が前線に出ると既にダンジョンを形成している様子だった。
瘴気と呼ばれる濁った空気で光は閉ざされ、温度は下がり、命を失うと腐りやすくなる、そういう世界に変貌していた。
時には群がるアンデッドを、時には個体として強力なアンデッドを刈り取りながら、男が所属するパーティは前線を押し上げていった。
男を賞賛する言葉も聞こえるようになっていた。
いつものように優しい声が褒めてくれる。
そうだ、すぐに自身に任せるべきだった。
ダンジョンの核を求めて前進していくうちに、男は不快な気分になっていた。
仲間たちは不思議そうにしているが、男のように気分を害している者はいないようだった。
どうしてだと男は苛立つが、誰も答えてはくれない。
戻るように提案し続けるが、帰りたがる者は男以外いなかった。
腐敗した領域を抜け、開けた場所に出れば、光が地を焼いていた。
男が警戒して様子を探れば、白い髪の歪んでいる者たちが魔法でアンデッドを焼いていることに気づいた。
ひどく脆そうな見た目だ、近づけば一撃で殺せるだろう。
男は苛立ったまま殺意を隠さず、近づくようパーティの団長に提案した。
優しい声に褒めてもらうための考えだった。
団長も、仲間たちもあっさりと同意した。
魔法が止むのを待ち、僅かな熱の残る平原を進んだ。
滅んだアンデッドは灰すら残らない。
男は歪んだ連中をアンデッドにして滅ぼすのが好きだった。
自慢気に語れば、優しい声が褒めてくれる。
歪んだ者が言葉を発していた。
簡単に暴れることのできる距離まで近づけた事実に、男は拍子抜けする思いだった。
護衛はいるが、男の所属するパーティが歪んでいる者たちを殺すには問題のない距離だった。
男は視線で行動を起こすか問えば、団長が涙を流す姿を捉えた。
「ここなら『声』が聞こえねえんだよ……」
そうだ、だからこそ男はこんなにも苛立っている。
だというのに目の前の男はどうだ。
兄貴と慕っていたはずの安堵しているその姿は、どこまでも弱く頼りなく見えた。
肩を並べて勇ましく戦う姿は憧れだったのに。
「ここなら俺の弟が死んだことを褒めた『声』なんか聞こえねえ!」
男にはわからなかった。
団長は何を言っているのだろうか。
その『声』が聞きたくて頑張ってきたのではないか。
当たり前のことで褒められる、なんと羨ましいことか。
歪んでいる者が死ぬのは当然だった。
それで褒められて、なぜ怒るのか。
男は羨ましかった。
家族なら楽に褒めてもらえると知ったから。
「弟は歪んでなんかいなかった! ただ体が弱かっただけだった!」
思いの丈を吐き出す団長の、その弱弱しい姿に失望すら抱きつつあった。
男はだんまりを決め込む。
口を開けば、罵倒の言葉が出ていたかもしれない。
仲間たちも男の顔色を窺い、口を閉じていた。
歪んでいる者、それと話す団長、聞こえない『声』。
男の苛立ちは留まる所を知らない。
『声』が聞こえないからといって何だと言うのか。
今更だろう。
『声』を無視して、何が出来ると言うのか。
『声』に従っていれば強くなれるというのに。
歪んでいる者と団長が揃って「月光の導きを」と呟いた。
団長はこのまま隣国に行くと言い出した。
出来るはずがない。
アンデッドの襲撃は未だに続いている。
男は『声』が聞きたくてたまらなかった。
思いとどまるよう伝える男の声は、団長には届かない。
そして、団長はこのまま歪んでいる者に付いていくと言い出した。
男は自分だけでも国に戻ろうと、腐敗領域に入れば再び『声』が聞こえた。
その『声』に従うと、虚ろな目をしたギルド職員が男に必要な書類と金銭を持って現れた。
偶然の流れで手にした書類が、『声』が、隣国に行けと男を導いていた。
男にとって不快な日々が始まった。
歪んでいる者を乗せた馬車を追うために、虚ろな目をした商人から馬車を貰った。
安い馬車での移動は、魔物との戦いに慣れている男でも疲労が溜まる物だった。
歪んでいる者は街に寄る度に馬を交換し、夜通し移動することも少なくない。
それを追う苦労は、怒りに似た何かが心の底に積もる思いだった。
街、それも教会に近づくと『声』が聞こえなくなる。
それが男は嫌だった。
苛立ちは解消されず、パーティ内の会話が完璧に途切れた頃、目的の街へとたどり着いた。
『声』が全く聞こえない不愉快な街だった。
だが、ここまでの旅路で予め聞いている。
ギルドに尋ねると、目的の人物は冒険者として登録しているようだった。
どうやって接触すればいいのか、男は考えていた。
話を聞いて回れば、似顔絵とやらを描く依頼を受けているらしい。
ギルドに依頼を出しながら、この国に来る前に受け取った書類を出す。
ギルドマスターの名前が書かれた書類には、男の要望に優先して応えるようにと書かれていた。
ギルドから渋々ながらといった様子で紹介された歪んでいる者を見て、男は『声』の目的を理解した。
『声』が聞こえない不安、移動の疲れ、異国での緊張。
様々な理由で休もうとする仲間たちを押し切り、依頼した似顔絵とやらを描かせる。
口数の少ない仲間に、男が色々と理由をつけて話す。
歪んでいる者が話しかけてくる。
男はそれに苛立った。
命がけで稼ぐ自分と、遊びで金銭を要求するこれ。
卑屈でいるべきはずなのに、同じ目線に立とうとする。
それが酷く苛立たしい。
『声』が望むように進めるために口を閉ざして過ごせば、不快な時間が終わりを告げた。
ギルドから依頼料を受け取る方法はいくつかある。
また、当然の話として依頼料が支払われないと受け取ることができない。
支払いは依頼完了から数日の猶予がある。
団長には十分な金銭が無く、支払いを待ってもらう必要が出た。
男は持っていたが、貸すつもりはない。
ふと『声』が聞こえた。
仲間たちを無視して追えば、『声』は金髪で胸の大きな女の近くで聞くことができると気づいた。
胸元に掛けられた装飾品は、なんらかの奴隷を表している。
虚ろな目をした女が誘うように先を歩く。
『声』が褒めていた。
実に数日ぶりだった。
恍惚とした表情を、男は浮かべていた。
『声』が言う。
男は働き者だと、あれは怠け者だと。
そうだ、と頷く。
さっきまでずっと思っていたことだ。
『声』はやはり男のためにある、そう思えた。
「……絵を描くだけで金を取るのはおかしくないか? おかしいよな」
金を払うなんておかしい、男が思えば『声』は同調した。
この場で男が正しいのは間違いなかった。
『声』が囁く。
オルトリヴロレではどうだったか。
男は金銭を貰う側に決まっていた。
逃げられないように歪んでいる者の腕を掴む。
「金は?」
優しさと遊びで男が二度聞く。
団長が支払っていないのだから金など持っていないのはわかっている。
『声』が男に助言する。
わかっていると小さく呟いた。
だがまだだ。
時間を掛けないといけない。
男が幼い頃、その小さな手で時間をかけて石を投げつけ続けた。
その時褒められたのを覚えている。
「……持って、ない」
「あーあ」
持っていたらもう少し遊べたのだけれど。
男は残念に思いながら、軽く力を入れれば音を立てて腕が折れたようだった。
脆すぎる。
男は働き者だと、あれは怠け者だと『声』が言っていたのは正しかった。
「あああああああ!」
『声』が望む通りの叫び声を挙げさせると、男は満足して笑うことができた。
「すぐに腕を切断しろ」と『声』が言う。
ダメだ。
切断してしまうとすぐに死んでしまうと男は知っている。
『声』は死を望んでいないようだった。
『声』に聞いて貰うのだ。
男がこの黒髪の『魔王』を恐れていないことを。
見てほしい、倒すところを。
そして褒めて欲しい、あの時のように。
子供の時のように。
男は『声』の目的を知った気になっていた。
焦ったように「逃げろ」と『声』が叫んだ。
いつものような優しさは無い。
街を壊すような破砕音とともに何かが凄まじい速さで近づいてきていた。
腕を掴んだままのこれを連れて行くべきか、僅かに逡巡したが『声』は置いていくよう男に指示した。
逃げ去る男を『声』は褒めてくれなかった。
「期待して損した」と『声』が言う。
男の自尊心に僅かな罅が入ったようだった。
「……お前を追放する」
翌日、ひどく疲れた顔をした団長に告げられた。
男には意味がわからなかった。
誰のおかげでパーティが成り立っているのか知らないわけでもないだろう。
男の働きで成功した依頼も数多い。
しかも『声』に従って正しいことをやったのが誰か、団長に教えてやりたかった。
『声』が仲間にもみだりに話すなと口止めしていなければ、男は高らかに演説しただろう。
「……冒険者同士の争いは自己責任だ。当事者間で争うべき。いや、これは言い訳だ。本当はお前を衛兵に突き出すべきなんだ。そのはずなのに、俺にはわからない。どうすればいい? お前を弟のように思っていた。見捨てないといけないのか? 俺はまた無力な兄なのか?」
悔しさを抑えるためか、食いしばりながら団長がそう言った。
興味が無かった。
男はただ『声』が聞こえないことばかりが気になっていた。
「どうしてこの街の神父を襲ったんだ!」
ああ、と男は頷いた。
『声』が導く方向が男にはおぼろげながら見えていた。
それが誇らしかった。
「勇者になれるんだ。『声』が導いてくれる」
団長が愕然とした表情で男を見た。
それは過去に見たことがあったものだった。
男がこっそりと団長の弟を殺した時の絶望と似ていた。
捕まえようとする仲間と、逃がそうとする仲間を背に外を目指す。
口々に「どうして神父を」としか言わないのでうんざりだった。
『声』が望んだ。
男が動いた。
ただそれだけだった。
理解されないのはわかっていた。
苦難の道を行くことも。
楽しかったパーティを過去に捨てて進む。
「いや、なに逃げようとしてんだ。来たばかりなんだからもうちょっと休んでけって」
雑音混じりのその言葉とともに、男は地面に体を抑えつけられていた。
衝撃に咳き込む。
必死に振りほどこうと身をよじるが、微動だにしない。
下手人を確認するために無理やり顔と目を動かせば、そこには情報を継ぎ接ぎした何かがいた。
見える場所と見えない場所を持ち、わかる部位とわからない部位がある、灰色の頭髪をした混ざり物だったはずの何者か。
見たはずなのに目の色を覚えられない。
表情がわからない。
それは「とりあえず折っとく。やべっ。脆すぎ」と呟いた。
「あ、ああああああああ!!」
男は痛みのあまりに叫んだ。
折れたのではない、ほとんど千切られているに違いない。
凄まじい痛みとともに、生温かい液体が流れるのを男は感じていた。
「あー、もう、うるせーなあ。最近妙なのが増えててこっちは大変なんだよ。お前も怪しいし神父様って人に見てもらうから静かにしてろ」
男は叫びを止められなかった。
逃げられないように足と、その他の骨も折られていた。
「うるせーうるせー」と言葉が出なくなるまで地面に顔を叩きつけられた。
理解できない何かが男を蹂躙していく。
『声』に助けを求めるが、何も起きない。
もしや、と思い至る事実に震える。
折れてガタガタになった歯が、かちかちと小さな音を立てていた。
「教会に連れて行っても大丈夫か? お、時間奴隷じゃん。ちょうどいい、今は……なんでここにいる? おまえ死ぬぞ?」
「『声』を信じましょう。私たちのための『声』を。名を求める気高い『声』を」
「できらあできらあ言ってる場合かよ? いや、違うなこれは。……やめだ」
女の言葉に、男を蹂躙していたはずの何かが背から飛び退く。
それは昨夜導いてくれた女だった。
虚ろな目で微笑んでいる。
急に解放された男だったが、腐っても上位の冒険者をやっていた。
すぐに体勢を立て直し、油断なく状況を判断しようとして……。
「なんだこれは……」
世界が静止していた。
何もかもが止まっている世界で、男はただ空を見上げていた。
有り得るはずもないのに、空には同時に三つの月が存在していた。
男を拘束していた者よりも遥かに理解できぬ何か。
わかるのは、向けられた明確な敵意だけ。
力の塊が、直上で爛々と輝いている。
それが放たれようとしていた。
『声』が聞こえた。
「傀儡を回収する。ディープワン、援護しろ」
天から降り注ぐ光の放流を前に、何度も聞いた優しい『声』が男に届く。
男のすぐ傍から膨大な海洋生物の群れが飛び出し、光を防ぐ壁を作り出していた。
だが防げたのは僅かな時間だけだった。
それで十分だったのか、男の全身にクラスタ群を形成したブラックウーズが巻き付いていた。
光に飲み込まれる直前に、男は闇に飲み込まれた。
『声』が近づく……。