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仕事を辞めた暁には生活リズムなんか完全にぶっ壊してやろうと思っていた。
だが明日も明後日も無限に時間があるとなると眠くなったらすぐに寝てしまう。
好きなものを好きなだけ食べているつもりだが、元々嫌いなものはあまりないので、栄養状態もいい。
おかげで最近肌が綺麗になった気がする。
「……いないか」
そんなことを考えながら目を開けて横を見る。隣で寝ていたはずのシェファはいなくなっていた。
明らかに身体に異常をきたしていた彼女を家に帰す気になれなかったのが、早起きして出ていったあたり回復はしたようだ。
(皇帝……)
外から小さくベートヴェンのピアノの旋律が聴こえる。
ピアノの音色で目覚めとは素晴らしい朝ではないか。
起き上がり枕元を見ると、樹埜のウィッシュリストが開かれていた。
そういえば素顔を見せてくれたらこれも見せると約束してたっけ。
「いけないこと、か……」
8つ目の願いだが、自分でも今一つピンと来ていない。
真面目に生きてきたからこそ生まれた願いだが、相当四角四面に人生を歩んできたので何をどうしたいかも思い付かない。
犯罪をするにしたって、人を殺したいとか虐げたいとかいう欲望はない。強いていうのならば昨日のいけないことの続きを望んではいるが。
「……? ……!」
ピアノのリズムがおかしい、と思ったら打鍵ミスが混ざるようになった。
旋律の崩壊は続いていき、苛立ちをぶつけるように鍵盤に手の平を叩きつける音が聞こえて演奏は終わってしまった。
「どうしたんだろ」
ベランダに出てシェファの家へ向かう。今は朝の6時前くらいだろうか。
近くの山にもやがかかっており、少々肌寒い。結局こちらに来てから一度もエアコンを付けなかった。
「シェファ? 入るよ?」
ベランダから家に入ると、鍵盤が開きっぱなしだった。
そっと蓋を閉じて隣の部屋に入ると、畳の上で横になっているシェファがいた。
もう既に仮面をつけてしまっており残念だが、うまく演奏できなかったことに拗ねてふて寝しているようで可愛らしい。
畳の上で大の字で寝っ転がっている無防備な姿に少しドキドキする。
「おはよう。身体大丈夫?」
「……うん」
「ご飯食べる?」
少々だるそうではあるが、身体をゆっくりと起こしたため、肯定するものだと思った。
だが、シェファは予想斜め上の言葉を口にした。
「いけないことをしてみたいなら、奥に行くといい。エクソダスの街へ」
「こ……ここより奥? 街があるの?」
「あるよ。麻薬製造、人身売買、テロ準備……法がないからなんでもありだ」
「うわ……。うわぁ……。でも……行ってみようかな。シェファも来るなら」
なんでそんなことを知っているのだろうと思ったが、シェファの親が国家転覆に準ずる計画を立てていたらしいからそう不思議ではない。
彼女の挙げた例を一つもやる気はないが、実際どんなものなのか興味はある。
「持って行った方がいいものある?」
「ないけど、出来るだけ身軽な方がいいよ」
「そっか。危ないか」
法の存在しない地へ、金目の物を持ち込んで女二人で乗り込むなんて強盗してくれと言っているようなものだ。
そういえば、今まで護身用の防犯グッズを買おうと思ったことは無い。そこらの男よりもよっぽど強靭な身体をしているからだが、流石に手ぶらでエクソダスの地に行くのは不安だ。
「でも、首元隠れる服の方がいいね」
「!!」
慌てて手の平で首を隠す。考えれば分かることなのに言われるまでそこに考えが及ばなかった。
動作だけでそういった経験の無さを見抜かれてしまったように感じる。
今日も今日とて、楽しい一日が始まりそうだ。
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なぜエクソダスは生まれたのか。
100年前まで繰り返されていた戦争で、蹂躙された国の人々は強制的に国を失い日本人となった。
戦争で負けた次の日から、授業や政府からの通達、仕事まで全て日本語。
うまく他言語を習得できた一握りの秀才は歓迎されたが、大多数はそうはならなかった。
役立たずの烙印を押され、社会から弾き出されて集まり、ギャングとなり、エクソダスの祖となった。
だがそれだけが原因ではないと樹埜は考えている。
才能、容姿、身体、何かしらで強くなければ容赦なく蹴り落とされる過度な競争社会こそが、エクソダスが増え続ける理由なのではないか。
何も持たない者だけではなく、マイナーな宗教の信者、人には言えない性癖を持つ者、精神疾患や障害を抱えている者達だっている。
この国は全く弱者に優しくない。居場所を無くした彼らは結局滅びた地へ向かい集うしかなかったのだ。
法の支配がないことを示すように、古びた選挙ポスター掲示板に暴力的な落書きが描かれている。
一目でエリートだと分かるサラリーマンが白骨で埋め尽くされた道を歩き禍々しい建物へと背筋を伸ばして歩いている。
何度も目の前を通ったことがあるため見覚えがあるが、あの建物は霞が関の象徴的なビルではないか。
近所の廃墟にあった落書きと似ているが、作者は同じではないか。
樹埜にもそこそこ芸術的才能があったから分かるが、制作者はかなりの才能とねじ曲がった信条、そして国への恨みを持っている。
「すごい……」
ここは弱者達の街、エクソダスの地。
錆びついたトタン板や廃材から作られたバラック小屋が並び、ひらがなのみで書かれた看板が掲げられた店では、通常ではあり得ない安値で食料や日用品が売られている。
明らかなよそ者である自分たちを、片腕のない若者が折れかけている電信柱に寄りかかりながら睨んでいる。
その対面ではしゃがみ込んで煙草を吸っていた老人が口からシケモクを落とし唾を吐いて火を消した。
甘く青臭いにおいのする煙が上がるアレは本当にただのタバコなのだろうか。
「こんな……ちゃんと街が出来ている」
せいぜい廃墟を占拠したホームレスくらいだろうと想像していたのに。
そこかしこにちゃんと家の形をした家が作られているし、街の真ん中には歪な形をした城のような物すらも作られている。
入り口を守る警備『兵』の上半身には日本語ではない言葉のタトゥーが刻まれており、アサルトライフルを手に黄色く濁った眼で通行人を観察している。
「あまりきょろきょろしない方がいい」
「う、うん」
身ぎれいな女が珍しいのか、すれ違う者達全員が樹埜とシェファを舐めまわすように見てくる。
いつの間にかシェファの腰にはあえて見せるように拳銃があった。
銃刀法違反なんて誰も気にしていない。これが当たり前なのだ。
弱者だけの世界はむしろ剥き出しの野生と力だけの世界だった。
「なんでこんな秩序立っているんだろう……」
「極道者だけじゃなくて、色んな国のマフィアが入り込んでいる。エクソダスになっても支配者が国から裏社会になるだけだ」
(……どっちが生きやすいんだろう)
都市部はガチガチの実力主義社会だが、法による統治と安全は世界一だった。
ここでは法も安全もないが、息苦しいルールも競争もない。
「えっ、これって……」
「大麻だ」
青々とした植物が栽培されている畑が見えたが、見覚えのない種類だった。
まさかこんなに堂々と大麻が栽培されているとは思わなかった。
確かにこの国では違法ではないが、大抵の国では法で禁じられているのに。
「日本の大麻と違法薬物産業だけで年間28兆円分も生産されている」
「よ……よく知ってるね、そんなこと」
日本には極端な光と闇があり、その両柱がこの神の国を支えてきたらしい。
エクソダスの地で生産された禁制品は海外へと輸出され、汚れた金を生み出している。
その金は表社会で消費され、経済は循環している。
「日本がアメリカに負けていたら法で禁止されていただろうね」
「またまた。面白いことを言うね」
そもそも麻は神道の中でも神聖な植物だったし、日本でもごく普通に植生していたものだ。
アメリカではほとんどの州で禁止されているらしいが、それに日本も追従を強制させられていたという予想だろうか。
元々大麻吸引自体が他の国の文化だったのだから、日本が従う道理がない。
(でもこんなのインターネットでも見たことがないな)
エクソダスと呼ばれる無法者たちがいることは知っていたが、こんな悪のカルテルが形成されているとは聞いたことも無かった
普通の人間はエクソダスの地に行かないとはいえ、ネット上でも見たことがないというのは異常だ。彼らを見たところ、隠す気すらもないのに。
(情報統制されているの……?)
国にとって出来ることなら隠しておきたい負の部分であることには違いないだろう。
だとして、ここまで徹底した統制をするのなら、プロバイダの介入も必要だ。
日本のネットは樹埜が元々勤めていた『創日』という会社によって提供されているが、あの会社ならそういうこともやりそうだ。
「買う?」
「え?」
「多分、ジュノが今まで出会った誰もしたことのない『いけないこと』だよ」
屋台では一本200円、瓶詰で10本2000円で売っている。
産地直送のため安すぎる。そこかしこから漂ってくる甘い香りは大麻の煙のにおいだったのか。
「よ、よし。買う!」
生真面目に生きてきたが、元々樹埜はこういうものに興味があった。
芸術と抑圧、禁制品は切っても切れない関係だからだ。
どうせ半分エクソダスになってしまったんだ。今までの常識を捨て、少しワクワクしながら今まで自分の人生に存在しなかったものを手に入れた。
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乾燥したしわくちゃの紙に巻かれた大麻を持ち上げる。
言ってしまえばただの植物が、こんな薄暗い部屋の中では禍々しく見えるし神々しくもある。
ライターの火を灯すと、壁に寄りかかってこちらを観察しているシェファの赤黒い目がよく見えて、なんだか少しほっとした。
もしも危ない状態になったとしても、シェファなら止めてくれるという安心感がある。大人としてどうなんだという気持ちに無視して、火の付いたそれを口にした。
「……。……! げほっ」
口の中に甘く青臭い煙が広がりむせ返る。
大学生の頃、一回だけ友達に貰った煙草を試してみた時を思い出した。
「どう?」
「別に……普通かな……。けほっ。……うん」
何度も咳き込み、やめてしまおうかと思ったがせっかく買ったのだからともう少し吸い込むと持っている指先が熱くなった。
(あっ! 灰皿買うの忘れた!)
一瞬焦るが、近くにあったペットボトルで代用する。
煙草をくれた友達もこうしていたっけ。落とした灰が僅かに残っていた水に落ちてジュッと音を立てた。
(ああ……あの子は官僚になったんだっけ)
大学の時に仲が良かったその友人は良か不良かで言えば後者寄りだったと思うのだが、まさかの国家公務員になって驚いた。
自分が就職した会社も格で言えば彼女に負けてはいなかったが、今となっては随分と道は分かれてしまった。
この息苦しい社会を加速させる歯車の一部になってしまっているのだろうか。
エクソダスの地にあった霞が関の落書きを思い出して気分が沈み込んでくる。
「…………」
肺に煙を溜め込んで俯いていた顔を上げると、向かいの壁をゆっくりと這っている蜘蛛が見えた。
田舎暮らしを始めて結構経ったから、今更蜘蛛一匹くらい家にいようとどうでもいいが、薄暗い部屋なのにやけに動きが良く見える。
ああ、でもなんで壁を這えるのに下に行くんだろう。上に行けばいいのに。天井に巣を張ればいいのに。
(それは私も同じか)
狂い始めた思考の中で数年前のことが思い出される。
樹埜が新卒で入社したのは日本で、いや、世界で最大の企業である『創日』だった。
医療から駄菓子の販売、武器の製造やインターネット産業。ありとあらゆる分野に根を張るこのメガコングロマリットは、時価総額にして700兆円という途轍もない規模をしている。
創業から150年、戦争も災害も生き延びた創日は政治との関りも深かった。そんな大企業の本社に採用された樹埜は、正しくエリートの中のエリートだった。
(…………)
何かが上手くいき、とんとん拍子で財務企画部から社長秘書室へと配属され、1年目時点で年収は2000万円以上あったと思う。
思う、というのは使う暇が無かったからだ。朝から晩まで会社にいたし、休日はほとんど睡眠負債の返済に充てていた。
だが、身体は頑丈な方なので目も回るような忙しさはあまり気にならなかった。稼いだ金を使う相手もいなければ守る者もいないという虚しさを、仕事で誤魔化していた。
「大丈夫……私は大丈夫だった……忙しいだけなら……」
なぜそんなことをしようと思ってしまったのか。今となっては自分の真面目さが悔やまれる。
大量にあったタスクを片づけて、夕飯を食べながらパソコンを見ていた時だった。仕事の特性上権限が割り当てられていたのか、普通の社員ならば見れないフォルダへのアクセス権限があることに気が付いたのだ。
いつどんな無理難題が飛んでくるかも分からないため、フォルダの階層くらいは覚えておこうと考え、適当に開いては戻りと繰り返し――――気が付けば箸を動かす手が止まっていた。
発展途上国で研究された汚染水処理の技術の買収工作。宇宙開発における将来的なスペースデブリ問題に対する法規制の先延ばし。ペタシンと放射線交叉によるガンの根絶治療技術の開発停止。
出てくる出てくる、利権と利益に塗れた悪意の数々が。余計なことをしなければ、少なくとも世界は正しい方向に進んでいただろうと思えるような内容の資料。
(お母さん……)
樹埜の母は樹埜が大学生の時にガンで亡くなった。自分が優しい性格に育ったのは、何をするにも肯定してくれた母の存在が大きかったように思うし、一番恩返しがしたい相手でもあった。
最後に見たフォルダが特に致命的だった。日本では2人に1人がガンにかかり、3人に1人がガンで亡くなる。医療費も莫大である一方で、当然医療の分野にも創日の息がかかっているため天秤にかけたのだろう。
ガンの根絶と、ガン患者の長期治療のどちらが利益になるのか。読まなくても、答えは分かった。フォルダの作成日は、樹埜がまだ高校生だった日付を示していた。
「…………」
ぽろぽろと大粒の涙が畳にこぼれていく。あの日もそうだった。
どれだけ働いても壊れなかったのに、実質母を殺した会社で働いていることに気が付いて身体が全く動かなくなってしまった。
涙ばかりが溢れ、呼吸は早いのに全く酸素が取り込めなくなってしまった。
次の日には病院で適応障害と診断されていた。
「私……私は……間違えた……」
官僚が決めた豊かな未来、国が目指す発展した経済、霞が関のお偉いさんたちが決めた政策。
この国は少しずつ樹埜の誇りを殺していき、大して興味もない金を押し付けてきた。
ああ、どうせこうなるのなら、好きなように生きて好きなように死ぬべきだった――――手にしていた大麻がそっと持っていかれた。
「シェファ……」
今になって、大麻のせいで感情が壊されていたことを自覚した。これならば法規制する国があってもおかしくない。
もう火を消そう。そう言う前に変面を持ち上げ口だけ出したシェファが吸いさしの大麻を躊躇なく吸い込んだ。
「げほっ」
「あはっ。ははは。シェファには早かったんじゃない?」
「ジュノがやるなら私もやる」
自分と同じく咳き込んだ口から白い煙が漏れ赤い唇にもやがかかる。
どうしてかやたらと色っぽく見えるのは感覚が鋭くなっているからだろう。
ああ、悪くない。出来ることなら絵の一枚でも描いてみたい気分だ。
次は画材の準備をしておこう。なんて、もうやめようと思ったのに次のことを考えている。
「空、綺麗」
「うん」
この言葉をどちらが言ったものなのか口にした瞬間に分からなくなった。
自我と他者の境界線が溶けて融合する感覚。
窓から見える星々がいつもよりも光り輝いているように感じる。
出来ることならば、あの星を摘んでシェファの髪に、胸に飾ってあげたい。
闇に浮かぶ赤い輝きがひとつふたつ動いている。
シェファのルビーアイズがいつもの鋭さを失ってとろんとしている。きっと自分もそうなっているのだろうが、こんな姿を見られても嫌ではない。
世界で2人だけだったらいいのに。
ご飯を取ってきてあげるから
家を綺麗にして待っていて
逆でもいいよ
それとも2人でご飯を取りに行こうか
そんなうまく出来ないけれど
それくらい出来るさって気分なんだ
2人だけなら
夜にこうしてても誰にも怒られない
「ジュノ、私は知っている」
「なにを……?」
「自分の服も買っていたよね」
「…………。……! いつの間に……」
シェファが手にしているのはデパートでこっそり買っていた服だった。シャツとジーンズを好む自分らしくない、ひらりとしたスカートとワンピース。
そもそもラフな格好をしているのも選んでいる訳ではなく、自分に合うサイズが無かっただけだ。本当はそういう服も着てみたかった。
これまでずっと着る機会がない、似合わないと言い訳をして無視していたが、海外製の特別サイズの服を見つけてつい一緒に買ってしまったのだ。
「今度はジュノが着る番だよ」
「ムリだよ、だって似合わないもん。私みたいな大女……」
マリファナの成分で先鋭化した心に、己の吐いた言葉が突き刺さる。
人と争うことを好まない優しい性格に反し、誰の目にも明らかな肉体に宿った才能。
誰もが一方的な未来を期待し、生きたいように生きれなかった。母にも、初恋の相手にも嘘を吐き続けた。
望まぬ才能は、呪いに似ていた。
「それを決めるのはジュノじゃない。私が決める」
「…………」
ああ、母は自分の性格を分かっていたのなら。
あなたの意志に任せるなんて優しい言葉を言わないでほしかった。
こうやって、絶対的な言葉で強制してほしかった。
与えられた才能とはもう十分向き合った。
今度は己の望みと正面から向き合うんだ。
「キスしてくれないとやだ!」
シェファの白い歯が闇に浮かび上がる。何を思っての笑いなのだろうか。きっといい意味ではない。
自分と10歳近く離れている大人に対して向ける視線とは思えない。
こんな目が怖くて、周りの期待に応え続けてこうなったのだ。もう、いいじゃないか。シェファが仮面を投げ捨てた。
転げ落ちていることは違いはないが、願いは次々と叶っている――――シェファの唇が触れ、感覚を味わう前に離れてしまった。
「さあ」
「べろちゅーがいい! いじわる、いじわる!!」
僅かに残った冷静な部分が自分を客観視して、これはひどいと言っている。
駄目な大人を通り越してただの我儘な子供にまで落ち込んでしまった。もう滅茶苦茶だ。昨日明らかにシェファは体調が悪そうだったのに。
いっそ望んで転がり落ちる樹埜を、シェファは想像通りにどこか嬉しそうに見ていた。
自己評価と周囲の評価はきっと同じ、『真面目な人間』だったはず。絵に描いたように真面目な自分が、よりによって一番見せたくない相手に駄目な面を見せている。
この開花する快感に生まれ変わりを感じる。
「今のジュノの方が好きだ」
言葉、唇、舌を通して電撃が脳に直撃し、過去と現在が重なる。
今までも、正直になった時に似たような言葉を言われた。
本当の後悔を伝えた時、本当の自分を伝えた時、本当の欲望を伝えた時に。
(もっと素直になればよかった)
そっちの方が好きだ、綺麗だと。今も流れ込んでくる。
血のように赤く雪のように白い口から透明な液体が伝う。不安定な味がする、まだ完成していない子供の味だ。
己の内にあった欲求にもっと早くに気が付きたかった。気付いた時には卒業式だった。
別にこの国でなくたって、大人が子供にそういう意味で子供に手を出すのは最悪だから。
まさしく最悪になってしまったのに、この感覚はたまらなく最高だ。脳が痺れて血が沸騰しそうだ。
来るところまで来てしまったと思ったが、きっともともと『こっち側』の人間だったのだろう。
「!」
抱きしめようと腕を上げたらシェファの胸に触れてしまった。
決して邪な意思はなかったと主張したいが、触れた瞬間に湧き出してしまったからもう駄目だ。
その表情に怒りも不快感もなかったことで、更に汚れた欲求が噴き出してくる。
想像を遥かに超えて上回り美しい顔をしていたのだ。きっとその胸は想像以上に白色と桜色に美しく彩られているのだろう。
それならば裸は、一糸まとわぬ姿になってもこの気品は崩れないものなのだろうか。見てみたい、見てみたい!!
「さあ」
「うあ~違うぅ……」
確かにそういう話だったが、服を無理やり頭から引っこ抜かれて不満が漏れる。
同じモノを吸っているのに効き方が違うように感じる。まさかフリだけして吹かしていたのか。ズルい気がするが、らしいといえばらしい。
買ったはいいが自分が実際に着ているところを想像できなかった服を少々無理やり着せられる。まるでおもちゃ箱の中の着せ替え人形のような気分だ。
乱れた髪を優しく撫でたシェファに立たされる。
「ほら、だって、立ったらこんななんだもん」
外国の女性の中でも更に大きな人向けの服だから、おかしくはないのだろう。
だが、理想的なスタイルのシェファを遥かに見下げる自分がひらひらとしたスカートなど似合う訳がない。
中学も高校もそれを分かっていたからほとんどジャージか体操着で過ごしていたし、運動部全般強豪の学校にいたから違和感もなかったのに。
優しく手が握られ指が絡められた。細くて長くて繊細な指、食べてしまいたいほどに羨ましい。
「そんなことない。とても綺麗だ」
それでも優しい人が多い世の中だから、内心がどうあれこう言ってくれる人間は多いだろう。
だが、大麻の作用で神経が鋭くなった樹埜の目はシェファの表情を、口を、目をよくよく観察していた。
どうせ、どうせ――――なんということだろう。目は真っすぐで、口の動きは淀まず、表情は真剣そのものだ。
どこも嘘を言っていない。心の底から真実を語っている。
「私がそう感じている。足りない?」
「でも、でも、きっとあなたの隣は似合わない」
君の味方が――――
その言葉から始まった言葉を生涯忘れることはないだろう。生まれ変わっても魂は忘れないだろう。
それほどまでに透き通った言葉だった。
「君の味方がたくさんいるならそれでいい。私はそれを喜ぶよ。君の味方が家族しかいなかったとしても、私が味方でいる。君の味方が世界で一人しかいないならそれは私だ。君を否定する何とだって戦う。君の味方がこの世界にいないなら、その時私はもうこの世界にいないのだろう。たとえ身体が大きくても、小さくても。強くても、弱くても。善でも悪でも。どこまでも最後までも、君を肯定してあげる」
最早理屈を超えた、誰もが願う理想そのものが目の前に立って手を握ってくれている。
いったいどれだけの人がこんな存在を願っても手に入れられず現実に打ちのめされたことだろう。
どれだけ力を手に入れた人でも、それこそ世界の王になったとしても、手に入らないものだ。
夢を見ている。神の植物が見せた夢。もうそれでも構わないと、壊れそうな程に繊細な身体を抱きしめても、彼女の身体は消えたりしなかった。
ただ、また血を流していた。目から、鼻から、口から、糸のように。幻のような現実だった。
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半透明の傘の向こうで、鉛色の空が大粒の雨を落としている。
植木鉢を載せた木の台の下で雨宿りしている猫が、悪天候はお前のせいだと言っているかのような困り顔で樹埜を見ている。
冬が来る前にゴミ焼却炉の煙突にこびりついた煤を綺麗にしたい。樹埜の口から漏れて白く上がった煙は雨に裂かれ、湿った空気に溶けていく。
(あまり効かない……)
モノによって純度が違うのか、体調や時間によって効果が変わってくるのか。
中ほどまで吸った大麻を雨に晒し火を消す。
(シェファを病院に連れていきたい)
ここ数日考えていることだし、本人にも話したが拒否されてしまった。
保険証もないというし、現代社会と決定的に亀裂があってここまで流れ着いてしまった人間が、どうして社会保障を受けられるというのか。
(闇医者……? とか……?)
いるのかもしれないが、どこにいるか分からない。調べて出てくるのならばそれは闇ではない。
結局歩いて探し回るしかない、エクソダスの地を。危険だと分かっていても。
雨があがったら出発しよう、そう決心した瞬間だった。
背中に棒状のものが乱暴に突き付けられたのは。
「金を出してくれ」
(――――! 強盗!?)
しわがれた初老の男の声、獣ような臭い。雨のせいでこんな距離に来るまで気が付かなかった。
背中に突きつけられている物の正体は、人数は、シェファは――――パニックになり冷静に状況を処理できない。
「頼む。全財産じゃなくていい。今あるだけでいいから」
「……?」
強盗が『頼む』なんて言葉を使っていいはずがない。150の要求を出して100出させるか110をコールさせるかの勝負なのに。
首だけそっと後ろに向けると、予想通りに老いた男性の枯れた腕が見えた。色褪せたタトゥーの入った手が持つのは、子犬一匹殺すのにも苦労しそうな木の枝だった。
「なぁ、頼む。もう3日もまともに飯を食えてない」
年齢は50半ばか60に差し掛かったあたりだろうか。
自分の親くらいの年齢――――そう思うと心が酷く痛みを感じた。
この前エクソダスの地に行った際の車の轍を追われたのだろう。
そう冷静に考えられるくらいには、恐怖もパニックも消えてなくなってしまっていた。
「お金は……受け取ってどうするの? 私、現金は3万円くらいしかないよ」
「……それは分からねぇ。でも、いまその金がなきゃもう死ぬんだ。だんだん寒くなってきた……」
秩序だった社会で生きていける人間ではないように見えるが、同時に暴力による解決を望むような人間でもないのだろう。いつの間にか木の棒を下げていたことにもよく表れている。
体格は完全に自分の方が優っている。木の棒を叩き落して力の限り殴れば問題なく撃退できるだろう――――なんて、追いやられたものどうしで争っていたらあまりにも救いがないではないか。
これ以上この国の犠牲にならないでくれ。だが、金を渡したところでそれは問題の解決にはならない。
答えの決まったペーパーテストを解くのは得意だが、未だに国ですら見つけられない問題の答えを導けるわけがない。
そういうことが苦手だから、レールに乗る人生を一度は選んだというのに。
「まずはその武器を捨て――――」
視界の端で、何かが水溜りに投げ出された。扱い方が酷すぎて、それが人間だと気が付くのに時間がかかった。
「婆さん!!」
男が叫んで駆け寄ろうとする。だが、その前にシェファが男に銃を向けていた。
強盗は一人ではなかった。初老の男と老婆という弱そうにも程がある組み合わせ。
シェファの仮面は怒りの赤に染まっており、今にも引き金を引きそうだ。
というよりも、男が足を止めたのを見たシェファは躊躇なく水溜りの中の老婆に銃口を向けた。
「ダメ!! シェファ!!」
人生で一番の速さで駆け抜け、銃を持つ手を押さえる。
シェファの手が熱い、ここ数日出ていた熱はまだ収まっていないようだ。
「もう彼らには何もない。何も生み出せない。その上他の人間から奪うことを選ぶというのなら、こうするしかない」
「……っ! ひっ……」
水溜りの上でうずくまる老婆がシェファの残酷な言葉に小さく悲鳴をあげた。
手を合わせて頭を抱えた老婆は、もうとっくに日本から消えてしまった八百万の神に祈るかのよう。
哀れなその老婆に片足がないことに気が付いた。この国は、この国はもう、ここまで来てしまったんだ。
誰に伝えればいいんだ、この怒りを、悲しみを。きっとこの場にいる誰にいっても仕方のないことなのに、樹埜の心は鳴動し言葉を紡ぎ出していた。
「それは違う! 確かにあなたにとっては何も生み出していないかもしれない……今はもう何も国に貢献できていないかもしれない。でも誰かにとっては大切な人かもしれない。誰かにとってはお母さんかもしれない。何も生み出していないだなんて……一番大切な命を生み出してくれた人かもしれないんだよ……それでもこの国がこんなだから、逃げるしかなくてここにいるのかもしれないのに!」
体調不良も吹き飛ぶほどに怒りに染まっていた目に、冷静さが戻っていく。
雨に濡れたままのシェファに傘を持たせ、水溜りに落ちたままの老婆に手を貸し抱き上げる。
「あんた……変わった子だな……。強盗されているのに……俺たちをかばうなんて……」
男は老婆を受け取って視線を下に向けた。その表情は『狙う相手を間違えた』と語っているが、色んな意味が含まれているだろう。
「……知らないよ……。私だって……どうしたいか……」
そしてここからどうすればいいのかも。この人たちをどうすればいいのだろう。
殺されなくてよかったね、はいじゃあもう帰ってね、なんて言えるわけがない。
そう考えた時だった。何かが倒れる音が聞こえた。
「シェファ……!?」
雨に濡れた地面にシェファが倒れていた。
慌てて駆け寄り、仮面をずらす。顔色は悪いを通り越して雪のように白い。
それなのに手が溶けるほどの熱が出ているという矛盾。もう駄目だ。本人が何と言おうと病院に行かなかればならない。
「あなた、名前は!?」
「お、俺か? 武藤……」
「武藤さん、その家留守番していてほしい」
「本気か!? 俺、強盗だぞ……」
「……欲しいものがあるなら、持っていけばいい。家にある物は好きなように使っていいから」
武藤の反応は全くもって常識的だ。だからこその直感だが、この二人は自分が戻るまで家を守ってくれるような気がする。
先ほど武藤は老婆のことを『婆さん』と呼んでいた。そこから察するに、恐らく彼らは親子でも親族でもない。
つまり、武藤は元々赤の他人の老婆を助けるような人間ということになる。
金なんてほとんど家に置いていないし、片足のない老婆を連れていては何かを盗むのも一苦労だろう。
そんなことをするのならば、雨風しのげる普通の家で過ごした方が百倍いいに決まっている。
「おいちょっと待てって、おい!」
当たり前だがまだ何かを言いたげな武藤を置いて車へ向かう。
鍋に火をかけっぱなしだが、その辺も全部任せた。もう知らない。
「待っててね、すぐに病院に連れて行ってあげる」
助手席にシェファを乗せてナビで一番近い病院を検索する。
普段ならば自動運転に全て任せてしまうが、ありがたいことに法定速度を守ってくれてしまうので、今回は久しぶりに運転することになる。
「病院……行っても無駄だよ」
「何言ってるの!」
スピンしたホイルが泥を飛ばし、道路に飛び出る。
どうせしばらくは車とすれ違うこともないのだ。3桁近いスピードで公道をぶっ飛ばしていく。
「私のこれは……病気じゃない」
「……前……答えてくれなかったけれど。何か薬飲んでいたよね。残り少なかった……もう無くなっているんじゃないの?」
「…………」
「なんの薬なの?」
「…………。嘘みたいなこと言うけれど、信じてくれる?」
「うん」
「不老不死の薬」
家で二人きりの時以外は絶対に外さなかった仮面を取り、黒く赤い瞳でこちらをじっと見てくる。
いつもそうだ。突拍子もないことを言っているのにその瞳は一つも嘘を言っていない。
「じゃあ……シェファはいくつなの?」
「いま……。116歳になる……のかな」
誰が言ったって、どこかの大国の大統領が言ったって思わず笑ってしまう言葉を笑い飛ばせない。
何かとんでもない扉を開こうとしている――――唾を飲み込み、質問を変える。
「仮面、いらないの? 街へ行くんだよ」
「もういらない。……行くべきところは病院じゃない」
「じゃあどこへ!?」
「私の家」
あの樹埜の家の隣のボロ屋ではないことは確かだった。
どこぞの国のお姫様だと思っていたのに、まるで魔法使いの家へ向かうような気分だった。
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東京ドーム◎個分、という表現はよく目にするが、それは遊園地や行楽地に主に使う表現だ。
日本で個人の家にその表現を使うことはそうそうない。
(東京ドーム何個分あるんだろう……この家……)
想像通りに、想像以上に。シェファの指示に従い辿り着いたのは、東京郊外に広大な土地を持つ屋敷だった。
一般的な大きな家といえば、せいぜいガレージ庭付きくらいなのに。この車が何百台入るなんて、そんなレベルではない。
「カジロ……」
表札に書いてあるその名、神代は少々胸に刺さる苦い記憶がある。
まさか、偶然に決まっている。珍しい名前だがそれでも何千人もいる。
「これ、シェファの苗字……――――!? 髪が……」
体力もいよいよ限界に近付いたのか、黙り込んでしまったシェファの方を見ると、所々メッシュを入れているように髪が白くなっている。
実年齢116歳、不老不死の薬――――先ほどの言葉が頭で渦巻く。
だが、この髪の色は老化による白髪というよりも、元々の髪の色が白いアルビノが持つもののようにも見える。
「門前で止めるんだ……。チャイムを鳴らす必要はない」
「う、うん……」
正門の前に警備員などはいないが、監視カメラが威嚇するかのようにこちらを見ている。
車の窓から顔を出したシェファにレンズが焦点を合わせ――――門が開いた。
「行こう……」
「……本当に、あなたの家なんだね。神代シェファって名前なの?」
「…………。戸籍上はね」
「……!」
嫌な想像で埋まっていく頭を蹴とばすようにアクセルを踏み敷地内に入る。
池には蓮の葉が浮かび、庭園の樹木を庭師ロボットが手入れしている。
こんな状況でなければシェファと手を繋いでゆっくり見て回りたかった。
そうこう考えているうちに、邸宅前で車を待つ誰かが見えた。
「誰? 姉妹……じゃないよね……」
車いすに座るその少女の年齢は、見た目だけでいえばシェファとそう変わらないだろう。
褐色の肌、青い瞳、金色の髪。何をどう見てもシェファと血の繋がりはないし、メイドにも見えない。
シェファの軽い身体を抱き上げて車から降りる。
「おかえり。薬が切れてどれくらい経ったかな」
「アムリタ……」
「なぜ私が睨まれているんだろうか? 不思議だな」
アムリタと呼ばれた少女は、樹埜の腕の中で息も絶え絶えのシェファを見て笑っている。
一体どういう関係なのだろう。シェファもそうだが、アムリタも神代という名を持つ日本人には見えない。
「入れよ。君の家なんだから」
手足をぴくりとも動かさないアムリタの車いすがその場でターンをすると、玄関が開いた。
およそ映画の中でしか見たことの無いような豪華絢爛な邸宅。
世界の歴史を捻じ曲げている場所だった。
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それひとつで樹埜の貯金全てが飛ぶような絵画に囲まれたダイニングには、白いクロスに覆われた長いテーブル。
貴族が使うような椅子に座り、火の灯った燭台を見続ける。何が何やら分からぬままに客人としての扱いを受けている。
紅茶にもクッキーにも手を付けず、ひたすら待っているとアムリタが戻ってきた。
「シェファは!?」
「落ち着け。一息入れさせてくれないか」
アムリタの座る車いすからいくつも金属製の触手が伸びて、紅茶のカップを掴んだ。
手足が動かないらしいが、あんなものは見たことも聞いたこともない。
車いすの一部からアムリタの脊髄にコードが伸びている。まさか考えるだけで触手を手足のように動かしているのだろうか。
そういう技術の構想があるというのは知っていたが、もう実用化されているなんて。
「いまは点滴を投与している。薬はあとどれだけ残っていた? 一日2錠必ず飲まなければならない」
「分からない……一カ月前、もう2,3錠しかなかったと思うけど……」
「……。残念ながら、手術が必要だ。明日にでもな」
「手術!? なんの病気なの!?」
「病気? 違う。聞かなかったか?」
「……不老不死の薬って言っていた。本当のことなの?」
「私の口から説明するよりも、見て回った方がいいだろう」
「この家を?」
「なに、遠慮するな。ここは彼女の家で、きっと君には隠し事なんてないだろうからね。客人をもてなせず申し訳ないが、準備もあるし夜も遅い。私はこれで失礼させてもらうよ。隣が客室だから今夜はそこで過ごすといい」
「…………」
結局なんの説明もなくアムリタは去ってしまった。
強盗されて、半恋人が倒れて、不老不死だと訳の分からないことを言い、気が付けばこんなところにいる。
一日の間に色々起こりすぎて訳が分からない。まさかまだ大麻の幻覚の世界にいるのではないか。
随分と前に給仕型ロボットが運んできてくれた紅茶を一気に飲み干す。冷めていてもこんなに美味ならば完璧な状態で飲みたかった。
「神代家……」
入口に肖像画があった。明治時代に描かれたものらしく、男爵々服に身を包んだ見るからに高貴な男性だった。
ここは旧華族の邸宅なのだろうか。華族の神代家――――どくんどくんと心臓が嫌なリズムを刻む。
ぼんやりとしていても何も分からないので、立ち上がり歩き出す。
(広い家……案内図とかないの? シェファはどこにいるの?)
せめてそれくらいはアムリタに聞いておけばよかった。今となってはシェファもアムリタもどこにいるのか分からないし、トイレの場所すらも分からない。
年季の入った手すり付きの階段を上がる。書斎、客間、どこにも鍵はかかっていないし他に誰かがいる様子もない。
(……ここは……アトリエ?)
ある部屋を開けた瞬間の鼻腔をくすぐったにおいに記憶が呼び起こされる。
懐かしき油絵のにおいだ。絵なり彫刻なりの趣味や仕事がなければ家にアトリエなんか作らないはずだ。そのような趣味がシェファにあったのだろうか。
そんな気配は一切見せなかったが――――と扉を全て開く。
「うっ……!?」
一目見て部屋中がカビているのかと思ったが、違った。壁も天井も床も直に絵が描かれているのだ。
廊下からの光のみで照らされた部屋に浮かび上がるように描かれているのは巨大な世界樹だった。
人間も動物も悪魔も世界樹の中心に手を伸ばして争い合い、ところによっては殺し合ってすらもいる。
(林檎……?)
世界樹の中心には赤い丸が一つ。薄暗くてよく分からないが、それを木の実とするならば林檎のように思える。
だが、床にまでびっしりと描き込まれているので足を踏み入れる気にはならなかった。
まるでびっくりハウスだ。次に開く扉はなんの部屋だろう。化け物が飛び出るか、大量の武器でも保管してあるか。
シェファのいる部屋を探しているうちに、雰囲気の違う扉を見つけた。
「なにこれ……」
木造りの他の扉と違い、ロケットランチャーがぶち込まれても開かないような鉄製の扉だ。
他は全て開いていたのに、ここだけは鍵がかかっている上に鍵穴もない。
隣にあるデバイスを見るに、指紋認証か顔認証のどちらかが必要なのだ――――顔認証システムのカメラを見つめたら扉から音が聞こえた。
「え……?」
まさか、と思ったが開いている。確かにシェファは自分に隠し事をしないだろう。頼めば入れてくれるだろう。
そうだとして、順序が逆ではないか。何故既に自分の顔が登録されているのか。
この先に行けばそれは分かるのか。逸る鼓動に胸を押さえ、部屋の奥へと進む。
「ああ……」
本棚に囲まれたその部屋の壁に、大きな写真が瀟洒な額縁に入れられて飾られていた。
日本を、世界を支配する超巨大企業『創日』の今を創り上げた中心人物たちの集合写真だった。
神代とは創日を創設した一族の名であるという事実を、シェファがその関係者であるという事実を認めたくなかった。
建築部門、金融部門、医療部門、工業部門。各界の第一人者達が映っている。
中心にいるのは、その中で唯一の女性だった。
「シェファ……!?」
高い鼻、鋭い目付きに細い眉、癖の一つもない髪。
見間違えようもないのに、どう見ても年齢は40代以上という矛盾。
不老不死はもういい。よくないが、もういい。だがなんだこれは。
不老どころか若返っているではないか。写真の日付は今から70年も前の1978年になっている。
まさか、これは精巧な絵か何かではないか。恐る恐る絵に触れると壁から重たい音が響いた。
「は……はは……。なんでもアリね……」
本棚が扉のように開き、下へと向かう階段が現れた。
家の構造を思い返すに、確かに扉も何もない空白の部分があった。
この階段は、一階からは入れない部屋に通じている。
もうどうとでもなれと足を踏み入れ階段を下りていく。
(なにこれ……。人間を培養しているの……?)
現実では見たことがないのに、見覚えがある光景なのは、それがあまりにも映画や漫画、ゲームでありふれているからだろう。
両方の壁にはいくつかのガラス張りの培養槽があり、その中で裸の人間が培養液に浸かり浮かんでいる。
「……!? この人……知っている……!」
培養槽の一つに浮かんでいるのは若い白人男性の下には名が書かれている。
ウィリアム・ヘイズ。理系の人間なら誰もが知っている金融工学・経済学の大天才。
1950年に生まれ、敗戦国であったアメリカを世界2位の経済大国に返り咲かせた伝説の人物だ。
服は着ておらず、髪も爪もまるで生まれてから一度も切っていないかのように伸びっぱなしだ。
クローン人間、という言葉が頭をよぎる。確実に良くない扉を連続して開いている気がする。
それでも他の培養槽を確認することをやめられない。これも、これもこれもこれも、全ての人間を知っている。
世界中の植物の種子を保存するプロジェクトを立ち上げ、世界種子貯蔵庫を創り上げたデンマーク人。
バベルの塔の悪魔と言われ、過激派宗教団体に殺されたこのスロバキア人は、この星に存在する全ての言語で使用可能な翻訳機の製造に手がけた人物だ。
更にその中にはつい先ほど会話したはずのアムリタまでも培養液に浮かんでいる。そして――――
「雪……花……」
そこに浮かんでいたのはシェファだった。一緒にいたからこそ分かるが、これは今日まで一緒にいたシェファではない。もうこれで、この家で禁忌を侵していることは確定した。
書かれた名は『雪花』。今の今まで気が付かなかったことが間抜けだが、中国の生まれならば名を漢字で書けるはずだ。
これでシェファと読むらしい、頭が割れるような頭痛がしてその場にうずくまる。スノウフラワー、雪と花。仕事を辞めた日以来の過呼吸が記憶を混濁させる。何か、何かを知っている。知っていた。思い出しそうだ。
シェファの持っていたあの妙な仮面は見慣れてしまったが凄まじい技術だった。やろうと思えば全くの他人にも変身できるのだから。
この世界で会ったことがあるとシェファは言っていた。創日にいた頃、自分でも疑問に思うほどに異様な速度で出世していた。
面接のときだろうか。会社の中ですれ違ったのだろうか。他人に化けていたシェファに。
「誰も、何も、愛したことはない。ただひたすら駆け抜けた」
「シェファ……!?」
本来なら雪花と呼ぶべきであろう少女が、壁に手をつきふらつきながら階段をおりてきた。
培養液に浮かぶ雪花とシェファに囲まれ頭がおかしくなりそうだ。
「夜だ。この国に、この世界に永遠の夜をもたらしてやる。歪な世を更に歪めて、富める者は更に富み、貧するものは更に貧す。この世の全てをかき集め、永遠に生きてやるのだ。……なぜ?」
「やっと理由が分かった。生まれてからずっとずっと頭の中に残っていた言葉……」
その瞳は赤みがかっているどころではなく、ほとんど黒が抜けて真っ赤だ。その目を囲むのは、何日も眠っていないかのようなどす黒い隈だった。
何かに魅入られたかのように、シェファの目から視線を逸らせない。吸い込まれるようだ、頭が割れて記憶が全部弾けてしまいそうだ。
いつかのシェファのように鼻血が吹き出た。
「何度生まれ変わっても君に逢いに行く」
「雪くん……!」
知らない名前、経験のない記憶。濁流のように感情が溢れ出し、自分が自分でなくなっていく感覚がする。
自分の名前が不安定になっていく、性自認があやふやになっていく、思考する言語すらも大渦に巻き込まれ壊れていく。
前世で会ったなんて、自分で言っていたけれどやっぱり信じていなかったよ。そうだったらロマンチックだと思っていただけ。
(雪くんって、だれ?)
たったいま口にした己の言葉すらも最早理解が出来ない。
科学の限界を超え、生命の禁忌を侵し、死を乗り越えて。二つの魂は最後の扉を開いた。
樹埜は最後まで樹埜でいられるのだろうか。自分で自分にそんな言葉を投げかける。
今度こそ、正しい選択を出来るのだろうか。9番目の願いだけが、か弱き自我の儚いよすがだった。