眠る君に花かんむりを   作:K-Knot

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悪夢の袖引き

 

 兄である烈との出会いの日をアニマと眺める。

 体格は父に似て恵まれていたとはいえ、××は勉学に勤しむ優等生だった。喧嘩だって好きでしたことはない。

 その××が、見た目からして反社会的勢力の男たちに囲まれ、格闘技で用いられるようなリングの上に立たされていた。

 

「ほら、付けろよ」

 対面に立った烈が××の足元にオープンフィンガーグローブを投げてきた。

 

「ふざけるな、俺は帰――――」

 言いながらグローブを蹴り飛ばした瞬間、顔面に掌底が飛んできた。

 鼻血を噴きながらロープまで飛ばされる数瞬の間に、父から受けた数々の暴力が肌の下まで浮かび鳥肌が立った。

 

「帰れねえって分かんだろ? 俺はチャンスをやってるんだ」

 

「…………」

 

「俺にタイマンで勝てたなら帰してやる。逃げるならフクロにする」

 

「意味が……分からん……」

 

「意味!? 兄弟喧嘩に意味なんかねえだろ!!」

 脚、腹、顔と決まった綺麗な連撃は明らかに格闘技経験者のそれだった。

 ロープにもたれ掛かった××のレバーに向けて更に拳が刺さり胃液が口から飛び出る。

 

「兄として……賢い××くんに教えてやろうってんだ。いいか、そのよく回る頭に刻んでおけ」

 防ごうにもほぼ反応できなかったミドルキックが××の肋骨を砕き、吐いたばかりの胃液の上に倒れ伏す。

 烈の身長は低く見積もっても190cmはあり、体重も100kg近いだろう。テレビの格闘技すらもほとんど見ない××が逆立ちしようとも勝ち目はなかった。

 

「暴力は必ず先手を取る。ずいぶんと勉強が得意みたいだが、法学部で勉強したほーりつは今お前の身を守ってくれてないだろ」

 

「お前……どこまで知ってんだ……」

 烈の口ぶりはまるで××の経歴を全て知っているかのようだった。

 攻撃を一時的にでも止めてほしいがために咄嗟に口にした言葉だったが、烈は自分の調査結果を自慢するかのように答え始めた。

 

「朽名××。21歳。東京大学法学部四年。父は小学4年の時に失踪、母は中3の時に癌で死亡。伯父夫婦に引き取られるも、高3の時に事件に巻き込まれて死亡。合ってる?」

 

「それで、何がしたいんだ。俺をボコボコにしたらお前の頭はちょっとでも良くなるのか」

 軽口の代償に××は思い切り背中を踏み付けられ、とうとう口から血が噴き出た。

 

「俺ぁ親父に似てよぉ。暴力は大分いい線いってんだけど、勉強はからっきしだったんだ」

 

「お前らの……頭になれってか……」

 

「ちげぇよ。頭と手足になれってんだよ。俺は啜るだけ。暴力は必ず先手を取り、暴力が最後に全てをかっさらう」

 薄れていく意識の中で××の腕の大やけどが目に入る。

 いつだって理解は後だった。暴力は自分の全てを奪い去り、後から法が遅れて大層な言葉をのたまっていた。

 それが××の人生だった。

 

「お前の頭がいいのは母親に似たのか? そんな訳はねえか。賢かったら、あんな男のガキなんざ生まねえ!」

 

「てめぇ!!」

 とうの昔に亡くなった母への侮辱は一瞬痛みを忘れさせ不格好な反撃を出させたが、見事なカウンターを鼻っ面に叩きこまれて××は再びマットに沈んだ。

 周囲の男たち――――烈の部下たちが笑う。

 烈は恐らくヤクザではない。ヤクザならあんなタトゥーをべたべたと入れたりしない。

 だが、須能という苗字とこの暴力は、間違いなく父と正妻の子であることを最早言葉は不要な程に証明していた。

 

「でも知っているぜ。××、お前。お前も知らねえはずねぇよなぁ?」

 

「…………」

 

「ほとんど喋らない、泣かない、友達もいない息子……なんらかの障害を疑った母親が、小学生の頃にお前を病院に連れて行ったな。そこで検査されたはずだ」

 

「やめろ……」

 

「なぜ朽名夫妻はお前を即座に引き取ったか? 甥のためとはいえ、その日まで会ったこともない伯父がそんな決心を即座にするか? しかも引っ越しをしてまで? ああ、そうするさ。誰だってそうする。俺だってそうする! 現に今そうしている!! あの遺言書を見たら世界中の人間がそうするさ!!」

 

「やめろ!!」

 ずっと考えないようにしていた。

 母が亡くなった後、初めて会った母の兄がすぐに自分を引き取ってくれた理由。

 何十年も会っていなかったのならそれなり以上に母は伯父と不仲だったはずだ。

 それを全てひっくり返すほどの事実が遺言書に書いてあったからだ。

 ××は負債ではなく、財産だと示す証拠と共に。

 

「IQ190のギフテッド、10億人に1人の天才。この子は将来きっと、その頭脳が莫大な金を生むはずだからと」

 

「…………」

 僅か3年余しか一緒に暮らせなかった伯父夫婦は、とても優しかった。

 彼らの間に子供が出来た後も、扱いに差を付けることなく接してくれた。

 受けた愛情に理由を付けたくなかった。心から恩返しがしたいと、そう思っていたからこそ前向きに勉強をしたのに。 

 もうこの世にいない。真実は分からない。

 

「やっぱ六法全書? とか読むだけで覚えちゃうのか?」

 

「はっ……バカの考える天才って感じだな」

 分かってはいたが軽口には鉄拳が飛んできた。

 そろそろ意識が飛んでしまいそうだった。

 

「俺も欲しいなぁ、その頭……。東大に入っただと? そんな凡夫共と混ざってどうする!? 俺がお前を使ってやる!!」

 

「お前、お前みてえな単細胞野郎に俺を使えるか! 何も分からねえくせに!」

 

「分かるぜ××!! 女やテメエのガキにも手をあげるとんでもねぇクソ親父だったろ!! 俺もそうさ! 死ぬほど殴られた!!」

 どうやら烈と××のクソ親父は正妻の子であろうと妾の子であろうと変わらず暴力的に接していたらしい。

 むしろそれは平等と言えるのかもしれない。

 

「でも俺とお前じゃ違う部分がある。お前は何も教わらなかっただろうが、俺は教わった」

 

「道行く大学生を誘拐する方法か?」

 

「強くなれと教わったのさ」

 血に汚れたタンクトップを烈が脱ぎ捨てる。

 タトゥーに覆われたその肉体は余分な脂肪を削いで鍛え上げられており、金剛力士像の隣に並んでも劣らない迫力を持っていた。

 テレビで見るスポーツマンや雑誌に載っている格闘技の選手と比べてもなお完全に近いと、素人が見ても分かるほどの完成度。

 天は××に頭脳を、烈に肉体を分けて与えたかのようだった。

 

「所詮人間も動物畜生。明日もこの瞬間に核ミサイルが飛んでくるかもしれない世界。暴力は必ず先手を取る。暴力は、全てをかっさらっていく」

 それなりに身長体重があるはずの××の身体を軽々と持ち上げ、首を絞めてくる。

 暴行罪、略取・誘拐罪、口ではなんとでも言える。

 だが、身よりもない××が烈に目を付けられた時点で詰みだった。

 ここで烈の思い通りの結果になるか、死ぬかしかない。

 

「服従しろ。俺に従うと言え」

 

「…………死ね」

 

「言葉だけじゃ『空』の仇も討てない」

 プツンと頭で音がして、同時にブチブチと首筋からも音がした。

 烈が肉食獣の捕食のように××の首に噛みついていたのだ。

 痛みに理解が追い付く前に、首の肉が食い千切られていた。

 

「冷ッ!? てめぇ、なんで血が冷――――ッ!?」

 烈の言葉は途中で止まってしまった。

 口の周りにべっとりと付いた血が凍り付き、烈の舌の動きを止め、呼吸までも阻害していた。

 烈も、周囲の男も、××本人ですらも何が起きているのか分かっていなかったが、××は周囲が動く前に口に溜まっていた血を烈の目に噴きかけていた。

 勝機は今しかないということだけは理解していたからだ。

 

「おっ、あッ!?」

 果たして予想通りに××の血は凍り付いた。烈の目を塞いだ凍った血の上から指を捻じ込む。

 全ての圧力が運の悪い方向に働き烈の右目は飛び出てしまい、××は遠慮なく眼球を引き抜いた。

 蟻がようやく動けるほどの呼吸しか出来ていない烈の首を掴み、マットの上に押し倒す。

 

「ッ!! ッ!!」

 暴れる烈の抵抗を火事場の馬鹿力で押さえ込み、ぎりぎりと首を絞めていく。

 肉親の肌に食い込む指先から流れ込んでくるのは、人生に足りなかったもの。

 暴力の快楽、奪うことの喜び。悪の目覚め!

 

(奪わなければ、奪われる!!)

 頭に響いた言葉はそのまま行動となり、烈の喉を力で潰した。

 烈の手が凍り付いた血を搔きむしりなんとか呼吸を確保しようとしているがもう遅い。

 

「――――!! ――――ッッ!!」

 潰れた喉で何かを言っているようだが判別できない。

 だが、何を言っているのかは想像できた。

 

「俺には弟しかいねぇ!!」

 とどめを刺すために更に腕に力を込める。

 このまま殺せば周囲の男たちにリンチされて殺されるだろうし、かといって烈を解放しても殺される。

 最悪の日だ。いきなり死か殺人の二択しかなくなるなんて――――誰だ、という声が入口から聞こえた。

 

「はーい、ダメですよぉ。武器をおろして下さいねぇ(焦)」 

 烈よりも更に一回り大きな中年男が、武器を手にした烈の部下を締め上げていた。

 2m近い長身のその男は、ボコボコと膨らんだ大きなリュックサックを背中に背負っており、ろくでもないものが入っていることが容易に予想できた。

 その男に締め上げられている烈の部下の顔が今にも破裂しそうなほどに真っ赤になっていく。

 背後から首を絞めているなんて生易しいものではなく、万力のような力で無理やり首を可動域限界以上まで回している。

 周囲の男たちが止めるのも間に合わず、不運にも入り口近くにいた烈の部下は頸椎を捩じ切られて命を絶たれてしまった。

 

「誰だお前は」

 敵ではなさそうだが、味方とも言えそうにない男に短く質問をする。

 たったいま特に理由もなく人を殺したはずなのに、男は張り付いたような笑顔を崩さなかった。

 

「あたしは、殺人鬼です。素手でも殺せますけど、好きなのは刃物で人を切り刻むことですねぇ(笑)」

 

「…………」

 嘘は言っていないと本能的に感じる。追い付いていないのは自分の理解の方だ。

 なぜ殺人鬼とやらがいきなり部屋に乱入して来たのか、意味が分からないのだ。

 

「そして、烈くんの専属シェフです。先ほどの烈くんのご高説……その理論なら、全ての権利は××さんにありますねぇ。我々のボスってことですよねぇ(笑)」

 

「…………!」

 殺人鬼が乱入してきていつの間にか首を絞める力は緩めてしまっていた。だが烈が抵抗する気配もなかった。

 完全に負けたと理解していたのだろう。喉が潰れ言葉も口に出来ない烈は、溶けた血でマットの上に文字を書いていた。

 『従う』、と。

 

********************************************

 

 そこはまるで疫病のように悪人の集まる街だった。

 仁英会という巨大暴力団が深く根を張り、ゴキブリのように湧いて出てくる暴走族やアウトロー達に違法薬物をさばき大量の金を手にしている。

 数えきれないほどのフロント企業が存在し、一般の人々が日々買い物をするだけで仁英会に毎日金が流れていっている。

 だが十年ほど前、関西一の暴力団である伯西会が潤沢な資本と豊富な人材を以て関東に勢力を伸ばしてきた。

 仁英会と伯西会の争いは、最早関係修復不可能なほどに続いている。

 不和の種はあちこちにばらまかれ、遠くない日に銃弾飛び交う直接的な戦争までも起こるかもしれない。

 そんな『最悪』の隙間から漏れ出る甘い汁を啜るために半グレたちもこの街に惹きつけられる。

 明るい火に飛び込む蛾のように、それが死に繋がるとも知らずに。

 

 数年前から烈もその中の一人だった。

 貸金業登録をせずに出資法を無視した利息で金を貸す、闇金業者。

 ケツ持ちのヤクザに払う金を用意できなかった暴走族や不良たちは、既に通常の消費者金融からは借りられない状態であるため、破滅すると分かっていても烈に金を借りに来る。

 そして、そのまま破滅するか、借金のカタとして烈の元で働くか。

 

「親父が消えて、高校も中退して、俺はそうやって生きてきた」

 

「…………」

 凍り付いた血が溶けても喉は潰されたまま。ガラガラの声で烈はこの街の現状と自分の過去を語った。 

 なぜ自分はまだここにいるのだろう。『従う』なんて言葉は無視して帰ってしまえばよかったのに。

 

「はーい、烈君。ごはんですよ(笑)」

 

「おう、持ってきてくれ」

 社長室にしてはずいぶんと質素な部屋に、先ほどの殺人鬼が何やら食事の入った皿を持ってきた。

 キッチンで料理をしていたらしいが、それでもまだ50kgはありそうな荷物を降ろしていないあたり狂人なりの拘りを感じる。

 『判田喜一』と名乗っていたが、本名かどうかは分からない。

 

「うっ……!?」

 

「××さん……いや、ボス。あなたも食べますか?」

 判田が烈の前に置いたのはトムヤムクンのような赤いスープだった。

 骨付きの肉が入っているのが見える。その骨が問題だった。

 皮はきれいに剥がされ、爪も取られているが、何をどう見ても人の手の形に見える。

 

「豚は世界に十億頭もいるから、丸ごと一頭買っても10万円もしない。なんで人間は70億匹もいて100万だしても買えねぇ?」

 スープの中に手を突っ込んだ烈がよく煮えた『手』を取り噛り付く。

 あまりにもあっさり殺されてしまったため、今の今まで何も考えていなかったが、先ほど判田が殺したチンピラの死体はどうなったのだろう。

 

「腹が減って仕方ねえからこうなったのによぉ。裏の世界も結局、暴力団どもが秩序を作っている」

 共感は出来ないが理解は出来る。人食いは表でも裏でも最大のタブーで忌諱の対象だ。

 しかし烈は人が食べたくて仕方がない。故に表にも裏にも生きていける世界がない。

 

「腹が減ってんだよ! 全員消えちまえばいい。本当の無秩序になればいい。善も悪もなく、全員飢えて互いに食い合うしかない地獄になっちまえばいい」

 ないならば作るしかないと考えているのだろう。裏の秩序を保っている組織を破壊することによって。

 烈の夢見る世界は本物の無秩序、暴力だけが生き抜ける羅刹国なのだ。

 

「お前の目的は」

 

「仁英会と伯西会の壊滅」

 暴走する悪意を目の当たりにして××の心臓が高鳴り、まだ治っていない傷が開き鼻血が垂れた。

 こんなナリでも今日までギリギリ表の世界で生きてきた。本当はヤクザを見た瞬間に一も二もなく襲い掛かりたいほど恨んでいるのに。

 それが出来る。烈と手を組めば恨みを晴らし仇を討てるのだ。

 

「ん……? はぁ!?」

 頓狂な声をあげた烈がスープから掴んだのは目玉だった。

 残ったもう片方の目玉でよく茹でられた目玉を眺めている。

 一瞬のうちに青筋が額に浮かび上がり、1秒後には爆発するのが見て分かった。

 

「俺の目ん玉じゃねえか!! このクソバカタレがぁ!!」

 ブチ切れた烈が机の上にあった書類やペンを薙ぎ払うようにぶん投げる。

 判田は笑顔を崩さず1歩動くだけで全て避けた。

 

「そうですよぉ。食べないなら捨てちゃいますけど(悲)」

 

「…………。28年俺の悪業を見てきた目……」

 悪は人の内より生じ、悪は悪を喰らい、何も無くなれば最後は己自身をも喰らう。

 世界を一つに繋げるはずの宗教が分裂し戦争を起こしたように、長い人間の歴史がそれを証明している。

 ××が抉った目を、烈は高級食品のようにゆっくりと口に入れた。

 

「悪くねえ。いよいよ死ぬってなったらもう片方の目も食おうかな」

 

(なんだこいつ……)

 人食いは創作の中では割とメジャーな存在だが、実際に見てみると酷く気分を害するものだ。タブーになって当然だとすら思う。

 記憶力には自信があるため覚えているが、想像通りなら烈が食べているのは××誘拐の実行犯の一人だ。

 先ほどまで命令を出していた部下を食べることに対してどんな感情を抱いているのだろう。

 

「で、どうだい。俺らを導いてくれんのかい」

 

「……なんで俺が、まっさらな俺がお前ら半グレの手伝いをしなきゃならねえ? 勝手に野垂れ死ねよ」

 ××の言葉は至極当然、真っ当な反応だった。世界中の誰もがそう答えるだろう。

 紆余曲折あれど××は現在日本一の大学の生徒なのだ。誰もが羨む明るい未来が××の目の前には開かれている。

 一緒に暴力団を潰そうなんて誘いに乗っていたら命がいくらあっても足りない。二つの道は比べることすらも馬鹿馬鹿しい。

 そう答えるのは分かっていたかのように烈は表情を静かなものに変化させた。

 

「こういう生き方しか出来ない馬鹿な兄貴を助けてくれ」

 

「…………」

 

「お前のことはずっと前から知っていた。5年前、俺はお前を誘拐しようとしたことがある。今日みたいにな」

 

「ならなぜやめた?」

 

「……初めて見た弟は、赤ん坊を抱っこして、優しい顔で散歩していた。引き込んではダメだと思った」

 

『空くん……』

 生前の××の呟きと、霊体となった××の言葉が重なった。

 朽名空は××が朽名夫妻に引き取られた後に生まれた男の子だった。

 実の息子である空が生まれた後も、朽名夫妻が変わらず××に優しく接してくれたことも大きかったように思う。

 ××にとってその赤子はこの世のどんなものよりも大切で、あらゆる残酷から守ってあげたいと思っていた。

 伯父夫婦が××の才能を望んでいたとして、空のためならば構わないと思ったからこそ、最悪の幼少期のことに腐ったりせず大学も受けた。

 

「爆死したんだってなぁ、こんな時代に。地獄に送ってやりたいだろう? 全員!!」

 アニマが腕を掴んで止めるのも聞かず、××の感情は生前の己とシンクロし耳元でその言葉を呟いた。

 何度も何度も、祈るように、呪うように。両腕の大火傷の痕が疼いた。

 

 あの時自分がこの選択をしたのは自分だけの意思だったのか分からない。

 地獄に堕ちた自分が、地獄に堕ちると知ってもなおその道を行けと命じたのだから。

 

「皆殺しにしてやる」

 そして××はその言葉を口にし、歴史は変えられなかった。

 

『馬鹿かお前は!』

 

『うるさい……お前に何が分かる』

 ここで無理にでも自分の身体を引っ張り出口まで連れていけば、これから為す全ての悪がなかったことになったのに。そのために来たのに、アニマはそう言いたいのだろう。

 だが、これまで見てきたように人の運命などそう簡単に変わらない。無理に変えればむしろ歪むことになる。

 この若さで地獄に堕ちている、その運命は確定しているということを前提に考える。

 つまり、ここで帰ったところで自分は結局戻ってくるということなのだろう。自分自身の事だからそんなことは分かっている。

 

『地獄だからな、罪の振り返りをする時間くらいはあるだろ』

 何よりも、まだ死因も名前も思い出せていない。

 気になっているのは、その死を決定的に回避出来たら何が起きるのかということだ。

 パラドックスにより自分の存在は完全に消えるのか、それともやはり別の原因で地獄に堕ちるのか。

 どちらにせよ、取り繕うように結果だけを変えても運命の収束は変わらないことは想像に難くない。

 結果だけではなく、そこに至るまでの原因を見つける必要がある。

 あるべき歴史の通り凶暴な笑みを浮かべた烈が机の上に大量のフォルダを置いた。

 

「見といた方がいいぜ。俺が調べた仁英会と伯西会の全てが載っている」

 巨大な暴力団が水面下でぶつかりあっている街でこれまで生きてきただけあり、烈の資料はパラパラと捲っただけでも圧倒されるほどに濃い内容だった。

 仁英会が売りさばいている違法薬物の種類、こちらに乗り込んでいる伯西会の構成員、フロント企業や裏で繋がっている警官の名前等々、週刊誌に売ればそれだけでそれなりの金になりそうなほどだった。

 

「――――! こいつは……?」

 

「そいつは土地成金だ。相続した土地や不動産をいくつか持っている。そして、そのうちの土地の一つにクラブハウスがある。仁英会とずぶずぶのはずだ」

 違法薬物はただそれだけあっても警察に捕まるリスクがあるだけのものだ。それで金を生むにはさばく相手と場所が必要なのだ。

 その両方が手に入る効率的な手段は、馬鹿な若者が集まる場所を作るか、経営者を抱き込むこと。

 

「馬鹿野郎……!!」

 見たばかりの名前にページを捲る手が止まった。

 どこで見たのか。今日届いた結婚式の招待状だ。

 

 斎賀重彦。

 

 未亜菜の夫になる男の名前だった。

 

 

********************************************

 

 お願い、外は雪が降っているから今度にして。

 

 母の懇願など一切聞かず父は××を殴り外に追い出した。

 数日に一度××と母が住む家に来ては、××を追い出し母を殴りながら犯す。そして生活費を置いていく。

 その姿だけが父の記憶だった。

 自分の名を父から呼ばれた記憶はない。

 

 その日は雪が降っていた。

 仕事帰りのサラリーマンがマフラーに口を埋める中で、半袖半ズボンで追い出された6歳の××は痛む傷をさすりながら考えていた。

 

 今度にして、とはどういう意味だ。

 部屋に置いてくれ、せめて風呂かトイレに――――それでも十分虐待だが、そう言ってくれたならまだ理解ができた。

 母は優しかったから。

 

 なぜ母は今までも外に息子が追い出されることだけは止めなかったのか。

 そもそも父は××のことなどなんとも思っていなかった。

 普通の家庭のように父母の情事を隠すなんて感性はなかったはずだ。

 なぜ父は必ず自分を追い出したのか。

 

 自分を犯すために息子を外に追い出すのは今度にしてください、なんて言葉は××が外に追い出されなければならない理由を知っていなければ出てこない。

 

 母はなぜ父に逆らえなかったのか。

 

 生活費はもちろん理由の一つだろうが、今の時代夜逃げして市役所なりなんなりに助けを請えば女一人にガキ一匹くらい生きていくことは出来たはずだ。

 

 逆らえなかった理由、それは。

 共犯だったから。

 

 曲がりなりにも父は若頭にまでなった男。

 そこだけは細心の注意を払っていたのだ。

 

 何かを××と母の暮らす家に隠している。 

 それを見られないように追い出す必要があったのだ。

 子供は、いつどこで誰に話してしまうか分からないから。

 

 6歳にして××は回答にたどり着いたが、それだけではなかった。

 住んでいたアパートの畳を剥がし、貧乏暮らしには不釣り合いな金庫を見つけ、聴診器を手に入れ、長い時間をかけて金庫の鍵を破った。

 

 出てきたのは銃、弾丸、爆薬、違法薬物などそれだけで10年は刑務所に叩きこまれそうな品の数々だった。

 

 だが父が本当に隠しておきたかったのはそんな分かりやすいものではなかった。

 

 おびただしい量の中小企業の情報。

 主要株主や役員の家族構成は当然のこととして、細かな債務まで全てが詳細に記されていた。

 

 警戒心の強い父に誤算があったとすれば、息子の××がその年にしてその資料の持つ価値と意味を理解できていたことだろう。

 

 裏社会と持ちつ持たれつの関係を築けているのはほんの一部の大企業のみ。

 相互に利益があるから――――ではなく、単にその会社が他にも暴力を持っているからだ。

 私兵、警備会社、警察幹部OB、敵対暴力団。一度敵に回れば壊滅するからこそ、協力して甘い蜜を啜ることに執心する。

 

 だが時価数億円程度の企業など一度裏社会と繋がりを持てば何かのきっかけで完全に吸われつくして終わる。

 

「父が家に隠していたのはその計画の全てだった」

 

「つまり、お前の兄が出した企業一覧というのは……」

 

「未来の被害者リストだ」

 地獄に戻った××は血の川のそばに座り、刑罰を受けてうめき続ける父の成れの果てに石を投げた。

 父の誤算は××に隠していたものを見られてしまったことではない。

 その意味を××が理解出来てしまったことだ。結果として、その誤算は父の所属していた蛇踏組だけではなく親組織である仁英会にも大打撃を与えることになったのだ。

 

「家族愛はなくても一丁前に組への忠義はあったのか?」

 かつて暴を振るった手足も失くした芋虫の父に声をかける。

 針の山の上で涙を流しながら一心不乱に己の身体から流れ続ける血を舐めているが、その視線は××に向けられていた。

 

「…………」

 身体の自由は奪われても心は人間のままというのは本当のようだ。

 目の前の男が成長した実子だと気が付いたのか、父の流す涙には血が混ざるようになっていた。

 

「似合いだな、親父。せいぜい苦しめ」

 身体中がひび割れる痛みに耐えながら、吐き捨てるような言葉を口にしその場を去る。悪魔化の時は思ったよりも近いようだ。

 あれは近い将来の自分の姿なのかもしれない。そうしたら自分のせいで地獄に堕ちた誰かが自分に唾を吐くのだろうか。

 ××のせいで不幸になった人間だけで何百万人いるか分からない。

 身体の自由がきかないのをいいことに、不可避の暴力に晒される可能性も十分にある。

 その未来に自分よりも近いはずのアニマが口を開いた。

  

「地獄にも色んな奴がいる。快楽殺人鬼もいる。一方で、上官の命令に逆らえず一般人を殺した兵士もいる」

 

「何が言いたい?」

 

「望んで堕ちてきた奴と仕方なく堕ちてきた奴がいるということだ。お前は……望んで地獄に堕ちたのか」

 あの後共に行動をしたのだから烈の単純な性格は知っている。それでも××が拒否すれば恐らく烈は自分を解放しただろう。暴力第一主義であるが故に、そこで負けた相手には素直に従う。

 これ以上ない程に分かりやすい人生の岐路だった。東大卒のエリートとしての道か、勝ち目もなければ旨味もない悪の道か。

 分かっていて地獄への道を選んだのだ。最早自分と道の交わることもない女の未来のために。既に亡くなってしまった弟のために。

 

「お前はどっちなんだ?」

 

「どう思う?」

 

「…………。お前、善人だっただろ。接していれば分かる。なんでこんなところにいるんだか……」

 言動はわざとらしい程に荒いが、要所要所で出る善性やお節介な部分は彼が元々地獄に堕ちるべきではない善人だったことを無言で語っている。

 きっとそういった、本来であれば地獄に堕ちるべきではなかった人間への救済措置がこの罪の振り返りなのだろう。

 

「そう思うか。だが俺も、望んで地獄に堕ちた」

 嘘には聞こえない言葉を出した口も、感情を示しているはずの目も、どちらも空洞のアニマからは真実を見抜くことは出来ない。

 

「何人殺した?」

 

「2……いや、3人だと思う」

 

(…………?)

 そのぐらいの人数だったらはっきりと分かりそうなものだが、何故推測を交えて話しているのだろう。 

 やむを得ない事情で放火でもして、殺した人数も分からないままに自分も焼け死んだりでもしたのか。 

 どちらにせよ、3人も殺せば日本の法律下では死刑の可能性が高い。地獄にだって十分堕ち得る。

 

「さぁ、罪を振り返るんだろう? まだ始まったばかりだ。行くぞ」

 そう言ったアニマの、腕なのか枝なのか分からないモノから生えたがさついた手を取った瞬間だった。

 

「う!? あ!? ああぁ!?」

 親知らずの激痛が口中に広まったかのような感覚に思わずうずくまる。

 ぼたぼたと音を立てて口から落ちてくるのは血だけではなかった。

 

(歯!? なんだこれは!?)

 手のひらに落ちたのは××の歯だった。恐らくは全ての歯が乗った手の平には獣のような黒い模様が浮かんでおり、それは手から肩へと続いている。

 地面に出来た血だまりに映る自分の姿は既に半分人間ではなくなっていた。

 

「もうそんなに時間もなさそうだな」

 赤い目に肉食獣のような牙。

 身体中に繋がっているであろう黒い紋は顔を横断し、数百万の人間から受けた呪いのよう。

 アニマの言葉通り、着々と進む悪魔化は××に残された時間は多くないことを示していた。

 

 

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