Blood for Blood, Love for Love
私は悪になる。
時に善や正しさが君を否定することもあるだろう。
だとしたら、そんなものはいらない。君を否定するものなどいらない。
私は悪になる。
喜んで地獄に堕ちよう。
君の全てを肯定する。
この世のあらゆる残酷から守ってあげる。
もし君がこの残酷な世界で幸せに生きていけるなら、私はその他大勢の中で喜ぼう。
もし君の味方が家族しかいなくても、私が味方でいる。
もしこの世に君の味方が1人しかいないのなら、それは私だ。
もし世界が君を否定するなら、私が世界に立ち向かおう。
もし君の味方がこの世に1人もいないならそれは、私はもうこの世界にいないということ。
きっと地獄にいるよ。喜んで地獄に堕ちるよ。
悪となり、君の全てを肯定できたのなら。
ある夫婦の遺体が発見された。川に飛び込んだ車が発見されたのだ。
遺体が見つかったのは事が起きてから一週間も経ってからだった。
この季節、その川は春が来るまで水面が凍り付いており、通常車が飛び込んだりしたら割れた氷面は近所の住民にすぐに異常を知らせるはずだった。
だがその川はまるで何事もなかったかのように、夫婦の死体を凍り付いた水面の下に閉じ込めていたのだという。
何かが飛び込んだ形跡を全く残していなかったのだ。
そして不気味なことに、川底に沈んだ車を囲むように氷で出来た花が咲き乱れていたことが明らかになった。
経済的に困窮していた家庭ではないため心中の線は薄く、殺人事件だとしてもなぜ水面は凍り付いたままなのか、あの氷の花はなんなのかと不可解な部分が多い。
あまりにも謎な点が多く、その夫婦の奇妙な死は発覚してから大いに世間を騒がせた。
(幸せじゃなかったの?)
その夫婦の死を週刊誌で知った青年は、何故かそれが自殺だと確信していた。
寂びれた街の古倉庫の中、椅子に座ってその記事を読む青年は一目で堅気の人間ではないと分かる風貌をしていた。
目の周りはトラウマが沈み込んだかのように黒く、瞳は都会のどぶ川のように濁っており、悪意ばかりが鈍く光っている。
両腕にはケロイド状になった大火傷の痕があり、青年の憎しみを今でも熱く燃え上がらせる。
「――――!」
怒りと悲しみに震えながら週刊誌を握り潰す青年を見て、猿ぐつわを噛まされたその少女は声にならない悲鳴をあげた。
青年から漂うその気配は濃厚な死の息を彷彿とさせるものだったからだ。
同じく口を封じられた恋人の少年に助けを請うように縋るが、彼もまた震えるばかりだった。
「もう、いい」
「ボス……?」
青年がぽつりと呟いた言葉を聞いて、青年の部下は訝し気な声をあげた。
青年には二人の部下がいた。大量の荷物を背負った大男と、青年の腹違いの兄に当たる大男。
倉庫で拘束されている大学生カップルの誘拐を実行したのもその二人だった。
「計画はやめだ……その二人にはもう用がない」
「へぇー……そうですか。せっかく上手いことさらえたのになぁ(笑)」
50kg近い荷物を背負い続けている男は軽い口調で話ながら少女のさるぐつわを外した。
「何をしているか分かっているの……?」
「お前も運が悪かったな。たまたまターゲットが同じ時期に被っちまったんだ」
青年の兄の言葉に少女は顔色と、そして表情を変えた。
怯える被害者のそのものだったのに、一瞬にして裏稼業に携わる女の表情に変わったのだ。
「玲一くん、かわいそうに……ヤクザの家からようやく離れて大学生活を謳歌できていると思っていたんだろう?(涙)」
少年の名前は三迫玲一。
彼自身は親元から離れて関東の私立大学に通う一般馬鹿大学生だ。
普通の大学生と違うのは、彼の祖父が関西最大の暴力団組織である『伯西会』の会長であるということだ。
玲一は普通に大学生活を送り普通に恋人を作ったつもりだったのだろう。
今日この日に至るまで、自分の恋人が表社会の人間ではないことに気が付かなかったようだ。
「どうすれば解放してもらえる?」
「少しは頭を使え。お前らに俺たちが顔を晒している理由、分かってんだろ……」
「ほら、恋人に別れの挨拶をしなさいな(笑)」
荷物を背負っていた大男は大ぶりな鉈を取り出し玲一の猿ぐつわを切り落とした。
なんでもかんでもいいよいいよで育てられてきたバカ息子だ。
てっきり少女と同じく命乞いの言葉が飛び出すと思っていたが――――
「用があるのは俺なんだろ……その子は関係ない。逃がしてやってくれ」
玲一が口にしたのは今日この日に至るまで自分を欺き続けていたスパイをかばう言葉だった。
しかしその言葉は、自分の目の前に迫っている死にも気が付かない間抜けなヒロイズムに浸った愚か者のセリフだった。
「烈。食っていい」
「あっ――――」
烈と呼ばれた青年の兄が、少女に噛みついていた。
それも喧嘩で最後の手段に使うような噛みつきではなく、例えるなら大型の肉食獣が獲物の肉を食いちぎるかのように、少女の顔に噛みついたのだ。
「杏奈!!」
「おっと、待ちなさいよ。恋人が物理的に食われるところなんて中々見れませんよぉ(笑)」
ぶちぶちと肉が引きちぎれる不快な音が響き、烈がようやく口を離す。
少女の鼻は噛み千切られ唇も周囲の肉ごと持っていかれてしまっていた。
「なかなか悪くない味だ。……見ろ玲一。整形しているから鼻にこんなもん入ってた。監視してたから分かるが、この女相当のスパイだぞ」
血まみれの烈の口から出てきたのはシリコンだった。
生きたまま食われるという地獄を味わっている最中なのに、若いスパイは悲鳴の一つもあげずに口から血の泡を吹いていた。
「しかし……。おい。少しは暴れろよ。叫べよ。死体食ってるみてぇでつまんねんだよ!!」
烈が血を口から撒き散らしながらスパイの腹を踏むと豚の鳴き声のような小さな悲鳴があがった。
歯を食いしばり我慢はしていたのだろうが、いかんせん唇はもうなかったので声を抑えられなかったのだろう。
「やめろ! 殺す気――――」
張り付いたような笑顔でずっと人間の捕食を眺めていた大男が玲一の口に布を突っ込んだ。
叫ばせないため、舌を嚙ませないためだ。
その僅かな時間で烈は既に死にかけのスパイの首筋を食いちぎっていた。
「そろそろ痛みも感じなくなってきたんじゃないか。何か言いたいことは?」
「……下地獄吧……日本鬼子……走着瞧……」
「あ?」
もう死は避けられないと理解したうえでのささやかな反抗か。
最後の言葉は日本語ではなかった。
彼女にとって最後まで不運だったのは、チンピラしかいないと思っていたその場にその言葉を理解できる者がいたことだろう。
「『地獄に落ちろ、クソ日本人。今に見ていろ』。……お前、中国人か」
死を覚悟していたはずの少女の目が青年に向き、瞳孔が大きく開いて動揺を示していた。
気が付いたのだろう。そのたった一言が敵に情報を与えてしまったことを。
伯西会は麻薬取引で拡大した組織であり、敵対組織である関東最大の暴力団である『仁英会』のシノギを大きく脅かしている。
伯西会はアフリカから麻薬を仕入れていることは分かっていたが、仁英会側がどこから密輸しているかまでは分かっていなかった。
量から見ても海外から安定して密輸していることは確かだったが、恐らくは華僑に育てられた女が伯西会側の人間にスパイをしに来たことから察するに――――青年の思考は僅かなヒントから答えを引きずり出そうと巡っていく。
「仁英会がお前を送り込んできたのか」
最後の最後にしてはならないミスをした少女は初めて女性らしい悲鳴を小さくあげた。
「地獄か。もちろん落ちるだろうな。俺もお前も」
少女の顔を掴んだ烈は親指で両の目に触れた。
反射的に閉じられた瞼を無視して烈の親指は眼窩に入り込んでいく。
「あ、ああ、あ……」
拷問を受けても情報を漏らさないように教育されていたはず。
しかし、そのプライドすらも壊され、死の迫った自分を保つ方法は海外から来たそのスパイには残されていなかった。
「女ァ!! 俺の顔をよく覚えとけ!! 地獄でもお前のこと追いかけまわして食ってやるからなァ!!」
「うぁああぁああッあああ!!」
烈が少女の頭を強かに床に叩きつけ、反動で烈の親指が脳に達するほどに深く入り込んだ。圧力に負けた両の眼球が哀れなスパイの眼窩から飛び出た。
飢えに飢えた獣が獲物にかぶりつくように喉笛を噛み裂き、肉の割れ目に指を突っ込んで舌を引っ張り出した。
痙攣を始めた脚がバタバタと震え始めたが、烈は無視して生きたまま腹の肉を貪り食い始めた。
「『用があるのは俺だろ』ってもう一回言ってみろ。お前もああなる」
玲一の口にねじ込まれた布を取るが、瞬きすらしていないので頬を軽く張ると、ようやく意識が現実に帰って来たのか途端に小便を漏らし始めた。
「待ってくださいよボス。好きにしていいなら、この子あたしにやらせてくださいよ。せっかく高い金かけて育ったお坊ちゃんなんだから、丁寧に解体してあげたいんです。大丈夫。ね、ちゃんと解体する前に締めますから(笑)」
「なんの話をしてるんだ……?」
解体、締めるといった言葉が自分に対して行われる行為だという現実に頭が追い付いていないのか、目の前で恋人が食われるのを眺めながら玲一は間の抜けた声をあげた。
「お前、自分が住んでいるマンションの家賃知っているか」
「え……?」
青年の問いかけに玲一は答えられなかった。
上京して親元から離れたつもりでも、家賃や仕送り含め未だに経済的には親に依存している典型的な大学生だからだ。
「38万円だ。それは、普通のサラリーマンが一か月必死に働いて得る収入より多いんだ」
「あらら。こりゃまた随分とぜいたくな暮らししてますねぇ」
「その金の出どころは? 親から、爺さんからってことを聞いているんじゃない」
知っていて黙っているのか、それとも自分はここで確実に殺されると理解したのか。
玲一は答えずに出口に向かって這いずりだした。
当然うまくいくはずもなく、口から血を垂らした烈に踏みつけられて押さえつけられてしまった。
「誰が悪か? 死骸の道の上だと知っているのに善人面して平和に生きて理想論を撒き散らす奴だと俺は思う」
「お、お、俺は……ヤクザが……親が嫌いだ……」
「「俺もだよ」」
果たして、その言葉は兄弟を最も怒らせる言葉だった。
青年が取り出した拳銃で両足を撃ち抜かれ、烈に肋骨を踏み砕かれ――――その後玲一の身体はそれぞれが片手で持てるほどの大きさに解体されてしまったが、早いうちに絶命したのはせめてもの救いだろう。
「はっはっは。玲一ィ、お前黙っていたほうがカッコいいぞ。判田ァ! モモ肉のソテー作ってくれ」
玲一の物言わぬ首に話しかけていた烈は大きく伸びをして、玲一の首を名も知らぬスパイの死骸の上に投げ捨てた。
「はいはい。ボスも食べますか?」
今の今まで玲一を解体していた判田は、玲一の左脚を食材のように丁寧に持ち上げて答えの分かりきっている質問をしてきた。
「いらねぇ」
「ボス……カタギに手をかけちゃいましたねぇ」
「何が言いたい」
「殺人鬼のあたしが言うのも変な話ですがね、こんな惨殺されるほどの人間だったかね?」
「善人もさんざん殺してきたくせに説教か」
「説教なんてとんでもない! 将棋で言えばあたしらは飛車角。使う人間が変わればあっちゅう間に鞍替えしますしね。あんたは王将。でも思うんですわ」
(…………)
シリアルキラーなりの美学や論理を惨殺死体の前で語られることほど吐き気催すことがこの世に他に存在するだろうか。
だがその言葉はどこか的を射ている気がした。
「簡単に敵になる味方に囲まれて、ゲームが始まってから終わるまでひたすらに命を狙われる王様ってなんだ? 地獄ってそういうことを言うんじゃないんでしょうかね?(疑)」
血でべたべたに汚れた鉈をこちらに突き付け、倫理観のかけらもない怪人が笑った。
「あんた、ろくな死に方せんよ」
「……どこまでも、いこうか」
そんなことは、とっくに知っていた。
己の中に渦巻く悪意は、最早自分でも止めることが敵わなくなってしまっていた。
日本中にばら撒かれ未来ある若者を堕落させた破壊的な違法薬物。
大規模な暴力団同士による血みどろの抗争。
省庁のパワーバランスの崩壊。
立て続けに起きる災厄。日本は悪夢に引きずり込まれた。
他方、日本から遠く離れたアフリカの小さな国同士が戦争を起こした。
一方の国が欧米に開かれた資源生産国であったため、米中露は即座に両国に介入し状況は混乱を極めた。
世界は第二の冷戦時代に突入し、終末時計は残り30秒となった。
世は正に羅刹国。
その全ての始まりは、銃を持つことさえも違法の平和な国・日本に住む一人の青年だった。
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ポストに入っていたのは結婚式の招待状だった。
御欠席の『御』に二重線を引き欠席に〇をつける。
参加しないことは分かって送っているのだろう。
これは自分への報せだ。
私は幸せを見つけたから、どうかあなたも幸せに――――目の前でそう言われているかのよう。
「…………」
四人掛けのテーブルから立ち、ベランダに出て花に水をやる。
青年以外に3LDKのマンションに暮らしている様子はない。
実際、彼は普段一部屋しか使っていなかった。21歳の大学生が暮らすには広すぎる家だ。
(ポスト……行くか……)
返事を書いた結婚式の招待状のみを持って外に出る。
外は青年の未来を示しているかのように暗く、空気もどことなくどんよりとしていた。
数年前まで青年は、このマンションで伯父夫婦と暮らしていた。
両親が亡くなり伯父に引き取られて暮らす日々の中で、伯父夫婦の間に玉のような男の子が生まれた。
今はもう、いない。
「…………」
ぎりっ、と歯を食いしばる音が夕方の路地に静かにこだまする。
隠そうともしていない両腕の火傷を押さえ俯いて歩いていると、青年は不運にも向かいから歩いてきていた不良連中とぶつかってしまった。
「いってぇな、おい!」
青年よりも一回り大きい巨漢の男が大して痛くもないだろうに大げさに反応した。
無視して去ろうとした青年の肩を強烈な力で男が掴んできた。
「待てよ。ちょっと付き合え」
「手ぇ離……」
最早肌色の部分が少ない程にタトゥーがたっぷりの腕を振り払い、男の顔を見て青年の動きが止まる。
どこかで見たことのある顔だった。それも顔見知り程度なんかではなく、毎日見ている顔と言ってもいいくらいには。
「朽名だな?」
大男が青年の苗字を口にしてようやく、その男が自分にわざとぶつかったことに気が付いた。
それと同時に気が付く。見覚えがあるほくろ、鼻の形、悪を隠し切れない目。その男は毎日鏡で見ている己の顔と生き写しだと。
「誰だお前……」
「俺の名前は! 須能烈! 知らねえとは言わせねえ」
「スノウ……」
珍しいその苗字は小学生の時に失踪した父のものだった。
父からはおよそ暴力以外の何かを受けた覚えはない。
関東最大の暴力団組織、仁英会の三次団体である蛇踏組の若頭だった父は、数日に一度妾であった母の元に訪れ殴りながら母を犯していた。
手加減なしで蹴り飛ばされるか、『しばらく帰ってくるな』と寒空の下へ追い出された。そんな記憶ばかり。
愛情の欠片もない父は悪夢そのものだった。青年は暴力の塊で嫌悪の対象ど真ん中だった父に似ていく己の姿を嫌っていた。
その父とほとんど同じ姿をした男は、青年の腹違いの兄に違いなかった。
「おい、ガラさらえ!!」
烈と名乗った男の忠実な部下であろう男たちが青年の腕や足を押さえ、すぐそばに駐車してあったバンに叩きこんだ。
これ以上ない程に分かりやすい、悪との邂逅。世界が混乱へと向かう始まりの日。
兄も兄で既に日本犯罪史に名を刻むような悪人であったが、この出会いが全てだった。
青年の中に溜まって溶岩のように身体中を流れていた怒りと憎しみは、兄との出会いにより世界中を巻き込んで爆発することになる。
その悪夢の袖引きを見守る死霊の影が二つ。
一つは木の化物としか言いようのない悪魔だった。
蔓と枝で出来た身体、無造作に肌から生えた葉や花。目と鼻があるべき部分には空(うろ)があるのみ。
そしてもう一つの影は、青年自身だった。
国同士の戦争までも起こした日本史上最悪の犯罪者は、当然無惨な死を迎えた。
魂の行き着いた場所は地獄。彼に科された罰は、己の罪を振り返ること。
隣の悪魔との出会いは、地獄に堕ちてすぐのことだった。
目が覚めるとそこは。
そんな言葉で始まる物語は世の中に多々あるが、まさか立ったまま眠っているとは思わなかった。
砂ばかりある赤い地面に、砕けた星の見える黒い空。鼻をつく臭いはすぐそばで流れている血の川から漂ってきたものだった。
どこからどう見ても。××は地獄に堕ちていた。
(……名前が思い出せない)
そもそもなぜ自分がここにいるか思い出せない。
死んだからここにいるのだろうが、どうやって死んだかすらも分からないのだ。
(地獄か……当たり前だな……)
殺人、殺人教唆、詐欺、違法薬物の密輸、銃刀法違反、恐喝、その他も大小様々な罪を犯した。
いつどこで死んだかを思い出せなくても、いつでもどこでもいきなり頭を撃たれたっておかしくない人間だった。
血霧が喉に張り付き呼吸が苦しく、黄色い硫酸の風が眼を溶かそうとする。
やたらと鋭利な地獄の砂の上に腰をおろし、己の手を眺める。
「…………」
高校生の頃に負った酷い火傷の痕から、陶器がひび割れるように線が伸び身体中を蝕んでいる。
遠くの空に悪魔らしき何かが飛んでいる。これから自分はどうなるのだろう――――そう考えていると、突然地面が透けて現世の様子が見えた。
「……あ?」
学生が強盗に襲われ、金を奪われているところだった。よせばいいのに、抵抗をするものだから強盗は学生の喉を刺してしまった。
それで終わりかと思いきや、今度は病院を天井から覗いている映像が流れだした。
何が目的なのか、看護師が眠る老人に繋がるチューブを勝手に調整している。素人目から見ても流れるべき液体が止まっていることが分かった。
「おい、死ぬぞ……――――!?」
感情の起伏のない殺人の様子は、むしろ目の前にあるかのようなリアルさを感じさせ、思わず伸ばした××の手は病院の天井から飛び出ていた。
そして××は気が付いたのだ。既に地獄の刑罰は始まっていることに。死者であるのに、現世に干渉出来ることに。
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何度も淡々と死の様子を見せられて、しかもその世界に干渉出来るとなれば地獄が自分に求めていることも分かる。
死の運命にある人を救え、と言っているのだ。よりによって極が付くほどの悪人の自分に。
地獄からの使いとして与えられたのか、あるいは死者として手に入れた能力なのかは説明が無かったから分からない。
だが少なくとも現世で人を殺すのも救うのも苦労はしなさそうな能力を持たされていた。
(……救いを求めている人間って少ないんだな)
何度か命を救おうと試してみたが、結局運命は変えられなかった。かといって何もしないのも退屈なので、その後その世界に入ってみた。
季節は冬のようで、細雪がちらついている。5分ほど曇天を眺めていたが、動かなければ埒が明かないのでしばらく留まっていたスカイツリーの天望回廊から飛び立ち目をしかめる。
質量を持たない存在であるために浮遊が可能だが、空から浮いて見ているだけでは人の犇めくこの東京で、救いを求めている人などそうそう見付けることなどできない。
外からガラス張りの展望台を覗くと間抜け面したカップルが雪に覆われる東京をのんきに眺めている。
地獄に堕ちた悪人がそんな平和ボケした光景を見て気分がいいはずがなかった。
「いやっ!?」
「なんだ!?」
拳をガラスに叩きつけると大型の蜘蛛の巣のようなヒビが入り、文字通り蜘蛛の子を散らすように人々は転げながらエレベーターに向かっていく。
人々が幸せそうな姿を見るよりも、平穏を壊される姿を見るほうが心安らぐ。
「はっ。はははっ」
地獄とはなんだったのか。あまりにも自由で、生きていた頃に己の心を鉛のように重たくしていた全てから解放されている。
行ける場所はそう多くない。生前の自分がその頃に行ったことのある場所周辺のみで、それ以上先に行こうとしても世界の理に押し戻されてしまう。
生きている間に行ったことのない場所はどれだけ時間を遡行しようとしても行けないということだから、縛りは一応ある。
例えばここ、月島ならば確かにこの時期に来た記憶がある――――思い出した。
「自殺して電車止めたアホがいたよな」
駅のホームの屋根から電車を待つ人々を眺める。大粒になってきた雪が身体を貫通して降り積もっていくのを見ると、自分は死んでいるという現実を受け入れるしかない。
今にも死にそうな顔をした男が点字ブロックを超えて立っているのを見つけた。
「お前のせいで俺はネカフェで一晩過ごしたんだ」
到着した電車に飛び込もうとした男の首根っこを引っ張ると肩の先からびきびきと嫌な音が響き、両腕の火傷が痛んだ。
命のないものを動かしたり破壊するのは苦労しないが、生ある人間を――――特に意志を持って行動しようとしている人間を止めるのは死者の自分には一苦労だった。
考えが間違っていなければ、××はこれから人間だった頃の自分が生まれてから死ぬまでの約30年間の行動範囲の人々を救わなければならないのだ。
生前に死ぬまで悪意を撒き散らしていた男に対する刑罰ならば納得するしかないが、あまりにもアバウトすぎる。
「あ!? 何……してんだよ……」
考え込んでいる間に次の電車が来ていた。それはいいとして、まだその場に留まっていた自殺未遂の男は結局電車に飛び込んでしまったのだ。
死の運命は変わらず、この時間この場所にいたはずの自分は結局ネットカフェで寝る運命のようだ。
「うっ……ううっ」
目の前で誰かの死が確定するたびに、断続的に身体中が痛む。
特に酷く傷んだ口元を押さえていると歯が一本自然と抜けてしまった。
「なんだこりゃ……」
歯の抜けた部分に触れると鋭利な刃物のように尖った牙が一本生えていた。
腕の火傷の痕から白い何かが肌に侵食している。
理屈ではなく感覚で分かる。地獄の住人と化してから徐々に徐々に人の姿を失って悪魔に変身しようとしている。
そんなことは一言も聞かされていないが、恐らくこれが自分に与えられた時間、執行猶予だろう。
完全に悪魔になってしまったら何が起こるのかなんて想像もつかないが。
今は当たり前のように空中に浮遊しているが、そのうち黒い翼でも生えてくるのだろうか。
「あっ……」
何やら文字がびっしりと書かれた紙を読みながら歩く老婆を見つける。
上空から見ていると分かりやすいが、法定速度を守っていないバイクが走っている。
このままいけば台本通りに衝突し老婆のひき肉が出来上がるだろう。
「おい待て、行くな!」
老婆の肩を掴みほんの数秒、前へと踏み出すのを遅らせる。
バイクは何事もなく通り過ぎていき、老婆は再び手に持っている紙に視線を落として歩き始めた。
「……! なんだよ……」
一体何がそんなに面白いのかと紙を覗き込んで愕然とする。老婆が眺めていたのは診断書だった。
そんな能力を手に入れたのは死者になったからだろうか――――目をこすりよくよく老婆の身体を眺めるとあちこちから死の気配が漂っているのが見える。
なにはともあれ、この老婆は既に身体中を癌に侵されており、ここで助けたところで半年以内に死ぬ運命だったらしい。
「い、ぎっ!?」
突如として激痛に襲われた。
両目を中心に顔を三分割するような痛みに耐えかねてうずくまる。
幻覚ではないことを示すように、目の周りの隈から縦に亀裂が入っていた。
せっかく救ってやっているというのになぜそのたびに身体が激痛に蝕まれるのか。
まさか苦しみながらでも人を救えなんていう安い三文芝居のような罰なのだろうか。
「全然ダメだな」
明らかに自分に対して投げかけられた地響きのような声に痛みも忘れて振り返ると――――
「結局誰も救えていない」
悪魔が木の上からこちらを眺めていた。今の今までそれに気が付かなかったのは、その悪魔がほとんど木と同化していたからだ。
もう人間らしい部分はほとんどない、自分よりも先に地獄に堕ちた男。
かくして××は、本来なら孤独であるはずの地獄で道連れと出逢った。
「俺は人を助けるのは向かない男だ」
「地獄に堕ちたくらいだからな」
悪魔の手から伸びた蔓に頭を掴まれる。力の加減などされておらず、棘が肌に食い込み血が流れ出した。
同じ人間同士ですら仲良くなんて出来なかったのだから、悪魔同士が仲良くなんてなれるはずがない。
「……戻ろうか」
頭を揺らされたと思ったら突如として視界が真っ赤になった。止まらない変身が己の目にまで及んでしまったのかと思いきや。
「帰ってきちまった……」
赤い殺風景がどこまでも続く地獄に帰ってきてしまった。
最初に来た場所とは違うが地獄には変わりないだろう。
相変わらず血の川が流れており、そのすぐそばに亡者たちの呻く針山地獄がある。
悪魔化の進行度合いもあるのだろうが、彼が自分よりも上位の存在であることは明らかだった。
(……くそっ)
帰ってきた、と思ってしまったことに心の中で舌打ちをする。
先ほども自分は『人間だった頃』なんて考えを自然としていた。
見た目だけではない。少しずつ、だけど確実に。内側までも人間の部分が失われ悪魔に作り替えられていく。
「間に合いそうか?」
「何が?」
一緒に地獄に戻ってきた悪魔が声をかけてくる。
思えば地獄に堕ちて初めてのコミュニケーションが取れる存在だった。
「罪の浄化、になるのか」
(……無理だろうな)
成長期の子供よりもずっと早い速度で身体は変貌していっている。
それに対して死の運命にある人間を見つけ、生前の自分を動かしていては時間はいくらあっても足りない。それも自分が生前にその時行った場所に限定されるとなればなおさらだ。
それでも一応その範囲で殺人なり自殺は起きているのだろうが、空を飛んでいても見えないし全てが外で起きるわけでもない。
一軒一軒見て回っていったらあっという間に時間切れになってしまうだろう。
さらに言えば、自殺や殺人などを防ぐことが出来ても結局殺されるような、あるいは自分を殺してしまうような原因を取り除かなければ先延ばしになるだけ。
それをなかったことにしたいのならば長い間一人の人間に憑りつくしかない。
結局これまでの間に誰一人として死の運命から救えなかった。自分が不幸にした人間はひょっとすれば何百万人もいるというのに。
「お前……名前は?」
「俺の名前? 考えたことも無かったな」
(考えたこともない?)
それはつまりここで名乗る相手がいなかったということになる。もう少し言えば関わる相手がいなかったということだ。
てっきり地獄に落ちたら自分とこの男のように、先輩悪魔がついてくるものだと思っていたのに。それともこの悪魔もまた自分の名前すら忘れてしまったのだろうか。
しかし、だとしたらなぜこの悪魔は自分に――――
「親父……?」
針山で藻掻き苦しむ亡者と悪魔の中の一匹が、目に入った。
その悪魔は芋虫のような身体をしていたが、頭部のみは人間で、その顔は確かに××の父の顔だった。
十数年ぶりに合った息子に気が付く様子もなく、血で汚れた針山を舐めて綺麗にし続けている。
だがそんなことをしても芋虫の身体で針山を這いずっているのだから、自分の血が流れ続けて綺麗になることは永遠にない。
流れた血は針山を下へ下へと流れていき血の川の一部となる。
「地獄に堕ちていたのか」
「…………」
形容しがたい悪魔になってしまった父は、投げかけた声に反応すらもせず、一心不乱に身体を傷つけながら与えられた仕事をこなしている。
永遠に終わることのない清掃を。
「地獄ってのは寂しい場所だな」
「そりゃあそうだろう。どの悪人どもも罪を洗い流そうと必死、刻一刻と悪魔になっていくんだからな。そして完全に悪魔になれば永遠に悪魔のまま、使いっ走りだ。自由も何もない」
「人の心も失って永遠に地獄の奴隷……聞いてねえぞそんなこと」
「違う」
小4の時に蒸発したヤクザの父親が真面目に刑期のない罰を受け続けている様子を複雑な心境で眺めていると、隣の悪魔が自嘲するように笑った。
「?」
「人の心を永遠に失わないまま、全ての自由を奪われるんだ」
変わり果てた姿でも血の繋がりを直感したように、父も息子が地獄に堕ちてきたことに気が付いているのだろうか。
亡者を食い荒らしながら流している涙は尽きることのない後悔によるものだろうか。
そう遠くないうちに自分もこうなるのだと見せつけられているかのようだ。
「お前は諦めたのか?」
「…………。考えてみろ。残された時間の中で一体俺達に何ができる? 生きている間ですらそんなことが出来たか?」
事故死する人間を探し続けるには圧倒的に時間が足りない。殺人・自殺、そういった死の運命に囚われた人間を救うには長い時間そばにいなければならない。
地獄という世界の悪意をどこまでも感じる。堕ちた時点で詰みに近い。
そもそも何人の人間を救えばいいのかすらも――――
「そういうことか」
生前に罪を犯した者が堕ちる場所が地獄。
そして刑が確定する前に与えられたこの時間。
生前の罪を振り返るためのシステムだった。
罪を犯してしまったのならば、次はそうならないように。
生きていた頃の自分の行動を変えて、自分が奪うはずだった命を生かすように。
「…………地獄だからな」
己の名前すらも忘れてしまった先輩悪魔はそのまま黙り込んでしまった。
ほとんど悪魔になりきってしまったその姿は、罪を振り返ることの難しさを無言で物語っていた。
「俺は……地獄に堕ちても構わないと思って罪を重ね続けてきた。殺しも恐喝も、なんだってやってきた」
元々正義か悪かで言えば悪側の人間だった。それは自分でも分かっている。
だが、目的もなく罪を重ねてきたわけではなかった。
「だけど……俺は、俺のやり方は間違っていた。……どこから間違っていたのか、それを知ることが出来るなら……」
死因は思い出せないが、そんな自分が30歳になる前に死んで地獄に堕ちたのは、心から想い幸せを願った人が死んでしまったからだった。
ああ、何故最初から残された時間のこの使い方を思いつかなかったのだろう。生きている間はどこにいても、何をしていてもただ彼女の幸せだけを心から願っていたのに。
「なぜ罪を犯した?」
「未亜菜のためだった。……俺がずっと、ずっと好きだった人……」
地獄に堕ちて、死んだ理由も己の名前すらも忘れても。
忘れていなかった彼女の名前、愛しい人――――決して自分と共に歩むことは出来なかった人。
「……アニマでいい」
「は?」
「俺の名前だ」
(何がアニマだ)
生命を意味するラテン語だが、地獄に堕ちた死者にとってそれほど滑稽な名前はないだろう。
いつか、自分も悪魔に成り果ててしまった己に名を付けなければならなくなる日が来るのだろうか。
いつの間にか背中に生えていた白い小さな翼を羽ばたかせて現世へと飛ぶ。
未亜菜が死んでしまった人生に意味など全くなかった。自分の生も、他人の生命すらも無意味に思えた。
それでも死んだ後にこんな機会を与えられるのならば、例え悪魔に身を堕としたとしても××にとってそれは望外の幸福だったのだ。