眠る君に花かんむりを   作:K-Knot

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Living Dying Message

 

 この地に法は存在しない。人権も存在しない。

 その辺の犬ころと人間の違いは言葉を話すかどうかだけだ。

 強盗があったとしても奪われるほど弱い方が悪い。武器を持っていないなんてもってのほかだ。

 

 だが、この地では誰だって生きていける。

 国を追われた者も、犯罪者も、国籍がない者も誰だって。

 どんなものでも買える。麻薬も人間も銃器も。

 なんだって受け入れる。死体も核廃棄物も親なき子も。

 

 少女もその一人だった。

 4歳で親に捨てられ、物乞いをしながら生きてきた。

 それだけでも絶望的なのに、更に少女には生まれつき左腕がなかった。

 

「落ちた涙 6月10日 ライター 眠れない夜……」

 ボロのお椀を地面に置き、ゴザを敷いてその上で必死に絵を描く。

 右腕しかないから描けば描くほどずれてしまう紙を膝で押え、うわごとを呟きながら描き散らす。

 

「のぼれない頂 落ちた橋 蟻食らう 高い コンクリート 内側……」

 いつかに聞いた言葉、どこかのラジオから流れてきた歌、悪夢の世界で言われた罵り。

 無秩序に言葉を呟き、単語を一回口にするたびに筆を一回振るっていく。

 まだ7歳の少女の特別な才能だった。

 言葉が一つ浮かべば次から次へと繋がって心地よい言葉が絶え間なく頭に浮かんでくる。意味は分かっていない。

 どこかで聞いた覚えのある言葉だけではなく、オリジナルの言葉すらも口から飛び出す。

 やがて言葉の渦に飲まれて自然とトランス状態に陥り、言葉は絵となり彩られて紙に出力される。

 

「…………」

 その日描きあげたのは見たこともないはずのロンドン橋が落ちる光景だった。

 レンガの一つ一つまでも精巧に描かれ、白黒のはずなのに常に曇り空の灰色のロンドンが見事に描かれている。

 確実に国が保護するべき才能であるはずなのに、道行く人々は少女にほとんど関心を持たない。

 たまに運が良ければ少女のパフォーマンスを見てお椀に金を入れてくれる人が現れるが、そんなに余裕がある人間はここには滅多にいない。

 

「よう。貰っていくぞ」

 お椀にビーフジャーキーを入れた男が少女の作品を手に取った。

 中と外を行き来するいわゆる商人の男は、この地の人間にしては恰幅がよくまともな恰好をしている。

 少女の対面でただのオブジェと化した電信柱に寄りかかって大麻を吸っている浮浪者とは天と地の差だ。

 

「もっていって、どうするの?」

 少女は普通に意味のある言葉を話すことだって出来る。だが、その事実を知る者すらもこの地にはほとんどいない。 

 この道を歩く大抵の人間は少女のことを頭が壊れてしまった異国の捨て子だと思っている。

 

「なんか知らんが売れるんだ。俺もうまい絵だと思う」

 

「売れる? だれに? いくらで?」

 

「どっかの綺麗なねーちゃんが買ってくんだ。……いくらだと思う?」

 

「しらない……」

 質問をしてみたものの、正直なところ食事をくれるならどうでもよかった。

 いくらで売れていようと、お札の金なんてこの地で子供が持っている時点で殺されて奪われるだけだと理解しているからだ。

 

「…………」

 男は去って行き、大麻中毒の浮浪者が吐きだしたガンジャの煙が風に乗り空に掻き消えていく。

 少女の鋭い感性が浮浪者の中で壊れていく世界を敏感に捉える。

 

「マリファナ嗜む 道路地面 よだれ垂らした スモーク吐いて迎える ハイバースト……」

 ビーフジャーキーを食い千切り、また描きだしていく。

 学校もないからこれしかやることがない。字の読み書きも出来ないが絵だけは自由に描ける。

 本来その少女は非常に感情豊かだった。だが、喜びも悲しみもこの街では役に立ちはしない。

 表情ではなく絵でひたすらに内側の世界を表現していく。いつも腐ったような酸っぱい臭いがする街とも呼べない街の中で、己の世界を強固に作り上げていく。 

 瞬きも忘れるほどに集中していると、大麻の甘ったるいにおいに混じって、この地ではあり得ない瀟洒な香水の香りが漂ってきた。

 

「…………?」

 この地で生きる人間は風呂なんて滅多に入れないからいつも髪がボサボサでガビガビだ。

 なのに、その女性は頼りない太陽の光ですらも反射するほど艶めいた黒髪をしており、赤みががった目でこちらを見ていた。

 女王がいけにえを眺めるように興味深そうに、血のように赤い唇を薄く開いて。年のころはまだ20になっていないくらいだろうか。

 自分と同じくこの地では圧倒的に若く、悪魔的に美しいためか道行く者は男も女も視線が彼女に釘付けになっている。

 お椀に入れればいいのに、初めて見る食べ物をわざわざ手渡ししてきた。

 敵意は感じないが一体。そう考えているうちに女性は隣に座ってきた。高価な服だろうに、こんな汚い地べたに直で座るなんて。

 

「続けて」

 優しい声色だったが、なぜか逆らう気が起きないほどに威厳と絶対性に満ちている。

 言われなくてもそうするつもりだった――――せめてもの強がりでそう思いながらペンを手に取る。

 

「上空 プリズム 砕ける秘密 札束 10ポイントダイヤ……」

 出来上がった絵は自分で見てもなぜそんな形になったのか分からなかった。ただただ浮かび上がる言葉を繋げて感覚を絵にしただけだ。

 それは月から見た地球だった。逆さまになった灰色の星から金銀財宝が宇宙へと放り出されていく。

 何を意味するかは見る人次第で変わりそうな絵だった。

 

「…………。お食べ」

 絵を手に取った女性はひとしきり眺めて満足そうに笑った後、食べ物の包装を剥がして渡してきた。

 チョコレート、とそこに書いてある文字すらも読めない少女はあまり美味しくなさそうな色味のそれを恐る恐る口に入れた。

 

「おいしい!」

 なんだか言っている言葉が違う気がした。

 本当は甘いと言うべきだったのだが、甘いものを食べたのが初めてだったので言えなかったのだ。

 

「なぜ目の色や肌の色が違う?」

 

「お母さんもお父さんもこの国の人じゃないから」 

 それだけは覚えている。逆に言えば、両親について他のことはほとんど覚えていない。 

 育てられなくなって捨てたことは分かるが、ならば生むなと何度思ったことだろう。

 

「私もそう。この国で生まれた訳じゃない」

 

「そうなの?」

 チョコレートをむしゃむしゃと食べながら不思議な雰囲気を纏う女性の顔を見る。

 確かに、道行く人とは少し顔立ちが違う気がする。

 

「夢はなに?」

 

「ひとの心をうごかす絵を描きたい」

 

「いつか出来ると思う?」

 

「思わない。たぶん、死んじゃうから」

 昨日の夜、何人もの男が若い女を縛って無理やり暗がりに引きずっていくのを見た。

 あれは未来の自分の姿だと思う。5年後か、10年後か。そう遠くない日なのは確かだ。

 だから今のうちに描くのだ。一つでも多くの作品をこの世に残すことが自分の使命だと感じているから。

 

「描きたいだけ描けるように……好きなように生きれるように。そんな国になってほしいと思わない?」

 

「……思う」

 チョコレートを食べ切ってしまい僅かな甘みを求めて指をしゃぶる。

 本当はこんなことはしたくない。ゆっくり時間をかけて絵をかきたい。お腹いっぱいご飯が食べたい。左腕が欲しい。

 

「私もそうだった。この国を変えたかった。この世界を……」

 

「おばあちゃんみたいなこと言ってる」

 少女の持つ言語感覚は同い年の子供の誰よりも優れており、目の前の相手の言葉がおかしいことにしっかりと気が付いていた。

 若い女なのに出てくる言葉はまるで老人のように過去を語っているのだ。実際のところ、年齢が良く分からないその女は静かに笑った。

 

「お前をこの星の王にしてやろう」

 

「変なの!」

 普通に考えれば冗談だ。7歳の子供でも分かるおとぎ話だ。

 笑い飛ばしてしまおうと思ったのに、ちゃんと笑い飛ばすための言葉は出たのに、何故か微かな笑みすらも出せなかった。

 

「名前は?」

 

「ウィヌシュカ」

 きっと恐らく、両親の国の言葉。

 そして間違いなく子供に付ける名ではないことは感づいていたが、それ以外に名乗る名が無かった。

 

 全てを奪われた少女の名の意味は『罪』。

 この国は他国の土地を奪い、人を奪い、才を貪り人を選別する。

 少女は本来ならば別の国で生まれ、その才を讃えられながら生きたはずだった。

 しかし現実の彼女は両親に捨てられ、読み書きすらも出来ず物乞いをしながら生きている。

 ウィヌシュカは正しくこの国の罪を生きながらに示している存在だった。

 

 

********************************************

 

 山から降りてくる風がいつの間にか冷たくなくなった。

 混ぜ物の多い大麻の煙はやたらと白色を空気中に残し風の線を描いていく。

 もうすぐ春が終わる。正直、こんなに生きていられるなんて思っていなかった。

 

「ねーちゃん、あんま大麻吸い過ぎると喉がおかしくなるぞ」

 

「ねーちゃんじゃない。ジュノ!」

 結局居ついてしまった武藤が割と本気で心配そうなトーンで声をかけてくる。

 年齢で言えば彼の娘であってもおかしくないくらいなのだから言いたいことは分かる。

 その呼び方はやめてくれとずっと言っているが、一向に改めない。

 

「ばぁさんが呼んでるぞ」

 

「うん、分かった」

 全然効かない大麻を握りつぶして携帯灰皿に入れて軋んだ玄関を開く。

 これまでは玄関を開いても一人分の靴がぽつんとあっただけなのに、今は玄関先に9人分の靴が散らばっている。

 何気ない日常の一部だが、見ていると笑みがこぼれる。サンダルを脱いで家の中に入ると奥からドタドタと遠慮のない足音が近づいてきた。

 

「ジュノー! ジュノ! アレックスがギター壊した!!」

 かつてアムリタと名乗り樹埜と対峙した少女がいた。そのアムリタと全く同じ顔をした女の子が涙目で樹埜に飛びつく。 

 女の子といっても、体格から判断すれば15,6歳なので遠慮のないタックルを受けて少々ふらついた。

 

「どうしたの、リタ?」

 

「壊してねー! リタが音が変って言ったから直してやってんだ!!」

 奥から走ってきた少年も、言動と見た目の年齢がやや釣り合っていない。

 それは当然だ。肉体は十代後半でも彼らはこの世界に生まれてまだ1年も経っていないのだから。

 やいのやいの騒ぐ二人に連れられて奥の部屋に行くと見事なまでに分解されたギターが目に入った。

 畳の上で寝っ転がりながら本を読んでいる少年は、大騒ぎする二人とバラバラのギターを完全に無視している。

 

「こわしたああぁああ! うわぁああああ!」

 

「だから壊してねーって! ちゃんと直るから!」

 

「ちゃんと直せるんだよね?」

 アレックスと呼ばれた少年が親指を立て、リタのギターを組み立て始めた。

 クローン元は機械工学の天才だったはずだが、才能はやはり遺伝子が決めているのか。バラバラだった部品が流れるように一つになっていく。

 

「ビル、それ面白い?」

 

「けっこう……」

 既に亡くなっているはずの金融の天才と同じ顔をした少年が読んでいるのは株の成り立ちに関する本だ。

 お金を使う場所など皆無なのに何故興味を持ったのだろう。

 彼らはみな、精神的にはまだ1歳になっていないはずなのに普通に会話ができ、それぞれの分野で才能を発揮し始めている。

 天才とはそういうものなのか、肉体の年齢に精神が物凄い勢いで追いついているのかは前例もないため分からない。

 

「ジュノちゃん、ちょっといい?」

 

「あ、ごめん。呼ばれてたの忘れてた」

 武藤と一緒に家に居ついたおばあさんがにこにことしながら話しかけてくる。

 先月アレックスが作り上げた義足の調子がよいのか、血色もいい。 

 そういえば年齢を聞いていないが、今見ると60代くらいに見える。

 

「お米がまた切れちゃってね」

 

「あー……うん、買ってくるよ」

 何しろ9人で暮らしているから食料は買っても買ってもすぐになくなるし洗い物も洗濯物も基本毎日だ。

 武藤とおばあさんがいてくれて本当に助かった。何しろいきなり体の大きな赤ん坊6人の世話をしなければならなくなったのだ。一人だったら発狂していたかもしれない。

 どう考えてもおかしな状況なのに、二人は何も聞かずに世話を手伝ってくれた。エクソダスの地で生きてきただけあって、彼らは大抵のことは受け入れてくれる。

 絶賛無職で大麻常習してるし最早逆立ちしてもここより外には戻れない。

 だが、あの頃よりずっと自分を誇りに思えていた。

 

 

********************************************

 

 両腕のタトゥーが疼く。明日は雨かもしれない。

 桜吹雪の彫り物は曇り空と雨が嫌いで、低血圧の頭痛以上に天気に敏感だ。

 

 こうなったからにはと試しに少し彫ってみた。何かが変わった気がした。

 人生で着たことの無かった服を着た日のように、変わった場所にピアスの穴を空けた日のように、社会の規定する正道を外れていくことは心地よかった。

 

(あ……また絵が描いてある)

 今にも朽ち果てそうなほどにボロボロで瘦せこけた裸の男が日本国旗に手を伸ばしている。

 引っ越してきた初日から色んな所で同じ作者によるものと思われるグラフィティアートを見る。

 ここ最近は模倣する人間が増えてきたのか、20cm四方以上の空白の壁は存在しないくらいにエクソダスの地は落書きだらけだ。

 だが、この作者の絵は一目で分かるほどに才能に満ち満ちていて寓意的だ。

 

「なんなんだろこれ」

 よく見ると日本国旗には意図的に線が描き加えられている。

 日の丸の内側に全ての頂点が接するように描かれた三角形。

 そういえばこの頃よくこのマークを見る気がする。

 

(まぁいっか)

 大量に買った食料を持って車へと戻る。

 鍵はかけているものの、長時間放置しているとこの地ではどうなるか分からない。 

 人もそれは同様で、特に身綺麗で金を持っていそうな女など強盗いらっしゃいと言っているようなものだ。

 自然と銃を持つようになったし、右腕につけているチタン製のトンファーには何回助けられたか分からない。

 

「……? 何してんだろ……」

 木造りのステージの上で男が何やらマイクを持って叫んでいる。

 道行く人も樹埜と同様に視線を吸い寄せられているし、立ち止まって見ている人も200人はいる。

 内容的には国への不満と要求をぶちまけているだけなので、この地の誰もが思っていることを言っているだけでしかない。

 だが、そもそもが負け続けて現代社会から追い出された人間の集まりだから、何かを主張するために叫ぶ集会というのはエクソダスの地では非常に珍しい。

  

「なんだあいつら……おかしなことやってんな」

 

「あ、ちゃんと全部買えた?」

 帰ってきた武藤が車のトランクに食料を積み込んでいる。

 この地で長いこと暮らしている彼からしてもやはり珍しい光景らしい。

 

「米は買えたが……パンとかシリアルはダメだ。高すぎる」

 

「……輸入品の値段が上がっているんだ。株も国債も円も大暴落しているから」

 あの夜の樹埜とシェファの行動で日本は戦後最大の不景気を迎えた。

 たった一年で創日の関連会社が1500社潰れ、数百万人規模の人間が職を失いその家族と共に路頭に迷った。

 日銀は必死に株を買い支えているが、国際競争力の低下は止まる気配もない。

 

「ほー。小難しいこと考えてるんだなぁ。ねーちゃん一体……外で何やっていたんだ?」

 

「…………」

 別に外で何をやっていたかくらい言ってもいいが、やめろと言っている呼び方がその気を無くさせた。

 だが、武藤も樹埜が外では結構な仕事をしていたことは察しが付いているようだ。

 それもそうだろう。この年齢で8人の家族を扶養できるくらいの貯蓄があるのだから。

 

「まぁ……でも今あんたがやっていることは偉いと思うよ」

 出会った時点で血の繋がりのない老婆を助けるために強盗までしていた男だ。

 無関係の人間を助けている樹埜の気持ちは分かるようで、それ以上は何も言ってこなかった。

 

『――――そう! 気が付いたか! ここには領土、国民が揃っている! あとは主権を勝ち取るだけだ!』

 ステージの男が叫んでいるのは、エクソダスの地の人々で独立運動を起こし、国家を作り上げようという内容だった。

 

『我々の行動は各国からの支援も受けられるだろう! 国としての条件が揃えばすぐにでも承認されるはずだ!!』

 売国奴ここに極まれりといった感じだ。と言っても、叫んでいる男自身も日本人には見えないが。

 だいたい国外からの支援を受けての国家の分断工作なんてどこの国でも行われている。エクソダスの地だけでなく、外でも普通に資金の拠出元不明なデモ行進が行われていた。

 それを自ら『他の国からの支援求めてガンバッてます』と明かすなんて悪手もいいところだ。

 変なことしているな、と思いながら車に乗り込もうとした時だった。

 

『さぁ紹介しよう。我らが革命の子だ!』

 

「…………?」

 革命の子、と言われた人物がステージに上がってくる。 

 ジャケットパーカーにつばの大きなキャップを被っているため顔はほとんど見えないが、隠し切れていない金髪が光っており、右腕のタトゥーが袖から覗いている。

 

(えっ!?)

 当然といえば当然かもしれないが、革命の子は仮面で顔を隠していた。樹埜が衝撃を受けたのはそこではない。

 朱い素地に黒い墨で模様が描かれ目の部分だけ穴が空いた派手な仮面。いつかにシェファがつけていた変面と同じデザインであったことに気が付き息を呑む。

 ステージに上がった革命の子はマイクを握るでもなく、手にした大きなナイフで木製の板にマークを刻み始めた。

 器用に描いた綺麗な真円の中に、円を割るかのような三角形を。

 

「あ……!」

 樹埜が気が付くのと同時に、そのパフォーマンスを見ていた人間が次々と気が付いていく。

 あの絵の作者だ、あの絵の作者だ――――仕上げに革命の子はラッカーのスプレーで円を真っ赤に染め上げた。

 

「戦え! 生き残るために!!」

 革命の子の声がマイクも無しに響き渡る。今度の叫びはステージで変な男が騒いでいた先ほどまでの演説とは質が違う。

 その声が脳に届いたのとほぼ同時に会場の誰もが理解する。

 これはシンボルだ。弱者達が立ち上がり内側から分裂した日本を表す象徴。

 

(まずい……!)

 だれもが数秒で意図に気が付く巧妙なデザインはまるで個人宛のメッセージのよう。

 自分だけがあの絵の意味を理解できた、と感じれば芸術の発信者と受信者の心の距離は縮まる。

 今この場にいる誰もが『自分は分かった』『俺は分かった』と考え、どこか遠い場所にあったステージ上の声を自分事としてとらえ始める。

 

(歴史が動く!!)

 樹埜の前でステージをぼんやりと見ていた男の目に生気が宿っていく。象徴が稲妻のように言葉を乗せて広がっていく。

 ただの弱者の寄せ集めが一つのシンボルの元に団結していく。イカれた革命派の熱意をそのまま受け取り伝搬させていく。

 

(この日を待っていたのか……) 

 エクソダスの地のあちこちにあるグラフィティを見て誰もが考える。

 これは誰が描いたのだろう。これはどういうメッセージなのだろう、と。 

 そして風船のように膨れ上がった疑問と不満に針を刺すように、唐突に答えが未来を持って現れた。 

 この若き才能に従えば、自分も動き出せば。もしかして野垂れ死にせずに済むようになるのかもしれない。そう思わせれば彼らの勝ちなのだ。

 もしかしてここだけじゃなくて日本中にあのシンボルがあるのだろうか。これはなんなのだ、と思った人間が何十万人いるのだろう。

 この流れが続けば遠くない未来に、日本はあのシンボルが示すとおりに『割れる』。

 

「あいつ……ウィヌシュカじゃねーか」

 

「ウィ、ウィヌシュカ……!?」

 

「俺の最後の客だ。……じゃなくて、ねーちゃんの前の客か。あのタトゥーは俺がいれたから間違いない」

 恐らくは日本最後のタトゥー彫り師が武藤だった。外でタトゥーを入れる人間がいなくなりこの地に来たが、ここでもそんなものを彫る人間はそうそうおらずに廃業したのだという。

 

「絵ばっか描いてた変なガキだった。しばらく見なかったが……こんなことしていたとは」

 何人かがこの様子を録画しているが、本当にまずい。日本の各地に点在するエクソダスの地に広がって世界中が大火に巻き込まれる。

 最悪の未来はもうすぐそこにある。樹埜は国家崩壊の序章を見ていた。

 

「…………!」

 帽子のつばを持ち上げたウィヌシュカと偶然目が合う。

 シェファが死んだから、アムリタが死んだからこの世の問題はすべて解決し悪はいなくなった、となるはずがない。生きている限り物語は続く。

 たとえば自分の人生が物語ならば、これは次の敵との出会い――――そんな予感を無視して樹埜は逃げるように車に乗り込んだ。

 

 

 

********************************************

 

 本来は決して数値化出来るものではないが、もしも彼女の才能の大きさを数字で示したら世界一となるだろう。

 死にゆく運命にあった小さなウィヌシュカに宿っていた超新星のような才能が爆発し、アトリエ中に広がっていた。

 

「……――――!」

 ウィヌシュカの養母、といっても年齢的には姉くらいの女が赤みががった目を大きく開いた。

 このアトリエに入った人間ならば誰もが同じ反応をするだろう。

 

 そのアトリエにはキャンパスはなかった。

 代わりに壁、床、天井の六面全てに絵が描かれている。まさしく才能爆弾がこのアトリエで大爆発したかのようだ。

 この部屋に入ってすぐに目にするのは幾千もの枝を伸ばした世界樹だ。

 枝にぶら下がるのはこの世のありとあらゆる動物と人間たちだった。

 リスも蛇も鳥も悪魔も、瘦せこけた貧民も肥えた富豪も、互いを蹴落としあいながら世界樹の中心を目指している。

 落ちた命は血と骨の塊となって枝にぶら下がる実となり新たな命を宿す。

 

 天井にはウィヌシュカが知らないはずの言語やこの世にはない言語の羅列が線をなし曼荼羅を描いている。

 太陽や月、星々や季節が言葉の線で出来上がっている様は世界中の人々が様々な言葉で定義した世界のよう。

 どのような立場の人間が見ても何かしらのメッセージを内々に見出すその作品は、世界の真理と人々の心の中にあるイデアを写し出したウィヌシュカの最高傑作だった。

 

 齢12歳の少女が1000時間もかけて己の中にある才能と狂気に浸りながら創り上げた作品。

 そんな自作を目の前にして少女は。

 

(怒られるかな……!)

 ワクワクしていた。

 この女性の養子になって5年、彼女が感情を露わにするところを見たことがない。

 たまには少しくらいは戸籍上の母を怒らせてみたかったのだ。

 値段など付けようもないはずの狂気の芸術の根源は、規模の大きいいたずらだった。

 親に構ってほしくて悪さをする、いたって普通の子供らしさもウィヌシュカは持っていた。

 

「すばらしい」

 だが、その当時世界一の大富豪でもあった女が部屋を汚された程度で怒ることはなく、感嘆の声をあげた。

 

「怒らないの?」

 

「怒る? どうして?」

 ウィヌシュカに宿った特別は、特殊な言語感覚や鋭い芸術的感性ではなかった。

 それらの才能は全て、普通の人間とは作りの違う右脳に集約される。

 五感で捉えた世界を受け取り処理する過程に常人よりも遥かに複雑な機構が存在している。

 ただの言葉であったとしても、その言葉と繋がりの良い言葉やその言葉が持つイメージが勝手に浮かび上がってくる。

 普通に会話をしただけであっても、僅かな表情の変化で普通以上に感情や考えてることが伝わってくる。

  

(なんだ……ほんとに怒ってないんだ……)

 ウィヌシュカは表情や声色から嘘と真実を見抜ける。

 だからこそ4歳という幼さで悪意渦巻くエクソダスの地に捨てられても生きてこれた。

 そしてその能力が普通ではないということも分かっているため、養母にもそのことは秘密にしていた。

 

「あれはなんだ?」

 女が指さしたのは世界樹の中心だった。

 壁一面、それこそ隙間も見つからないほどに細かくびっしりと描きこまれているのに世界樹の中心のみ何も描かれず白い壁のままだった。

 

「考えてみて?」

 

「…………。それぞれの願い」

 

「じゃあ、そうなんだと思う!」

 永遠の命であったり、金であったり、愛であったり。

 それぞれの願いに誰もが手を伸ばし、そのために人間も動物も互いに命を奪い合う。

 全ての命の願いなどウィヌシュカが決めることでもなかったので何も描かなかったのだ。

 

「お前はどれだ?」

 

「どれ……?」

 

「どれになりたい? これだけの命が描かれているのなら、なりたいものも描いたのでは?」

 

「…………」

 床を埋め尽くすように描きこまれた大量の骨に悪魔と餓鬼が群がっている。

 描きながら思っていたのはこの中のどれにだってなりたくないということだった。

 何も答えずウィヌシュカはアトリエの扉を閉じ、女が息を呑んだ。

 

 扉に描かれていたのは、星々満天の夜空の中でブランコをこぐ少年と少女だった。

 この部屋の中で唯一クレヨンの優しいタッチで描かれたその世界は、たとえ世界最強の戦士だろうと世界を焼き尽くす悪魔だろうと触れない二人だけの世界だ。

 二人の心の中には互いの笑顔しかなく、この部屋の中で二人だけが世界樹に一切興味を持っていない。

 欲も願いもなく、ただその一瞬を楽しんで生きている。

 無欲の二人であるがゆえに、こうなりたいと願ってしまえばもう『これ』にはなれない。

 部屋に入った人間は世界樹に圧倒されるばかりで、自分が優しい世界のブランコを揺らす宇宙の風になったことすらも気が付かない。

 それはきっと、世界一の大金持ちである養母も同様だった。

 

(この人でも、こういうのに憧れるんだ)

 その表情に映るのは感動だけではない。終わらないおとぎ話を望む少女のような憧憬だった。

 悲しみに泣いたことはあるのだろうか、怒りに震えたことはあるのだろうか。

 一緒に暮らしていてそんなことを思っていた相手のそんな表情を見れてウィヌシュカは満足だった。

 

「誰が勝つ?」

 

「勝ち?」

 

「争いあっているのに勝者もいないのか?」

 

「…………。この部屋の外にいる」

 

「…………そうか」

 この世界に生まれてしまえば、もうそれまで。

 ほとんど全ての命が願いを抱いて欲し、無欲な子供もいつしか大人になり残酷な世界に放り出され願いを追う。

 12歳の少女が描き出す巡る世界の真理だ。

 

「外にいながら、この部屋を見れる人かも……そんな人がいたらだけど」

 このドブ世界にクソのようにひり出されずとも、汗も流さず命も懸けずに喜びや悲しみといった感情の結果だけを受け取れる存在。

 ウィヌシュカが本を読んで感動するように、この世界にだって外から見ている誰かがいるのかもしれない。

 

「なら私は、この部屋を閉じてしまおう。せめて誰にも見えないように。誰にも見つからないように」

 ああ、その言葉はとても母とはいえないこの人らしいな、と思った。

 そうしてウィヌシュカの最初のアトリエは封印された。

 きっと世界レベルの芸術を独り占めにし、ウィヌシュカには屋敷の離れに新たなアトリエが造られて与えられた。

 

 それでいいと思った。

 誰もこの部屋をこじ開けたりしないでくれと願った。

 あの中のどれにだって、ウィヌシュカはなりたくなかったから。

 

 

********************************************

 

 改めて自覚するまでもないが、籌樹埜は日本史上最悪の犯罪者だ。

 誰かを殺したわけでも、金を手にしたわけでもない。

 ただただ、行った犯罪の影響範囲が大きすぎた。

 

 当然、住民票にも登録してあった元の家には住めるはずもなかった。

 いつ警察や殺し屋が来てもおかしくなかったからだ。

 東京から戻ってすぐに子供たちと留守の家を守ってくれていた武藤とおばあさんを連れてエクソダスの地の奥へと引っ越した。

 エクソダスも助け合わなければ生きていけないため基本的に彼らは集まって街を形成している。

 だがこの家の周辺には誰もいない。エクソダスには非常に珍しく樹埜は車を持っているからだ。

 なるべく他人との関りを断っていたおかげか、なんとか今日まで生きてこれた。

 

(死ぬ訳にはいかないんだよ……)

 少なくともあの子たちが大人になるまでは。

 子供たちを風呂に入れて洗い物をして寝かしつけて、ようやく自分の時間が訪れた。

 庭だと言い張ればどこまでも広い庭に生えた木に背を預け、吸い込んだ煙を夜空に吐きだす。

 何度も樹埜の命を守ってきたトンファーに触れる。風呂に入っている時以外は常に装備している。

 最早身体の一部となったこの武器は桜吹雪のタトゥーに影を落とすように右腕に取り付けられている。

 

(ウィヌシュカ……)

 シェファの変面を見た時は動揺したが、それでも自分の中で理屈を構築して平静を保った。 

 あのデザインが変面として特殊という訳でもない。たまたまデザインが被っただけ、彼女は顔を隠していただけと。

 だが、武藤がそれとなく口にした名前。

 

(シェファ……私、ようやく見つけたよ……)

 情報を全て公開してあとはどうにでもなれ、とそんな楽観的な性格をしていたらそもそもこんな状況になっていない。  

 当然、ばら撒いた創日の極秘情報をを一つ一つ読み、それが後の世界にどんな影響を及ぼしているのかも調べた。

 その中で一つだけ何故こんなことをしたのか分からなかったことがあった。

 

(あなたの娘を)

 特別養子縁組制度の変更案だった。

 配偶者がいなくとも収入や社会的地位に問題なしと認められれば子供と親子関係を結べるよう、国に圧力をかけて改訂させていたのだ。

 改定した制度の悪用による少年少女の性的虐待の例もあったが、身寄りのない子供を引き取り育てることはノブレス・オブリージュの実行でもあるため、割と日本はその改定を受け入れていた。

 こんなことをする人間だっただろうか、と違和感を持ち調べに調べ、ようやくシェファには養子がいたことが判明したのだ。

 しかし、神代家に樹埜が訪れた時点でウィヌシュカは家を出ており、どれだけ探しても見つからなかった。

 

(物語は終わらない……)

 ようやく見つけたシェファの娘はシェファと同じ面を付けて、この国の崩壊の最前線に立っていた。

 クローンへの意識の転送という手段を手にしておきながら、それが失敗した時の為の代替策も用意しておく。流石世界最大の悪党だ。実にシェファらしい。

 たとえいつか命が消えるとしても、意志を継ぐ者がいれば物語は終わらない。

 悪はこの世に栄えない、しかし決して死なない。その力強き炎を継ぐ者がいる。

 どくどくと動く心臓とよく回転する頭のせいで全く効かない大麻の火を消すと、庭の端の方で人の気配がした。

 

「雪花……」

 シェファと同じ顔をした少女が庭の花畑の前でしゃがんで何かをしていた。

 神代の屋敷から連れ去ったクローンの中には当然シェファのクローンもいた。

 ただ、どうしても彼女をシェファとだけは呼ぶ気にはなれず、日本語で雪花(せつか)と呼んでいた。

 雪花も例に漏れず身体の年齢に追い付こうとしているかのように、凄まじい勢いで言葉を覚えていった。

 だが、シェファと違い彼女が纏っていた威厳や絶対性、悪のカリスマといったものはなく、頭はいいが少々内気な女の子といった感じだ。

 当たり前だ。あの子の身体に宿っているのは天災の魂などではないのだから。

 

(何しているんだろう……?)

 なかなか眠れず、普段世話をしている花を見に来たのかと思ったが違う。 

 手のひらをまん丸満月にかざして息を大きく吸ったり吐いたりしている。

 声をかけていいものか戸惑っている間にそのうち、雪花の息が白くなっていった。

 思考が止まり鳥肌が全身に浮かび上がる。やがて月の光を集めるかのように輪を作っていた雪花の手に、月光を乱反射する氷の珠が出来上がっていた。

 

「ジュノ?」

 

「…………。雪花、どうしたの? 眠れないの?」

 

「見てて」

 氷細工を軽く雪花が握ると細かくヒビが入った。

 そこに雪花がそっと凍える息を吹きかけると、氷は砕け散り小規模な雪を降らした。

 自分がどれほど異様なことをしたかも分かっていない雪花は頬を赤らめこちらをじっと見ている。

 小さな子供が自分だけの『特別』を見せて親に褒めてもらうのを待つかのように。

 

(たっ……畳みかけてきた!)

 とうとう見つけたシェファの娘のことだけでも頭が一杯なのに。

 シェファの生まれ変わりのはずがない雪花に何故か雪の力が宿っている。

 胸の奥で心臓が痛いほどに暴れている。天は、世界の運命は一体自分達をどうしたいんだ。どうしろというんだ。

 混乱に黙ったままの樹埜を見て徐々に表情を不安げなものに変えていった雪花がとうとう口を開いた。

 

「私、おかしい?」

 

「…………!」

 世界一、いいや樹埜にとっては銀河一可愛い雪花には絶対にそんな顔をしてほしくない。そんなふうに思ってほしくない。

 もしも想像通りならばそれはこの世の全ての人間を滅ぼすための力。 

 そんな考えは全て飲み込んで純粋な言葉を口にする。

 

「ううん……すごい! きっと雪花はとても特別な子なんだね」

 たとえもし本当に雪花がヴァーリィバルフのずっと先の生まれ変わりだったとして、今度は最初から自分がいる。辿り着いている。

 もがき苦しみ悪となる必要などないのだから。間違えそうになっても導けるのだから。

 今度こそこの世の誰が敵となっても味方でいてあげよう。世界の終わりまで一緒にいよう。

 心から褒められて満足したのか、雪花は家の中へと戻っていった。

 

 地面にしゃがみ込み、雪花が生み出した雪の結晶を指でつまんで持ち上げる。

 名は体を表すと言うが、まさしくこの雪片は雪の花だ。きっと何かが更に間違って落ちてきてしまった雪の欠片が雪花には宿っている。

 

「…………!」

 そのまましばらく考えていると、月明かりが樹埜の身体に何者かの影を落とした。

 いつだってそうだが混乱というのは畳みかけてくるのが世の常だ。

 そっとトンファーに手をかけると同時に背後の人物が動く音がした。

 

「うっ!」

 振り返ってまず首元を防いで正解だった。

 確実に樹埜の首を切っていたはずのナイフがトンファーに当たり火花が散る。

 襲撃者はその反応に怯むことなくナイフを振り下ろしてきた。

 

「やるな」

 その変面の下から聞こえたのは女の声。パーカージャケットに深めのキャップ。今日目が合ったばかりなのにもう来てしまった。

 遠慮のないナイフの突きを頬が切れるほどにギリギリでかわしトンファーを振るう。

 

「仮面を取りなさい! ウィヌシュカ!」

 樹埜の身体に宿った運動神経が遺憾なく発揮されたその一振りは、仮面と帽子を弾き飛ばし、始まってしまった時代のうねりの首魁の顔を月光に晒した。

 

「籌樹埜……私を知ってるのか」

 空のように透き通った青い瞳、限りなく白に近い金髪。全貌は見えないが手に彫られたタトゥーは神の呪いを受けた戦紋のようだ。

 シェファと似ても似つかない娘のウィヌシュカは、計画の大きさに反してまだ20歳前後に見えた。

 

「知っている」

 

「なら私がここにいる理由も分かるよな?」

 

「…………」

 

「お前は母を殺した」

 およそ一番樹埜の心を揺さぶるであろう言葉が一番言われたくない相手から言われてしまった。

 一瞬動きが止まった瞬間、ウィヌシュカから強烈な掌底が叩きこまれた。

 188cm77kgという女性の中では最上級に大きな身体が宙に浮く。

 

「!? ぐっ、うっ――――」

 木に叩きつけられ横隔膜がせり上がって胃袋がひっくり返りたまらずその場で嘔吐する。

 右手で振っていたナイフは体格差もあって十分に防げる力だったのに、あの左手から繰り出された掌底はウィヌシュカの体格から出せる力の領域を大きく超えていた。

 

「……遺言、知りたいでしょ。走り書きだったけど。……『これは全部自分がやったこと。樹埜には手を出すな』ってよ!!」

 

「…………!」

 遺言という言葉を聞いて更に精神が揺さぶられる。

 そんなものを残していたのか。遺言を見れるのはウィヌシュカが家族だからだ。それを読んだ彼女はどんな気持ちだっただろう。

 未だに立てないほどに大ダメージを負っている上に心までもガタガタにされた樹埜の前にウィヌシュカが歩いてきた。

 

「どうせいつかどこかで死ぬとして、あんたを殺す権利は誰よりも私にあるだろう?」

 祭壇の上の生贄に儀式の短剣を突き立てるかのように、逆手に持ったナイフをウィヌシュカが振り上げた。

 無法者なりにまったくの正論を叩きつけられ、心のエンジンが再起動してくれない。身体中が痺れて立ち上がれない。

 ここまでか。まだまだ死にたくはないが、ウィヌシュカの言う通り、どこかの誰かに殺されるくらいならせめて彼女に殺されたい。

 満月の前で振り下ろされたナイフをいっそ微笑みながら見ていると、何かがウィヌシュカに飛びついた。

 

「ジュノにひどいことしないで!!」

 雪花がウィヌシュカの腕にしがみ付いていた。攻撃を妨害した相手を見たウィヌシュカの顔に衝撃が広がり、見て分かるほどの速度で瞳孔が開いていった。

 いまこの瞬間にウィヌシュカの脳内でどんな感情が交錯しているかなんて想像も出来ない。あまりにも残酷な絵面だ。

 動きが止まるのも当然だ――――と感じるのと同時にウィヌシュカの身体が凍り始めているのに気が付く。

 

「人に使っちゃダメ!!」

 再び心に火が付いた。軋み続ける身体を無視して飛び起き、冷たい雪花の身体を引きはがす。

 

「どうしてそんなことするの!? あなた誰!? きらい!!」

 凍ってしまって動けなくなった身体も気にならないほどにウィヌシュカが動揺している。

 

「なんだよこれ……なんなんだよこれは!!」

 どうして、誰、嫌い。

 親であったはずの者と同じ顔をした少女から言われる言葉。

 

 長い時間をかけて国内に分断の種をばら撒き、他国に反感を植え付け、悪意を加速させる悪政を数十年に渡って続けた。

 災害を引き起こすでもなく、違法薬物を蔓延させるでもない。全ては合法で誰も彼女を裁くことすらできなかった。

 シェファはヴァーリィバルフの転生体として間違いなく頂点に立つ大悪で、まさしく全ての人間を滅ぼす天災だった。

 その大悪の跡目が、天から授かった頭脳で稲妻のように全てを察し慟哭した。

 

 

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