都会の夜に比べて田舎の夜は、言葉だけなら静かな印象を受ける。
だが実際は違った。渋谷の住宅街は12時も回れば車もまばらでとても静かだったのに対し、田舎の夜はカエルや虫が大合唱し訳の分からない鳥が鳴き散らかしている。
そんな田舎の喧騒にも慣れてきた日の夜、樹埜はいつもと違う音に起こされた。
「……?」
起こされたといっても、不快な電子音に鼓膜をつつかれたわけではない。
たとえるならば、子守歌の途中でふと目が覚めてしまったかのような、そんな気分だった。
「ピアノ……?」
網戸の向こう、そう遠くない場所からピアノの音色が聞こえる。
しっとりと緩やかな、夜の帳をより深くするような優しい音だ。
「……『亡き王女のためのパヴァーヌ』」
クラシック音楽が好きだった樹埜はすぐにその曲の正体に辿り着いた。
この曲の作曲者のラヴェルは晩年、記憶障害と言語障害に脳を侵された。簡単な手紙を書くにも辞書を引いて何日もかけなければならないほどに。
そんなラヴェルの耳に届いた若き日の自作、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を聴いて彼は口にしたのだ。この美しい曲は誰が作ったのだろう、と。
エピソードまで含めて好きな曲の一つだ。
「シェファ?」
サンダルをはいて外に出ると、たまたま満月で他に光源は必要なかった。
優しいピアノの音色に誘われて歩くと、そこはシェファが住んでいるはずの家だった。
もう10日ほど暮らしているが、こんなことは初めてだ。
庭に入ると窓からシェファの姿が見えた。月明かりのみに照らされた部屋でピアノを弾く彼女は、海の底で踊る人魚のように幻想的な姿に思える。
あのピアノは見た目の古さからして、この家に元々放置されていたものだろう。
だとすれば、弦も錆びついてまともに弾けるはずもないのに――――
(そうか、修理してもらったんだ)
シェファの家にここ数日出入りしていたドローンの正体が分かった。
ピアノの修理と調律に来ていたのだ。部屋を見ると未だに壊れた家具なんかも見える。そんな部屋なのに、最初に直したかったのがピアノだったのか。
それを考えると、やはりシェファは高貴な人間であったことは間違いないと思う。
この国では中学3年生の時点で、適性検査を受けさせられる。残酷な制度だと思う。これから未来を決める子供たちに、数値化された才能を突き付けるのだ。
国語はB、数学はA、音楽はC――――出てくる成績はその時点でどの程度努力していたかではなく、才能『のみ』で評価されている。
だからこそ、この国で子供にピアノを習わせる家庭はほとんどない。ほぼ全ての子供にピアノの才能なんてないし、あったとしても15歳から習い始めるのは遅いからだ。
それでも習わせるのは、よほど子供の才能を確信しているか、とんでもないお金持ちかの二択だ。
(見ていていいのかな……)
原譜からかなりアレンジが入っているが、それは型を崩しているのではなく、守破離の最終段階のように思える。
滑らかな運指とよどみない音はシェファがピアノに打ち込んできた時間をよく示している。
やがて演奏を終えたシェファは、そばにあった瓶に手を伸ばした。
(! 綺麗な口の形……)
仮面をずらし、錠剤を取り出したシェファがペットボトルの水で流し込む。
当然口紅なんて塗っていないはずなのに、蠱惑的に赤い唇をペットボトルにつけ、飲み込む水で白い喉笛が動く。
たったそれだけのその動きが、青い月明かりの中では眩暈がするほどに美しい。
しかし、何の薬なのだろうか。残り2,3粒しか入っていないように見えるが――――こちらに気が付いたシェファは仮面を着けなおして手招きをした。
それだけで思考が停止して、炎に誘われる蛾のようにお邪魔してしまう。今が何時か分からないが、日付はもう変わっているだろうに。
「ごめんね、起こした?」
「ううん、いいの。なんか、なんだか……まだ夢の中にいるみたい。ラヴェルの曲で起きるなんて、今までなかったから」
「…………。リクエストは?」
夢の続きを。終わらない夢を。
仕事仕事で忙しく、一度も行けなかったピアノのコンサート。
観客は自分一人、奏者はきっと世界一美しい少女。4番目の望みがこんな素敵な形で叶うなんて。
夢よ、覚めないでくれ。樹埜は、少しでも正気ならばあり得ないリクエストを口にしていた。
「『革命のエチュード』」
仮面の下、シェファの赤い唇が下弦の月を描いた気がした。
「!」
大地に堂々と旗を突き立てるように右手を鍵盤に押し込み、左手が忙しなく、それでいて正確に動き回る。
夢が覚めるような音であったはずなのに、その非現実的光景が樹埜の脳を酔わせていく。
こんな廃屋寸前の民家で、寝間着の少女が明かりも付けず、ショパンの超絶技巧曲を弾いている。
真っ黒な楽譜が凄まじい速度で消化されていく。シェファの白い素足がペダルを刻み、輝く。
目の前で青白く燃える才能に、樹埜は2分半も瞬きを忘れてしまっていた。
こちらをじっと見るシェファの姿に、ようやく演奏が終わったことに気が付いた樹埜は、ただ思い付いた曲名を声に出した。
「『月光』」
始まりも終わりも見えない音の繰り返しが、ぼろぼろの家中をまさしく月光のように満たしていく。
真夜中に、目の前で月光を演奏してもらう。これ以上の贅沢なんて考えられない。
「私は……ピアニストを目指していた訳じゃない」
あまりにも自然だったので、曲の一部と勘違いして頭が言葉を認識するのが大分遅れてしまった。
「そうなの? すごく、すごく上手なのに……」
「家がそういう家だった」
ぞっとすることに、話をしながらでもリズムが一切乱れていない。
何万回も練習してきた証だ。樹埜も経験があるので分かる。極限の反復はついに脳のメモリをほとんど使わなくなってしまうのだ。
「家、お金持ち?」
「うん」
「今でもあるんだ、そんな家……」
「もうないけど」
過去が遠のくように、最後の小節が残響して消えていった。
時間を考えれば当たり前なのだが、鍵盤蓋を閉じてしまった姿を見て惜しく思う。
「長居しちゃったかな。ありがとう」
ポケットから腕時計を取り出すと、なんともう夜中の2時だ。
それなのに全く眠くない。すっかり目が覚めてしまった。
「どうして腕にしていないの?」
「これ? 私のじゃないから、サイズが合わないの。ほら……」
女性ものの腕時計ではあるが、樹埜の腕ではまずベルトの長さが足りていない。
腕時計といいつつ、懐中時計のように使ってしまっている。
「誰の?」
「お母さんの。大学に入って、バイトして母の日に買ってあげたんだ。一年くらいしか付けてもらえなかったけど……まだ動くから持っているんだ」
「…………」
仮面の下でもシェファが聞いたことを後悔している表情をしているのが分かった。
僅かに目の動きしか見えないのにそんなことが分かるのは、伏せたまつ毛に月光が反射しているからだ。
「そんな顔をしないで。もう、ずっと昔のことだから」
「……うん」
「シェファのご両親は……――――!」
言ってから後悔した。育ちの良さをあらゆるところから感じるが、今もまともに生きているのならばシェファがこんな場所にいるはずがない。
お互いによくない部分に踏み込んでしまったな、と考えているとシェファがぽつりぽつりと答え始めた。
「……母親の顔は知らない。父は、海外のどこかの国とコネクションを作り、日本とその国で戦争を起こそうとしていた。それが発覚して捕まって、そのまま帰ってこなかった」
「それは……!」
理数系であまりその方面には詳しくない自分でも知っている。外患誘致罪という、日本で唯一量刑が死刑しかない罪ではないか。
日本は親族に犯罪者がいるかどうかも大きく将来に関わる国で、実際樹埜は別居していた父が詐欺で捕まったという経歴があるためかなり苦労した。
人を殺したわけでもないのに、その子供が後ろ指を指されるのだから、そんなとんでもない罪を犯した犯罪者の子がどういう扱いを受けるか想像に難くない。
どれだけ裕福であっても、こんなところまで落ちてきたのも納得というものだ。
しかしここ最近そんなニュースがあっただろうか。そんなことがあれば連日大騒ぎになりそうなものだが。
「そんな顔をしないで。私がいまここにいるのは、それとはまったく関係のないことだから」
「そ……そっか。まだ……寝ないなら、私の部屋来る?」
受け取りっぱなし・上がりっぱなしではよくないな、と考えて提案するとシェファはすぐに頷いてくれた。
こんな時間なのに、何も考えていないのに。よくない大人の例だと心の中で自虐するが、考えてみればエクソダスに足を半分突っ込んでいる自分は、他に言いようもなくダメな大人の例だった。
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樹埜はクラシックやピアノ楽曲が好きだが、それだけではない。
絵画や文学、詩歌など、およそ芸術と呼ばれるもの全般を好んでいた。
誰に見せるでもなく、20年以上もこっそりと作品を作り続けてきており、一円の価値もないのに捨てることが出来ずにここまで持ってきてしまってた。
「これ、『白雪姫』」
A4サイズのキャンパスに描かれた油絵は高校生の頃の作品だ。
黒い森の中で木の株に座る白雪姫は、黒いドレスを纏い赤い林檎を手にし、絵を見る者に向けて気品に満ちた美しい笑顔を見せている。
そこにいる少女は、意地悪な継母にいじめられて追い出された弱者にはとても見えないほどに堂々としている。
「どうして黒いドレスを?」
「美しいけれど、心は白くない。毒入りの林檎だと知って齧った。王子の心を捕まえられるならって……そんなこと考えながら描いたの」
もともと誰かに見せようと思って描いたものではなかったから、正解なんて考えずに自分に理想を詰め込んだ。
心を空っぽにし、『好き』を詰め込んで出来あがったのは、美しくも魂の黒さは隠さず堂々としている少女だった。
こうして見てみると、シェファと似通っている部分がある。無条件に彼女のことを気に入ってしまっている理由がわかった気がする。
「これより前のは?」
「ん? 油絵はそれが最初に描いたやつだよ」
「……才能あると思う」
「そうでしょ」
大人げなく胸を張るが、それは空虚な自信などではなく実際に適性検査で芸術的才能の数値は高かったからだ。
想像の世界を形にすることはとても楽しく、出来ることなら絵本作家にでもなりたかった。
ダンボール箱に入っていたスケッチブックをシェファがめくる。
たしか、最後のページにはこの家の縁側で寝ていた猫のスケッチがあるはず。
「『君がため 咲く白花は 雪形見』」
「! 書いてあった……?」
詩歌創作も好むため、思いついたものはその辺の紙に書きなぐる癖がある。
そういえば、スケッチブックにもいくつかメモを残していた気がする。
「なんの俳句? 花と雪……」
「それ、短歌だから季語じゃないの」
「下の句は?」
「まだ考えている途中」
作品を見てほしいとは思ったが、まだ未完成の短歌なのでさすがにちょっと恥ずかしい。
そもそもこの短歌に関しては、自分ですらもよく意味が分かっていない。
ただただ、心の奥底から浮かび上がってきた情景を書いた上の句は何を意味しているのか。
雪の形見として咲いた白い花とはなんなのか。自分でも意味が分からないのに、10代の頃に思いついてからずっと下の句を考えている。
「……自信作は?」
ただ思っただけなのか、察知したのか。一番言ってほしかった言葉だ。
作品を見せたい、そう思ったなら一番見せたいのは自信作だ。
ダンボールの中に詰まっている木彫りの像をどかし、オリジナルの楽譜を取り出し、一番奥にしまってあった絵を取り出す。
完全に趣味の絵なのに、額縁に入れられたその絵を包む絹の風呂敷を外す。
自信作である一方で、どんな反応が返ってくるか怖いため絵の裏に隠れてしまった。
「『守り神』……」
それはイメージだった。小さい頃から、それこそ物心つく前から樹埜の心に宿っていた自身の守り神のイメージ。
何も見ず、何も考えずに描いた高校生の夜、完成してすぐに確信した。
これこそが自分をあらゆる災難から守ってくれる神であると。
「これがジュノの思う神?」
玉座に座るその異質な生物は、シェファの言葉通り神には見えない。
山羊の頭蓋骨を被り、白熊の毛皮を纏い、氷の剣を地面に突き刺し、絵を眺めるものを頭蓋骨の眼窩から赤い目で睨んでいる。
むしろ悪魔にも見えるくらいだ。
「そう信じている」
自信を持って答えると、シェファは褒めるでも貶すでもなく、小さく笑った。
なにしろ表情は面で隠れてしまっているため、確信は持てないが、どうもその笑いは自嘲の意味を含んでいるような気がする。
「ジュノの夢は……」
「そういうことがしたかった。でも、適性検査は違う未来を示したの」
100ページ近い冊子をシェファに渡す。中学三年生の時に、全ての日本人の子供が受け取る才能適性検査の結果だ。
芸術的才能はA-となっており、実際その道で生きていくには十分な才能を示しているが、それ以上に数理的才能や、体育競技の才能がA+となっていた。
知る限り、この適性検査の結果は相当に正確で、示された才能を信じて生きていけば普通よりも遥かに効率的に成功を手にすることが出来る。
おかげで、高校生の頃はバスケットの全国選手だったし、大人になってからも日本一の企業で財務を担当し三段飛びで出世していった。
「…………」
「分かっている。世の中には全部Dの人がいるってことも。でも私は、絵を描いたり物語を作ったり……そういう人になりたかった。なっちゃ駄目だったんだけどね」
母は樹埜に望むように生きてほしいと言ってくれたし、なんでも好きなことをさせてくれた。
だが樹埜は知っていたのだ。母子家庭であった籌家の貧しさを。己の心の声を無視して、才能的に一番成功する道を選んだ。
才能と本当にやりたいことが一致しているとは限らない。本当は全部がDでも好きなことをして生きている人がうらやましかった。
誰も立ち止まらないのに駅前で歌っている人、見向きもされないのに毎日SNSで絵を投稿している人が眩しい。
たとえ飯が食えなくなり、その後エクソダスになってしまうとしてもだ。結局いまの樹埜は似たような存在になってしまったのだから。
あらゆる才能に恵まれたのに、そんなことを考えるだなんて。願うことさえも許されないことだ。
しかもそれをエクソダスの子供に話すなんて。黙り込んで反省していると、シェファが隣に座って耳元に口を寄せてきた。
「ジュノ、それは違う」
シェファの見た目に反して低く落ち着いた声で『樹埜』と囁かれるのは、脳に直接入り込んでとろけるようだ。
尻尾を踏まれた猫のように距離を取ろうとしたが、いつの間にかシェファに腕を掴まれていた。
「社会がああしろというから、世界がこうしろというから、世間が間違っているというからって、君が生き方を変える必要はない」
「どうして?」
「私が味方でいるから」
どう見ても16,7のしかも社会から追放された少女。おまけに出会ってからまだ一週間も経っていない。
それなのになぜか、樹埜の胸の奥でどくどくと心臓が跳ねていた。一体何年ぶりだろう、喜びのスピードに至る心臓は。
「不思議……。シェファの言葉、まるで私、赤ん坊みたいに信じてしまう……」
思えばこの日のせいだったと思う。その声が、甘い吐息が、一途な言葉が、思い出させてしまったのだ。
樹埜がこの国ではまともに生きていけないもう一つの理由を。
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リズムよくボールをドリブルする音があちこちから反響する。
それに混じってバレー部の掛け声や、野球部のランニングの音が聞こえる。時折遠雷のように届く剣道部の猿叫を同級生と一緒に笑っていたっけ。
心地よい放課後運動部の思い出。
それを破壊するように力強くボールを床に叩きつける音、人を射殺すような視線、汗で蒸れてうねった短い髪、暴走する機関車のように身体中から湧き上がる蒸気。
動物で例えるなら狼、属性ならば炎と雷、純度100の直球、稲妻のように。
殺される――――そう確信する程の勢いで『渚』は突撃してきていた。
「!!」
思わず足を止めた瞬間、強引にバスケットボールは掠め取られていた。
勢いは止まらず追い付けず。積み上げてきた努力が形となり、今でも夢に見る程に綺麗なレイアップシュートが2点のスコアをあげていた。
部活が終わり、汗をタオルで拭いながら水を飲んでいると、戦場を彷徨う鬼のような顔をした渚がこちらに向かってきた。
小さい身体で精いっぱい大股で歩き、怒りを隠そうともしていない。
「なんでぶつかりに来なかった!!」
どん、と音がなるほど強く押されたが、体格差がありすぎてそれでバランスが崩れかけたのは渚の方だった。
「怪我しちゃうよ」
「させりゃいいじゃんか! 怪我が怖いならスポーツすんな!!」
滅茶苦茶言っている。自分たちがやっているのはあくまでバスケットボールだ。
相手を殺す戦いではないし、守られてはいないがそもそも原則として相手に接触することすらも反則なのだ。
「練習でできないことは試合でも出来ない」
獣が唸るような声で言われた言葉は、こんななんでもない日にふさわしいものとは思えない。
レギュラー争いですらもない、ただの1年生同士の練習だ。
だいたい、体格が違うから樹埜が止まっていなければ怪我をしていたのは渚の方だった。
おまけに自分からぶつかりに来ているのだからファウルを取られるのも渚の方だ。
全て損をするのは彼女の方――――
(あれ……?)
そこまで考えてようやく気がついた。渚はそのリスクを知った上で全力で向かってきたのだ。
その結果樹埜は動きを止めた。渚は怪我をすることもファウルを取られることもなく、ただボールを奪っていった。
同級生たちが心配そうに声をかけてくる中で、樹埜の意識は遠いところにあった。
初めて出会った、才能の不利というものを真っ向から拒否している存在。樹埜にとってあまりにも不可解だった。
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夏休みが終わってもまだまだ日本列島全土が激しい熱気に襲われていた。
夜になってもクソが付くほどに暑く、出来ればクーラーの効いた部屋でゆっくりアイスでも食べていたかった。
それなのに部室に明日提出の課題を忘れてしまうなんて、アンラッキーとしか言いようがなかった。
「ん?」
女バスの入り口を施錠している指紋認証システムが反応しない。
一瞬故障かと思ったが、違う。ドアが僅かに開きっぱなしなのだ。
誰だ最後に帰ったのは。この前バレー部の部室からユニフォームが盗まれたばかりなのに。
「あれ!?」
なんとなく扉を開いて誰かの荷物がまだあることに気が付くのと、体育館から僅かにボールが床に当たる音が聞こえたのは同時だった。
時計を見るともう夜の10時を過ぎている。そういえば自分は女子バスケットボール部で誰が一番最後に帰っているのか、いつ帰っているのかを知らなかった。
まさか――――そう思いながら体育館に向かうと、想像通りの人物がいた。
「渚!」
「っ!? いっ――――」
丁度シュートを放ったのと同時だなんて、声をかけたタイミングが悪かった。
ゴールから跳ね返ってきたボールは勢いそのまま、日頃の乱暴なプレイの恨みを返すように渚の顔に直撃していた。
「うわぁ! ごめん!!」
「あー……」
呆けたような声を出す渚の口が血に染まっていく。
哀れなことに、両方の鼻から血が噴き出てしまっている。
ハンカチとティッシュを渡し、怪我をしている本人よりも慌てふためく。
「大丈夫? 折れてない!?」
「へーきへーき。何してんのこんな時間に」
せっかく可愛らしい顔をしているのに、そういう方面へは全く気をやらない渚は両方の鼻に乱暴にティッシュを詰め込んだ。
根元が見る見るうちに赤く染まったが、それで終わったため、確かにただの鼻血で済んだようだ。
「部室に忘れ物しちゃって……」
「ふーん」
床に垂れた血を適当に拭き、ティッシュをポケットに詰め込んだ渚はボールを拾った。
確かに、ボールにも血が付いてしまったかもしれない。
「ちょっと! 何してるの!?」
「なんだよ……見れば分かるじゃん」
フリースローラインに立ってゴールを見上げた渚を慌てて止める。
絶賛出血中なのに、渚自身が言ったようにこんな時間なのに、あり得ない。
「ダメ! 明日にして!!」
樹埜にしては珍しく、渚に怒鳴りつける。
何を考えているのか、渚はこちらにボールを投げ渡してきた。
「そこから入ったらやめる」
ちょうどスリーポイントラインに立つ樹埜に向けたその言葉は、一瞬で考えたとは思えない程にいじわるだ。
女バスの中でも一番背の高い樹埜のポジションはセンターであり、内側でガシガシと争いボールを奪う役目だ。
外側にいることはほとんどないため、ヘイルメリー以外のスリーポイントなど滅多に打たない。
だが渚が冗談でそういうことを言う人間ではないことは知っている。
(お願い、入って!)
曲げた膝に力を込めて小さくジャンプし、腕を曲げシュートを放つ。
もう何年もやっているから打った瞬間に分かる。力の入れ方も、打った後の形も完璧だった。
準備運動もしていないのに最高の一本だった――――ほとんど音もなくリングに入ったボールを見届け、ガッツポーズをしながら渚の方に向くと。
「な……何してるの?」
自分から言い出したくせに、渚はボールの行方を見ていなかった。
いつの間にかすぐ隣でしゃがみ込んでいた渚は、樹埜の脚を指でちょんと触れて呟いた。
「樹埜の脚、長くて綺麗だね」
落雷に打たれたかと思った。それくらい衝撃的だった。
なにしろ、これまでまったくもって一瞬たりともクラスメートでもある渚が人を褒めているところを見たことが無かったからだ。
熱くなる感情をあえて無視して早口で練習終了を告げると、渚は驚くほど素直に従ってくれた。
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渚との出会いは最悪だったし、印象も当然良くはなかった。
同級生からの評判だって良くないし、それを改善しようともしていない。
だが、他人からの評価を一切遮断し、努力を重ね続ける渚は樹埜の目には日本刀のように美しい人間に思えた。
自分でも意外に思ったが、樹埜は渚のような誇り高い人間は嫌いではなかったのだ。
それこそ、先に帰ったって良かったのに渚を待って一緒に歩いて帰るくらいには。
「なんでそんなに練習するの? もうみんな知っているよ、あなたが一番だって」
自転車をひきながら帰る夜道、練習の時のような気迫の消えた渚はいつもよりも小さく見えた。
鼻につめていたティッシュを抜いてゴミ箱に捨てた渚が澄んだ瞳で見上げてくる。
「一番?」
「その、えと……一番努力家だってこと」
一番な訳がない。まだ一年生だから絶対的な練習量で上級生にかなわない。
身長が重要なポジションではないとはいえ、160cmにも満たない渚は絶対的に不利なのは誰が見ても分かる。
そう、誰が見ても。彼女が適性検査でバスケットボールでいい結果を受け取っているはずがなかった。
手足が長い訳でもなく、特別瞬発力に長けている訳でもない。いいところB、普通に考えればCだろう。
どの運動部もその種目でAの生徒が集まっている。ましてや文武両道を地でいくこの高校なら尚のことだ。
「樹埜……この高校に入るのに結構勉強した?」
「うん、そりゃ、まぁ……かなり」
「合格の後、点数開示あったでしょ。どうだった? 結構ギリギリだった?」
「……? 80点くらい上回ってたけど」
県最難関の高校であったため、努力は重ねてきたが、才能に恵まれていることは知っていた。
そんな才能にあぐらをかかずに、コツコツと勉強をしてきた経験は密かに自分に自信をくれている。
「じゃあ、どう? 80点も余裕あったならさ、もうちょっと遊んでおけばよかったなとか、手を抜いても良かったかもって思う?」
「そんなの思わないよ」
「そうだよね。でも逆はある。……あの時もっとやっていれば、って。そしてそれは取り戻せない。だからやるしかない。足りたと思うのは全て手に入れた後」
(……やっぱり渚のこと、嫌いになれないな)
心無い人は思うだろう。才能もないのに足掻いて哀れだと。
樹埜はそうは思わない。自分ならまだいけると、その先に届くのだと信じて、他の人間が才能を使って適当に積み上げた高さに必死に追いすがり、少しずつでも塵を積もらせていく渚のことがどうしても嫌いになれない。
渚を見ていると自分も頑張らなければと自然と思う。それは他の部員にも伝搬している。実際渚は1番ではないしエースでもないが、彼女が誰よりも勝ちを欲していることを誰だって知っていて、確実にポジティブな影響を与えている。
「樹埜はなんで勉強するの? なんでバスケしてるの?」
「え……適性検査でAって出たし。お母さん喜ばせたいし……監督に勧誘されたしなぁ」
「お母さんのためとか、監督のためとか。あっそう!」
「それってダメなこと?」
こういうところだよな、と思う。いつもトゲトゲツンツンして言わなくてもいいことを口にする。だから人と諍いを起こす。
自分がないと言われれば確かにそうだが、どれも楽しんで努力している。結果を出している。それの何がいけないことなのか。
「誰かのためにしてるの?」
「??」
「A判定だからやってるの? Cだったらやらなかった?」
「………たぶん。他の事してた」
ハンドルを掴んだ渚に歩みを強制的に止めさせられた。
小さい身体のどこにこんなエネルギーを秘めているのかと思うほどの力だった。
「この世の誰かと競いあう全ての物事は勝つことに価値がある。私は試合が好きなんじゃない。戦って、勝つことが好きなの! 誰のためにもやってない!! 強い相手と戦って勝つことは何よりも気持ちがいいからやっている」
「………」
「前にも言ったよな。そんな気持ちならやめちまえ!」
暴力的なまでの言葉に表れているのは、魂の才能だった。渚のCは樹埜のAよりも高いと確信した。
今は自分の方がスコアを出すし、レギュラーに先に入るのも自分だろう。
だが、最後まで渚より活躍している自信がない。レギュラーから弾かれない自信がない。
誰かと争うことが好きではないという、対人スポーツにとって一番致命的な樹埜の欠点。
才能の無さを突き付けられてもなお勝ちたいと突き進み、己を低く見積もらない自信。これこそが魂の才能、性格だ。
負けたくない。いつか渚に抜かされたときに『ほらみろ』という目で見られたくない。
最後に認めてもらいたい。本当は凄い奴だったのだと。
「あ……明日から……」
「あん?」
「明日から私も夜残る!!」
計画性も何もない言葉。8時には食事の用意をしてくれる母になんて言えばいいのか、9時には風呂をあがり勉強をしているのにどうするのか。
ただ、口をついて出てきてしまっていた。だが言ってしまったことを後悔はしていない。
「はっ。私、樹埜のこと嫌いじゃないよ」
偶然か必然か。性格容姿思考、何もかもが真反対の2人だが、互いに抱いている印象は同じだった。
*************************************
夢中、そう夢中だ。その言葉が一番よく気持ちを表している。
一人で絵を描いたり、黙々と勉強をしたりするのが好きという、元来内向的な性格だった樹埜は、生まれて初めて本気で人と争うスポーツで努力をした。
走り込みのしすぎで嘔吐をしても、足首を壊しても、時に部員とぶつかることになっても。
決して辞めなかったのはいつも視界の端で渚がそれ以上の努力を重ねていたからだと思う。
実際全国レベルの部であったため、練習も相当に厳しく、2年生の夏が終わる頃には同級生の部員は4分の1になっていた。
そして――――
「4番! 籌!」
「わ、私!? ですか!?」
監督の言葉に思わず疑問が飛び出てしまった。
半分夢の世界にいながら、引退した元部長からユニフォームを受け取る。
絶対全国制覇できるからね、頑張ってね――――元部長からの熱いハグもどこかふわふわした感覚だ。
4番となれば次のキャプテンであり部長だ。そんな実感は全く湧かない。ただ目まぐるしく日々を過ごしていただけなのに。
頭の上でヒヨコを回転させながら考える。それよりも。
「次! 5番! 桟敷!」
「…………」
キャプテンになると思っていた渚が副部長から5番のユニフォームを受け取っている。
その顔には不満も喜びもなく、淡々と受け止めている。
「ちゃんと樹埜を支えてあげてね。分かった?」
「はい」
結局体格に恵まれなかった渚は160cmも行かずに成長が止まってしまった。
元副部長との身長差は15cm以上あるし、自分とは30cm近く差がある。
それぞれ仲の良かった先輩たちと同級生が話している中、渚がこちらに来た。
「樹埜、今日一緒にご飯食べよう。で、練習変えたいから考えよう」
「え、それはいいんだけど……部長、渚の方が向いてると思うんだけど……」
世代交代して5分も経たずにこんな提案をしてくること自体、どちらがみんなを引っ張って行く存在かを示している気がする。
そんな弱腰な言葉を聞いて渚は鋭い目を細めて笑った。
「樹埜の方が向いてるよ。私が怒るより樹埜が叱る方がみんな言うこと聞くでしょ」
「叱れないよ」
「樹埜なら大丈夫。みんな頑張っているところ見てるんだから。頑張れよ、キャプテン」
思えばこの時だ。この時だったんだ。ただひたすら渚に置いていかれないように走り続けた日々を、渚も見ていたのだと知ったこの日。
心から湧き上がってくる喜びは全て、認めてもらえた喜びだと思っていた。
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元々全国常連高校だったが、優勝の経験は無かった。
そしてそれは、樹埜がキャプテンとなってからも叶うことはなかった。決勝で敗退したのである。
才能と体格に恵まれてもなお、あと一歩足りなかった。中学、あるいは小学校から努力してきた者達には及ばなかった。
歯が砕ける程に悔しかったが、それだけならば耐えられた。
耐えられなかったのは、監督の采配に疑問の声が出ていたことだった。
全国大会ともなれば専門誌やスポーツ新聞、地元新聞の取材を受けることもある。
そして彼らは見た目で気が付くのだ。レギュラー全員が才能適性Aの選手ではないことに。
バスケ部でない他の生徒も、あるいは保護者達もそうだった。
なぜあんな子がここに?
勝ち進んでいる時はどこ吹く風で済んでも、負けた時に真っ先に批判が行くのは他でもない、渚だった。
バスケ部ならば、練習を見ていた者ならば全員が監督の采配にミスはないと知っているのに。
才能がない、そんなのは見れば分かる。そんな子が誰よりも練習し、誰よりも真剣なのだ。
明確な差が付いてしまった時、才能のせいに出来ないのならばどんな言い訳が出来るというのか。だからこそ部員はその熱に煽られ練習に打ち込んでいた。
渚がレギュラーに入ったのは表面上の数値や才能だけではない。確実に彼女の存在が部全体の士気を底上げしていた。
ひょっとしたら、彼女以外のAの選手を入れたところで全国大会にすら行けなかったかもしれない。
そんな渚が冷たい目に晒されることはどうしても耐えられなかった。
謝りたかった。
優勝できなかったのは、自分のせいだと。
「なんでさ。別に樹埜、変なミスしてなかったでしょ」
謝ることが出来たのは、たっぷり半年以上も経ってからだった。
卒業証書と花束を雑に片手で持った渚が、手の平の上に落ちてきた桜の花びらで遊んでいる。
式の後にある生徒だけの打ち上げの前に、どうしてもとワガママを言って付き合ってもらったのだ。
ベンチの隣に座る渚は相も変わらず小さいのにエネルギーの塊だ。
「負けたけど、やりきったからいいよ。大学でまたやるさ」
渚はおそらくこの高校で初の体育大学への進学者となった。
なぜよりによってそんな道を選ぶのか。どう考えたって一番キツい道だ。
普通科の高校なら誤魔化せたが、そういう専門的なところへ進んでしまったら完全にA以上の人間しかいない。
周りの全ての人間が、確定で自分のやりたいことに自分以上の才能を持っているのだ。
自分がどれだけやっても、その三段跳びの早さで結果を出していく人間に囲まれるなんて、地獄ではないか。
それもあるから自分は芸術大学の選択肢を最初から消していた。そんな弱気な自分が、嫌いだった。
「違う! 私のせい! 私は、勝ちたいって本気で思えていなかった!!」
ただの準優勝ではない。僅か2点差、たった一回のゴールの差だった。
確かに大きなミスはしていない。だが、そうではない。
もしも渚と同じ気持ちで挑めていたら、勝利を欲していたら。
あのボールは取れていたのではないか。あの一本が入っていたのではないか。ファウルぎりぎりの行動だって出来たのではないか。
「……」
もはや取り戻せない後悔を濁流のように吐きだす樹埜の手を渚は優しく握っていた。
今までそんなことは一度も無かった。今はその変な優しさが心に刺さって痛い。
「すごい渚にすごいって思われたくって――――」
勝気な釣り目に長いまつ毛が目の前にある。すっかりいつもの汗のにおいはなく、洒落っ気のない柔軟剤の香りがする。
座高でもかなり差があるものだから、渚は膝立ちになっている。何かを祈るように強く握られた手を握り返すと、頭にもう片方の手を回された。
その唇の感触が、制服越しに伝わる鼓動が、頭に刺さっていたトゲを溶かしていく。
自分で複雑にしていた渚への感情が一撃で解かれてシンプルにされてしまった。
「私の友達、樹埜だけだった」
長いようで、きっと10秒もなかった。離れていく顔に追いすがるように無意識に伸ばした手を、優しく渚が制止した。
なんでいつもそうなんだ。勝手に感情投げつけてこっちの感情をシャットアウトしてしまう。ずるい。いじわるだ。
だがこうしたかったのは自分の方だったのか――――慙愧の念か、はたまた別の感情か。涙が止めどなく溢れ出した。
「樹埜は優しいから。いつかきっと、その優しさが、もっとたくさんの人を助けるといいね。……ありがとう」
「嘘でしょ、行っちゃうの!?」
立ち上がってツンと胸を張る姿も、晴れ晴れとした顔も、高校時代の全てに決着をつけたかのようだ。
自分のことばかり、だから渚には私しか友達がいないんだ。だからもう少しだけ待って。そう言いたかったが、胸が張り裂けそうでもう何も出てこなかった。
「見てな! 私はこれからもずっとすごい!」
渚が手の代わりに振った花束から花びらが散る。
遠ざかっていくその背中に、縁の切れ目を感じた。
連絡を取ろうと思えば取れるだろう。会おうとすれば会えるだろう。
そういうことではなく、これが一生の別れだと自分で納得してしまったのだ。
「…………あれ……?」
涙で濡れた唇に触れる。もうそこに体温はなく、春のぬくもりに吸われて消えてしまった。
頭の中に次々と浮かび上がる思い出。小学校、中学校、高校。
なんだか自分は他の子よりも時間があるな、と。そんな気がしていた。
それもそのはず。他の同性に当たり前にある『それ』にかまける時間がぽっかりと抜けていたからだ。
「私……男の子を好きになったことないや……」
気付いてしまったばかりに、息苦しさの始まりだった。
この国で同性愛者の存在は、認められていない。
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渚は今、プロ選手として活躍している。
23歳でのプロデビューは遅い方で、入ったチームも強豪とは言い難い。
それでも渚はA評価の人間しかいない中で、全てを跳ね除けて執念で掴み取ったのだ。
想うこと、願うことには計り知れない力がある。
才能がどうした、行くべき道がどうしたと、そんなものは他人が決めることではない。
人に何が向いているか・どう生きるべきかを指示するなんて、この上ない傲慢なことなのだ。
三年もの間、そして卒業してからもそう示してくれたのに。
自分は言い訳を重ねて妥協の道を選んでしまった。
「…………」
スマートウォッチから浮かぶホログラムが衛星放送を流す。
映像の中で活躍する渚がフリースローを入れた瞬間が鮮明に映っていた。
カメラに向けて、日本中のファンに向けて渚が拳を突き出した。彼女もまた変わったのだと分かる行動だ。
圧倒的実力を持つスター選手というわけではないが、渚は人気選手だ。
その理由もよくわかる。スポーツが商売として成り立つのは観戦者ありきだからだ。
バスケだけではなく、日本中の才能に恵まれなかった誰もが渚の姿に夢を見るからだ。
あんなに近かったのに、キスまでしたのに今はもう遥かに遠い――――
「それは誰?」
「……同級生。昔のね」
シェファに答えるために顔を上げると、もう目的地についていた。
近所を流れる透明な川は、泳ぐ魚すらも見える程に綺麗だ。
持ち運び用の椅子を広げ、腰を降ろす。釣りをしたい、その心の声に素直に従った結果だ。
釣果次第では夕飯はおにぎりだけになる。
「ひぃぇえ……ちょっとキモい……」
今朝届き立てのパックを開くとミミズに似た生き物が大量にうねっていた。
釣り餌のゴカイだ。別に虫が特別苦手というわけではないが、やはり素手で触るのは少し抵抗がある――――と思っていたらシェファは平然と一匹摘まんでいった。
「えっ、平気なの?」
「虫は苦手じゃない」
淡々と針にゴカイを刺して川面に投げてしまった。
これは負けていられないと心を奮わせ一匹掴み取る。
「うわぁ……げ、元気だ……」
指先でうねる感触が生々しくてやはり気持ち悪い。
唾を飲み込んで強がりながら針につける。いざ川面に投げようとした、その時だった。
「……! お客さん……?」
震えたスマートウォッチに映る通知は、誰かがあのボロ屋のインターホンを鳴らしたことを示していた。
こんなところ誰も来ないだろうと思いながらペアリングの設定をしたのに、一体どこの誰がやってきたのだろう。
「ごめん、ちょっと待ってて!」
ゴカイを触って少し汚い気がする手を行儀悪くズボンで拭い、家に走る。
自分を待つその人物はすぐに見えた。
「樹埜さん! 良かった!!」
「……風雅さん」
ひょろりと背が高く、丸い眼鏡をかけて薄いカーディガンを羽織っているその男は、こんな滅びた村には似合わず小洒落ている。
志吹風雅は樹埜の婚約者だった。ただし、国が勝手に決めた相手だが。
「創日を辞めていなくなったって聞いて……必死に探したんだ」
「…………」
本気で嫌になって辞めた会社の名を出され鳥肌が立つが、風雅の心からの安堵の顔を見て心のさざ波が落ち着いていく。
その表情には打算など一切なく、本気で樹埜の身を案じていたことが窺える。
国が選んだ婚約者と言っても、決して適当な訳ではなく、才能適性検査も含めて遺伝子情報やその他もろもろの要素を総合的に判断して相性のいい相手を決めている。
結果、風雅は初めて会った日から樹埜のことをかなり気に入ってくれている。それで樹埜も同じなら万々歳なのだが、どうも人の好き嫌いはそう単純ではないらしい。
合計特殊出生率0.7にまで落ち込み慌てた霞が関の役人がその賢い頭で捻りだした政策だが、残念ながら出生率はそこから誤差程度にしか微増していない。
「帰ろう。危ないよ、こんなところ」
「前も話したけど……私の父親は犯罪者で、行方不明なんですよ」
そして彼は政治家と医者を親に持つサラブレッドエリートだ。それでもこんな相手が選ばれたのは、樹埜の才能や実績を見た役人が評価してくれたのだろう。
本当に全くクソありがたいことだ。この国の政策全てが樹埜の考え方や信念と合わない。
この人権も何もあったものではない政策が始まって、最初の2年ほどは結婚までほぼ強制だった。
だが、上手く行っていないことに気が付いた政府はすぐに撤回して『あくまで推奨する相手』と言い出した。
考えれば考える程、仄暗い怒りに火が付く。
「だからって、同じ道に行くことはないだろう!」
「家も……もうここにしかないし」
「僕の家に空きがあるから大丈夫。そこからまたやり直せばいいから」
手を繋いだことすらもないのに、本気でそんなことを言っている。
それでも風雅のことを突き飛ばして拒否できないのは、彼が完全に善人で本当に自分のことを好いてくれていることをひしひしと感じるからだ。
自分が嫌になる。楽に生きていける道をまともに歩くことすらも出来なかった自分が。
「どうせ……どうせ、逃げ出して風雅さんに迷惑かけます」
風雅が諦めきれずここまで探した理由も想像が付く。嫌われている訳ではない、むしろ人としては好かれていることを感じ取っているからだろう。
自分の優柔不断さが、人に迷惑をかける。普通に生まれなかったせいで、普通に生きられなかったせいで――――シェファが視界の端に映った。
思ったよりも時間がかかったので、不審に思い見に来たのだろう。風雅からは見えない場所で静止しているその姿は、敵と判定したら即座に飛び掛かることを決めた獣のようだ。
(いいな……シェファは迷いが無くて……堂々としてて)
エクソダスなのに。親に嫌というほど人生を振り回されているのに。
嘆くでも悲しむでもなく、常に気高く生きているように見える。
ああ――――渚もそうだった。決して自分を下げるような言葉を口にしたりせず、誇り高く生きていた。
きっと自分はそういう子が好きなのだろう。そう生きてみたいのだろう。
ここまで来たんだ。もうやめよう。卑下してちっぽけな自分を守ろうとするのは。
こんな生活をしているけれど、こんな生活をしているのは、最後の誇りを失わないためだったはずだ。
「私は女性が好きなんです。だからあなたとはお付き合いできない」
初めてのカミングアウトは、よりによってその言葉を一番聞きたくないであろう相手だった。
長い間一途でいてくれたことは樹埜も分かっている。それだけの時間が実は全くの無駄だったと気が付いてしまった顔は、予想していた通りに樹埜の心にも大きな傷を与える。
その顔を見たくなかったから長引かせてしまった。よりショックを強めてしまった。これはもう自分可愛さに言わなかった樹埜が悪い。
そうだとしても、この形に生まれたことは何も悪くないのだ。そう信じて堂々と。
「……そうか。ごめんよ、辛いことを言わせてしまって」
「……」
「いや、それを辛いことだと考える僕の方が間違っているんだろうね」
その言葉だけで、彼がどれだけ両親から愛されて育った優しい人間か分かる。
もしも性格が最悪な男だったら、何も悩まずに済んだというのに。
後から後からフラれた痛みが滲んできたのだろう、眼鏡を外して目を拭う風雅を見て樹埜まで何故か涙が溢れそうになってきた。
誰も悪くないのに、互いに傷ついた。あえていうのならば個人に過干渉する国が悪い。
「帰るよ。ごめん、こんなところまで追いかけて来てしまって」
「……嬉しかった」
砂利道を歩いて車へ向かう風雅の足音が気持ち引きずっているように聞こえるのは気のせいではないだろう。
せめて食事でもご馳走しようかとも考えたが、死に体を延命してもより深く傷つけるだけだ。
「樹埜さん……他意はないからね。出会った頃からずっと思っていたことだけど……今のあなたが1番綺麗だ」
「ありがとう」
「さようなら。お幸せに」
風雅が車に乗って去っていく。誰にとっても敵だらけの厳しい文明社会に。樹埜が二度と戻りたくない場所へ。
風雅にとって樹埜は最悪の相手だったかもしれないが、樹埜にとっては最後まで最良の相手だった。
失恋とはまた違う、数少ない信頼のおける相手との別れに打ちひしがれ、静かに涙を流す。
いつの間にか隣に来ていたシェファが手を握ってくれていた。
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焚火で焼いたおにぎりと魚は夏の終わりのかおりがした。
あまり酒が得意ではない樹埜だが、その日久しぶりにべろべろになるまで飲んだ。
飲んでなきゃやっていられない、なんてことを思うのは初めてだった。
「あはは! すぐ落ちちゃった!」
30秒前に火を付けた線香花火がぽとりと落ちたのがなんだか無性におかしくて、わざとらしい声をあげて笑う。
まるで子供のようにはしゃぐ大人をシェファが赤く燃える目で見ている。シェファの線香花火が落ちる気配すらないのはよく性格が出ていると思う。
「魚、ちょっと少なかったかな」
「しょうがないよ。すぐにやめちゃったから」
その代わり大量に作った焼きおにぎりをまた一つシェファが手に取った。
もう3週間近く食事の世話をしているが、可愛いから大抵の事はまぁいっかで許してしまう。
なんとなくだが、シェファは樹埜がいなくても普通に生きていく気がする。
だから施しているとか助けているという気にはならない。
結局自分が一人では寂しいから、食事を口実に一緒にいてもらっているのかもしれない。
この生活を望んでいたとはいえ、ずっと1人だったら寂しくなって結局街と家を往復していただろう。
「……ねぇ、さっきの話、聞いていたよね」
「……?」
「……私が、女の子好きだって」
人は人、自分は自分と考えて生きればいいのだが、どうしても気にしてしまう。
何しろシェファは今や毎日顔を合わせる半分家族なのだ。これで内心気持ち悪がられていたりしていたらやはり悲しい。
「聞いていた」
「どう思った?」
「…………。……」
「…………」
長い沈黙が言葉を選んでいることを否応なく感じさせる。
風雅のように、理解出来ないものでも尊重して傷つけないようにと考えているのか。
ああ、きっと渚もずっと隣でこんな気持ちだったのだろう。
本当の意味で己の殻を破るということはこんなにも怖いものなのか――――シェファが口を開いた。
「ジュノが私のことを好きになってくれたら嬉しい」
歯車が噛み合った。
「あの『好き』って……」
自分が覚えていないだけでどこかで会って、気に入ってもらえたのだと。
人としてだと。そういう意味なのだろうと当然にそう思っていた。
そうではなく、樹埜の考える好きと同じ意味の好きだったのだ。
「…………」
普段は冷たい印象を与える目が炎を反射してかいつもよりずっと赤い。
ひょっとしてこの仮面の下では、見たことも無い顔が朱色に染まっていたりするのだろうか。
「部屋行こう!」
残りの酒を一気に飲み干し立ち上がる。
顔を見てみたい。今まで何度も思ったが今この瞬間ほど強く思ったことはない。
なんだか熱い気がするその手を引くと、シェファは拒否することなくついてきた。
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星の散りばめられたドレスワンピースは、自分が主役のパーティでも無ければ絶対に着ることは無いだろう。
見た目通りの高級素材の服だというのに、彼女の纏う雰囲気はそれだけで衣服も脇役にしてしまう。
ベルベットの黒に滑らかな髪の中で、月明かりを反射する変面だけが部屋にぼんやりと浮かび上がる。
荷物をぶちまけたかのようにとっ散らかった部屋の真ん中で、ぼろぼろの椅子に座るシェファはおもちゃの兵隊の女王のようだ。
もしかして制服しか持っていないのかも。
その言い訳を自分に聞かせて、デパートでこっそりとシェファのための服を買っていた。
こんな人口2の田舎で着るような服ではないとは分かっていたはずなのに。
実際のところ推測は間違っていて、少ないながらもシェファはいくつかの服を持っていたから、言い出す機会が無かった。
酒に酔った勢いのワガママ、嫌われるかもしれないと思って言い出せなかった願いをシェファはすんなりと受け入れてくれた。
「外すよ」
酒に浸されぼんやりとした意識の中で、忠誠を誓うように跪きその仮面に手を伸ばす。
この面の奥の目が樹埜の心を狂わせる。仮面を外すのが怖い。どうか想像通りの、想像以上の造形であってくれ。
不可侵に思えた仮面は、軽く力を入れるだけで外れてしまった。
「うあ……わ……」
鏡写しのように左右対称の顔、細くて長い眉は冷たく赤みがかった目と距離が近い。
高い鼻梁は確かに日本以外のルーツを主張しており、血濡れの唇はおぼろげな光の中でもなお艶めいている。
絶対に間違いなくどこかのお姫様か何かだ。すぐにでも褒める言葉を準備していたはずなのに、全ては泡と消えて情けなく尻もちをついてしまった。
その顔貌の美しさもそうだが、それ以上の衝撃があった。
「どこかで会ったことある……?」
まるで絵の中でしか見たことがないような美人なのに、どこかで会ったことがあるような気がする。
自分の記憶なのに嘘だ、と思ってしまう。こんな美しい人に会ったのなら、例え道端ですれ違ったのだとしても忘れたりしないのに。
「ある」
「どこ……? どこなの?」
「…………」
シェファは何も答えなかったが、何となくそれは分かっていたような気がする。
だからもうそれはいい。度数12%の酒缶を更に開けて一気に飲み干す。
脳が更に揺れる、何かが足りない、化粧品を漁る。
「ごめん、私ので」
瞬きも少なくただこちらを見ているその目の周りを、普段はほとんど使わない黒のアイシャドウで塗っていく。
酔い過ぎてチップを持つ手が細かく震えるが、不思議とシェファの冷たい目で見られていると震えが収まっていった。
違う、こうじゃない――――ついつい外行きのメイクに引っ張られがちな手を押さえ、ブラシでまぶたに黒を落としていく。
いまここにいるシェファではなく、彼女の魂を、イデアの姿を映し出すのだ。
赴くままに夢中で絵を描いていた学生時代のように、無遠慮に、それでいて丁寧に既に完成されているキャンパスを彩っていく。
月と星を模ったイヤリング、写真用の真っ赤な口紅、ネイルも黒に染め、最後にこっそり買っておいた銀のティアラを載せる。
「綺麗……」
絵画のような美しさの化身が、自分の目の前で動いて息をしていることが信じられない。
月明かりのみという頼りない光の中で燦然と輝くこの美は、ある種の統べる者にしかあり得ない。
まるで月光の下に顕現した夜の女王のようだ。きっとシェファは支配を放棄した罪でこの場にまで堕ちてしまったのだろう。
「シェファ……あなたは……何者……?」
「何に見える?」
「……理にかなってないことは分かるけど……だけどあなたは月から来たお姫様?」
「……はっ」
弧を描く口から覗く歯は白く、心なしか普通の人よりも鋭い様に見える。
かなり無茶な想像をしていたことは自覚しているのに、それを越えてシェファの見た目の全てが樹埜の理想を表している。
「それもみんなが想像するような明るい月じゃなくて、冷たく凍りついて、命のない星の……支配者。何を思ってか、この星に堕ちた」
世界中の人間がこの言葉を聞いたら思うだろう。酔っぱらいが意味不明なことを言っている、と。
自分でもそう思っているのに、やはりどこかシェファの容姿や雰囲気はそう信じさせるものがある。
「そうさ。私は支配する者。君臨する者」
理想を押し付ける樹埜の心の奥の欲望を感じ取ったのか。
薄いストッキングを履いた脚を伸ばし、樹埜の下腹を強く踏みつけてきた。
アルコールに浸り踊る脳に倒錯が流れ込み涙が滲む。
常に誰よりも優れた能力を持っていたのに、今となっては社会から弾き出され少女に足蹴にされている。
「ああ……」
本能から御足に縋り頬を擦りつける。まるで女王と奴隷のようで、僅かに残っていたプライドが砕けていく。
この屈辱が理想だったなんて一体誰に言えるだろう。一体いつからシェファは気が付いていたのだろう。
わざとらしく大人として振舞っていたのに。全部駄目になってしまった。堕落の恍惚は初めての快感だった。
「どこで会ったと思う?」
椅子から降りることもせず、顎を持ち上げられ問われる。
その囁きは直に頭蓋に響く。もう何を言っても許される気がする。
「前世」
「…………。その考えは素敵だから、嫌いじゃないよ」
「違うの?」
自分でも驚くほどに、悲痛な声だった。
何を言っているんだろう、樹埜自身もそう思うのに。
どうか否定しないでくれと言わんばかりの声が出てしまった。
「ちゃんとこの世界で、私とジュノは会ったことがある」
「ごめんなさい……覚えていなくて……」
あの甘い吐息が顔にかかる。20代も半ば過ぎてしまった自分にはない、危うい少女の香りだ。
もっと顔を近づけようとしても、未だに腹の上に足が押し付けられているせいでそれ以上近づけない。
喉から手が出そうだった。実際犬ころのように舌を出してしまっていた。
「行儀が悪い。人間なんだから、どうしてほしいかちゃんと言うんだ」
それは絶対的な許しのようでもあった。これ以上、自分を取り繕う必要などないと言っているかのよう。
日が昇って正気に戻ったら礼を言いたいくらいだ。いいや、恥ずかしくて言えるわけがない。
今だけだ、恥が快感に変わるのは。言葉に出来るのは。
「キスしてください」
心の鎧が全て瓦解し、腹の戒めが解かれた。
だらしなく出していた舌を掬い取るように唇が押し付けられ、そのまま床に組み敷かれてしまった。自分から倒れたような気もするが、そういうことにしたい。
きっと酒臭いはずの口の中を乱暴に舐られ、甘い唾液が流れ込んでくる。こういうことの前には死ぬほど口を綺麗にしなければならないのに、汚いはずの歯もシェファの赤い舌でなぞられる。頭がおかしくなりそうだ。
自分でも止めることが出来ない手がシェファのドレスをまさぐる。最高の手触りだ。買ってよかった。
尻は生地の上からでも柔らかく、想像の中でどんどんと美しいに違いない肢体のイメージが膨らんでいく。
「うあぁっ」
ヴァンパイアのような犬歯が樹埜の首筋に突き立てられた。噛みつきとしか表現しようがないその痛みは未曽有の快感だった。
吸血されていると錯覚するかのように強く吸われ、林檎のように赤い痕が残される。
ただただ悶えているだけだったのに、いつの間にかブラウスのボタンが全部外されていた。気が付いてはいたが、抵抗する気なんてさらさら無かった。
顔を上げたシェファから、何かが胸元に垂れてくる。数秒してそれが血だと気が付いたが、異様な空気に包まれたこの空間ではおかしいと思うまでに時間がかかってしまった。
「えっ……?」
シェファの口から垂れるその血が自分のものであるのなら別にいい。
だが、その血はシェファの鼻からだくだくと流れていた。鼻血を垂らしていても美しいのは流石だが、どこかにぶつけたりしたのだろうか。
「…………」
本人も気が付いたようで、鼻を指で拭った。
大量の血を見て瞳孔を小さくしている。
「どうしたの?」
「どうもしない。大丈夫」
「おかしいよ、いきなりそんな鼻血出るなんて」
「いいから」
仮面の隙間から覗く肌は、確かに元から白かったが更に白い。
というよりも顔色が悪いと言えるほどに真っ白で、雪原に血が撒かれたかのようだ。
慌てて立ち上がりティッシュでシェファの顔を拭うと、その血は普通よりも黒い気がした。
こんな行為でなくとも、続けられないことは明らかだった。
そして樹埜は思い出した。シェファが何かしらの薬を飲んでいたことを。
その薬が残り少なかったことを。もちろん、何を聞いても答えてくれはしなかった。
終わってしまった。