一人の人間が国を揺るがすこと。
それは歴史を振り返れば何度も行われてきたことでもある。
怪獣のような破壊の化身でもなく、稀代の殺人鬼という訳でもない。
むしろ純粋な善意による使命感からの行動であったことすらもある。
国も時代も違う彼らに共通していたのは一つ、強烈な目的意識だった。
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××は必死に考えていた。権力争いのコマで終わらない方法を。裏社会の勢力も国も出し抜く方法を。この血生臭い争いから未亜菜を救い出す方法を。
そしてその日は突然やってきた。極小人数の人間が国を堕落させ、目が眩むほどの大金を手にするきっかけが出来た日だ。
「烈! おい、起きろ!」
事務所に駆け込むと烈はアウトロー系の雑誌を顔に乗せ、椅子の上でのん気に寝ていた。
馬喰の手回しは流石と言うべきか、あれだけ派手に死体をばら撒いてもこの事務所に警察が踏み込んでくる様子はない。
そのせいで烈は真昼間からこんな状態だ。
「あっ!? なんだおめぇ、朝っぱらから」
「もう昼過ぎだろうが……いまいくら用意できる!?」
「なんだ? 飯か? はい……これで足りる?」
何か話を勘違いしている烈が懐から財布を取り出して金を渡してきた。
そういえばここに就職したということになっているのに今まで一度も賃金をもらっていない。
闇金の仕事などしていないのだから当たり前と言えば当たり前だし、今はそんなことはどうでもいい。
「そういうことじゃねえ。この会社畳んで、持ってる債権全部手放して、車も何もかも、全部売っていくら用意できるかって聞いているんだ」
「…………。金が必要なんだな? それはお前の頭脳を最大限活かした、盤面をひっくり返すような手ってことだな?」
「そうだ」
「…………5億。うん、5億だな。それくらいだと思う」
29という烈の年齢を考えれば、かなり儲けているように聞こえるが、人を何人も消しておいて5億円なら正直割にあっていない。
元手としては不安だが、それで我慢するしかない。
「1週間以内に用意してくれ」
「待て待て。馬鹿ばっかだが一応社員もいるんだよ。そいつら全員クビに出来るだけの理由を教えてくれや」
給料よりも暴力で繋ぎとめているような社員ばかりであるため、会社が消えれば全員喜ぶと思うが、烈の言っていることは正しい。
懐から新聞を取り出し、問題となっているページを見せる。その記事は一面に大きく――――ではなく、4ページ目の下段3分の1しか占有していなかった。
少なくとも、現在行われているアメリカの大統領選に比べれば遥かに重要度の低いニュースという扱らしい。
「なにこれ。高校中退した俺が英語読めるワケねーだろ」
「これはフランス語だ」
「おフランス語なんて読めるか!!」
「読んでやる。『グジェールで内戦終結、原理主義派が国権を握る』って書いてんだ」
「グジェール??」
烈だけではなく、おそらくほとんどの日本人にとっても聞いたこともない国。
ノートパソコンで烈が調べるが、オンライン百科事典にも日本語でほんの数行しか書いていない。
所在地と主な宗教、使われている通貨と言語などごく基本的なことのみだ。
「そうだ。この国ではずっとある宗教の派閥どうしで内戦が起きていた」
元はフランスの植民地であったため、フランスの新聞では取り上げられたがそれ以外の国では見向きもされない国だ。大きさも県でいえば鳥取ほどしかなく、人口も60万人程しかいない。
宗教もそれ自体は日本人にとって馴染みのないものだが、大事なのはその国が独自の通貨を使っていること、資本主義国家へと切り替わること、そして海外へ輸出するものが何もないということだ。
「この時を待っていたんだ。この国の通貨……自国内で全てが完結するなら通貨なんてなんでもいい。切手でも構わない。だがそんな国はこの時代には存在できない」
「??」
「資源や商品を外国から買って、自国から海外に売らなきゃ発展しないってことだよ」
「はぇー」
「モノを買うには相手国の通貨で買う必要があるだろう。価値のある通貨はドル円ユーロポンドフラン……発展途上国はそれら通貨がとにかく欲しいし、だからいつだって強大な国に資源を買い叩かれるんだ」
半ば経済の授業と化した説明に早くも烈が寝かけているのでもう一度机を蹴って起こす。
ここからが話の肝なのだ。
「なら、色んな国からオフィシャルに非友好国として国交断絶されている国はどうやって基軸通貨を手に入れるのか?」
「発展したいけど国交がないから手に入らないってことだろ? なんだ? 戦争でもして奪うのか?」
「違う。麻薬産業だ。国をあげて高品質な禁制品を大量に作り、他よりも安い値で各国の裏社会に売り通貨を手に入れる。どこよりも早くそこに俺たちが介入するんだ」
どんな国でも結局覚せい剤や大麻などが流れてしまう理由はそこにある。
ならず者国家としてほとんどの国から嫌われ体力が低下した国は、それが更なる亡国への道だと知っていても延命の為に禁制品の生産に手を出してしまう。
今の時代に貧しい国が急速に発展したいのであれば、乱れた土地を治めたいのであれば、必ず他国の禁制品を製造し売る相手を探している。
「いやー、まぁすげーいい案だと思うが……誰が交渉すんだ? ディギロング語? こんなん誰も喋れねーよ」
もしかすると日本でグジェールの公用語を話す人間は存在しないかもしれない。
フランス語であれば、グジェールでも通じる人間はいるかもしれないが、植民地支配が原因の一つとなり内戦を行っていた国であるため、ボンジュールと言った瞬間に射殺されてもおかしくない。
「お前は俺の兄かもしれないが、結局俺の趣味の一つだって知らないだろう?」
「…………?」
「俺の趣味は他言語の習得だ。ディギロング語も書けるし話せる」
金もなく父の暴力に怯えていた幼少期、行ける場所は公民館か図書館だった。
幼き天才が手に取ったのは他国語の辞典だった。日本語と英語の習得に始まり、英独翻訳に手を付け、独仏辞典に手を伸ばし――――気が付けば20歳時点で30か国語を理解するようになっていた。
グジェールの内戦の終わりを察知した日から、フランス語で書かれたディギロング語の辞典を取り寄せ、数少ない資料を元に学んできた。
外交の最終手段が戦争と言われるように、いつだって戦争の始まりは他言語を理解する者による交流だった。今の時代に何の交流もなくいきなり宣戦布告する国はない。
「お前が俺を欲しがったのは、こういう時のためだろう? デザートの構造式も製造方法も手に入れた。あとはやるだけだ」
話を飲み込んだ烈の目が、夢物語の続きを見つけた子供のように輝いている。
その目に映るのは人々が薬に溺れ殺し合い食い合う羅刹国。国の崩壊の一手目、終わりの始まり。
「売人の知り合いはいるだろう?」
「ああ、もちろんいるぜ。俺は買わねえがな」
「これから俺たちが売るんだ。どこよりも安く、多く! 行くぞ、盤面をひっくり返しに」
思えば、全てが悪運に恵まれていたのだろう。烈や判田を部下に出来たこと、ヤクザに刺されても内臓は無事で病院に行かずに済んだことも。
この穴だらけの構想が上手くいったことも含め、まるで巨大な悪の意思が××を導いているかのようだった。
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数十年に渡り外務省から退避勧告が出されている国は伊達ではなく、日本がいかに平和ボケした国かを思い出させた。
飛行機を乗り継ぎ車で入国した黄色い肌の人種を歓迎したのは、殺人も平然と手段の一つとして考えている強盗達だった。
「言葉が通じるんじゃねえのか!?」
「言葉は通じるけど話が通じねえ。金を出せとしか言ってねえよ」
中国から密輸した拳銃を日本から持ち出すというあべこべなことをしたが、その選択は間違っていなかった。
川の向こうにある街へと渡るために、漁師に船の交渉を持ちかけた瞬間に銃を突き付けられた。
黄色い猿が金を持ってのこのことやってきたとしか思われていないのだろう。ドルに換えた5億円を持っているため、その認識は全く間違っていないが。
「見てくださいこれ。本当にこの人たち漁師ですかぁ(笑)」
物言わぬ死体となった男の手に握られていたククリ刀は素人が見ても分かるほどに血で曇っている。
嬉々として荷物に入れている判田を止める理由はないが、一応自分たちはこの国に富をもたらしに来たのだが。
「つぁ――――ッ! この国のヤニはきっちぃなぁ!」
死体から追いはぎしたタバコを死体の上に座って吸う烈は、明らかに日本よりもグジェールの方が馴染んでいる。
船にあった箱を開くと銃器類や、様々な国の食料や電子機器が出てきた。
「漁師じゃねえ。海賊だこいつら」
「海賊なんて今の時代いるのかよ!」
「いるよ。全然いる。そうか、この川は海に繋がっているんだったな……」
遥々アフリカまで来て海賊を殺すとは最早何をしに来たのか分からなくなってくるが全員で船に乗り込む。
船舶免許など持っているはずもないが、勢いに任せてエンジンをかける。
「おお!? なんだ、結構速いぞ!」
「完全に海賊の船ですねぇ。うぉっほっほ(笑)」
商船に近づくために改造してある典型的な現代の海賊船だ。
荷物の中には爆薬もあったので何か間違えれば爆発するかもしれない。
「いやー、涼しいぜ」
「のん気なこと言ってんな……」
とはいえ平均気温30度越えの国だ。烈に買ってもらったスーツをずっと律儀に着てはいるものの、正直このスーツのせいで好奇の目を向けられて強盗に襲われた気がする。
そんなことを考えていたら、川の向こうから出てきた男たちがこちらに銃を向けて何事かを叫んだ。
「やっべぇ! なんて言っている!?」
「船をここに寄せろ、逆らったら撃つってよ」
対岸とは言え、派手に銃声を交えて殺し合いをしたのがいけなかった。
こうなることを予想していなかった自分のミスだ。
(いや、運は悪くないかもしれない)
先ほどの連中と違い装備が整っているし、即座に撃ってくることもなかった。
もしかしたら彼らは内戦に勝利した原理主義派側の戦士たちかもしれない。
まさしく彼らと交渉をしようとしていたのだから。
ここまでも××の悪運だが、本当の悪運は、世界に渦巻く悪意の結実はここからだった。
「Chinese?」
ディギロング語でもなく、フランス語でもなく英語が聞こえたことに耳を疑う。
日光避けの布で顔のほとんどを覆った蛇のような目をした男からだった。
この男のことは死んでからもずっと覚えている。生前に出会った中で最も不気味で謎だった男。
烈のように剝き出しの凶暴性が見えるわけでも、判田のように他を圧倒するような巨躯を持っている訳でもない。
ただただ、その男の周りに展開される空気や視線が破戒への嗜好に満ち満ちていたのだ。
『この男……俺たちを見ていないか?』
『何を言って……――――!』
仮にこの男――――『ナハ―ス』が霊能力のような力を持っていたとして、過去の記憶を見ているのにそんなことがあるはずがない。
その考えを口に出す前に、ほとんど悪魔と化した××に明らかに視線を合わせたナハ―スは、顔布の下で顔をゆがめて笑った。
「…………。Japanese」
そんな隠れた表情のことなど知る由もなく、生前の××が怪訝な顔をして答える。
「……日本は裕福な国のはずだが。何の用かな」
布を取り去ったナハ―スが顔を見せて流暢な日本語を話す。
飛び切りの悪意を纏ったその男は、明らかにこの地の人間ではなかった。
ディギロング語も英語もフランス語も日本語も話すその男は、自らを『戦争屋』と呼んだ。
世に悪意蠢動す。
70億人も人間がいれば、どうしたってそういう人間が生まれてくる。
とんでもない悪が生まれてくることもある。
目的は権力でも金でも女でもない。
ただはち切れんばかりの悪意をばら撒く先を探している。
××が未亜菜の誘拐に気が付いたように、凶暴な悪ほど悪の匂いに敏感なのだ。
初めて見た、自分と同じタイプの人間だった。
才能に恵まれたが運には恵まれず。宿った悪意を膨らませて爆発させることに執心していた。
その点でナハ―スと××は目的が一致していた。
クジェールは2人の天才に徹底的に利用されることになる。
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この国に富と繁栄をもたらそう――――二人の大悪の囁きが小さな国を蝕んでいく。
利害と目的の一致は全ての計画を滑らかにさせた。仕事のない国民に工場を作らせ給料を与えて覚醒剤や大麻を生産させる。
××がそれら禁制品を外貨で買い取りあらゆる国の売人に向けて出荷する。
手に入れた外貨でグジェールの民はナハ―スから武器を買う。3年というわずかな時間でその国は、ただのならず者国家から周辺国を凌駕する軍事国家となった。
『…………!』
悪意が膨れ上がり滲み出し、劇薬の金を生み出していく様子にアニマが言葉を失っている。
靴すらも履いていない国民が存在する程に貧しかったのに、工場で生み出した禁制品を近隣国に売りさばき、一つの意思の元に最新式の武装を纏い結集していく。
最早この火を熾した本人ですらも止めようのない大火を見て、黒人なのか白人なのかも分からない男、ナハ―スは笑っていた。
『……白人じゃないのか?』
『よく見ろ。これだけ暑い国なのに汗ひとつかいていない』
かなり近づかないと分からないが、肌には毛穴もない。生き物の表面というよりも無機質なゴム質なようにも思える。
見た目ではほとんど分からないが、この男はそれこそ某国のスパイが持つようなマスクを被ってこの世に存在しない人間になりきっていた。
結局この男が何者で、その悪意の根源がなんなのかは最後まで分からなかった。
利害の一致のみで行動を共にしていたので、この国を出る日を最後にもう会うことはなかったからだ。
急速に発展した港で煙草をふかしながら船を待つ判田はこの3年で随分と日焼けをした。
少なくとも金銭的に得られるものなど全くなかったはずなのに、この男は××の命令を忠実にこなしてきた。
言葉も通じない国で自分よりも二回りも下の男に命令され続けても、ただニヤニヤとしながら重たい荷物を常に背負っていた。
今更ながら少々不可解に思えてきた。
「お前、烈の部下なんだろ。なぜ俺の命令を聞く?」
「あらら、今さらですねぇ(笑)」
「給料だって払ってねぇ。欲しけりゃやるが……」
相変わらずのにやけ面をほんの少しだけしかめ、わざわざポケットから取り出した携帯灰皿で火を消した。
嬉々として人を解体するのに、なぜかそういうところで律儀な男なのだ。日本にいる時も空き缶を拾ってゴミ箱に入れたり、時には困っている人に手を貸すことすらもある。
××の目には判田はとてもちぐはぐな人間に見えていた。本物のサイコパスとはこういう男のことを指すのかもしれない。
「なぜいつの時代も悪は消えないのか?」
恐らく、これまでで初めて見た判田の笑っていない顔。
馬喰に殴り飛ばされた時ですらも笑っていたのに。常に弧を描いて歪んでいた目は猛禽類のように見開かれ××を品定めしている。
「確実に世の中には善人の方が多いのに、平和を願う人間の方が多いのに、世界はより良い方向に向かうよう日々歩み続けているのに、善の大地に悪の華は咲く。悪が時に強烈に人を惹きつけるのは、その力強さゆえ」
「…………」
「あたしも相当の数の悪人を見てきましたがね、あんたほどどす黒い悪は見たことがない。教えてください。あなたの考える悪とはなんですか?」
「……目的意識だ」
何よりも強く願い追い求める意志、それが悪の根源だと××は思う。
それが中途半端では『人の迷惑になるから』『これ以上は自分が傷つくから』と終わってしまう。
だが強い目的意識があれば他人を殺してでも、死ぬことになったとしてもその悲願達成にひたむかう。
そして人は悪となる。
「おっさんだからセンスずれているかもしれませんがね、顔はシュッとしているし背も高い。頭もいいし喧嘩も強い。真っ当に生きる道だってあったはずだ。なのにあんたは奪い、壊す。酒もタバコも女もやらない。ただただ奪い続ける。あたしはただの殺人鬼。一人じゃ歴史は動かせなかった」
(そうか、楽しいのか……こいつは……)
判田が人を殺す理由は見ていて分かるが、単に楽しいからだ。
人を切り刻むのが、生きたまま解体されていく人間の悲鳴が好きでたまらないからだ。
だが、異常な性癖を持っているとはいえただの殺人鬼。歴史に名を残すような人間でも、歴史を動かすような人間でもなかった。
それは烈が自分に従う理由と同じかもしれないし、ナハ―スが自分に協力する理由とも同じなのかもしれない。
「さぁ、撒き散らしてやりましょう。悪を」
末端価格にして数百億円分の違法薬物を載せた船が日本へと向けて出港していく。
行き着く先は伯西会の手先の売人たち。全てが思い描いたシナリオ通りだった。
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『作り方は俺が教えてやる』
『ドルでもユーロでも用意してやる』
『だから全部、俺によこせ』
『さばきまくってやる』
『肥え太ったヤクザも、馬鹿なガキどもも全員シャブ漬けにしてやる』
あの日ナハ―スに話した言葉が今でも頭に響く。
描いた悪夢が現実となり日本を侵食していく。
伯西会が売るデザートと同じ薬物は、仁英会がさばいているオリジナルよりも圧倒的に安く量も桁違いに多い。
勢いを得た伯西会に仁英会が経済的に勝つ手段はもう全くなく、仁英会は抗争のための武器を集め始めた。
そうなることも全て読んでいた。
××はグジェールに富と一時的な平和をもたらした。これは嘘ではない。
経済を安定させた結果、内紛もテロも消えてなくなった。そうなると軍人と警察以外は武器を必要としなくなった。
政府は国民の銃器所有を禁じ、国民もそれに応じた。強盗して奪うよりも、働いて買った方が安全だからだ。
不要となった中古の武器を、しかし日本では所持しているだけで違法の銃器を××とナハ―スは政府に囁き買い取らせた。
ナハ―スは欧米諸国の標準装備である最新式の装備をグジェール軍および警察に卸し、中古の武器は海外に向けて売った。
その相手先は各国の裏社会の人間たち。その中には仁英会の者もいた。
伯西会に格安の薬物を、仁英会に格安の武器を。
元々抗争一歩手前の暴力団を焚きつけた結果――――
頑丈に改造されたトラックがビルに突っ込んだ。
伯西会が関東に置いた支部の中で最も重要な拠点の一つだ。
トラックから出てきたヤクザが目を血走らせながらビルの中へと入っていく。
2階、3階から怒声が響き銃弾が窓ガラスを割る。4階で大爆発が起きたのは手りゅう弾でも使ったか。
「あはっ、あははははは!」
すぐそばのビルの屋上から文字通りの対岸の火事を眺めて××と烈は笑っていた。
心から笑うのは、こんなにも心が晴れ渡るのは10年ぶりだ。
大量に流れ込んだ薬物は主に生活に困窮していた若者に爆発的に広まった。
派遣労働で日々食いつなぐ若い男と汚い男に身体を売る若い女がシャブをキめ、現実を忘れあちこちでセックスをしている。
路地裏では夢の世界に飛んでしまった失業者がうわ言を呟いている。最早警察もどこから手を付けていいのか分かっていない。
元々がそうだったのだ。
日本の貧困者は犯罪者の家族でもなければ移民でもない。
教育水準は高く、勤勉で労働時間も長く、能力も高い。
それなのに貧しい者はずっと貧困から抜け出せずにいたのだ。
政府は自己責任論を振りかざし税金を何重にもかけて未来ある若者をやせ細らせていった。
そこに現れたのが一回1000円で全てを忘れられるクスリだ。
きっかけさえあれば、赤信号をみんなで渡る日本人はいつだって壊れる可能性があった。
「見ろあいつら! 日本刀まで持ち出して殺し合ってるぜ! テメェらが、テメェらがーってよぉ、クソバカどもが!」
屋上の窓から放られたのは、支部長の生首だった。
運悪く流れ弾に当たって倒れていた一般人の横で脳漿をぶちまけて、駆け付けた警察がなだれ込んでいく。
馬喰はコマの一つくらいにしか思っていなかったのだろう。きっと本当に日本の未来を思って動いていたのだろう。
小さな悪を見逃したせいで全てが裏目に出てしまった。ざまぁみろ――――涙が流れる程に可笑しかった。
「あれぇ……ボス、それ。痾紋呪じゃないですか」
「……あ?」
「お……? お前、目の下の隈、なんかおかしくねぇ?」
烈がスマホのインカメラで××の顔を映す。元々酷かった目の周りのどす黒い隈は演劇の悪役のように大げさに縦横に伸び始め、悪魔的な見た目になっている。
まるで犯した罪と殺された者達の恨みが染みついたかのよう。そんな生前の××の顔を眺めていたアニマが口を開いた。
『お前……あれは元々だったのか?』
『もっと酷くなったがな』
地獄に堕ちた時も同じ見た目だったが、アニマはそれを既に少し悪魔化した姿だと思っていたらしい。
博識な××でも聞いたことのない症状だったが、それをアニマに説明する前に判田が話し始めた。
「悪に悪を重ねた人間に現れる鬼の印ですよ(笑)」
「なんだそりゃ。おい、聞いたことねえぞ」
「歌舞伎の隈取の由来知ってますか? 数百人の人間を殺した大山賊の頭領に表れたその徴は、闇夜にも浮かび遠くからでも見えたといいます。なぜ世界中の鬼や悪魔の絵には時に顔に恐ろしげな紋様があるのか? 事実だからですねぇ。平和な今の時代ではまず拝めませんがね(畏)」
判田の言葉が事実かなんて確認のしようがない。この時代にこの地球上で××よりも悪意をばらまいた人間はいないのだから。
裏の秩序の崩壊は堰き止めていた悪をぶちまけることになる。そう分かっていながら破壊した。
それは皆が長い時間かけて綺麗にした廊下でバケツいっぱいにたまった汚水を蹴飛ばすような快感だった。
「人間を」
がしゃがしゃがしゃ――――判田のリュックが不気味に震える音。
「破るってやつですかぁ?(笑)」
生きている時は何か変なこと言っている、くらいしか思っていなかったが、死霊となった今なら判田が背負っているモノから漂う異様な気配を感じることが出来た。
『こいつ……何を背負っている?』
アニマも気が付いたようで、何かをされるわけでもないのに判田から距離を取っていた。
そんなものは見たことがないが、これはもしかして『悪魔祓い』や『邪気払い』の類の気配ではないだろうか。
なぜ殺人鬼の判田からそんな気配を感じるのか分からない。
『知らない……見たことがあるような気がするんだが』
あのリュックの中身を見せてもらったことがある気がする。
殺人のための道具が入っていることは知っていたため見たいとも思ったことが無かったのに――――
『う……うぅ……』
記憶を掘り起こしていると酷い頭痛に襲われうずくまる。
首元から熊のように暴力的な体毛の生えた白い毛皮が伸びて身体を覆った。
『俺より大きくなった……』
痛みが終わるころには、アニマを見下ろせるほどの体格になっていた。
周囲の生者と比べるに3m以上は確実にある。白熊のような毛皮で身体を覆い、鋭い牙と爪を持つ角の生えた怪物。
木の化け物となってしまったアニマを見て薄ら寒い感情を抱いていたが、それどころではない存在になろうとしているらしい。
『思い出した』
『何を?』
アニマの問いに答えずに翼を広げて飛んでいく。
この後××は伯西会会長の孫を誘拐するが、その数日前に未亜菜が交通事故により死ぬのだ。
確信を持っている。あれは事故などではなく、自殺だったのだと。
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記憶にある場所にしかいけないはずだったのに、どうして未亜菜についていくことが出来たのか分からない。
悪魔化が進行し、他人の心の声が聞こえるようになったのと同様に、過去の運命に縛られる死者から地獄の使者へと魂が変化してしまったのだろうか。
なんであれ、これで理由を知ることが出来る――――初めて見た未亜菜の夫、斎賀重彦は違法薬物取引の現場の所有者とは思えない程に温厚そうな顔をしていた。
これがある意味でそのままの半グレのような見た目をした男だったら悪感情を抱いたかもしれないが、少なくとも見た目だけでいえば結婚する相手には理想的とも言える男だった。
結婚してからも重彦は時間を割いて、毎年一回は泊りの旅行に妻と行くようにしていたらしい。働きづめの夫を労う意味もあるため、運転は未亜菜がする。
素晴らしいことではないか。少なくとも自分の育った家ではこんな家族団らんのイベントなど一度もなかった。
月もない夜の田舎道を走る車の窓に張り付き、ある事実に気が付き驚く。
体型はまだ変わっていないため見た目には分かりづらいが、悪魔の目は冷酷に未亜菜に宿ったもう一つの命を見抜いていた。
嘘だろう、何故――――薄暗く重い雲がのしかかる空の下に悪魔の呟きが虚しく響く。
このまま幸せな家庭を築き天寿を全うすればいい。自分には出来なかったが、精いっぱい君のために頑張ったんだから。
助手席に座る重彦は夜でなければ口笛のひとつでも吹いていたであろう程に上機嫌だ。
それもそのはず、彼の所有していたクラブハウスは本来の3倍ほどの価格で××に買われたからだ。
経営者であればそこで行われていた不法行為について知らないはずがない。いつ自分に警察の手が伸びるか不安で仕方がなかったはずだ。
世の中そういうものだ。本人の性格が善か悪かなど関係なく、狡猾な人間に目を付けられれば社会的な悪となってしまう。
デザートよりも遥かに安価な覚醒剤が流行したせいで、仁英会にとってクラブハウスの価値は極端に下がった。
本来であれば仁英会は手放すことを許さなかったのだろうが、こうなってしまえば所有させておく意味もない。
そこに出てきたメリットしかない買収の話。クソみたいな資産を手放して裏社会と手を切ることが出来て、死ぬまで贅沢に生きていける金を手に入れられたのだ。
まるで人生全てが順風満帆で世界中から追い風を受けているような気分だろう。最初から最後まで××が描いた計画通りだった。
全ては未亜菜が幸せに生きていくために。自分のように裏社会に人生を破壊されないために。
不穏な要素も消え失せて子供まで授かった。絶対に幸せになれるはずだったのに、何故。
その答えは未亜菜の言葉と心の声と共に届いた。知らなければ、自分はただの世界最悪の犯罪者のまま終われたのに。
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優しく裕福な男性と大学を卒業する前に結婚し、専業主婦となり、若い時間を楽しむ。
恒例の夫婦水入らずの旅行で、子供を授かったことを告げる。これからは仲睦まじい夫婦と子とでまた穏やかな日々を過ごしていくのだ。
価値観は人それぞれだが、きっとほとんどの人間は『羨ましい人生』『幸せそうだ』と言うだろう。
だが未亜菜は今日、回答次第で夫を殺し自分も死ぬつもりでいた。今ある幸福があまりにも多くの死の上にあることに気が付いてしまったからだ。
「どうして……」
「どうしたの?」
妻の様子がおかしいことに気が付いた重彦が優しく答える。
出会ってからずっとそうだった。彼が怒る所を見たことはないし、声を荒げるところは想像も出来ない。
それに比べて、自分の本当の想い人は幼い頃から殺意と怒りに支配され振り回され、ついにその才能を正しく活かすことは出来なかった。
そんな男と比べれば誰だって重彦の方を選ぶ。自分もそうしたし、彼だってそれを望んでいたのだと知っている。
「私は、あなたを愛していた。魅力的な人だと思った。優しくて賢くてお金持ちで誠実で、欠点なんかない人だと」
「何を言っている……?」
「どうして、まだ仁英会に手を貸すの?」
欠点のない人間に見えた重彦が裏社会と大きな繋がりを持っていたと気が付いたのは、結婚して一年も経ってからだった。
自分が普通の人生を歩んできた人間なら、思うことあれどここまで心の内を乱されなかっただろう。
「戦後から……うちのお爺さんの代から互いに助け合ってきたんだ。何度も助けられてきたし、だから財を築けた。彼らが今困っているのなら手を貸さなくちゃ」
会社がとんでもない値段で売れた、と重彦に言われて書類を見た時に震えた。
買収を行った者の名は、幼い頃から知る彼だった。そう、幼い頃から知っている。
彼が数十億円という金を持っているはずがないということも、それが利益目的の買収でないことも。
27歳で0からあれだけの金を用意するのに、一体どれだけの悪事に手を染めたのか。
日本各地で起こっている暴力団の抗争、爆発的に流行した違法薬物、それらが無関係だとはどうしても思えなかった。
そこまでして何故――――知っている。裏社会から無理やりにでも切り離そうとしてくれたのだ。
あの雨の日に出会った時だってそうだ。手段を選ばずにこの歪な幸福を守ろうとしていた。
遅れて届いた血まみれのご祝儀、笑顔に隠した心の中でどれだけ泣いているか。
よりによって仁英会と繋がりのある人間と結婚をしてしまった。彼の人生がその暴力団にどれだけ狂わされたか誰よりも知っているのに。
「それがその先どれだけの人を苦しめるか想像したことはないの?」
仁英会から重彦に持ちかけられたのは、彼らの息がかかったゼネコンが建設しているタワーマンションへの出資だった。
見返りはある。今回手にした数十億円はオリンピック景気と重なり倍以上になって帰ってくるだろう。そして洗浄された金を手にした仁英会は再び盛り返す。
そしてどこかでまた彼のような――――××のような子供が生まれる。
「…………。君の言いたいことは分からないでもないよ。でもね、100円のチョコレートを食べるにしても遠い国で子供が一日中安い賃金で働かされているんだ。世界はそういう形で出来ている。僕に出来るのは、今あるこの形を壊さないようにすることだ」
重彦の言うことは正しい。世界はそういう形で出来ているのだ。
金持ちが笑う裏で貧する者が苦しむ。その仕組みを考慮すると経済的に豊かな日本は国民全てに罪がある。
だから今更そんなことを言っても仕方がないのだ。狩りをしたことがない者でも肉の味を知っている世界なのだから。
だが自分は世界の歪みを受けて苦しむ者を見てきてしまった。寄り添ってしまった。
「人生を滅茶苦茶にされて、その時もあなたはこの世界はそういう形で出来ているから仕方がないと言うの?」
「……? 僕、君に何かしたかな。不自由をさせたことはないと思うけど……言ってくれれば直すよ」
誰もが持つこの危機感の無さ、想像力の欠如が世界をこういう形にしてしまったのだ。
検事になると彼が言ったとき、それがいいと思った。きっとそういう道を歩むものだと思ったし、一番正しい才能の使い方に見えた。その能力で多くの人を救うのだろうと。
そうはならなかった。現実を知り、より直接的に悪を殺す悪になることを選んでしまったのだ。怪物と戦う者はいつしか自らも怪物と化す。
それが間違いだと言いきれないのは、彼がそうしていなかったら恐らく自分は今ここにいないからだ。
「もう遅い! 彼は、彼は悪魔になってしまった! 今の私に出来ることがあるとすれば……彼の思いを汲むことが出来るとすれば!」
「待て! 何をしている!?」
アクセルが深く踏み込まれ、夜道を行く車の速度は100キロ超えた。
妻の決定的な異変にようやく気付いた重彦が運転を止めるためにシートベルトを外そうとするが、留め具が何かに引っかかって外れない。
冷静になれば一分で直せる細工は、しかしこの場面では致命的だった。
「私も地獄に行く!!」
人ひとりいない橋の欄干を突き破り、そのまま車は冬の川へと飛び込んだ。
月もない夜、田舎町でその音を聞いた人間はいなかった。
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ごめんなさい。あなたの未来を壊したのは私だった。
その心の声を最後に冷たくなってしまった未亜菜を車の中から出す。
生者を動かすのがどれだけ大変なことかを知っている××にとって、その身体の軽さは受け入れがたい彼女の死を明確に示していた。
当たり前だ、ここは息も出来ない冷たい水の底なのだ。
「俺の……俺が……俺が……」
突然極度に低温な物体が投げ込まれたかのように、××を中心に水が固まり川の水面が凍っていく。
怒ると血が凍るという生前の異常な体質が、外の世界にまで影響を与えて現実を歪めていく。
降り始めた大粒の雪が氷の張った水面に降り積もり残酷な死をひた隠しにした。
「君を殺したのは俺だった。ごめんなさい……」
最後まで、幸せになってもらうためにあらゆる手段を使った。
そんな自分の辿った悪の道が、××を止められなかった罪悪感となって未亜菜を殺してしまったのだ。
初めて、初めて悪を後悔した。人を殺したことも、薬をばら撒いたことも、戦争を起こしたことも、何もかも。
孔の空いた心を覆うように、見たくない現実を隠すように、××の頭には巨大な山羊の頭蓋骨が現れていた。
いよいよ完全に悪魔になってしまった己のことも無視して、開かれたままの未亜菜の目を閉ざし凍らせていく。冷たい水の中で更に冷たく、時間を凍結させていく。
このまま彼女が醜く膨れた水死体になることなんて許せなかった。結実した無償の愛が氷となって水底から次から次へと伸び、透明な葬送花を形作る。
「君から貰った花の種……たくさん咲いたんだ……」
そんなはずはないのに、何故か確信を持って頭に被る山羊の頭蓋骨を漁ると、白い花で作られた花かんむりが出てきた。
高校を卒業した際に未亜菜から渡された種から咲いた花だった。
大学にいる時も世話をして、グジェールにも持っていって、ほんの少しの種は沢山の花になった。
「きっとそんなことは忘れてしまったんだろうね。でも、大事に育てていたんだよ」
そんなことすらも話せなかった。伝えられなかった。だから知るはずもないのだ。
こんなにも心が繋がっていたのに、彼女は死を選び自分は地獄へ堕ち悪魔になった。
「なぜこの女にそんなにこだわる? お前に比べて、なにも特別じゃないただの人間じゃないか」
××が後悔に苦しみ悪魔へと変わっていく様子を見ていたアニマが呟いた。
そのしゃがれた低い声は水中だとより響き、一層××の神経を逆なでした。
「うるさい、うるさいうるさい! 俺はこの子にただ幸せに生きてほしかった!! それの何が悪い!?」
裏社会の人間に家族を全て奪われ、幸福は全て破壊された。
いっそ死んでしまった方がマシだと考えていた時も、ずっと寄り添ってくれた相手の幸せを願うことがそんなに悪いことなのだろうか。
自分のように理不尽に奪われることなどあってはならない。悪の暴力に晒されることなどどうしても許せなかった。
もうとっくに自分のことなどどうでもよくなっていた。ただ、彼女に幸せに、おばあちゃんになるまで生きてほしかった。
自分が特別なのは知っていたが、特別でなどなくともよかった。だが、未亜菜にとっては違った。
その才能の全てを悪に注いでしまったことを自分のせいだと思ってしまったのだ。
だったらこんな最悪の事ばかり思い付く才能などいらなかった。いっそ愚鈍な人間に生まれたのなら、彼女の記憶にも残らず父の虐待で死んでいただろうに。
「そうか。それならいいんだ」
「……ちくしょう、どっか行けよ。俺の近くにいるとお前まで凍ってしまうぞ!」
叫んだ声で気が付いたが、身体は大きく化物の姿になったというのに声は女性のように高くなっている。
もう自分でも自分がなんなのか分からなくなってきた。こうして心まで近いうちに悪魔に成り果ててしまうのだろうか。
「ここまで来たら最後まで見させてもらうさ。年齢的に、もうすぐだろう? お前が死ぬのも」
「…………」
まるで生きているかのように穏やかな表情で眠る未亜菜に白い花かんむりを載せる。
次の世界では幸せになれるように。もしも、もしも許されるなら、生まれ変わってもまた逢えるように願いを込めて。
未亜菜の遺体を置いて生前の××の元へと飛んでいく。これほどまでに自分を憎いと思ったことも初めてだった。
世界最悪の犯罪者なのだ、せいぜい惨たらしく殺されていることを祈ろうか。