ツバキくんは絵が得意   作:にえる

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歪める名前のボルテクス

 

「オルトリヴロレから来たんでしたっけ。遠かったでしょう」

 

 その問いに、男は口を閉ざしたままだった。

 睨みつけるように絵描きを見据えていると、近くで見ていた団長が責めるように「おい」と言った。

 慣れていないうちは愛想よくしろとは言われていたが、聞きたい『声』は聞こえないのに、苛立つ音を持っている絵描きとどうして会話できようか。

 男の態度に呆れたようにため息を吐いた団長が、代わりにかかった日数や道程を短く答えた。

 絵描きが驚きとともに旅の難しさを労えば、団長も少し気をよくしたのか話を続けた。

 男が行き場のない苛立ちを溜め込んでいる間も、それを尻目に二人は会話を楽しんでいるようだった。

 絵描きの質問に団長や仲間が答え、男は黙って前を見据えたままだった。

 何かが気持ち悪くて、それが男のちっぽけな矜持を刺激するようで苛立ちに繋がった。

 「時間奴隷になれば一瞬らしいが、黙々と馬車に揺られるのとどっちが良かったんだか」と仲間が漏らした。

 

「大変な道のりだったと感じるほうがずっと有意義ですよ。時間奴隷は時間を教えるだけの身分ではないんですからね。あれは時間を捧げているんですよ。ヒトを代わりに監視しているだけ。そういう約束なんです」

 

 「……捧げてるって誰に?」と困惑している仲間が訊ねた。

 団長を含め、誰も知らない話のようだ。

 もちろん男だって聞いたことがない。

 

「誰だと思いますか?」

 

 絵描きが逆に問う。

 団長も、仲間も、困ったように互いに浮かぶ表情を見比べるだけだった。

 男は『声』だろうかと思い至った。

 『声』は優しく、賢く、そして偉大だった。

 その『声』が聞こえる男もまたそうなのだろう。

 

「古い物語にそういう話があるんですよ。約束を破った男の話ですけどね。自らの時を差し出して許しを乞うんです。月に祈らず、星に願わず、夜を見ない。新たな約束を結ぶんです。結局、男はすべての時間を奪われてしまうので、そもそも『約束』を破ってはいけないという教訓なのでしょう」

 

 愚かな話だと男が内心で笑う。

 『声』に導かれない弱さは罪だとも。

 男にとっては笑い話で、団長や仲間にとっては首を傾げる話だった。

 そんな話をした絵描きが浮かべる表情とは一体どのようなものか。

 改めて絵描きの顔を見ようとして気づく。

 ずっと自分は絵描きを見ていたことに。

 確かに視線は外すこともあったが、それでも、それでも……。

 

「さて、描き終わりましたよ。最後に名前を刻みたいので教えて貰ってもいいですか。

名前は大事ですよ。この地では心と体、その魂が均しく存在します。努力が肉体をかたち作るように、祈ることで精神の在り方に繋がるように。捨てること、忘れること、騙ることは定められた約束から外れてしまいます。

紐づけられた記号が、与えられた名が、存在に影響する。なまえから、ことばから逃れようとするほど、こころを蝕み、からだを失い、たましいを歪める」

 

 絵描きの顔を思い出せない。

 体の何処かで、見えない何かが、身体のずっと奥の底で気持ちの悪さに変化している。

 無視するはずだったそれは、吐き気とともに口から漏れ出るに違いない。

 どうしても耐えられない言葉が、男に投げかけられた。

 穏やかで優しい声だった。

 声に誘われるように、思わず顔を見た。

 

「貴方の名前、教えてくれますか?」

 

 だが、覚えていない。

 男の記憶には名前も、顔も、何もかも残っていない。

 射し込む夕日が逆光となって、その表情を塗り潰していたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

『勇者の名前を知ってるか』

 

 声が囁いた。

 優しさの欠片も無い。

 冷たくて傲慢な声だった。

 妄信する声とは違う。

 だが、初めて聞いた『声』とはこのような物だったと記憶が疼く。

 

『勇者の名前を知ってるか』

 

 再び、『声』が囁いた。

 答えは否、男は勇者の名前など知らない。

 そもそもの話、勇者に名前は無い。

 空白が正解だ。

 勇者が現れるまで、正しく選ばれるまで、ずっとずっと空白。

 おとぎ話で、そうなっている。

 

『勇者の名前を知ってるか』

 

 繰り返される問い掛け。

 ならばこそ、自身の名前だと答えよう。

 やがて勇者に至るのだから。

 

『……』

 

 声が僅かに笑ったようだった。

 嘲笑われているのか、面白いと思われているのか、判断ができない。

 それでも胸を張るべきだと思った。

 勇者の名前は……。

 そうして、ずきりと頭が、胸が、全身が痛みを覚えた。

 

『魔王の名前を知ってるか』

 

 それこそ知らない。

 読むこと、発すること、思うこと。

 それらが禁じられている。

 許されることの無い名前。

 魔王が使った言葉たち。

 

『……』

 

 声は笑っていた。

 音もなく、動きも無い。

 だがわかる。

 確かに、声は笑っていた。

 違う。

 両手を顔に当てれば、その歪みがわかった。

 声だけではなく、自身も同じように嗤っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僅かな逃避すらも許されない、ボルテクスは絶望とも諦観とも似つかないそれとともに目覚めた。

 鋭くて、熱くて、不快で耐えられない痛みが全身を襲い、見ていたはずの夢だか幻だかを抱く余裕すら奪い、記憶の片隅から追いやっていた。

 何処が痛むとか、そういう話ではなかった。

 身体のずっと深い何処が痛んでいたが、それが何処かはわからなかった。

 少し前に気持ち悪さを感じた何処かと同じ場所に違いなかった。

 だからといって何の慰めにもならないし、もちろん何かが癒されることも無かった。

 

 縋るように這いまわる。

 助けを求めるために転がる。

 必死になって探せば、『声』に導かれた此処は、既に楽園だった見る影も無かった。

 空の先へ向かうと聞かされていた楽園は失墜した。

 静かな夜は、真なる闇は、無限に至るはずの世界は、無数に砕かれた穴から膨大な水が流入して沈み始めていた。

 『声』が必死に形を保っていた、かつて栄華を誇っていた都市は見る影もない。

 荒れ狂う大波と猛る風によって蹂躙されていた。

 

 嵐とともに『声』が減り、代わりに巨大な何かの死体が増えた。

 ちょうどボルテクスの近くにも、元が何だったかわからない巨大な頭部がべちょりと飛んできた。

 びくびくと痙攣するそれに付いている無数の目は急速に光を失い、半端に開いた口からはだらりと舌が伸びていた。頭頂部から斜めに欠けていて、重厚な壁を思わる頭蓋は綺麗に抉られ、肉は汚らしく失われていた。中身は元の脳髄に似た何かのスープの如く零れ出していた。ボルテクスの目からしても明らかな致命傷だった。

 

 ボルテクスを呼ぶ声がする。

 五月蠅いと怒鳴りたかったが、痛みがそれを許さない。

 

 ボルテクスに助けを求める声がする。

 五月蠅いと怒鳴りたかったが、弱さから来る羞恥がそれを許さない。

 

 ボルテクスを責める声がする。

 五月蠅いと怒鳴りたかったが、何に対して怒ればいい。

 

 風が通り過ぎた。

 遅れて音が鳴り響く。

 恐怖から「ひぃ」と喉の奥から情けない声が漏れ出した。

 風が吹けば、声が減る。

 恐怖でガタガタと体が震えた。

 風がもう一度吹けば、当たり前のように声が減る。

 勇者になるはずのボルテクスは動けない。

 風は怒りとも喜びともわからない苛烈な音とともにずっと動き続けている。

 臆病者のボルテクスでは、声を助けることはできない。

 

 わかるのは、この地がやがて水の底に沈むことだけだ。

 

 

 

 

 初めに音、次いで衝撃、最後に僅かに見える人の影。

 それだけでボルテクスの心は折れた。

 遠くで何かが爆ぜる音や折れる音が聞こえたはずだった。

 それからボルテクスは迎撃のために可能な限り世界を歪め、そして、そのまま全てを破壊された。

 ボルテクス程度が歪めた世界は、その力を前にして単なる誤差でしかなかった。

 歪めた端から砕け散って、簡単に上書きされた。

 そのまま吹き飛ばされ、叩きつけられて、ボルテクスの戦いは終わった。

 相手からすれば戦いとすら呼べないほどの力量差。

 僅かに捉えた姿は、忌々しい勇者を名乗る顔の無い何か。

 見えない表情に反して、眩いばかりの力強さを誇っていた。

 ボルテクスが得るはずだった勇者としての活躍、強さ、輝き、その何もかもを持ち合わせた存在。

 憎悪は、しかし、上書きされた部位による痛みと怪我によって呆気なく鎮火していた。

 悲しいかな、ボルテクスには勇者に追い縋る格はどこにも無かった。

 

 あれほど万能感を与えてくれた世界を歪める力は、今や見る影も無かった。

 概念的な力は当然の如く、物質に対しての歪みすらも弱々しい。

 勇者に攻撃されたと思われる肉体の部位は、呪いのような痛みだけでなく、体の芯まで何かが入り込んでいるような不快感すらも残していた。

 その芯に入り込んでいる不快感がボルテクスの力を乱しているのに気づいた時には、あれほど居た声も遠くに消え去っていた。

 

 静寂の世界を必死に這いずって、何処かを目指す。

 何処に行けばいいのかもわからないが、それでも逃げなければならない。

 勇者を名乗ったあれは、きっとボルテクスを許さないだろう。

 先ほどまでは優先順位が低かった。

 今は違う。

 入れ替わったのだ。

 いや、上から消していった、が正しい。

 

 なんとか力を使って、体表の空間を歪めてカモフラージュした。

 いつの日か嘲笑ったような何かに似ていた。

 惨めな姿は、本当にボルテクスが自分自身なのかと疑心暗鬼になるほどだった。

 他人の記憶すらも歪める無敵の力、そのはずだった。

 今や沈みつつある廃棄都市を、怯えながら這いずっているだけだ。

 かつての威光に縋ってこの都市にしがみつき、世界を偽装して頂点へと至ろうとした。

 そして再び負けて、声は消えた。

 無様で、まるでボルテクスは自身のようだと思った。

 同時に、自身のはずがないと認められない自意識も強く持っていた。

 

 遠くで音が爆ぜる度に、悲鳴が漏れる。

 本当に自分の物なのか、本当にボルテクスの物なのか。

 違う、違う、違う。

 ボルテクスとはもっと強い存在だ。

 何かが間違っているだけなのだ。

 怯えと虚飾を抱えながら這いずって、這いずって、這いずって、その先に仲間を見つけた。

 

 統べる名前のユビキタス。

 ボルテクスと同じ、声に見出された者。

 自身に匹敵する力の持ち主は、壊れたようにただ宙を見つめるだけだった。

 呼びかけても、揺すっても、反応を返さない。

 どうしてこうなったのか。

 思い出そうとするが、頭が割れるように痛むだけ。体が引き裂かれるように痛むだけ。胸のずっと奥が、頭のずっと奥が、焼けるように痛むだけ。

 

『魔王の名前を知ってるか』

 

 『声』だ。

 痛みを忘れ、ただそこには安堵があった。

 

「魔王の、名前。魔王が使った言葉のひとつ。月に禁じられた単語は……」

 

 宙を見ていたユビキタスが、たどたどしく紡ぐ言葉。

 魔王の名前。魔王の言葉。月の禁忌。約束破り。

 背筋が凍る。

 

「『Ubiquitous』、統べる名前が私の名前」

 

 まず風、そして音。意志を持った嵐としか思えない。

 勇者の一撃を、ユビキタスは受け止めていた。

 ボルテクスには出来ない事だ。

 ユビキタスにも出来ないはずだった。

 勇者が距離を取った。

 ユビキタスはその様子を見て少しだけ顔を歪めて、そして黒い穴の中へと消えていった。

 まるで散歩に出かけるかのようだった。

 当たり前のようにボルテクスを残して、勇者を倒さずに、ユビキタスはこの空間から一人で逃げた。

 目を丸くした勇者は、油断なくボルテクスに狙いを定めた。

 

『魔王の名前を知ってるか』

 

 『声』が囁く。

 違う、ボルテクスは否定する。

 勇者になるんだ。

 勇者になって、そして、なんで……?

 なんで勇者になりたいんだ?

 

『自身の名前を知ってるか』

 

 当たり前だと答えようとして、戸惑う。

 勇者になるはずの名前は、ボルテクスには残されていなかった。

 『声』が笑う。

 

『貸してやる。お前にはこの名前しか無いだろう?』

 

 『声』が言う。

 『声』が言わせる。

 『声』に従う。

 『声』に抗えない。

 だって名前を持っていないから。

 

「『Vortex』、歪める名前は魔王の名前」

 

 勇者が警戒していた。

 この空間で戦った何者よりも、距離を取っていた。

 ユビキタスと同様に、勇者と争える格を得た。

 

「勇者、蝕む名前、Eclipse。称号も、名前も、オレが得るはずだったが……」

 

 ボルテクスは、勝手に動く身体に困惑していた。

 自身よりもずっと巧く世界を歪め、勇者と争っている。

 出来なかったはずのことを、同じ肉体で出来ている。

 ならば差はなんだ。

 

「まあ、保険だからな。しょうがないな。『デルタサイトダンジョン最下層廃棄都市リ・ヴロレに来たれ、Summon & Run』。……どうした勇者、魔法は苦手か? コストを払って座標を正しく特定してないと効果が下がるから慣れるまでは難しいから面倒がるのも仕方ないな。でもコンボとかあるから覚えとくと便利なんだよな」

 

 無数の魔法陣が展開され、次々とドラゴンが飛び出す。

 殺された声たちに匹敵する巨躯を誇り、その背に生えた巨大な翼で飛来する。

 それらは全て魔力で編まれていて、歪みによって偽装された命だった。

 ドラゴンが高速で勇者へと飛来すると次々と爆発していく。

 攻撃も防御も関係なく、勇者に迫ると爆炎とともに爆ぜていく。

 

「『火竜を捧げる。デルタサイトダンジョン最下層廃棄都市リ・ヴロレよ、焼け落ちろ。Prominence』」」

 

 まだ焼けていない竜も、焼けている途中の竜も、逃げのびていた声も、勇者も、廃棄都市も、その一切合切を紅蓮が飲み込んだ。

 遅れて、浸水していた水が轟音とともに爆発した。

 焼け爛れた声が、魔王を恨む怨嗟を垂れ流し、力尽きていく。

 流れ込んでいた海水のほとんどを蒸発させ、沈むはずだった都市は無惨にも焼け落ちていた。

 焼け残った影だけが、かつて都市だったことを思い出させる。

 

「これで死んでてくれると有難いんだが」

 

 そう言い残して、ボルテクスの身体が歪んでいく。

 勇者は死んでいない。

 炎から逃げるためか、天井を砕いていた。

 ここは最下層、海底の直下にあるので運よく逃れているかもしれない。

 そうなるともう用は無い。

 というよりも自力の差で負けるので、さっさと逃げたい。

 視界の端に光が見えた。

 ボルテクスを塗り潰している魔王の意識が、決して油断していたわけではなかった。

 

「は?」

 

 間抜けな声とともに口から血が零れる。

 別座標に転移しているはずの肉体を、光が貫いていた。

 焼け落ちた地下、砕けた天井から爛々と輝く月が見える。

 全身に火傷を負いながら、勇者は外に立っていた。海底ではない、空の下に立っている。

 

「うわ、教会が協力しているとかそんなんずるじゃん。というかまだ神父いるのかよ。なんかそういうのってヤだよな」

 

 月と勇者から連発される光線の軌跡を歪めてなんとか外す。

 これほどの威力を持つ光に晒され続けていれば、歪みの上限を超えてダメージを負うだろう。

 転移先にすら次元跳躍して直撃させてくるクソみたいな仕様の兵器だ、最高に頭が悪い。

 こんなものには付き合っていられないので転移を早める。

 魔王にだってやることはあるのだ。

 焼け落ちたゴミから逃げるように転移すれば、外の世界は白く染まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 ボルテクスが、息を乱しながら走っていた。

 白夜となった世界は白く、寒く、そして魔力が枯渇していた。

 光線の怖さは知っている、月の怖さも。

 月がずっと頭上にあるのは気が気でないが、白夜とは月が魔力を溜める期間だから何かできるはずもない。

 それでも、自身よりもずっと強くて、絶対に自身ではない何かに体を操られていた恐怖が走らせる。

 

 今回は逃げることができた。

 ボルテクスが持つ潜在能力も知ることができた。

 次に繋げることができた。

 これ以上ないほどの結果じゃないか。

 

 それなのに、何故こんなにも不安なのだろうか。

 

 穏やかな小川を見つけた。

 流れはどこまでも緩やかで、水面には顔が映るほどだった。

 白い世界でも、変わらずに流れている。

 川に沿って歩けば人里に着くだろう。

 まずはそこで潜伏し、傷を癒し、力を溜める。

 そして今度こそ、今度こそ……またあんなのと戦うのか?

 

「クソっ! クソっ! クソがっ!」

 

 思わず過った弱い自身の言葉に苛立つ。

 強い力を持ったはずなのに、どうしてこんなに弱いのか。

 違う。

 ボルテクスは強い。

 何かが邪魔をしているのだ。

 

 今は疲れている。

 休もう。

 休めばきっとまた立ち上がれる。

 川で顔を洗う。

 冷えた水が熱くなっていた思考を冷やしてくれる。

 

「……?」

 

 妙だった。

 違和感がある。

 小川の水面に映る顔を眺めているのに、認識できなくなっていた。

 これは誰だ(・・)

 

『それはVortexに決まってる。ならばお前はVortexに違いない。そうだろう?』

 

「……?」

 

『聞き取れない感じ? 残念だな』

 

 『声』が囁く。

 正しく聞き取れない。

 何かがおかしい。

 このままではいけない。

 危機感が警鐘を鳴らしている。

 だが、どうすればいいのかわからない。

 危機感が徐々に治まっていく。

 違う。

 ダメだ。

 何かがダメなんだ。

 

『名前を憶えてるか?』

 

「え?」

 

『お前の名前だよ。Vortexは魔王の名前だ。お前の物ではない』

 

「おれの、なまえ……?」

 

『捨てること、忘れること、騙ること。やってはいけない約束事だろ。お前自身を足らしめる名前が無くて、他の名前を持っているのならどうなるかわかるよな?』

 

「なまえはあるんだ!」

 

『そうだな。あったよな。早く思い出してみろ』

 

 名前が思いつかない。思い出せない。

 必死に頭を回転させる。

 思い出から掘り出そうとして、名前を呼ばれたことがない事実に気付く。実際に呼ばれたことが無いのか、思い出せないのかはわからない。

 どこだ、どこだ、どこだ。

 誰か俺の名前を呼んでくれ!

 

『ほら、あの時はどうだ?』

 

「あの、とき?」

 

『絵を描いてもらっただろう』

 

 そうだ!

 あそこで名乗ったはずだ!

 絵にも描いてある!

 絵は……無い!

 どうして無いんだ!

 思い出せ!

 絵描きの言葉を!

 

『「貴方の名前、教えてくれますか?」って言ってたよな』

 

 そうだ!

 そして俺は名乗って……。

 

『で、お前は否定した。勇者になりたかったんだもんな』

 

「違う! 俺は、おれは、オレは……オレ?」

 

 意識が希薄になっていく。

 ぼんやりとしていて、ひどく気持ち悪くて、でも受け入れれば全てを忘れられそうだった。

 

『そうやって育てられたんだから仕方ないか。お前は勇者になりたかったんだよな』

 

「そうだよ、そうなんだよ。オレは、勇者に……勇者に……」

 

『みんなそうやって育って、いつか見切りを付けるんだけどな。諦めなくて素養があるとどうしてもな。お前も勇者になれたはずなのにな』

 

「どうしてなれない……。オレじゃないんだ……」

 

『どうしてってお前、答えはわかってるじゃん。勇者は固有の名前が無いからこそ何者でもなれるのに、力ある名前を使ったんだからな』

 

「オレは勇者になれない……?」

 

『なれないよ。歪める名前を受け入れないとお前は消える。どんな名前か分かって正しく受け入れて、初めてお前の存在は約束される。もう後は無いんだよな』

 

「うけいれる、うけいれるから。なまえ、なまえを、おもいだせないよ。なまえ……?」

 

『かわいそうにな。誘惑に負けて名前を捨て、更に新しく名乗ったのがいけなかった。でも言葉は便利だからな、気持ちはわかるよ。ちょっとだけ』

 

「オレは……なに?」

 

『Vortexは力ある言葉だからな、力無いやつは言葉にできない。名前にするのなら尚更だ。だから、さよならだな、名前の無い男。そんでおはよう、オレってな。別にオレだってやりたいわけじゃないけどな。負け犬の誘惑に負けたお前の責任だし、オレが好き勝手やったのを利用された責任でもあるからな。互いに不幸だったよ』

 

 

 

 

 

 

「神父様」

 

「これはこれは、驚きましたね。……まさか君が生き返るとは、ツヅキくん。いや、わかりきっていたことでもありますね。魔王の名前もまた特別だ」

 

「……ツヅキはもう使えないから今はボルテクスだし、ユビキタスもいる。単なる保険のはずだったし、残機みたいなもんだよ。プレイヤーがいなくなったのに復活した残機だ」

 

「そうでしたね。ツヅキくん本人はこの世界から出て行ってしまった」

 

「……」

 

「そして代わりにツミキくんを呼んでしまった」

 

「オレは悪くない。あなたが始めたことじゃないか」

 

「そうですよ。そして私はずっと罰を受け続けている。そしてツミキくんもそう。エルフの約束を崩してしまった。彼は白痴となり、エルフは愚かになっていく」

 

「そうだ、オレはそれを聞きに来た。ツミキがずっと森に囚われて燃やしているのに、どうして新しいのが来てるんだ。交換じゃないのかよ」

 

「……私は世界の裏側が知りたい。ずっとずっとずっと昔から。月に祈って国を焼いてしまった私の友は本当にいないのか、世界の裏側で私のように生きているんじゃないかって。ツナギくんも、ツムギくんも、見つけることはできなかった」

 

「……」

 

「ツバキくんは特別です。月を破る名前を持った彼なら、私の友をきっと見つけてくれます」

 

「……オレは関係ないからな」

 

「ええ、好きにすればよろしい。ツヅキくんが歪めた人々、吸血鬼も人狼も、きっと待っていますよ」

 

「そっちはユビキタスがやるよ」

 

「ツヅキくんは目的を果たした。そのために、数多の名を名乗り、言葉を駆使し、こころを割った。彼だった残滓は何をするのでしょう」

 

「……」

 

「ここは始まりの町。新たな名前や人生を望む人たちを受け入れる。もちろん、Vortexも、Ubiquitousも、受け入れます。お月様は見ていますからね」

 

 

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