なぜ人は悪役が好きなのだろう?
徹底した差別で虐殺を進めた独裁者よりも、生まれてから死ぬまで畑を耕した農家の方が立派だ。
そんなことは誰だって頭では分かっている。
けれど、人は時に悪に力強く惹かれてしまう。
悪とはなんなのだろう。
ヤツに聞いた時、こう答えた。
悪とは願いを叶える力の強さだと。
どんな人間も生まれれば必ず願いを抱く。
時にその願いの先で人を傷つけることもあるし、命を奪うことだってある。
ほとんどの人間はそこで立ち止まる。そこまでして叶えたい願いじゃないと妥協して、退屈で平和な人生を送る。
だけど、ごくまれに立ち止まらない人間が生まれる。
それこそが己が天命だと信じて突き進む者が表れる。
ほとんどの人間が諦めた願いを叶える強さを持った怪物が。
だからこそ、人は悪役に惹かれる。
もしもそれだけの強さが自分にあったら、と。
その憧れのまなざしを受けて、悪はより強く、まばゆく輝く。
そしてその力に魅入られて、新たな悪は生まれる。
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最初からおかしいと思っていた。
見た目の年齢に反して落ち着きすぎていたし、巨大な屋敷に住む大金持ちの割には親族の1人もいない。
そして決定的だったのは、ある日彼女が当時のウィヌシュカよりも幼い子供の姿で現れたことだった。
「王にしてやるって……魔王かよ!!」
「そうだ」
今の身体には大きすぎる私室の椅子に座った幼い母、シェファが短く答える。
見た目はビンタ一発で黙らせることが出来そうなただの子供なのに、彼女が放っていた威厳も空気も何もかもがそのままだ。
母の若返りに疑問を抱いたウィヌシュカがその疑問を解消するための何かを探して探して、ある日屋敷の中に隠し部屋を見つけた。
創日のこれまでの事業記録と保管されていた人クローンを見ただけで、感性鋭いウィヌシュカは全てを理解した。
母は王は王でも、魔王だったのだと。
「あんた何がしたいんだ!!」
「母上だろう。ウィヌシュカ」
椅子に座れば床に足も付かないほどに幼い少女が、脚をぷらぷらとさせながら母と呼べと言ってくる。
もう滅茶苦茶だ。状況と自分の頭のどっちがおかしいのか分からなくなってきた。
「なっなっ……なっ、なにが母上だ! 一度だって私に怒ったことあった!? 絵本の一つだって読んでくれなかった!!」
反抗期真っ盛りでかなり口が悪くなったウィヌシュカの怒鳴り声が響く。
自分が天才なのは十二分に理解している。ただ偶然見つけた才能を気まぐれで拾ったとしか思えない。
才能大好きだもんな、国民全員に検査を強制するくらいだもんな――――シェファの表情が一度も見せたことのなかったウィヌシュカの感情を受け取って変わっていく。
「私が捨てられたのも! あんな場所があるのも! 全部あんたのせいじゃないか!!」
「そうだ」
「世界でも滅ぼす気かよ!?」
「そうだ。それこそが私の生まれた意味だ」
「…………! なのに一人だけ捨て子拾って! 助けたつもりか!?」
「お前はあそこで死ぬべきではなかった」
「なんでそんなことをあんたが決めるんだ!」
「決められるからさ」
やろうと思えば法ですらも変えられるこの国の支配者だ。
その言葉には全く嘘がない。何よりも、死ぬべきではなかったという言葉にも嘘が無かった。
いったいどれだけの不幸と死をあの地で見てきたと思っているんだ。なぜ自分だけを救った。
勝てない舌戦に癇癪を起したウィヌシュカは左腕の義手を思い切り握りしめた。
「ぬぁああああああ!!」
机を弾き飛ばし、機械の拳を幼い子供になってしまった母に向ける。
一番最初にシェファが与えてくれたものがこの義手だった。想像通りに精緻に動く機械の指先はウィヌシュカのどんな要求にも応えてくれて、数えきれないほどの芸術作品を生み出した。
やろうと思えば米粒に住所を書くことも出来るし、車ですらもひっくり返すことが出来る。
当然、本気で殴れば人間など一撃で昇天する。のに。
「どうした。殴らないのか」
殴れなかった。そんなことは出来ないことは自分が一番分かっていた。
「く……う……」
親らしいことなどしてくれた記憶はない。
得意料理の一つだって知らないし、好きな歌だって知らない。
だが、毎年のクリスマスに成長した身体に見合う腕を取り付けてくれた。そんなかすかな思い出が怒りにブレーキをかける。
彼女が与えてくれたのは単に腕だけではない。なんだってすることが出来る自由だった。
「こ……ここであんたを殴っても何も変わらない……」
「そこで気が付ける賢さがある。だからお前は死ぬべきではなかったんだよ」
「…………」
「そうしたいのなら、世界を変えたいのなら。私の跡を継ぐのが一番早い道だと思わないか?」
「ふざけるな!! ……私は取り返しに来るぞ! この国を!!」
ウィヌシュカを見るシェファの目は――――反抗期の子供の癇癪を見守る大人のそれだった。
なんて腹立たしい。自分でもそう感じてしまうことにますます腹が立つ。
「お前は過小評価している」
「何を? あんたをか!?」
「違う。この世界をだ。この私が100年かけても未だ国一つ滅ぼせていない。世界は広く深く強靭だ」
淡々と語る言葉、表情に一切嘘はない。
100年もの時間を誰も愛さず、家族も作らず、ひたすらに国を壊して財産を築き上げ続けた。
それが事実ならば紛うことなき怪物だ。
「だからこそ求めるのさ。力を、命を、願いを。どうしたってこの世界に生まれたからには!!」
その言葉が何を指しているか。7年も同じ家で過ごしたのだからよく分かる。
本当は他の誰でもない母に贈ったアトリエに眠る傑作のことだ。
「お前に世界を変えられるかな」
何も気が付かなければ、何の欲も抱かなければ。
日がな一日、陽の光さすアトリエにこもって真っ白なキャンパスに好きなだけ絵を描けていただろうに。
あのブランコの少年少女のようにただその一瞬を笑って過ごせただろうに。
ギシギシと軋む義手を握りしめ、歯が砕けるほどに噛みしめながら出口へと向かう。
「待て」
「なんだよ。もうムリだ。出ていくぞ私は」
「……母として、お前にかけてやれる言葉もこれが最後だろう」
(何が母としてだ!!)
そう叫んで部屋を飛び出してしまってもよかった。
だがウィヌシュカもひしひしと感じるのだ。きっとこれが彼女との最後の会話になると。同時にその後の人生を縛り付ける呪いになるとも。
それでも聞かずにはいられなかった。
「全てを受け入れる覚悟なら、この世界にやってはならないことなど無い。お前はこの世界に生まれたのだから」
「…………」
「とても感情豊かになったな、ウィヌシュカ。私は嬉しい。胸を張って生きろよ」
まるで砂嵐のように感情が迸り、何かが溢れ出る前に部屋を出る。
嬉しい、そんな言葉を今まで一度だって口にしたことは無かったくせに。
なんで最後に嘘偽りない本音を口にするんだ。
受け取った言葉がウィヌシュカの特殊な脳内で稲妻のように駆け巡り言葉が次々浮かんでくる。
深く腰掛ける 玉座一人 女王
悪のホメオスタシス 純な結晶
砕けた言葉 家族 当然の振る舞い
もうない 交代 忘れた負け方
起きてみる夢ならまだ果て無い
「うっ……うぅ……」
感情豊かになればなるほど、脳が言葉の濁流に飲まれる。
今にも爆発しそうなこいつらをどんどん描きだして治めないと脳が熱暴走を起こして死んでしまう。
凡人には理解されない天才の苦しみ。何をどうするともまだ何も思いつかないが、この怒りも悲しみも、行き場を失った言葉たちも絵にしてばら撒いてやる。
日本中に描いて描いて描きまくって、自分だけが感じる世界に世界中の人間を取り込んでやる。
かつてのアトリエの前に立ったウィヌシュカが涙に濡れた唇を舐めて大きく息を吸い込む。
「うあああぁああ!!」
本気で殴れば熊ですらも一撃で殺す拳が封じられていたアトリエの扉を木っ端みじんにする。
無欲の子供が描かれた扉の欠片を踏みつけ幼い頃の画材道具を背負う。
「…………」
成長したウィヌシュカを数年前に描いた世界樹が見おろしている。
それぞれの願いを追い求める無数の命を乗せて。きっとここのどこかに母もいる。あれだけの力を持った女王でも願いには辿り着けないまま。
震える手で筆を握り一本の枝の上に金髪の少女を描く。結局分かっていても自分も仲間入りだ。
どうしたってこの世界に生まれたからには――――母の言葉が頭に反響し操られるように空白だった世界樹の中心に丸く赤を塗り込む。
願いを叶える木の実のようにも日の丸のようにも見えるが、一つだけ言えるのは完成していた作品を自分で壊してしまったということ。
涙を拭いながら屋敷を出ると、この状況を作り上げた元凶が庭で鳥を眺めていた。
「おや、家出かい?」
「アムリタ……! お前……わざと私を招き入れたな!!」
何故かこの屋敷で暮らしていた謎の少女。表現としては母のビジネスパートナーが一番しっくりくるか。
なんだこの怪しいヤツ、と言いたかったことは一度や二度ではないが自分の方が後に来たため何も言えなかった。
ウィヌシュカがシェファのことを調べていることを知ったのか、まるで狙ったかのように隠し部屋の入り口を閉じていなかった。
「違うだろう? 開かれた扉に入ったのが君だ。その道を選んだのが君だ」
「ああそうかい! もう私は帰ってこない! せいぜい二人で悪の魔王ごっこしてろよ」
「……君のような人間は嫌いじゃない。時に激動は時代の寵児の一石で訪れるものだ。足掻けるだけ足掻いてみせろ」
それはある種の直感だった。初めてアムリタを見た日から、小さな違和感が重なっていきある日確信したのだ。
「お前……人間じゃないだろ」
母であるシェファも相当人間ではないが、それはただの表現だ。しっかり腹も減るし夜は眠る。
だがこの少女から感じる全てが根本的に人間からどこかズレている。
感性が普通の人よりもずっと鋭いウィヌシュカだからこそ、感性の違いを鋭敏に感じていた。
世界の捉え方や、物事への執着、命の考え方。普通の人間らしく演じていてもやはり何かが違う。
「ああ、私は人間じゃないよ」
「妖怪め……」
ウィヌシュカに嘘は通じないが、当然例外はある。
たとえ幻でも信じ込んでしまっている者は嘘を吐いている自覚が無いので分からない。
常識や感性がそもそも普通から大きくずれている者もまた同様だ。
どちらにせよアムリタが普通の人間ではないことは明らかだが、少なくとも現時点で表情が真実だと言っている。
「しかし、不思議だな。使いきれないほどの金も、誰もが羨む才能もあるのにその道を行くのか。人間の命はどうせ短いのだから、今を楽しんで生きればいいのに。なぜそんな選択をする?」
ある意味当然のアムリタの疑問に、初めてウィヌシュカは考え込む。
母がなんであれ、愛情なんてほとんど感じずとも少なくとも虐待的なことは一つもされていないし、なんなら何不自由していない。
欲しいものはなんでも手に入るし、ワガママを言えば大抵のことは叶うだろう。
それでも、どうしてもこのままエクソダスが滅ぼされこの国が内側から崩壊していくことを知って許せないという感情が勝った。
なぜか。
「故郷だからだ!!」
たとえ誰もが認める最悪の地でも、その地にその地で育ち生きてきた。
ああ、あそこ消えるんだ――――そう言って笑うような心無い人間にだけはなりたくなかった。
何よりも。
自分を救った母にこの国を滅ぼしてほしくなかった。
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「故郷だからだ」
何故シェファの娘であるはずのウィヌシュカがエクソダスのために戦っているのか。
凍り付いた身体を慎重に溶かしながら、当然の質問を投げかけて返ってきたのはシンプルな答えだった。
「…………」
その気持ちは本当によく分かる。樹埜だって間違いなくこの国が嫌いだ。
それでも極限の状況下で出した答えは、この国が生き延びる道を用意することだった。
どれだけ複雑な感情を抱こうと、国と言語は人間の一番土台となるアイデンティティだ。
救われないのは、ウィヌシュカの行動もまた一歩間違えればこの国への破滅に繋がることだろうか。
そこまでシェファが織り込み済みでウィヌシュカを拾ったのか。それも今となっては分からない。
「さぁ、質問に答えたぞ。次はあんたが答える番だ」
「言っても信じないよ」
「いいから答えろ! お前みたいな普通の人間がどうやってあんなことが出来た!?」
「…………。私とシェファは前世も、その前の世界もずっと愛し合っていた。でもこの世界で出会った時、彼女はもう救いようのないほどに悪だったから、私が終わりを望んだの」
そうなると分かっていたが、ウィヌシュカは白い肌から更に血の気を引かせてドン引きしている。
おかしいことを言っているのは自分だと分かっているが、彼女には全てを知る権利があるから真実を伝えているのに。
「なんだよお前……クスリやりすぎてラリパッパじゃねーか」
「じ、じゃあ! 他に考えられる理由は? 私みたいな普通の人間が彼女に近づく方法は? 殺す方法は!?」
「知るか! あっ……あの……世界最大の悪党が!! こんなラリ公に殺されただと!? 納得できるかそんな話!!」
「お願い、静かにして! 子供たちが寝てるから!」
雪花をなんとか宥めて寝室に行かせたばかりだ。
起きてまた険悪な空気になったら困るのはウィヌシュカも同じはず。
「子供……たち?」
だが、ウィヌシュカは樹埜の言葉から全く別のことを察してしまったようだ。
あの家に暮らしていたのならば、知っている可能性は確かにあった。
止めるよりも早く立ち上がったウィヌシュカが乱暴に隣の部屋へと続くふすまを開いた。
「――――!」
雑に敷かれたせんべい布団で眠るクローンの子供たちを見てウィヌシュカの動きが止まる。
悪い予感は的中していたのだろう。ウィヌシュカは隠し部屋のクローンのことも知っていたのだ。
慌ててふすまを閉じウィヌシュカの手を引っぱる。
「触るな!」
振り回したウィヌシュカの手が部屋の隅に山積みにしていた荷物に当たり雪崩を起こす。
片づけをしていない自分が悪いが、日々育児に追われそんなものは全部後回しになっていたのだ。
「あっ!」
床にばら撒かれた荷物の中にあったスケッチブックをウィヌシュカが手に取る。
今度もまた止めるには間に合わなかった。
「この絵、全部あんたが描いたの?」
「……うん」
「ははっ。結構センスあるじゃん?」
金も若さも才能もある上にシェファの娘という、ウィヌシュカの全てが樹埜にとっては羨ましくて仕方がない。
しかも、はっきり言って樹埜は、人の心を惹きつけて動かすあの絵の作者に憧れている面があった。
確実にいま最も世界で一番注目されているアーティストによる遥か上からの言葉は樹埜の羞恥心を爆発させた。
外で話そう、の一言で終わらせただけでも十分大人だと思いたい。
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もう一度頭から自分の経歴とここに至った経緯を説明してもウィヌシュカは怪訝な顔を変えようとしなかった。
当たり前だと思う。立派に社会人をやっていた頃の自分にこれから数年の自分の人生を話したところで『なんだこの危ないヤツ』としか思わないだろう。
縁台に座りパラパラとスケッチブックを見ていたウィヌシュカが立ち上がった。
「邪魔したな。もう来ない」
「嘘でしょ、もう行くの!?」
帽子を被りなおして行ってしまおうとしたウィヌシュカの手を握って引き止める。
反抗期から抜け切れていない少女感はあるが、それでも根本が善であることを感じる。
殺そうとまでしたのにやめたのは眠る子供たちの姿を見てしまったからだろう。
「あなたを探していた。ずっと探していた!」
「なんでだよ!」
「一緒に暮らそう、ウィヌシュカ」
「放せ! マリファナくせーんだよテメェ!!」
◎◎臭いという言葉の中でも最悪の部類に入る罵倒をされて衝撃のあまり手を離す。
否定しようにも立派な大麻中毒者だから何も言えない。
「確かにあなたの親は私が殺した。それでも、あなたの未来に私も力を貸すから」
「親!? 親だと!? あれが人の親やれる人間に見えたかよ!! どんなっ……どんな顔してあんた達と……家族ごっこを……」
かつての自分の母と同じ顔をしているのに、ほぼ同年齢で中身子供の別人と暮らすなんて、どんな気分か想像も出来ない。
こうなったからには、ウィヌシュカを探して保護するのは自分の責任だと思っていたのに。
「家族、ごっこ……」
同じ言葉を繰り返し呟いたウィヌシュカが急にえずいてその場に胃袋の中身を吐きだした。
あまりにも感性が鋭すぎて、己の言葉すらも自分の心を傷つけるのだろう。
残酷な提案をしてしまった――――帽子の影から月明かりに光る透明な雫が流れた。
「メリージェーン 420 デルタ9 神の息吹 クッシュ プッシュ……」
心が傷付いて血を流すかのように、ウィヌシュカの口から独立した単語が繋がって流れてくる。
感情昂ればシャーマンよりもずっと早く、大麻に頼るもよりずっと深くトランス状態に達する。
いつだって発狂しそうな天才の繊細な心の防御策は、才能の爆発を見ているかのようだった。
樹埜からすれば羨ましい才能も、あるいはウィヌシュカにとってはまともな生活を許さない呪いでしかないのかもしれない。
内側で弾ける感性に耐え切れず廃墟の壁に才能をぶちまける彼女の姿が目に浮かぶかのようだ。
「一度だって、抱きしめてもらったこともなかった……。私の好きなお菓子の一つだって知ろうともしなかった……」
「…………」
「あっ、あっ……あの女! あの女!! 人を愛する感性とかあったのかよ!!」
スケッチブックを乱暴に捲ったウィヌシュカが最後のページを開き、耐え切れずその場に膝をついてしまった。
静かに微笑むシェファに膝枕される樹埜の絵。記憶が遠く消えてしまう前に描いた絵の中で、二人は互いに愛に溢れた目で見つめ合っている。
彼女のように誰かの心を動かす絵を描いてみたかったが、その夢は現実になった。その相手が世界最高峰のアーティストだなんて素晴らしいことではないか。
だがそれでも、こんな風に誰かを傷付ける作品を描くつもりは――――本質的に似た者同士だった樹埜はウィヌシュカの本音に気が付いてしまった。
「ウィヌシュカ……あなた……。シェファに愛されたかったのね……」
顔を上げたウィヌシュカの表情が真実を語る。
一番言ってはいけない言葉を一番言ってはいけない人物が一番言ってはいけない相手に言ってしまった。
「うるさい! うるさいうるさい! 私は大金持ちだぞ!! 愛されたところで一銭も貰ってねーんだろ!! 私が娘だからな! ざまーみろ!!」
ウィヌシュカの爆発が、樹埜のこれまでの行いの中で最も残酷なことをしてしまったことを示す。
心のやわらかいところに無遠慮に足を踏み入れた不埒者を叩きだす言葉をウィヌシュカが矢継ぎ早に吐きだす。
「自分だけは他と違うとか思ってんじゃねーだろうなぁ!? お前も所詮他の有象無象と同じだ!! 自分さえよければいいって!! どいつもこいつもそう思った果てがこの国なんだ!!」
言葉は悪いが、ウィヌシュカの主張は真実だ。どれだけ言い訳を作ったところで、樹埜が己の誇りのために独善でこの国に大打撃を与えたことは間違いない。
そして国は予想通りに揺らぎ、その機を逃さずウィヌシュカは本格的に行動を開始した。
「クソくだらねぇ凡人め! 才能なくて可哀そうに! 私は天才だ羨ましいか!! 世界を変えるのはこの私だ! お前じゃない!! これからは私の時代だ!!!」
一つ一つの言葉が実際はウィヌシュカ自身を傷付けている、誰が見てもそう思うだろう。
大粒の涙と鼻水を撒き散らしてせっかくの美人が台無しだ。
流石に大騒ぎし過ぎたのか、寝室の窓が開いた。
「なに? 誰!?」
アムリタのクローンであるリタとアレックスが顔を出し騒音の犯人を見ている。
他にも起きてしまった子供たちが外に出てきた。その中には当然雪花もいた。
「ジュノ……」
樹埜に刃を向けていた相手が大騒ぎしている。
そうとしか思っていない雪花が不安げに手を握ってきた。
その行動がウィヌシュカの心をどれだけ乱すかなんて想像するはずもない。
「……はっ。せいぜいそこで平和に野垂れ生きてろよ」
「ウィヌシュカ! …………」
握りしめた拳から金属が軋むような音を鳴らしながら、大きく鼻をすすったウィヌシュカが最後の言葉を吐き捨てた。
うなだれながら去って行く彼女にどんな言葉をかけられようか。
その背中は、今まさに世界をより混乱に陥れようとしている人間とは思えないほどに小さかった。
そして完全にいなくなってしまった後に気が付いた。
スケッチブックを持っていかれてしまったと。
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最初は独りぼっちだった。
懐かしき滅ぼゆく地で目にした全てを、ただひたすら感性に乗せて壁に描き散らかしていた。
バイクに乗って東へ西へ、寝ても覚めても描いていた。自分にはそれしかなかった。
一年も続けていると模倣して作品を描く者が出てきた。あなたの作品を見ていると直接声をかけてくる者も現れた。
数年経って、力を貸したいと言ってくる者たちが現れた。その頃には頭の中である程度の計画が出来上がっていた。
気が付けば仲間がいた。いつの間にか一人ではなくなっていた。
テントの中で樹埜の家から持って帰ってきてしまったスケッチブックを捲る。
ウィヌシュカだって絵を描くのが好きだった。本当は道具になんかしたくなかった。
だが、空手のウィヌシュカが人を動かすならこれしか思いつかなかったのだ。
(『君がため 咲く白花は 雪形見』 ……?)
更にスケッチブックを捲っていたら、急に謎の俳句が出てきた。
俳句としてははっきり言って0点だ。あなたのために咲いた白い花は雪の形見です、と言ったところでだからなんだと感じる。
だが、どういう訳か言葉選びや並びはかなり好きだと感じる。
(いや、これ俳句じゃなくて短歌なのかな……?)
このスケッチブックにそもそも未完成の作品が多いことや、俳句にしては情景が完成していないことを踏まえると、これは俳句ではなく下の句がまだ書かれていない短歌なのかもしれない。
自分だったらどんな下の句にするだろう。スケッチブックを閉じてナイフを取り出す。
『反乱!? 彼らも立派な日本国民ですよ? 私たちが現状をよしとし続けてきた結果でしょう!』
「…………」
仲間が集まるテントの中でナイフを研ぎながら、ボロのテレビが映すワイドショーに見入る。
先日のデモがこの国に与えた結果を知りたいのか、全員がテレビに注目している。
『では何をどうするべきだとお考えですか? 彼らは追いやられた訳ではなく、自らエクソダスとなったのですよ』
『一体だれが望んで今までの生活を全て捨てるんですか? 法人税や相続税をあげて可能な限り富の再分配をして、これ以上望まずエクソダスになる人を増やさないようにするべきです。就業支援を行って医療費も国で持つ。人材活用もまともに出来ずに何が大国だって世界中から笑われますよ』
二世議員として与党かつ最大の政党に席を置く一方で、変わった主張を繰り返してきた議員が早口でまくし立てる。
今までは国益にならない主張をする変な議員程度の扱いだったはずなのに、ここ最近の世の流れのせいか彼の名前をテレビやネットニュースで見ない日はない。
国民の一斉才能適性検査は彼が先導となり賛成多数で廃止となった。
創日の息のかかった議員数が激減したせいでもあると思う。
適性検査を行っている会社は創日の子会社であり、国の業務委託先でもあったからだ。
全員行うのではなく、本人もしくは保護者が申し込んで検査をするという、普通の会社の普通の事業となった。未来はもう誰にも指図されない。
籌樹埜の行動が善か悪か、今でも自分には分からない。
『同性愛者の結婚も認めるべきというご意見はこれまでの党の政策と矛盾するものだとの意見もありますが……』
『国が何を言おうと子供を作らない人は作らないですよ。それよりも国として認めてあげて彼らの権利を守ってあげるべきです』
『ゲストの志吹風雅議員でした。続いては――――』
これ以上はNGと出たのか、まだまだいろいろと飛び出そうだったのに打ち切られてしまった。
テレビを見ていた仲間の一人がそっとテントから出ていく。
(ガムジン……)
鋭くなったナイフを手にし静かに後を追う。
ウィヌシュカが言えたことではないが、ガムジンという名の割に彼は日本語が非常に達者だった。
この組織を作ろうと持ち掛けたのも、仲間を集めたのも、ステージで司会をしたのも彼だ。
だがウィヌシュカは真実を見抜く。誰が味方で誰が敵かを見抜くことが出来る。
抜き身のナイフで錆びたシャッターにガリガリと傷を残しながら更に追うと不意に手を掴まれた。
「ウィヌシュカ……」
ゴザの上で座って物乞いをするその男は、かつてウィヌシュカに食料を渡しては絵を持って行っていた商人の男だった。
昔は恰幅がよかったのに今は見る影もないほどに痩せているうえに、片手が無い。そばにはボロボロの松葉づえが置かれている。
理由を聞いたことはないが、外で事故にでも遭ってしまったのだろう。
もはや怪我一つでも脱落するのがこの国の今だ。
「おっさん……」
ポケットの中にあった金とキャンディを全て渡す。
昔の恩を返しているだけのつもりなのに、名も知らぬ男は救世主の手にすがるように震えながらウィヌシュカの義手を握った。
「死なないよな? 大丈夫だよな? お前……」
「死ぬもんかよ」
短く答えてガムジンの後を追う。
人通りもなくなったところでガムジンは衛星携帯を取り出していた。
「ガムジン、誰に電話だ?」
「…………。おぉ、ウィヌシュカ。なんだこんなところで」
「誰に電話だって言ったんだが」
「別に、なんてことはねぇ相手さ」
至極当然の話だが、エクソダスの地に生きる人々は回線契約が出来ないので電話など通じない。
この時点で外の誰かに電話しようとしていたことは明らかなのに、それを隠そうとしている。
「ガムジン、私は生まれつき人の嘘が分かるんだよ……。だからもう答えなくていい」
「あ……?」
「お前、『目的』が違うだろ。誰かへの指示の電話か? まずいと思ってあの議員を消そうとしたな?」
「何を言っているかさっぱりわかんねーぞ」
視線が一瞬右上を見て、唇を舐めた。常識的な返答なのに表情は嘘を吐いている。
言っていること全て意味不明だったのに表情は真実を語っていた樹埜と真逆だ。
「裏切り者め。目的はなんだ? どこかの国の為か? 金か?」
まだ祖国のためなりなんなり大義を掲げてくれた方が良かった。
だが最初期からのメンバーの行動目的は金の為だったと顔が語っている。
「あのなぁ、ウィヌシュカ。平和は戦争の準備期間だ。差別があるから平等なんて言葉ができたんだよ」
「私はこの国のために、この世界の未来のために私の芸術を捧げている」
「てめえの未来も俺の未来も滅茶苦茶なことにゃ変わんねぇだろうが。ご大層な精神論振りかざしてんなよガキが」
「自分が助かりたいだけだろ? 自分だけ生き延びて利益を啜るつもりか、ヒル野郎め。テメェみたいなカスが1番気に入らねぇんだよ!!」
怒りがヒートアップしてきた。脳裏に矢継ぎ早に罵倒が浮かんでくる。
抑えないと発作のように口から次から次へと言葉が漏れて意思疎通不可能なトランス状態に入ってしまう。
「今更この流れは止めらんねーぞ? 止める方法知りてぇか? ぐちゃぐちゃに犯されてブッ殺されたお前の死体を晒すことだ」
品性の下劣さはこの際無視するとして、確かにそんなものがネットに晒された日には全て終わりだ。
エクソダスのために立ち上がった自分がそんな結末を迎えれば、やはりあの地は救う価値のない獣の根城、消し去って然るべきだと国民は思うだろう。
「互いに得のある話してやろうか。金ならやるからやめときな」
「おめーのどこにそんな金があんだよ」
怒りを抑えて交渉しなければ。そう意識した時点で既に周りが見えていなかったようだ。
周囲からぞろぞろと男たちが出てくる。冷静になって数えたら16人いた。なんとまぁ、主要メンバーの半分も裏切り者だったとは。
普段から『気付いているぞ』とにおわせながら接した結果だ。全員引きずり出すことが出来たと前向きに考えよう。
「先にその手札を俺が持っておくのも悪くない気がしててな。性病になる前に死ぬから安心しろ」
「私の名前は神代ウィヌシュカ。神代家唯一の跡継ぎだ」
「なんだそりゃおい! お前ら笑え!!」
小さい頃、若い女が暗い路地に男たちに引きずられていくのを見た。
いつか自分もああなるのだと思っていて、その最悪の未来は今日やってきた。下卑た笑いがウィヌシュカに叩きつけられる。
真実が見抜けないのは実に損だと思う。言っていることは全て本当で、どっかの国へ消えてくれるのなら一人頭10億だってやるのに。
「お前に出来るのは『せめて痛くしないでください』って懇願することだけだ」
「ああ、全員ぶっ殺してやるぜ!!」
その叫びとは真逆に踵を返して走り出す。
まさかそんな脇目も降らずに逃げ出すとは思わなかったのか、男たちの反応が僅かに遅れた。
「追え! あの女ァ犯してぶっ殺せ!」
「逆でもいいですか?」
「そうしとけそうしとけ! 食いちぎられるかもしれねぇからな!」
「…………!」
固く握った義手が軋んで歪な音を出す。
左腕の義手には普段から人工皮膚を付けているから、誰も義手であることは知らない。
それは仲間であっても同じだった。いつか使うことになるかもしれない最後の切り札だったから隠しておいたのだ。
「どうしたおい! 逃げる方向が違うぞ!」
「うるせぇ! 追い付いてみろよ!!」
人のいる街の方へ逃げないのかと言っているのだろうが、残念ながらエクソダスの連中は目の前で女がレイプされようが人が殺されようが助けない。それも分かった上での汚い煽りだ。
だからこそ、この革命の火は貴重なのだ。ようやく互いのために立ち上がったこの火をこんなところで消すわけにはいかない。
やがて見えてきた廃校の窓をぶち割って中に飛び込む。
(そうだ! 全員入ってこい!!)
階段を駆け上がっていくウィヌシュカの耳に追手が廃校に入ってくる音が届く。
このまま各個撃破してもいいが、彼らの装備が分からない以上それもまた悪手だ。
三階に辿り着き、奥の教室に入って扉を閉める。
「はぁっ、はぁっ! ばっかみたい……!」
この国を壊したのも、この国を終わらせようとしているのも、この国を再生させようとしているのも全て外国人だなんて。
早まる鼓動から送られる血液がウィヌシュカの特別な脳に送られる。出力されてきた映像は、いつかの日にブランコの絵を見て憧憬を顔に滲ませていた母の姿だった。
その映像が樹埜の手を握る雪花の記憶と重なり呼吸が早まる。ああ、何一つ理解出来なかったけどあの二人に嘘は一切なかった。
二人は辿り着いたのだ。
「自分だけいち抜けたってか……!」
お前だっていつか大人になるんだ、考えるようになるんだ、自分が何者かって。
やがて気が付くんだ、隣の女がどれだけ罪にまみれているかを。自分の存在がどれほど悪の塊なのかを。
「じゃあ……なんで私を拾った……」
思い出とは実に厄介だ。ほんの少しだけ感じ取った愛情が全てを狂わす。それさえ、それさえなければ自分は。
壁に寄りかかって後頭部を軽く黒板に打ち付けると同時にガムジンが教室に入ってきた。
「バカかお前……? 隠れるにしても普通息を殺すだろ」
「バカはお前だ。どこの誰の走狗か知らないけどさ、生かしておく価値があると思うか? お前のような知りすぎたカスを」
「あっそう。汚ぇ教室だ。これなら外の方がマシだったな」
上着を脱いだガムジンが近づいてくる。わざわざ視界に入りやすい位置に立ってやったというのに、下半身に血液が行き過ぎて何も見えていないようだ。
「頭の回転も鈍いうえに視野も狭いとはたまげたよ。生きやすそうで羨ましいな」
「おい、もうそろそろ土下座でもした方がいいんじゃねえか?」
「傾国の扇動者にしちゃお前には足りねーなぁ! ガムジン!!」
「何が足りねぇんだ。言ってみろよ」
「先を読む力さ」
黒板を指さしてようやく男たちの視線がそちらに向かい、そして動きが止まった。
赤い日の丸に三角形、立ち上がった弱者達のシンボルが描かれていた。
その絵の意味するところは、ウィヌシュカがこの場所に来たことがあるということ。
つまり、逃げた先にこの廃校があったのではなく誘い込んだということ――――時間にして僅か数秒の隙に左腕の義手、ドレッドノート・アームの出力を全開にして床に叩きつけた。
「げほッ、ほんっとに汚ぇ学校だな!」
床をぶち抜いて下の階に着地したはいいが大量に巻き上げられたかび臭い埃がウィヌシュカの気管を攻撃する。
呆気に取られていたのもまた数秒、上の階からガムジンたちが迂回して追いかけてくる音がする。
「もういっちょ!」
更に床を砕き割り下の階に到達する。目標の職員室まで狂いなく降りることが出来た。
金だってそう、あの仮面だってそう、遺されたものは全て使ってやると決めたのだ――――遥か未来でアーマード・テンタクルスと呼ばれることになる兵器がウィヌシュカの背から飛び出す。
蜘蛛の巣のように展開された金属製の機械の触手が職員室の柱に巻き付いていく。
これから人を殺すことになる。
この地に生きる誰もが、人として生きて人として死ねる日のために。
その目的のために何十万人という人間が死ぬことになる。
ためらうな、振り向くな、命を惜しむな。
悪となることを恐れるな!!
「うぉおおおおお!!」
束ねた金属の触手を機械化された腕で掴み、あらん限りの力で引っ張っていく。
華奢な心臓を軋ませて一歩ずつ歩みを進めると、職員室中から重たい破壊音が鳴り始めた。
このまま行けば大変なことになる――――本能からの警告を無視して更に腕に力を込める。
魂を燃やした芸術で、地を這う言葉で、全員に分からせてやる。
自分が蹴り落としている側であることを。いつだって落ちる可能性があることを。誰もが当事者であることを。
この国に生きる全ての人間が国を変える意識を持つその日まで。
「ああぁああああ!!」
とうとう柱がへし折れ土台ごと引っこ抜けた。
天井が崩れてウィヌシュカも何もかもを巻き込み、廃校が粉塵巻き上げながら崩壊していく。
職員室の破壊が最後のとどめになるように、事前にこの古臭い木造の学校の構造を調べ上げ必要な支柱や梁を壊しておいたのだ。
計算通りに崩れ行く学校は裏切り者どもをぺしゃんこにして完全に平らになってしまった。
「だあっ!!」
崩壊した校舎の中から飛び出し瓦礫の山の上に立つ。
機械の腕を軋ませながら太陽を背負い、蠢く触手の影を地に落とすウィヌシュカは瓦礫の国の女王のようだった。
脊髄の接続部から五感の情報を読み取り、その場で最適な行動を自動的に触手が行うその技術は、遠い未来でリアクティブ・ガードナーと呼ばれる。
視界に情報が入れば人間の反応よりも素早く正確に動き、装備している者の命を守ってくれる。
己が身に付けているオーバーテクノロジーの塊の正体も知らないウィヌシュカは、しかしいいものを遺してくれたと初めてアムリタに感謝した。
「全員ぶっ潰れたか……!」
見渡す限りが瓦礫の山だが、それはこの地に限ったことではない。
日本中を旅してあちこちでこんな場所を目にしてきた。弱者に全ての負の要素を押し付けて、偽りの繁栄を築き上げたこの国の現状を見てきた。
ならばもう全てを一度まっさらに戻そう。世界中誰も彼もが強制参加のパーティの始まりだ。
「……悪運のいいヤツめ」
本来なら二階のベランダ部分に下半身を潰されながらも動いている男が見える。
なんとなくそうだろうなと感じたとおり、ガムジンだった。
その道を征くならば――――神がいるのならば、そんな言葉が聞こえるかのようだ。
世界は新たなヴィランの誕生を祝福している。
「はっははははっ!! ガムジン! あの世じゃ射精も出来ねえなぁ!?」
「うっ……う……ウィヌ、シュカ……なんだ、こりゃ……」
既に死にかけでぐちゃぐちゃのガムジンを触手で引っ張り出し持ち上げる。
奥の手は取っておくものだ。そしてそれを使うのならば更なる奥の手も用意しておくものだ。
才能はあれどただのか弱い女と思い込んだのが裏切り者の運の尽きだった。
「お前の国のサボタージュマニュアルにゃあ、想定外の技術を持った敵への対処法も書いてなかったのかい? そりゃいつかは私も死ぬだろうさ。だがな、お前みたいな木っ端がこの私を殺れるか!!」
建物すらも破壊するパワーを持った触手でガムジンの身体を締め付けていく。
悪意の偶然か、あるいはガムジンのものだったのか。足元に落ちていた拳銃を拾い上げ死にゆく裏切り者の額に銃口を突き付けた。
「や……やめろ……。金がほしかっただけ……、幸せに生きたかっただけだ……」
「命乞いをするな。……悪には悪の美学がある」
思い出すのは誇り高き母の姿だった。可能な限り多くの人間を破滅させたいという純粋な悪意、いっそすがすがしいほどの大悪党が母だった。
同じ悪でもこの男と何が違うのか。怯むことすらもしない悪の性、自分の命を他のどんなことにも委ねない力強さ。
死の直前までその気高さが崩れることは無かっただろう。見てもいないのにそう確信が出来るほどに、ウィヌシュカは純粋悪の魂に心酔していた。
誰だって生まれたからには幸せになりたい。
このクソ広い世界の中で大切な誰かを見つけて星空の中でブランコを漕いでいられたらどれほど幸せだろう。
そんな幸せを壊しに来る奴がいる。そんな奴は誰からも恨まれる。だから悪は栄えない。
誰だって生まれからには願いを持つ。時にその願いが誰かを傷つけることもある。
人を押しのけることを戸惑わないほどに強く願う者が時に生まれる。
そして人は悪になる。願う力の強さが悪を生み出す。
純粋な願う力の強さ、その輝きは、一番星のようにまばゆく人を惹きつける。
「私は悪になる」
悪はこの世に栄えない。しかし、悪は決して死なない。
トリガーに指をかけるウィヌシュカはしかし、瓦礫の下から自身に向けられた銃口に気付くことはなく――――銃声が廃墟に響き渡った。
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中学校から帰った少年は両親にただいまも言わず部屋のベッドに飛び込んだ。
返ってきたテストの答案を細かく千切って部屋にばら撒き、12歳の誕生日に買ってもらったヘッドホンをつける。
鼓膜が破れるほどの音量で音楽を再生し、学校の指定かばんを蹴飛ばし枕を殴りつけ暴れる。
将来ロックンローラーになりたいんだ
そう言って検査してみたら少年の音楽の才能はDだった。中古のギターすらも買ってもらえなかった。
テストの結果は313人中278位だった。また完璧人間の姉と比べられる。
言われなくても、両親が言葉にしていなくとも分かる。おかしいのは自分の方だ。
高校教師の母と競輪選手の父から生まれた搾りかすのような自分が悪い。生まれてしまったのがおかしい。
洗濯カゴから盗んだ姉の下着を頭にかぶりパンツを降ろす。
学校に好きな子はいるがまともに話しかけることは出来ない。体育着の一つ盗む勇気だってありゃしない。
どうせ自分の下の名前だって覚えてもらっていない。将来同窓会に呼ばれることだってないだろうし、卒業アルバムにぶっかけてる将来の自分の姿が今からでも想像できる。
今にも張り裂けて飛び出してしまいそうな叫びを姉の下着を口に突っ込んで無理やり抑え、少年は力いっぱいオナニーをした。
その衝動を誰が理解してくれようか。
誰の役にも立たない、何の才能もない少年が部屋で一人狂ったり泣いたりしているだけ。
カスだしクズだしゴミだ。そんなことは自分が一番分かっている。
「――――っと! ちょっと!!」
「!!」
やっと届いた声に扉の方を見ると、青い顔をした姉が下着を顔に被っている変態少年を見ていた。
鍵をかけ忘れていたことを今になって思い出した。今日も絶好調に人生はうんこである。
「何しているの!? それ私の、」
「うるせっ、うるせぇ! いらねぇよこんなもん!!」
全く何も悪くない姉に向かって下着を投げつけ、扉へと押し出す。
どうして自分の人生はいつも悪い方向にばかり転がっていくのだろう。
大騒ぎするにしても鍵を駆けないのが悪い、姉はノックしたはずと理性的な部分は正解を語るが知ったことか。
「出てけ! 出ていけよ! ぶっ殺すぞ!!」
姉を追い出し乱暴に扉を閉めて今度こそ鍵をかける。
いや、鍵をかけたとして親に言われたらなんと言い訳をすればいいのだ。
絶望に打ちひしがれ扉の前にへたり込むが、聞こえたのは姉が部屋に戻る音だけだった。
成績優秀なうえに優しい姉は弟の奇行を親に言いつける気はないようだ。そういうところも本当に嫌いだ。
とりあえず納まりがつかなかったのでオナニーを再開し、何故か今までで一番濃いガムのような精子をティッシュに発射してベッドに倒れ込む。
パンツも履いていないがもうこのまま寝てしまおうかと思った時、スマートウォッチが震えた。
動画サイトからの通知だった。
「いつか……人間でなくなる……君たちへ……」
僅か数週間で登録者数が400万人を突破したその投稿者の動画は一つしかなかった。
エクソダスの地で行われた異様に引き込まれるアジテーションの映像、それのみだった。
2つ目の動画――――高鳴る鼓動、どうしてかタイトルに痛む胸を押えて動画を開く。
(あの女だ……)
いつか人間でなくなる君たちへ。
そう黒板に書いたのはいま世界で最も注目されている人間だった。
パーカーに帽子、変な仮面を付けて名前も年齢も出自も全て謎の女。
日本の味方なのか敵すらも分からない。分かるのは、彼女の目指す未来にはとんでもない混乱が待っているということだけだった。
撮影場所はどこだろうか。電子黒板でないことやこの荒れ具合から察するに廃校の教室のようだが。
映像にカットが入り女がカメラの置かれている机の前に座った。
『匿名の壁に守られている時だけ誰かを傷つけることくらいしか出来ない、だけどいつか自分もそっちに行くかもしれないと怯えているそこのお前』
(…………!)
少年の趣味はネットの世界で弱者を攻撃することだった。下を叩くことでしか最早自己肯定感は得られなかった。
才能優遇政策を続けた現在の政党を賛美し、エクソダスに堕ちた弱い人間を夜な夜な匿名で叩き強者を演じる。
気付けば少年はSNSで東大卒の凄腕株トレーダーになっていた。現実はオナニー以外に特技がない偏差値40のシコ猿中学生なのに。
『今どきっとしたそこのお前だよ。才能適性検査が消えて内心ほっとしているお前』
またもや少年の心の刺さる言葉を投げてきた映像にまたカットが入る。
教室に散乱した机を蹴飛ばし椅子を投げたかと思えば、どこから持ってきたのか人体模型と肩を組んで踊って楽しそうだ。
ああ、何が言いたいんだか分からないがこんな風に生きれたら心晴れ渡るだろうな。
映像の制作意図の通りに少年の心が取り込まれていく。
『だから今、お前のために話すよ。あのシンボルの意味を理解したそこのお前に話しかけるよ』
「…………」
『生まれた時から人間扱いされないヤツがいる。気が付いたら人間じゃなくなってしまったヤツがいる』
女が黒板にチョークで落書きをする姿が早送りで映り、言葉が続けられる。
コミック調の絵柄で描かれた髭むくじゃらのホームレスが、半分腐った林檎を眺めてぼんやりしている絵が出来上がった。
未来ある子供たちが授業を受ける教室にふさわしい落書きとは思えないが、妙に廃校にマッチした絵のようにも思える。
『所詮人間も動物畜生。弱き赤子として生まれ、弱き老人として死ぬ。そしてこの国は弱者は人間じゃないと言う。お前はいつ人間でなくなるかな』
映像に見入りすぎて、音声がアテレコであることにかなり遅れて気が付いた。
仮面の奥の瞳は青く、帽子から僅かに見える髪は金色――――異邦人だ。それなのに流暢に日本語を話している。
この国で生まれた外国人がどんな歴史を持っているか、勉強が全体的に苦手な少年ですらも知っている。
ルーツをそれとなく示すためにわざとカメラに寄っていることにも気が付かぬまま、動画の再生時間は進んでいく。
『残念だけどお前の未来予想図は当たっている。どこかで蹴落とされ、誰も助けてくれず、ボロ雑巾みたいになって仲間入りするんだ。私たちのな』
死ぬ瞬間まで、この国が悪いと言いながら。誰かのせいにしながら。
言われなくたって分かっている。家族は悪くないし、姉は理想的な姉だと思う。
それなのに当たり散らしてしまう。誰かのせいにしないとやってられないから。
『お前は間違っていない。ただ生まれただけだ。願うことすらも許されない器に閉じ込められた』
「ただ……生まれただけ……」
なんで生んだんだと母親にキレた日、家族はみんな泣いていた。泣きたいのはこっちの方だ。
そんなことを言ってしまったクズな自分が惨めすぎて泣きたかった。
『違う!! 誰だって願っていい!! 未来を!!』
突然の叫びに両頬を引っぱたかれたかのような衝撃を受け、思わず正座する。
相変わらずパンツも履かずに下半身裸のままメッセージを受け取る。
『あのシンボルは敵が掲げているのか? それとも本当はお前の背にあるものか?』
今度は通常の速度で女が黒板に絵を描いていく。何を描くのか、女が赤いチョークを持った瞬間に分かった。
三角形に割られた赤い日の丸を背負った女がカメラに向き直る。
なんて羨ましいんだろう。なんてすがすがしいんだろう。この女のように、あのシンボルを背負えたなら。世界を動かせたのなら。
『お前は弱い。いつか世界に押しつぶされ何も残らないだろう。だが一人じゃない。お前のように、どこかで誰かが毛布を被ってこの動画を何回も再生している。弱いお前と同じ弱い誰かがいる。それでいいよ、世界中の人がBAD押してもお前らが100万回見てくれたらそれでいいよ』
カメラの前に座る女が急に上着を雑に脱ぎ始めた。パーカーも帽子も脱げ、絹のような金髪がばらける。
西洋絵画のように綺麗な上半身に見とれたのも一瞬、左腕に違和感を覚える。
ブラの紐とは別に銀色の線が見える――――ベリッ、と音が鳴ったと錯覚するほどにあっさりと女は人工皮膚を剥がし、機械の腕が露わになった。
義手だ、と息を呑む前に機械の左腕を外して机の上に置いた。
『私の名前は神代ウィヌシュカ』
女が極彩色の仮面を外す。その名を名乗りながら。
神代という名前は織田や徳川と同じくらいには日本中の人間が歴史を知る苗字だ。
なぜあの財閥家の名を外国人が名乗るのか。それが事実だとして、どうしてこんなことをしているのか。
顔も晒して名乗った今、嘘かどうか判明するのも時間の問題だった。
『誰が何と言おうが私は人間だ。生まれてから、死ぬまで』
片腕が全くないという生まれながらの弱者としか言いようがないウィヌシュカは、しかし力強く顔を親指で拭って赤いチョークの跡を顔に残した。
その一挙手一投足の全てが鮮烈で、少年の心を落とすには十分な程に眩しかった。
『お前はどうだ?』
開かれた窓のサッシに立ったウィヌシュカは、一階や二階には見えないのに、窓からそのまま後ろ向きに飛び降りてしまった。
一瞬映像にノイズがはしり、再びシンボルが映し出され再生時間が終了した。
「俺は……」
映像が終わっても脳裏に張り付いて消えてくれない。
散らかった机に向かってふらふらと歩きマジックペンを掴み、手にシンボルを描く。
「人間でいていい」
100人が見て99人には届かないメッセージ。
それで十分だった。日本中にいる、いつか人間でなくなることに怯える者達に、少年にメッセージは届いたのだから。
大爆発したウィヌシュカの特大の才能が大火となり日本中に、世界中に広まっていく。
この世に生きる全ての人間を巻き込む火祭り開催前夜のことだった。
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天災の化身という世界最大の悪は消えた。だからどうした、世界は続いていく。
願いを叶える力を他の人間よりもずっと強く持つ人間は生まれる。
それを悪と呼ぶのならば、いつだって新たな悪は生まれる。
ウィヌシュカが世界中に公開した動画を樹埜も当然見ていた。
見てすぐに分かった。ウィヌシュカは死ぬ気なのだ。このために命を懸けている。
もしも国が割れてしまえば、単なる分断だけでは終わらない。
シェファの悪政の中でも最悪なのは経済的属国に核を作らせていたことだろう。
日本に経済依存していて貧乏なのに核だけは持っている国々が、いざ日本が壊れた時どうなるか想像に難くない。
結局ウィヌシュカは母と同じ道を辿っているように見えるが、動画を見て考えが変わった。
彼女はここで燃え尽きようともその火を数えきれないほどの人に継がせようとしているのだ。
本当ならば憎くて仕方がない樹埜でさえもその聖火を渡す相手なのだ。
なんて芸術家らしい刹那的な生き方なのだろう。
「ウィヌシュカ……」
玄関そばに生えている樹に血に汚れたスケッチブックがナイフで刺し止められていた。
恨みごとか、伝言か。何か書き足されていないか探したらやはりあった。恐らくは最後のウィヌシュカからのメッセージ。
「えっ……?」
いつか続きを考えようと思っていた短歌に下の句が書き足されていた。
絵のセンスばかりでなく、こんな純日本的文化まで理解しているとは。
「どういう意味だろう……霞……。…………!」
下の句に出てくる『霞』の意味とウィヌシュカの行動を考えてようやく分かった。
霞が関だ。強者優遇を続けた強者の集いであるこの国の行政組織の力が弱まっていることを言っているのだ。
「冠……国盗りか……」
更に出てくるのは『冠』という単語だった。自然に考えれば権力や力の象徴だ。
この下の句は政府に対しての宣戦布告なのだろう。
奪われた人権や希望、未来。その全てを返してもらうと言っているのだ。
(くそっ、好きだな……このセンスやっぱり)
それを何故か自分にだけ伝えに来るところも含めて。完全に敵対してしまったが、まっさらな印象で言えばウィヌシュカは人としてかなり好きな部類に入る。
ナイフを懐にしまって山の方を見ると霞が薄らいでいる。狙ったのかたまたまか、霞は春の気象現象の一つだ。
この前まで雪が降っていたのに、今日はTシャツで外を歩けるくらいだ。
そろそろ花畑の花も沢山咲き始めている頃ではなかろうか、と見に行くと。
「雪花! おはよう。早起きだね」
「……ジュノ! ……おはよう」
花畑の前でしゃがんでいた雪花が明らかに背中に何かを隠した。
これがシェファだったら――――そう考えるのはよくないと思いつつも、つい考えてしまう。
何か隠したいものがあったとしても堂々としているだろう。あるいはそもそもこんな場面にならないように行動するだろう。
やはり雪花とシェファは別人なのだ。
「うわー、綺麗に咲いたね」
「うん、スノードロップ……たくさん咲いた」
本来なら3月ごろに咲くはずの白花は、今年の冬が厳しく長かったからか春も終わりかけてようやく咲いた。
禁断の果実を食べてエデンの園を追われ、悲しむイヴをあわれんだ天使が、舞い落ちる雪をこの花に変えたのだという。もうすぐそこに春はあるから、と。
ただの言い伝えだが、実際にエデンの園から来た生き物を知った今は全てが全て作り話とも思えない。
「花か……」
小さい頃は母と一緒に育てていた。最初に模写したのも花だった。
いつか花畑のある家で暮らすのもまた夢だった。
(…………)
スノードロップに触れて考え込む。
きっと次の生も上手くいかない。絶対に『雪』を見つけてみせると信じてるし、願っている。
見つけるだろうし、必ずまた出会うだろう。そういう星の元に生まれた私たちだから。
だが、若いうちに出会って共に健やかに老いるまで過ごせるとは到底思えない。
こうしていればよかった。ああしていればよかった。
たった数時間の超越者体験でもそう思うことは沢山あるが、『雪』ですら覚えていられなかったことをどうして自分が来世覚えていられようか。
次もきっとうまくいかない、苦しみの地獄は続く。
だがそれでいい。
永遠の別れよりも、永遠に共に苦しみ続けたいと二人で願ったのだから。
「この前の怖い人……いまどうしているの?」
怖い人。確かに雪花にとってはそれ以上でもそれ以下でもないだろう。
そんな人を樹埜が気にかけているのが不思議で仕方がないのだろう。
きっと雪花がそっとその手を握るだけでも壊れてしまうほどに繊細な子だなんて、考えもしないはず。
「戦っている。自分が……自分であるために」
あの動画の再生回数は凄まじい勢いで伸びていき、元動画が削除されてもあちこちに転載され大火事となっている。
他のどんなものにも頼らず、自分のことは自分で決めろというメッセージは、樹埜にとっても思うところが多々ある。
「ジュノも戦ったの?」
「……うん。とても……とっても永い間……戦って……追いかけ続けた。だからいま、みんなと――――」
言いかけて口を閉じてしまう。みんなと一緒にいられるのは、自分のために戦ったからだ。
そう言うべきなのだ。手本である大人として。だが本当は違う。分かってはいるが、違う。
どの子も大切だが、やはり雪花が一番大切で特別なのだ。
大人としての振る舞いをしなければならないが、彼女の前でだけは仮面を外したい。
「だから今、雪花の隣にいれるの。私はそれがとても嬉しい」
「そっか……」
シェファと同じ顔をした雪花が頬を赤らめ、照れ隠しにうつむいた。
この銀河一可愛い子を見てくれと世界中に自慢したい。それだけでもう自分にとっては何もかも十分だ。
だが今更ながら、小さな世界で生きる雪花は自分をどんな存在だと思っているのか気になった。
「雪花はどうしてこの世界に生まれたんだと思う?」
どうして生まれたのか、なんのために生まれたのかさえも知る樹埜はあえてそれを隠して尋ねてみた。
そんなことに縛られずに自分のことを決められる人に育ってほしかったから。
雪花の瞳の色が空の青を反射して痛いほどに青い。現実を映す鏡のように透き通ったその目が樹埜の姿勢を正す。
これから雪花は真実を答える。一言だって聞き逃してはならない。
「ジュノに逢うために」
樹埜の目に映るのは、遥か遠い世界のいつとも分からない過去の記憶。
運命の歯車が壊れて生れ落ちた羅雪天が、化物の兜を外して心からの言葉を語った時の姿だった。
それが樹埜の頭が勝手に作り出した幻覚なのか、どこかの世界で本当にあった出来事なのかは確かめようもない。
信じる今だけが現実だった。
「何度生まれ変わっても、ジュノに逢いに行くよ」
言の葉に魂を込めた契りが姿形記憶全てを失っても尚残る。
誰も信じない夢だと笑われたって構わない。この言葉を何度も言ってくれて、本当に何度も逢いに来てくれたのだと信じている。
「ジュノ、あのね」
「うん?」
「渡したいものがあるの」
「渡したいもの? いったい――――」
比喩ではなく、本当に呼吸が止まり全身に鳥肌が立った。
雪花が背中から取り出したのは、スノードロップで作った真っ白な花かんむりだった。
頭の中で宇宙が膨張していくように記憶が遡る。ここには天災の化身も邪悪な蛇もいないのに、再び感覚が生と死をまたいでいく。
奴隷の少年だった時も、戦士の男として生まれた時も、病におかされた少女だった時も、ただ幸せになりたかった女性だった時も、あの時もあの時も。
これまでの命でついに受け取ることが出来なかった『雪』の形見とまごころ、重なるウィヌシュカの最後のメッセージ、最後の願い。
「受け取ってくれる?」
理屈を超えた予感がする。これもまた運命の分かれ目。
眠る奴隷に贈られ続けたこの冠は、到達点と呪いの象徴。
受け取ってしまえば世界はまた繰り返すのだと。
「うん!」
最早己の宿命すらも忘れた小さな天災の化身が、樹埜の頭上に真っ白な花かんむりをそっと載せる。
山の向こうからのぼり始めた太陽が薄れゆく霞をかき消し、触れれば壊れそうなほどに純粋な結晶をより力強く輝かせる。
それは世界の運命に抗い続けようやく迎えたこの日を讃える勲章のよう。
この花かんむりを戴いたばかりに、私と雪の愛地獄は続いていく。
そして季節は巡り雪は何度だって降る。
「大好き!」
永遠に。
「私も大好き!」
私のために。
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君がため 咲く白花は 雪形見
薄ら霞に 冠いただく
おわり